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大峰正楓の小説・日々の出来事・日々の恐怖

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日々の出来事 2月29日 遠山の金さん

2018-02-28 20:06:34 | A,日々の出来事_





  日々の出来事 2月29日 遠山の金さん





 今日は、遠山金四郎景元が亡くなった日です。(安政2年2月29日)
“遠山の金さん”こと、遠山金四郎景元は江戸幕府の旗本で、天保年間に江戸北町奉行、後に南町奉行を勤めた人物です。
若くは彫り物を入れるなど、町屋で放蕩生活を送りますが、家督を相続後は真面目にお仕事を続けました。



桜吹雪


 遠山金四郎景元は、青年期の放蕩時代に彫り物を入れていたといわれる。
これが、有名な桜吹雪である。
しかし、これも諸説あり、“右腕のみ”や“左腕に花模様”、“桜の花びら1枚だけ”、“背中に女の生首”、“全身くまなく”と様々に伝えられる。
 また、彫り物自体を疑問視する説や、通常“武家彫り”するところを“博徒彫り”にしていたという説もある。
彫り物をしていた事を確証する文献はないが、若年のころ侠気の徒と交わり、その際いたずらをしたものであると推測される。
 奉行時代には、しきりに袖を気にして、めくりあがるとすぐ下ろす癖があった。
奉行として入れ墨は論外なので、おそらく肘まであった彫り物を隠していたのではないだろうか。
ただ、これらは全て伝聞によっており、今となっては事実の判別はし難いのが実情である。





















☆今日の壺々話











   遠山の金さん





太鼓の音が響きます。

“ ドンドンドンドン!!”

「 北町奉行、遠山左衛門尉様、ご出座ァ~。」

一同、頭を下げます。

「 ハハァ~~。」

お裁き開始です。

「 これより地上げの件について吟味を致す、一同の者面を上げい!」

一同、神妙に顔をあげます。

「 さて越前屋、渡世人の寅吉と組んで地上げのため長屋のお鹿婆さんを騙して追い出したとあるが相違無いか?」

越前屋と寅吉、誤魔化そうとします。

「 違いますがな、なあ、寅吉!」
「 そんなこと知らんよな、越前屋さん。」
「 借金のかたに貰おうとしただけですがな。」

長屋の連中を従えたお鹿婆さんが反論します。

「 違います、騙されたんです。
遊び人の金さんならすべて話を知っています。
金さんを呼んでください。」

越前屋と寅吉、しらを切ろうとします。

「 金さん?
そんなヤツ、知らんよなァ、寅吉。」
「 知らん、知らん。」

旗本の坂本殿が、圧力を掛けます。

「 遠山殿、このようなでっち上げの訴訟を採り上げるなど、御身のお立場も危ういですぞ!」

越前屋が言います。

「 そうでんがな。
濡れ衣を着せて、嘘を言っているのは、お鹿婆さんの方ですがな・・。
もう、かないまへんなァ。
金さんなんてヤツ、居る訳おまへんがな。
金さんが、ホンマに居るんやったら、出しておくれなはれ!
なあ、みんな!」

子分達が騒ぎ出します。

「 そうだ、金さんを出せ!」
「 出して見ろ!」
「 そんな、ヤツ、居ねえんじゃないか、ハハハハ!」
「 そうだ、そうだ、居るもんか!」

北町奉行、突然、べらんめえ口調で一喝します。

「 やかましぃやい! 悪党ども!!
おうおうおう、黙って聞いてりゃ寝ぼけた事をぬかしやがって!」

越前屋と寅吉が声を大にして言います。

「 でも、居ないよなァ、越前屋さん。」
「 そうですがな、寅吉。」
ホントに居るのなら、会って見たいもんですわ、ハハハハハ!」

北町奉行が、それに応えます。

「 そんなに会いてぇなら会わせてやる。
この桜吹雪に見覚えがねぇとは言わせねえぜ!
越前屋に寅吉、密かに旗本の坂本殿と組んで、この事件を起こしたのは、この桜吹雪が見てるんだぜ!!」

北町奉行が片肌脱ぐと、そこには金さんと同じ桜の彫り物出現!

“ ジャジャ~ン!!”

「 おおっ!」
「 おおっ!」

狼狽した旗本の坂本殿が、北町奉行に切り掛かろうとします。

「 う~ん・・・・・。
おのれ遠山!!」

でも、北町奉行に蹴られてしまいました。

“ すこ~ん!!”

旗本の坂本殿は取り押さえられます。
その様子を見た越前屋と寅吉と子分どもは、おとなしくなります。

「 ははぁ、畏れ入り奉りました!」

北町奉行が宣言します。

「 越前屋に寅吉、市中引き回しの上、打ち首獄門。
坂本殿、御公儀より追って極刑の沙汰があろう。」

北町奉行の顔のアップが映ります。

「 引っ立てい!」

悪人達は、引っ立てられて行きました。
その後、お鹿婆さんが頭を下げて言います。

「 お奉行様とも知らずご無礼を・・・。」

急に北町奉行が金さんに戻ります。

「 俺が金さんって事は内緒にしておいてくれよ。
お鹿婆さん、達者で暮らすんだぜ。
これにて一件落着!!」

場面が変わって、金さんが行き付けの店の町人などと軽口を叩いて番組は終わります。

めでたし、めでたし・・・。






ハイ、音楽!







