ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

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教育の広場、第53-2号、黒磯北中事件の分析(その2)

2006年02月04日 | 教育関係
教育の広場、第53-2号、黒磯北中事件の分析(その2)

(2001年09月07日発行)

 黒磯北中事件の分析(その2)

 栃木県の黒磯北中で、1年生の男子生徒がK教諭をナイフで刺し
殺した事件がありました。これについては私も既に論じました。こ
の事件に関係したその後の新聞報道で考えた事を書いておきます。

 1) 2月24日、その生徒に対して宇都宮家庭裁判所で「教護院
送致」の保護処分決定がなされた。その日の朝日新聞の夕刊に、そ
の後のその学校のことが少し書かれていました。大きく「先生がや
さしくなった」という見出しがありました。ここから察するに、こ
の学校では校長の方針で、教師全体が生徒を押さえつける方向で規
律を維持しようとしていたようです。遅刻してきたその男子生徒に
K教諭が「トイレにそんなに時間がかかるの?」と非難した非教育
的で失礼な態度も、この関連で考えると分かるように思われる。や
はり校長の方針が間違っていたのです。

 2) しかし、その反動で今度は規律が乱れてきているようです。
つまり、校長はどうしたら好いのか、定見を持てないのです。自信
喪失なのでしょう。私見を書きます。

 生徒の問題行動というのは三種類に分けられます。

  A・自分自身の人生を傷つけるようなことをする。
  B・他人の人権を侵害する。
  C・成績不良。

 Aの中には、喫煙、飲酒、援助交際など法律で禁止されている行
為もありますが、教師が勝手に「自分自身の人生を傷つける」と判
断して規制しているものも多いです。髪形とか、スカートの長さと
か、ゲームセンターに行くなといったものです。

 Bはもちろん「いじめ」であり、殴ったり、金を取ったりしてい
るのですから、完全に犯罪です。そこまで行かない嫌がらせや集団
での無視なども、かなり問題です。万引きなども拙いと思いますが、
これは苛めほど質が悪いとは思いません。

 Cは説明不要でしょう。

 さて、このように分類すると次の事が分かります。1)日本の学校
では、Aに厳しく、BとCに甘い。2)しかるに、これには関係があ
って、Aに厳しくすることによって、BとCを未然に防ごうとする
意図が感じられる。3)しかし、それには成功していなくて、BとC
は増えている。

 これについて考えてみますと、そもそもAに厳しくすることによ
ってBとCを未然に防ごうという考えが間違いなのです。これはこ
のようにきちんと問題を整理してみれば分かると思います。つまり、
日本の学校は原理的に無理な事をしているのです。しかも、察する
に、それが無理だと知りつつ、仕方なしにそうしているのです。な
ぜか。BとCに厳しくできないからです。

 では、なぜ日本の学校では人権侵害と成績不良に厳しくできない
のでしょうか。人権侵害の犯人を警察に引き渡したり、成績不良者
を卒業させなかったりすると、世間が「学校は教育を放棄した」と
いって非難するからです。「悪い生徒を良くするのが教師の仕事で
はないか」と学校を責めるからです。

 つまり、日本では多くの人がまだ、学校に過大な役割を求めてい
るのです。未成年者の教育は家庭と学校と地域社会で分担・協力し
て行われるものですが、日本では欧米に追いつくために学校教育に
過大な要求をしてここまでやって来ました。だから今までは止むを
得なかった面もありました。しかし、欧米に追いついて成熟社会を
作っていくべき段階に達した今でも、この点で考え方が変わってい
ないのです。ここに問題があるのです。未成年者の教育における家
庭と学校と地域社会の役割分担を正しく確定し直すこと、これが一
切の前提だと思います。これは普通「学校のスリム化」と言われて
いることです。

 では、上記のAとBとCはどうしたらよいのでしょうか。私見を
まとめておきます。

 Aの行為については、きちんと授業で取り上げて、なぜ悪いのか、
それがどういう結果と結びつきやすいのかを教えるべきです。そし
て、あとは本人に結果責任を取らせればよいと思います。東京の或
る女子高校で、性の商品化を系統的に取り上げることで良い結果が
出ているという新聞記事もありました。高校生のバイクの問題でも、
禁止するより学校で安全教育をする方がよい結果になるようです。
それをした上で法律違反が起きたなら、もうそれは学校の仕事では
ありません。それは警察に任せるべきです。

