「人間をかえせ」は原爆詩人峠三吉の詩です。私の年代の多くの人間の胸に深く刻まれた詩です。原爆八十年の今、この言葉があまり語られていないことを私は悲しく思います。改めて以下に掲げます:
**********
人間をかえせ
ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ
峠三吉
**********
私は今「人間を返せ」という一文を書いています。しっかり書き上げることが出来たら皆さんに読んで頂きたいと思っています。
九歳年上の私のただ一人の兄は、1945年8月9日、長崎で被爆しました。直下にあった三菱兵器工場で、技術将校として、魚雷の製作に当たっていた兄は、投下の寸前、工場の地下室へのコンクリートの階段を駆け降りていたので、直接被爆を免れましたが、降りぎわに階段の手すりにかけた上着は焦げました。
8月の半ばのある夕刻、汚れ果てた軍服姿の兄が、福岡市郊外の私と父母が住んでいた仮の陋屋に、突然姿を現しました。殆ど何も語らず、父が与えた古着のシャツに着替えたものの、下半身は裸のままでうろつく痴呆の状態でした。いわゆる「ごろごろ病、ぶらぶら病」の症状でした。その兄が、数日後、突然、原爆の被爆体験を語り出したのです。
「工場の地下室に用が出来たので階段を降りて行った時、あたりが真っ白に明るくなった。爆風が過ぎた後、階段を駆け上がったら、女子学生達が赤い茹で蛸のように並んで溶けていた。」
私の脳裏に残っている兄の言葉はこれだけです。多分、兄はこれだけしか語らなかったのだと思います。
その後、兄は敗戦後のあらゆる苦難を生き抜きました。原爆被爆者と認定され、死ぬまで日本政府による年に2回のメディカル・チェックを受けていました。戦後に日本国内に蔓延したいわゆる闇商売に従事し、雨戸用の小さな戸車をバッグに詰め込んで売って回ることもして、家族を飢餓から守りました。1950年6月に始まった朝鮮戦争の「天啓」で、日本経済は思いもかけぬブームに沸き、そして、思いがけなくも、三菱重工業会社から、兄に再雇用の声が掛かったのでした。懸命に生きる一人の人間として、これに答えたのは当然でした。運命は時に残酷を極めます。三菱重工が兄に課した任務は原子炉の設計建設ででした。
原子炉とはどのような装置か? 原子核分裂のエネルギーを急激に発散させれば、原子爆弾となります。ゆっくりと制御しながらエネルギーを取り出す装置、これが原子炉です。兄は、エンリコ・フェルミによって創成された原子炉の文献を跋渉学習し、米国の会社「ウェスティングハウス」と提携しながらも、日本の最初にして最後、唯一の原子力船「むつ(陸奥)」の動力源としての原子炉を独自の設計のもとに製作しました。
この原子炉は青森県むつ市の「むつ科学技術館」に展示されています。実際に稼働した原子炉を展示しているのは世界でここが唯一だと思います。兄を偲んで私もここを訪れました。訪問観客の誰一人として、眼前の原子炉が原爆被爆者によって造られたという悲惨な事実に思いを馳せるものはありますまい。
兄は、やがて三菱原子力という会社の社長になりました。後年は、その会社の東京のオフィスに、三鷹の自宅から1時間ほどもかけて、会社の自動車で通っていました。私は、ある日の夕刻、自宅に帰ってきた兄を出迎えたことがありました。車から降りた兄は、運転手さんに、深かく丁寧に頭を下げて「ありがとうございました」とお礼を言いました。会社社長が雇用人に示した滑稽なほどの丁重さは一体どこから発したものか?私の脳裏に、あの日の兄の被爆体験の言葉がフラッシュバックしました。システミックな暴力に無意味に惨殺される、名もなき人間たち、その一人である自己の認識、人間と人間を結ぶ絆、愛を、私が、確かに、確かに、兄の姿に直感した瞬間でした。
そうです。私達は「人間」を取り戻さなければなりません。峠三吉の声に耳を傾け直さなければなりません。ここから発して、私の考えも大きく変わる過程の中にあります。かつて、オッペンハイマーは「物理学者は罪を知った(The physicists have known sin)」と言いました。罪と犯罪の問題、難しい問題です。これまで、私は、物理学そのものは中立だと考えていまいた。アインシュタインにしても、そう考えたかったのだと思います。しかし、私の考えは変わりました。物理学、物理学者は、原爆を、水爆を造り、その使用を可能にしたことで、実際の犯罪を、戦争犯罪を犯したのであり、この事実を認めなければならないと考えるようになりました。物理学の有罪性、物理学者の有罪性です。
近い日に、しっかりと考えをまとめ上げ、しっかりと書き下ろして、皆さんに読んんで頂きたいと思っています。私達は「人間」を取り戻さなければなりません。平和を取り戻さなければなりません。
藤永茂(2025年8月9日、長崎の日)