      遠山の金さん捕物帳

( 歌親分&子分ズ、作詞名村宏、作曲小川寛興 )


ヽ( ・∀・)ノ 気前が良くて二枚目で
      ちょいとやくざな遠山桜 ♪
      御存知長屋の金さんに
      ほれないヤツはワルだけさ
      おっと金さんまかせたよォ~ ♪ヽ(´∀`)ノ

♪(´∀`)ノ゙ 重ねた罪をしょいこんで
      いずれ地獄へ落ちていくだろうが ♪
      許しちゃおけない悪党に
      追われて謎を追いかける
      おっと金さんあぶないよォ~ ♪ヽ(´∀`)ノ

♪(´∀`)ノ゙ お江戸の空に春を呼ぶ
      花もうれしい遠山桜♪
      御存知長屋の金さんが
      もろ肌脱いでべらんめぇ
      おっと金さん名調子ィ~ ♪ヽ(´∀`)ノ






と、言うわけですが、普通は、

「 北町奉行、遠山左衛門尉様、ご出座ァ~。」
「 あっ、金さんだ!」
「 ははぁ、畏れ入り奉りました!」
「 ヤバッ!」

予想外の展開に、金さんが慌てて片肌を脱ごうとモソモソしているときに、エンディングミュージックが既に始まってしまいます。


♪ 気前が良くて二枚目でぇ~~ ♪


あっ、ヤバイよ、ヤバイよ・・・・・。




















忍者







 うちのアパートの外国人住人は、なぜかみんな忍者が大好き。

「 ニーンージャ!ニーンージャ!」

と、うるさいので、忍者装束を買える店を紹介してやった。

「 スタンダードに黒が欲しい。」
「 ピンクは目に痛いね。」
「 この水色も発光してるよ。」
「 黄色は忍んでなさすぎる!」
「 ねえ、マイク(黒装束)とジェフ(紺装束)だとジェフのほうが忍んでるよ!?」
「 紺色のほうが忍ぶんだね!」
「 どうせなら忍者戦隊作ろうぜ!俺レッド!」
「 じゃあ僕シルバー!」
「 ないよ、シルバーの忍者服。」

など、大所帯でとんでもない騒ぎになった。
事前に店に連絡しててよかった、ほんとに。

 というわけで、今アパートの廊下を忍者が大量にうろついている。
どこかの部屋に集まって、かっこいい忍者ポーズの練習をしたりもする。
特撮の悪役好きが何人かいるのもあってか、

「おやつは羊羹じゃないと認めない」悪の忍者軍団
     vs
「ういろうだっておいしいじゃないか」正義の忍者軍団

という特撮ごっこで遊んでいる。


 外国人たちがとうとう山吹色のお菓子や、越後屋や、町娘のお約束を理解した。
今は国際戦隊シノブンジャーになって、敵のアクダイカーンとか、エチゴーヤとか、オンミツスリー(敵忍者3人組)と日々戦ってる。
作戦会議をするときは、室内に「秘密会議中」っていう手書きの暖簾がかかる。

 あと、シノブンジャーには主題歌がある。
最初は今年の戦隊の替え歌だったんだが、カクレンジャーとハリケンジャーの存在を知ってからは、どの曲の替え歌にするかで揉めている。
敵組織のテーマ(替え歌)も作っている最中。

ゴールデンウィークは町のホールを借りて、みんな忍者ごっこで遊び倒した。

「 俺は闇に生きる!」

と、ホールの隅っこの闇に溶け込もうとする紺装束の黒人とか、

「 忍法めくらまし!蛍光ピンクフラーッシュ!」

と、窓の下で天然スポットライトを浴びるピンク装束の白人とか、

「 忍者戦隊シンゴウマン!」

と、赤黄青の装束で決めポーズをとる黄色人たちとか、超カオス。

 今は遠山の金さんごっこを計画中。
桜吹雪の入れ墨をどうするかで悩んでいる。




















寺社奉行






 高校卒業時、友達5.6名で集まり、飲み会をやった。
高校だけの友達ではなく、小中からの友達でした。
飲み会をするにあたり、仲の良いAという寺の息子(代々の住職家)のオヤジさんが、

「 どうせ騒ぐんだから、うちの離れの部屋でやりなさい。」

と言ってくれた。
 自分の息子が他の家に訪れて騒ぐのを懸念したのかもしれない。
酒盛りしてて(ビール少しだけ)、俺はいつの間にか寝てしまった。
なので以下、友達たちから聞いた話ですが。

 ぐーぐー寝ていた俺がいきなりむっくり起きた。
でも顔は寝てる。
そんでいきなり、

「 この寺は~。」

と言い出して、

「 文政●年に~。」

とか、なにやらグダグダとしゃべり出したと。
そんで友達が、

「 え?何言ってるんだ?」

驚いて凝視してたら、

「 この寺には昔、秘蔵の品を隠す場所があってなあ。」

とか言い出したらしい。

そんで友達が、

「 ええ、なんかこええ~!」

とか言い出したら、Aのおじいさん(当時もう90歳前後)がたまたまトイレに行き、俺等がいる部屋をのぞいたんだと。
そしたら俺、おじいさんに向かって笑みをうかべて、

「 似ているもんだなあ~。」

って。
おじいさんは、

「 あぁ・・・・?
・・・・あまり飲むなよ・・・。」

と言って去ったそうだけど・・・。
 そしてひとしきりしゃべると、また突然、俺は横になってぐーぐー寝だした。
それからしばらく目が覚めなかったらしい、小1時間くらい。
 そして起きたら当然、みんなにその話をされた。
俺はさっぱりわからんのだが、