 Bの人権侵害は極めて悪い。これも授業で取り上げるべきであり、
違法行為は法的機関に任せるべきです。その前提として、学校は生
徒を預かった以上、責任を持つべきです。ドイツの学校では生徒は
登校してから下校するまで常に教師の誰かに見られています。

 授業は先生の部屋に行って受講する。休み時間はないから、教室
の移動だけである。10時ころに20分間の大休憩がある。この時
は、みな、教室から出て外の空気を吸わなければならない。教室に
は鍵が掛けられる。そして、校庭では3ヵ所くらいに当番の教師が
「監視員」として立って、それとなく皆を見張っている。午後一時
に授業は終わる。皆お腹が空いているからすぐに帰宅する。教師も
同じである。部活などは教師の仕事ではない。地域社会のクラブの
活動である。学校の施設を借りてやる場合もあるが、又学校教師が
指導する場合もあるが、それはあくまでも地域社会の一員としてで
ある。というわけですが、とても好い制度だと思いました。

 Cの成績不良は、教師がしっかりした授業をしているということ
が前提です。そして、この前提の確認のためには、生徒や外部の人
による授業評価、オンブズパーソン制度などが必要ですが、それを
前提したら、きちんと基準を決めて、落第や退学をどしどし出した
らよいと思います。つまり、教師にも生徒にも結果責任を取らせる
のです。これが成熟社会というものだと思います。

 この私の考えに対しては、特にBの人権侵害者に対する厳しい処
置に対して反対する人が少なくありません。つまり、少年院に送ら
れるといったことが本人の心に与えるマイナスの影響を考えるべき
だ、というのです。しかし、こういう事を言う人は、自分の言って
いる事が何を意味しているか、分かっているのでしょうか。

 今、人権侵害事件が起きたのです。その時の問題は、第1に、被
害者を救うことです。第2に、その犯人による犯罪の再犯を未然に
防ぐことです。そして、第3に初めて、その犯人の人権を「必要以
上に」制限しないことです。このようにまとめると、先の犯人の気
持ちへの思いやりが「ニセの思いやり」であることがはっきりしま
す。それは、第1と第2の問題を考えないで、第3の問題だけ考え
ているのだからです。

 それに、この考えは、少年鑑別所とか教護院(児童自立支援施設)
とか少年院の実情を知らなすぎると思います。この1月にNHKで
「家族画」という題名の放送がありました。それは名古屋少年鑑別
所の様子を描いたものでした。そこでは心理学を学んだ技官が、少
年少女たちの心を調べ、理解して、相談に乗っていませす。ここの
技官には「トイレにそんなに時間がかかるの?」などというような
事を言うような奇怪し人はいません。技官同士での話し合いもあり
ます。

 これを見て、私は、中学生はみな、1度、2週間くらい、鑑別所
に入って調べてもらい、心理学の専門家と話し合い、自分を見つめ
直すと好い、と思いました。もちろんその時には鉄格子は余計です
が、独りきりになるためのものは必要でしょう。

 昨年の神戸での小学生連続殺傷事件でも、私は同じ考えを持ちま
した。2人の女児が殺傷された段階ではまだ犯人は分かっていなか
ったのですが、同級生が鎖でさんざん殴られた時は犯人は分かって
いたのです。殴られた方は転校したのに、殴った犯人は警察に引き
渡されもせず、「学校に来るな」と言われたのかどうか定かであり
ませんが、その程度で済んでしまいました。そのため、男子小学生
が殺されることになりました。

 つまり、同級生を殴った段階で犯人を警察に引き渡しておけば、
最後の殺人はなかったのです。私はこの殺人を防ぐ最後のチャンス
はこの時だったと思っています。しかし、それはなされませんでし
た。なぜか。生徒を警察に引き渡すと、世間が「学校は教育を放棄
した」といって非難するからです。そして、学校はそれに対抗する
力がないからです。ですから、私は男子小学生を殺した責任の一半
は世論にあると思っています。

 事件の起きた後でもまだこの点の反省がありません。その証拠に、
学校の先生がその犯人に「学校に来るな」と言ったか言わなかった
かという事実認定が大問題になりました。この時、学校教師はこう
いう事を言ってはならないということは自明の前提だったのです。
私に言わせれば、「学校に来るな」どころか、警察に引き渡すべき
だったのです。それなのに、誰もこうは考えず、学校教師に何か落
ち度はなかったかと探したのです。