「 おまえ、なんかやべえんじゃねえのか?」

とかさんざん言われた。
医学部志望していた友達には完全に病気扱いをされてしまった、脳がやばい、みたいな。
はたまた、俺が演技をしていると疑っているヤツもいた。


 それから大学へ行き地元を離れたんだが、共通の知人を介して、Aのメルアドは知っていたんで、連絡をとり、昨年、10年ぶりにAと地元で会った。
 飲んでてその話をされたとき、Aが「そうそう、そういえば」と。
聞いたら、Aの寺にはたしかに”秘蔵の品を隠す部屋”があったとか。
開かずの間の中にお堂みたいなのがあり、そこへ隠していたらしい。
大正時代だかに、建物ごと壊してしまったそうですが。
 うちは代々の武家でして、その関係で何か???なんて思ったんですが、寺に関係あるのか?とか、無知な俺にはよくわからなかった。
よって、その話はもうそれで終わってしまった、他にも話すことあったし。

 しかし、ある一冊の本を入手して最近わかったことなんですが。
俺の7代くらい前の御先祖が、寺社奉行なる職に就いていた。
文政、天保の時代です。
しかも筆頭寺社奉行という役職で、かなり偉かったと。

それをAに教えて、Aがオヤジさんにその話をしたところ、

「うちは当時、宗派関係なく、寺の組織のまとめ役とかしていたから、筆頭寺社奉行であれば間違いなくうちに来てるだろうね。
寺社奉行は寺社の取り締まりをするから、密談やらなにやら、いろいろあったんじゃないかな。」

それ聞いて、Aが俺に電話くれたんだけど、驚いた。
ただまあ、俺自身に記憶がなかったので言明はできないけど。



















北町奉行”根岸鎮衛”

    ~耳袋の作者~






 北町奉行”根岸鎮衛”は、江戸時代の怪談集”耳袋”の作者です。
また、大岡越前や遠山の金さんと並ぶ名奉行でもありました。
少し長くなりますが、興味のある人はど~ぞ!



 ちょっと前までは、江戸時代の名奉行というと、大岡越前守忠相と遠山の金さんこと遠山左衛門尉景元の二人が定番で、小説でもテレビの時代劇でも、奉行がでてくる話の場合には、この二人が交代で主役になるという感じでした。しかし、さすがにこの二人だけでは飽きられてきたのか、小説でもテレビでも、根岸肥前守鎮衛(ねぎしひぜんのかみやすもり)が取り上げられることが増えてきたような気がします。

 私が彼の名を初めて聞いたのは、子供の頃、ラジオで聴いた講談でした。確か、「奉行と検校」という題だったと思います。話の細部はすっかり忘れてしまいましたが、越後から、盲の子と貧農の子が江戸へ逃げ出し、その道中で偶然知り合い、助け合って江戸までたどり着く、という話でした。そして、別れるときに、貧農の子が自分は名奉行になりたいというと、盲人は、では俺は検校になりたい、といい、互いに頑張ろうと誓い合う。この貧農の子が後の名奉行根岸肥前守であり、盲人が男谷検校でした、という落ちだったと記憶しています。

 男谷検校とは、言うまでもなく勝小吉の父であり、勝海舟や男谷精一郎の祖父です。一方、根岸肥前守とは聞かない名だな、と思い、逆に強く印象づけられました。その後、いろいろな折りに少しずつ根岸鎮衛のことを聞き覚えました。何といってももっとも詳しい情報を提供してくれたのは、根岸鎮衛自身が書いた「耳袋」という随筆集です(岩波文庫に全3巻で入っています。)。

 紹介した講談の真否は脇に置き、根岸鎮衛は、江戸時代有数のシンデレラボーイであり、また、下世話に通じていることやその飾らない人柄と相まって、昔から、元は町人だったという伝説のつきまとっている人物です。一説には刺青があったといわれます。遠山の金さんが町奉行になるのは天保の改革の時ですが、根岸鎮衛の活躍時期はそのかなり以前、田沼時代から家斉にまたがる時代ですから、刺青説が本当だとすれば、間違いなく、こちらの方が元祖刺青奉行です。

 正式の歴史によると、鎮衛は150俵取りの御家人、安生定洪という人の三男です。この定洪という人は、現在の神奈川県相模湖町の農民の出身で、御徒士の株を買って幕臣になった人物です。有能な人物で御徒士組頭に出世し、最後には代官にまでなりました。ですから、お世辞にも立派な家柄とはいえません。

 一方、根岸家は、150俵取りと安生家と同格の御家人ですが、先祖が甲府藩で徳川家宣に仕えていたため、家宣が将軍になるに伴い御家人になったという比較的新しい家柄で、やはりそう立派な家柄ではありません。この根岸家の当主が30才の若さで死亡したところから、末期養子(臨終の席での遺言に基づき養子になったという形式)の形で鎮衛がその跡を継ぎます。時に1758(宝暦8)年、鎮衛22才の時でした。

 この辺りの家柄関係に、鎮衛が実際には定洪の実子ではない可能性、すなわち鎮衛町人説が流布する実際的な根拠があります。つまり、町人が御家人の株を買うという場合、一応同格の家の子であるという形をとり、そこから株を買った家の養子になるという形式を採ることが多いのです。自分も御家人株を買って御家人になった人物の三男という設定は、こうしたやり方にぴったり当てはまります。

 根岸家の養子になった時点で、鎮衛が(あるいはその父が)かなりのお金を必要としたことは間違いありません。前の当主は30才で若死にするくらいですから、おそらく係累はほとんどなかったでしょう。このように生きている係累の少ない家は、御家人株の売買ではかなりの値になるからです。たとえ本当に鎮衛が定洪の三男で、そして本当に株の売買ではなく正規に養子に入ったとしても、末期養子ですから、関係各方面にかなりの礼金を包まなければならなかったはずです。

 また、病死するような当主を持つ家は当然小普請組に入っています。小普請から抜け出して役に付くというのは、当時の幕臣にとり大変なことでした。ところが、鎮衛は家督を相続するとすぐに勘定所の勘定(今の感覚で言うと、大蔵省の平の事務官ないし係長と言うところでしょうか。)として勤務しています。実父とされる定洪の顔が利いたとしても、これ自体、かなり異例といえます。江戸中期の腐敗政治の時代ですから、ここでもかなりの金が動いたことは間違いなく、養子そのものになることでの費用と合わせると、ちょっとした額にのぼるはずです。

 それだけのお金を、わずか150俵取りの、農民上がりの代官が三男坊の冷や飯食いのために都合したと考えるのは無理な感じがあります(豪富で鳴る男谷検校が、末っ子の小吉に買ってやった御家人株の勝家の禄高はもう一桁少なかったことを考え合わせてみると、納得がいくでしょう)。仮に鎮衛が、町人としてかなりの蓄財に成功して、それを投じて御家人になったと考えると、この辺のつじつまが良く合うわけです。

 しかし、前身が町人かどうかは、彼の生涯を考える際には余り問題ではありません。彼のすばらしい点は、このような御家人としても底辺に近いところから出発しながら、まれにみる有能さを発揮してめざましい出世をした点にあるのです。

 勘定所に勤めはじめてからわずか5年後の1763(宝暦13)年に、鎮衛は評定所留役(とめやく)になります。評定所というのは、老中や三奉行を裁判官とする幕府の最高裁判所で、留役というのは、今の言葉で言うと、その裁判所の書記官のことです。しかし、老中や奉行は一々裁判の事実調査などはしませんから、実際には訴訟事件に関する事実関係や判例の調査、さらには判決原案までも書くという重要な職です。その意味では、今日の言葉では、最高裁判所調査官といった方が近いと思います。よほどの事件でない限り、留役の具申した線で評定所判決は決まりますから、かなりの才能がなければつとまりません。わずか5年でこの職に就いた、ということ自体、異数の出世といえるでしょう。

 根岸鎮衛についていう場合、日本史ではもっぱら松平定信の知遇を得たことだけが云々されます。しかし、この評定所勤務で、私は、彼が田沼意次の知遇を受けるようになったのではないかと想像しています。彼のように家柄もなく、何の引きもない者にしては、いくら才能があるにせよ、そうした仮定でもおかないと、この後しばらくの間の出世の順調さを説明できないからです。この時期、1758年生まれの松平定信は、まだ幼児で、何の実権も持っていません。これに対して、田沼意次は、美濃郡上藩の百姓一揆に関する裁判で1758年から評定所に関わるようになっていますから、彼がこの有能な評定所留役に目を留めた可能性は十分にあります。

 田沼意次の知遇を得たかどうかはともかく、鎮衛がこの難しい職を立派にこなし、上司から高い評価を受けた証拠に、その5年後の1768年には勘定所に戻って、御勘定組頭になります。今日で言うと、大蔵省の局長級の職です。課長級ポストである支配勘定を飛び越しての栄進です。寛政の改革で実施された公務員試験を主席で合格した太田蜀山人ほどの人物でさえ、生涯を平の勘定で過ごしたことを考えると、これが常識では信じられないほどのすばらしい出世であることは明らかです。この栄進に当たっては、それが田沼か否かは別として、評定所に連なる幕府高官の強力な推薦があったことは確実といえます。彼の家柄そのものは最低に近いほど悪いのですから、その線からの栄進の可能性は絶対にありません。

 さらに、その10年後、1776年、42才の時には、彼はなんと勘定吟味役に就き、六位となって布衣(ほい)が許されます。今で言う会計検査院長です。吉宗時代に足高の制ができて、能力次第で誰でもどんな地位にでも登用することが可能になったとはいえ、奉行職は普通は旗本のつく地位です。したがってこの勘定吟味役が当時の普通の御家人として到達できる最高の地位でした。役高500石(手取りでは500俵程度)、役料300俵ですから、手取額で年俸800俵の地位です。

 したがって、後は終生その職にあっても、人もうらやむ出世といえます。ところが1784(天明4)年に鎮衛はさらに累進して佐渡奉行になります。佐渡奉行は、遠国(おんごく)奉行の中での格はそう高いとはいえませんが、幕府財政の生命線ともいえる佐渡金山の生産を一手に握っており、勘定方としては非常に重要な職です。同時に家禄に50俵が加増になります。遠国奉行になった者に対しわずか50俵の加増とは幕府もずいぶんけちなようですが、家禄への加増というのは、能力の判らない子々孫々にまで保障される基本給ですから、慎重にならざるを得ないのです。佐渡奉行は、役高1000石(つまり手取りでは1000俵)、役料1500俵ですから、あわせて年俸2500俵の所得になったことになります。