 あの神戸事件から1年以上たちました。最後の殺人事件の1周年
にはいろいろな記事がありました。事件の現場となった団地でもそ
れなりの取り組みが行われているようです。しかし、学校教育に過
大な仕事を押しつけている間違った世論についての反省は、私の注
意した限りでは、全然見られませんでした。つまり、本質的な進展
は全然ないのです。

 それどころではありません。文部省は、教員養成課程に生徒指導
の練習を加えるとか増やすという方針を打ち出しました。つまり、
勉強を教えるという教師の本来の仕事以外の仕事を一層多く教師に
押しつけようというのです。学校教師に鑑別所の技官の仕事までや
らせようというのです。ふざけるのもいい加減にしてもらいたい、
と思います。それなのに、これに反対する言論もないらしいのです
。少なくとも私は聞いていません。日本の教育は一体どうなるので
しょうか。

 3) 黒磯北中で一番困ったことは、校長がマスコミの取材をシャ
ッタアウトしているだけなく、ほとんど外部に情報を公開せず、話
し合いもないということです。確かにマスコミの取材の姿勢には問
題もあります。しかし、だからといってそれを全部排除するのは間
違っていると思います。記者会見をし、情報を公開し、開かれた場
所で話し合う中でこそ、マスコミの間違った取材姿勢は正されるし
、学校の問題の本当の解決への方向は見いだせる、と考えるのが民
主主義です。この校長の姿勢にはやはり大きな問題があると思いま
す。

 この春、大阪の府立高校で、髪を染めた女子生徒が定期試験を別
室で受けさせられたとかいうことが問題になりました。しかし、7
月6日付けの朝日新聞によると、府の教育委員会はこの問題に関し
て、この高校の指導の内規などを公開することにしたという。市民
団体の要求に応ずる形だそうです。これは良いことだと思います。
黒磯北中の校長も教育委員会もこのようにするべきです。

(1998年8月18日執筆)

教育の広場、第53号、黒磯北中事件の分析(その1)

2006年02月04日 | 教育関係
教育の広場、第53号、黒磯北中事件の分析(その1)

(2001年09月07日発行)

 黒磯北中事件の分析(その1)

 1998年01月31日、栃木県の黒磯北中学校で、1年生の男子生徒が
休み時間中に注意を受けている最中に相手の女教師をナイフで刺殺
する、という事件が起きました。この事件は主として生徒の側の問
題として取り上げられ、「普通の生徒がある日突然キレる」ことや、
ナイフ所持の問題、更に学校による所持品検査の問題に発展してい
るようです。

 私は、この事件の責任は、犯人である男子生徒、その親、校長、
女教師K教諭、の順にあると思っています。以下、この点を詳しく
論じたいと思います。

 第1に、正当防衛以外ではナイフによって人を刺し殺してはなら
ないということくらいは、中学1年生なら知っていなければならな
いでしょう。その意味で、この事件の第1の、そして最大の責任が
犯人たる男子生徒自身にあることは論を待たないと思います。

 又、こういう事は家庭教育、と言わなくても、家庭生活の中で自
ずから身につけていなければならない事柄です。従って、そういう
最低の規範すら身につけさせることの出来なかったという点で、親
に大きな責任があると思います。

 さて、これらを確認した上で、私がここに詳しく考えたいのは、
校長とK教諭自身には問題はなかったか、という事です。これは後
者から論じなければなりません。

 K教諭はこの日、その生徒に3回注意しています。そして、3回
目に惨事は起きました。第1回は、保健室からトイレに寄って遅刻
してきたその生徒に、「トイレに行くのにそんなに時間がかかる
の?」と、みんなの前で声を上げた、ということです。

 こういう注意は正しいでしょうか。私は、これは教育的に間違っ
ているのみならず、道徳的に見ても失礼だと思います。この男子生
徒はかなり前から普通以上の精神的問題を(ここに「普通以上の」
と言うのは、人間は誰でも問題を抱えているからです)抱えていて、
保健室に行くことも多く、又担任も親もはそれを知っていて互いに
話し合っていたということです。

 この事実をK教諭が知っていたかどうかは大切な問題ですが、そ
れは後で論じるとして、知っていたら尚更のこと、知らなかったと
しても、この対応は間違っていたと思います(私のようないい加減
な教師は、こういう場合は、「○○君、こんなつまらない授業によ
く来てくれたね。今、××ページだよ」と言ってお終いにします)。