 1786(天明6)年、田沼意次が辞職に追い込まれ、翌年の6月に松平定信が老中筆頭に着任していわゆる寛政の改革が始まります。当然、幕府の中央人事には、田沼派一掃のための粛清の嵐が吹き荒れます。

 この時に、佐渡という少々中央からは離れたところにいたのが幸いしたのでしょうか、この年7月に鎮衛は勘定奉行に抜擢され、家禄も500石に加増されます。つまり御家人から旗本の端くれに連なるようになったわけです。勘定奉行は今日で言えばほぼ大蔵事務次官の職に相当します。役高は3000石です。12月には従五位下に叙任され、以後、肥前守を名乗ることになります。彼が松平定信に気に入られて抜擢を受けたといわれるのはこのことです。確かに遠国奉行と、寺社・町・勘定の三奉行との間には大変高い壁がそびえていますが、勘定吟味役と遠国奉行の間にある壁ほど高くはありません。松平定信による抜擢以前に、すでに彼は異数の出世を遂げていた人物であったのです。

 寛政の改革は、定信の失脚とともに1793(寛政5年)年に終了しますが、鎮衛は政治の渦を無事泳ぎ切り、それどころか1798(寛政10)年にはさらに累進してとうとう江戸南町奉行の地位につきます。以後、1815(文化12)年11月まで18年の長きに渡って在任し、辞職した翌月の12月に死亡します。享年79才(数えで80才)でした。

 幕府の俸給制度の面白い点は、高級官僚に対する賞与の一部として、その子供の出世を早くすることです。鎮衛の場合、非常に長期に渡って江戸町奉行という要職にあったので、子供ばかりか孫までが、彼の生きている間に布衣以上の地位につけました。これは非常に珍しいことといえます。

 また、その1815年6月には家禄が500石加増になって、それまでの500石と併せて1000石取りという堂々たる旗本に出世していました。

 この最後の加増を受けたとき、彼が読んだ狂歌があります。

  御加恩をうんといただく五百石

 八十の翁の力見てたべ

 この狂歌に示されるように、地位が上がっても偉ぶらない人柄でした。勘定奉行の時か町奉行になってからのことかはっきりしませんが、ある時、諸役人が打ち揃って本所辺の視察に行き、昼弁当を食べていたとき、鎮衛の出世のことに話が及びました。すると、彼は「私の妻などは、皆さんの奥様とは違い、昔は豆腐を買いに出たものです。自ら台所の釜の下の世話をやっていた身分ですよ」と高らかに笑ったと言います。

 勘定方の役人としては、特に土木工事や建築工事の指揮監督に優れていたようです。平の勘定時代から勘定奉行まで、鎮衛の勘定所勤務は相当長期間に及びますが、その間に、日光の廟や禁裏・二条城等の普請、東海道や関東の川普請、浅間山噴火の復旧工事など、様々な工事の実施を担当し、その落成の都度、褒賞としていただいた黄金(大判小判)が通計260余枚というのですから、大変なものです。

 町奉行としては、下世話に通じた判断をよく示し、名奉行とうたわれました。例えば次のような話があります。

 江戸川の鯉は、船河原橋の上流では漁をすることは禁じられていました。ところがこの船河原橋の下で鯉を捕った者がある、との訴えがでました。本来なら、訴えがあれば必ず審理をすることになっています。ところが、鎮衛は、「船河原橋の下」というのはその下流という意味であろう、したがって事件にはならない、と事件そのものを握りつぶしてしまったと言います。無用の罪人を出したくなかったのでしょう。

 またある年、津波があって、大きな船が永代橋に吹き付けられ、橋を壊した、という事件がありました。橋の管理人の側では、船が橋を壊したのだから橋の修理費を船の持ち主が負担するように、と訴えました。鎮衛は、これは天災なのだから我慢したらどうかと諭したのですが、橋の管理人はうなずきません。そこで、鎮衛は最終的に次のように判決しました。「船が橋を壊したのは確かだから、船の持ち主は橋を修理すべきである。しかし、船が砕けたのは橋があったからなので、橋の管理人は船の修理費用を負担すべきである。」橋の修理費よりも、船の修理費の方が遙かに高額になるので、橋の管理人側ではあわてて示談にした、という話です。

 北町奉行が担当した民事訴訟で評定所にまであがった事件に、町家から寺院を相手に茶漬け飯の売掛金として50両を請求したというものがありました。茶漬け飯の代金で50両というのは少々大金過ぎると、北町奉行は首を傾げました。すると鎮衛は脇から、その町家というのは一体どこにあるのだ、と聞き、湯島天神前だと答えられると、「それは子供の踊りを見過ぎたのだろう」といったものですから、僧侶の方では顔を赤くし「速やかに借金を支払います」と答弁して、事件はけりになったといいます。実は、湯島あたりには男色を売り物にする茶屋があり、これを「子供踊り」と称していたのです。そうした市井の事情も鎮衛はちゃんと知っていたのです。

 こうした下々の事情に精通している鎮衛だからこそ、寛政の改革以降のデリケートな時期に18年もの長きに渡って町奉行職を立派につとめることができたのでしょう。

 また、町奉行には、あちこちから、現在継続中の訴訟について、自分の知り合いの有利にしてくれ、という話が当然に来ます。単なる硬骨漢ならそういうとき、きっぱりと断って人の恨みを買ったことでしょう。ところが苦労人である鎮衛は、そういうとき、いったんは気軽に引き受けたそうです。しかし、その後で、「最前のことだが、私は年寄りで、近頃とかく物忘れが激しい、忘れたら堪忍しろよ」といい、実際には何もしなかったといいます。

 異数の出世をしたわけですから、様々なしるべがなにとぞお引き立て下さい、といってくることも多かったのですが、これに対しても、「心得た」と調子の良い返事はするのですが、わざわざ推挙すると言うことは決してしなかった、といいます。このことについて家族に対しては「よその者も、大切に奉公し、精勤して年月を重ねれば、自ずと天の恵みはあるものさ。私の知ったことではない。」といっていたそうです。

 こうした公平無私の態度もまた、彼の名奉行としての評判を高め、普通ならとっくに隠居している年までも現職でおく理由となったはずです。

 しかし、根岸鎮衛を、単なるシンデレラボーイ以上の者としているのは、「耳袋」に代表される彼の文筆力でしょう。「耳袋」は、かれが佐渡奉行であった時代から死ぬ直前まで30年余りに渡って書き次いだ1000編もの随筆を集めたものです。内容は、上は将軍家から下は夜鷹やにいたるまでの実に様々な人々や事柄についての噂話です。人気がでて、途中では止められなくなって、死の間際までずっと続いてしまったようです。

 また、彼は毎年新春になると、艶笑の戯れ書きをするのが常でした。このことは将軍家等もみな知っていたので、春になると坊主衆に、今年の肥前守の戯れ書きはまだ入手できないか、と催促していた、ということです。




















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日々の出来事 2月28日 きんさんぎんさん

2018-02-28 09:00:00 | A,日々の出来事_





  日々の出来事 2月28日 きんさんぎんさん





 今日は、蟹江ぎんさんが亡くなった日です。(2001年2月28日)
また、姉の成田きんさんは、2000年1月23日に亡くなっています。
蟹江ぎんさんと成田きんさんは、100才を越えた記録的な長寿で話題となった双子の姉妹です。
 1991年に姉妹は数え年百才を迎え、新聞やニュースで紹介されました。
その後ダスキンのテレビCMで”きんは100歳100歳、ぎんも100歳100歳”でテレビデビューし、1992年の流行語大賞にも選ばれるなど”きんさん ぎんさん”として全国的に有名になりました。
 また、1992年2月には、”きんちゃんとぎんちゃん”でCDデビューし、浦辺粂子の持っていた最高齢レコードデビュー記録を大幅に更新しました。
1993年には、敬老の日スペシャルゲストとして”笑っていいとも!”に出演、年末には紅白歌合戦に応援ゲストとして出場しました。
1995年には、台湾へ招待され、103才で初めての海外旅行を経験しました。
この姉妹の100才を超越した元気な姿は”理想の老後像”と言われ、国民的アイドルとして慕われました。










      きんさんぎんさん




















☆今日の壺々話











年齢より若く見える人は長生き?




厳しい人生を歩んできた人は寿命が短い。
その人生は顔に反映される。
(南デンマーク大)




人間は年を重ねれば肌のハリを失い、シワが増え、その年齢相応の顔立ちになっていくもの。
しかし、中にはいつまでも実年齢よりも若く見える人々もいる。
そうした見た目の違いが、実は寿命にも関わっているかもしれない。
そんな研究結果をデンマークの研究グループが発表した。

 英紙ガーディアンによると、この研究は南デンマーク大学で老化を専門にしているコーア・クリステンセン教授らのグループが行い、英専門誌「British Medical Journal」で発表したもの。
クリステンセン教授らは、2001年1月時点で生存していた1,826人の双子(70歳以上)をサンプルに選び、その写真を20人の看護師、10人の若い男性、11人の中年の女性に見せた。
そして、写真の人物がいくつに見えるか、年齢を推測するよう依頼。
この質問結果と、2008年の生存状況の関連性を調べた。

 ここで双子を取り上げた理由については、老化に関わる遺伝子情報を同様に持っている点を考慮。
環境の違いにより生じた見た目の変化が、寿命の違いに結びつくのかどうかを容易に掴めるためだ。
英紙デイリー・メールによれば、クリステンセン教授らは同じ双子の写真は別の日に見せ、客観的にその人の年齢を推測させるようにしたという。

 調査の結果、2008年の生存状況では、全体の37%に当たる675人が亡くなっていたことが判明。
その多くは2001年の年齢推測の際に、実年齢より老けて見られた人だったことから、「見た目の年齢は、生存状況とかなり関係している」と結論付けている。

 また、同じ双子の間で推測された年齢の幅が大きいほど、老けて見られたほうは先に亡くなっていた例が多く見つかったという。
この結果にクリステンセン教授は「簡単に言えば『厳しい人生を歩んできた人は寿命が短い』。その人生は、顔に反映される」(デイリー・メール紙より)と語っている。

 また、米紙ニューヨーク・デイリーニュースによると、研究ではサンプル者らの染色体調査も実施。
この中で教授らは、染色体の末端に見られる「テロメア」という部分の長さを調べている。
「テロメア」は染色体末端部を保護する役割があるとされ、「この部分が短い人は、老化のスピードも速く進行すると考えられる」という。
すると、今回の研究でも若く見えた人ほど、長い「テロメア」を持っていることが分かったそうだ。