 次の注意は、授業終了間際に、その生徒が周囲と雑談していたこ
とに対してなされたということです。この時どういう言葉が使われ
たのかが報道されていないのは残念ですが、多分きつく叱ったので
しょう。これも適切とは思えません。私も私語は注意しますが、場
合によっては見過ごすこともあります。この時も終了間際だったの
だから見過ごすという手があったと思います。たとえ注意するとし
ても、私だったら「もう少しだから、我慢してね」と言います。

 3回目の注意は休み時間に行われました。それは、「ちょっと来
な」と言って、その生徒と彼の友人の2人を廊下に呼び出してなさ
れたそうです。その時、その男子生徒は初めの内はおとなしく注意
を聞いていたが、ついに「ざけんなよ」と言って刺したというので
す。

 私は、この注意は完全に間違っていたと思います。あまりにしつ
こすぎました。そもそも休み時間は雑談してくつろぐ時間であって、
説教をしたり聞いたりする時間ではないと思います。

 前述の通り、初めの2回の注意も間違っていたと思いますが、一
歩を譲ってそれが正しいとしても、休み時間はそれをカバーするよ
うな雑談をするべきでした。例えば、「ねえ、○○君、今日はどう
したの?」とか、「さっきはあんなに強く叱って御免ね」とか、
「どう? 今日のあの説明で分かった?」とかと切り出して、雑談
をし、人間関係を回復させるのです。

 教育というのは生徒にやる気を持たせ、生徒の能力を高めればそ
れで良いのです。叱るだけが教育でもなければ、叱ることが教育の
目的でもないのです。K教諭は26歳で、真面目すぎたと思います。
雑談の教育的効果を知らなさ過ぎた、と思うのです。少し大げさに
言うならば、必要もないのに休み時間に生徒を拘束するのは職権乱
用ですらあります。

 ではなぜK教諭はこのように行き過ぎてしまったのでしょうか。
彼女はいわゆる熱血教師だったそうです。一般的には生徒の評判も
悪くなかったようです。これを考えるには、黒磯北中における「校
長を中心とする教師集団」がどうだったかということを考えなけれ
ばなりません。

 学校教育の目的は勉強を教えることと生活指導とですが、いずれ
も、個々の教師が行うものではなくして、「校長を中心とする教師
集団」が行うものです。従って、「校長を中心とする教師集団」が
しっかりしている場合にはこの2つの目的はかなりよく達成されま
す。しかし、それがしっかりしていない場合には、個々の教師がど
んなに頑張ってもあまり成果は上がりません。このことは勉強につ
いても生活指導についても言えますが、特に生活指導について言え
ます。

 しかるに、この黒磯北中ではこの「校長を中心とする教師集団」
がしっかりしていなかったのではないでしょうか。この点について
の問題意識が誰にもなく、従って報道もされていないので推測で物
を言うしかないのが残念なのですが、この生徒の問題が担任には知
られていたにもかかわらず、隣のクラスの担任であったK教諭にす
ら知らされていなかったらしいことからも推測がつきます。又、生
活指導や学科指導のあり方について教師同士で話し合い、研鑽し合
う「本当の教師集団」からは程遠い状態だったのではないでしょう
か。

 もしそういう研鑽が日頃からなされていたならば、遅刻者にどう
声をかけるか、私語をどう注意するか、休み時間に説教をしてよい
のか、といったことも話し合われていたはずです。そうすれば若い
K教諭にももう少し適切な対応が出来たと思います。

 しかし、残念ながら、黒磯北中の教師集団はそういう本当の教師
集団にはなっていませんでした。しかもK教諭は、その責任は校長
にあるということを十分には自覚していなかったし、まして校長に
意見をすることもしませんでした。そして、学校の現状をなんとか
したいと思った熱血漢のK教諭は、1人で、きつく叱ることで生徒
をよくしたいと思ったし、又それが出来ると思ったのでした。ここ
に悲劇の元があったのだと思います。

 最近も『校長が変われば学校が変わる』という実践報告のような
本が出版され、テレビドラマにもなって話題を呼びました。学校教
育の問題を考える際には、学校教育というのは個々の教師が行うも
のではなくて、校長を中心とする教師集団が行うものであるという
ことが、もう少し自覚されてもよいのではないでしょうか。

(1998年2月16日執筆)