 クリステンセン教授は「成人の人が『年齢より老けて見える』と言われれば、健康状態が良くない証だ」(ガーディアン紙より)と忠告する。
肌のシワやたるみなども、軽く見てはいけないのかもしれない。



















きんさんぎんさん






きんさん ぎんさんのTVインタビュー

「 こんなに稼いでどうするのですか?」
「 老後に備えて!!」


名古屋での健康フェスティバルにて

「 長寿の秘けつは何ですか?」
「 とにかく気力!!」


島根県美保関町の小学生の質問

「 生きていてうれしかったことは何ですか?」
「 あんたに会えたことじゃ!!」

















双子の行動パターン







 私が中学生になった頃の話です。
入学にあわせて新しい家に移り、双子の姉とそれぞれの部屋を与えて貰いました。
翌日は休日で、初めて一人部屋での就寝という事もあり、少し夜更かしをしました。
朝、遠くから母の声が聞こえます。

「 ・・・・じよ、早く起きなさい。」

まどろみの中、また母の声が聞こえました。

「 火事よ、早く起きなさーい!」

“ え!? “

 そこからの記憶は曖昧で、何をどうしたのか。
気付いた時には、学生カバン片手に息を切らしてリビングに立っていました。
朝食の準備をしていた両親が、ポカンとこちらを見ています。
ふと隣に目を移すと、同じく息を切らした姉が立っていて、その手にはシッカリ学生カバンが握られていました。
 どうやら私達は、母が言った「九時よ」を「火事よ」と聞き違えたようでした。
部屋が分かれても同じ行動をする私達を見て、両親は涙を流して笑っていました。
私達も「なんで、学生カバンなん?」と大笑いしました。


















    長生き







 私は、旦那より長生きしたい。
旦那は専門馬鹿で不器用で、一般常識も家事能力もなーんにもないから。
私が先に死んで、旦那が葬式の作法わからずアワアワしてるのとか、
靴下の場所とか米の研ぎ方とかわからなくて右往左往してるのとか、
つまんなそうな顔してるのとか、
さみしそうに一人で晩酌してる背中とか、
あっちの世界から見えちゃったら、私は絶対に成仏できない。
幽霊になって旦那の世話を焼きに、笑わせに、うざがられに出ると思う。
そんな「オカルトちょっといい話」にならないよう、旦那を先に見送る。
来世までストーキングしてやるんだ。

















双子







 私の知り合いに双子がいますが、同時刻に三ヶ所で目撃されたという話を聴きました。
本人も怖がっていたので私は、

「 見間違いだよ。」

と言ったのですが、その友達Aは、

「 でも世の中には自分と似た人が三人いて、三人目に会うと死ぬとか・・・。
私は双子だからもう一人目にはあってるし、どうしよう。」

と取り乱している様子。
 果たして双子も数に含めるのかどうかは置いておくとして、私もその話は聴いたことがあるのですが、失礼ながら本気で信じていないし、そもそも本当に見間違いだと判断しているのでその場は笑い飛ばしました。
 で、次の日、Aに会ったときに、

「 よく考えたらAが直接会ったわけじゃないし、カウントする必要はないよ。」

と言ったら、まぁ、怖い話にはよくある結末なのですが、

「 昨日あなたと会ってないよ。」

と、こちら以上にガクガクブルブルながら言われてしまいました。
 自分と似た人ってのはその存在すら乗っ取るのですかねえ。
私はてっきり似ている人がいるだけで、その人はその人で人格を持っているモノだと思っていたのですが・・・。
あ、双子の片割れ(昨日話した人とは違う方)でした、ってオチじゃありません。













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2月27日(火)のつぶやき

2018-02-28 03:03:30 | _HOMEページ_






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日々の恐怖 2月27日 幸福の妖精(2)

2018-02-27 19:02:25 | B,日々の恐怖






  日々の恐怖 2月27日 幸福の妖精(2)






 うまく言えないんだけど、馬鹿にしてるとかじゃなくて、普通に平然とした顔で、

「 大丈夫だよ~、君は大丈夫、大丈夫~。」

と言って頷いてた。
 俺も何か怒りがすっと引いて、

“ よく考えたら、別にそんな入りたい所じゃなかったなァ・・・。”

って冷静になった。
 おっさんの胸元掴んでしわしわになってたんで、

「 すんませんでした。」

と謝ったら、おっさんはまた普通の顔で、

「 大丈夫だよ~、君は大丈夫。」

と言って去って行った。
 OBからは連絡なかったけど、本命じゃなかったのに流されそうになってしまった、その会社の熱意というか強引な口説き方が、遅まきながら怖くなったから、俺からも連絡しなかった。
 それから2ヶ月後、ちょっとだけ条件を譲歩したら、元々の希望だった研究職の内定もらえた。
 俺はおっさんに感謝した。
でも本当に驚いたのは、それから3年後だった。
 昼休みに食堂で見たニュース。
俺とおっさんが追い出された会社が、謝罪会見やってた。
 詳しくは書けんが、会社ぐるみで犯罪やって、社長以下、幹部はほとんど逮捕。
平社員もノルマの名の元に犯罪行為させられてて、かなりの人が客から訴えられたそうだ。
 いっしょに飯食ってた同僚に、

「 もしかしたら自分は、ここではなくこの会社に入るかもしれなかった。
いや、おっさんが邪魔してくれなかったら、確実に入ったと思う。」

と話したら、

「 もしかして、そのおっさんって、幸福の妖精じゃね~の?」

と言われた。
 俺は、

“ 妖精ならTinker Bellmみたいな感じだろ・・・。
しかも、小太りで禿げてる妖精かァ・・・・?”

と思った。
 いや、まあ、でも本当に感謝してる。
いつか会ったら妖精に礼を言いたいけど、あれ以来会ってない。














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日々の出来事 2月27日 刷り込み

2018-02-27 09:00:00 | A,日々の出来事_





  日々の出来事 2月27日 刷り込み





 今日は、コンラート・ローレンツが亡くなった日です。(1989年2月27日)
コンラート・ローレンツは、刷り込みの発見者で、近代動物行動学を確立した人物です。
 刷り込みは、ローレンツがハイイロガンの卵を人工孵化して、ガチョウに育てさせようとしたとき発見されました。
ガチョウが孵化させた雛はガチョウを親と思って後ろをついて歩いたのですが、一つの卵だけをローレンツの目の前で孵化させたところ、この雛はローレンツを親だと思って後を追いかけたのです。
 そして、その後もこの雛はローレンツを親だと思い続けました。
それでローレンツも責任を感じ、それに応えて、雛を自分の寝室で育て、庭で散歩させ、池に入って泳ぎを覚えさせ、見事、親の代わりを果たしました。
 動物行動学の権威であるローレンツは、多くの種類の動物を家の中で放し飼いにしていました。
でも、家の中にいる生き物のうち、唯一、檻に入れられたものがあります。
それはローレンツの長女のアグネスです。
これは、虐待では無く、放し飼いの動物に長女が襲われないようにです。

 コンラート・ローレンツは、”イカは人工的な飼育ができない唯一の生物”と言っていたのですが、1975年に松本元がヤリイカの飼育に成功してしまいます。
それで、ローレンツはそれを信用することが出来ず、わざわざ来日して、イカが水槽内で生きていることを一週間見届けて、ようやくそれが本当であることを認めました。
そして、このイカの水槽を”すべての水産生物の未来を変える”と高く評価しました。













    コンラート・ローレンツ
















☆今日の壺々話












    イカ






「 どうです、このイカ、生きているでしょう。」
「 ホントだ、信じられん。
 これは、奇跡だ!
 すべての水産生物の未来を変えるほどの偉業だ。
 おめでとう、誰もが君の事を祝福しているよ!」
「 それは、どうかな。」
「 喜んでいないヤツがいると言うのか?」
「 ああ、私には直ぐに分かる。
 ホラ、あそこを見ろ。
 右から三番目の学生だ!」

その学生は驚いて答えました。

「 イヤだなァ~、先生!
 僕、そんな事考えていませんよォ~。」
「 嘘を吐け、このォ~!
 手に持っているのは、わさびとしょうゆだろ!」


















    塩辛






 22年間真面目だけが取り柄だった。
もちろん周りからも真面目な子と評価されていた。
 少し前に新鮮なイカがたくさん手に入るチャンスに遭遇したんです。
普段だったら刺身と煮物と焼きイカぐらいしか思いつかないのに、何故か”塩辛だ!塩辛を作ろう!”と閃き、ネット見ながら作ったんです。
 今日から初出勤という事で、朝飯に塩辛食べました。
キザミ柚子をかけて食べました。
旨かった…、旨すぎた…、気付いたら量食ってて、何だか私とってもイカ臭いの。
仕事場について、ブレスケア大量に食べてもイカ臭いの。
 誰も何も言わないけど、”どうせイカ臭いと思ってんだろ!”と疑い、身が持ちそうにないので休憩時間に塩辛の話を同僚と先輩にした。
聞いて下さい…、私のあだ名が塩辛になりました。
22年間、真面目に生きてきて、いきなりの塩辛降格です。
 いや、しかしこれは昇格なのかもしれない!
塩辛は午後の勤務も頑張ります…。

















うちの母さん(60歳)







 ASIMOのモノマネが得意なんだけど、
ASIMOがどんどん人間ぽい動きが出来るようになってきてるので、
もう母さんはモノマネしてなくてもASIMOみたいだ。

 黒いスパッツが好きなんだけど、
それを穿くと決まって父さんが「おっ!力道山!」と声をかけるので、
母さんは満面の笑顔で父さんに空手チョップをお見舞いしている。

 昔、父さんのブリーフの再利用を考えた結果、
ゴムの部分を切り取ってヘアバンドにすることにした。
ブリーフのゴム部分は赤、黄、青、緑と色々あったので、
母さんは緑、私は黄、姉は青をはめてみんなで洗濯物をたたんでいた。

 朝、庭から「ウチの娘でもいないのに!この野郎!」と悪態をつく声が聞こえてきた。
後で何をしていたのか聞いてみると、大切に育てているお花に交尾してる虫がいて、
当時私には彼がいなかったことも加えて、むしょうに腹が立って潰したと言っていた。

 定期的にイカを電子レンジで爆発させる。
ドーン!という音に振り向くと、イカのクズだらけの顔をした母さんが目を丸くしてこっちを見ている。

















好きなのどぞ~






∧_∧
( ´ω` ) < 好きなのどぞ~
( つ旦O
と_)_)


―{}@{}@{}-    ネギマ

―{}□{}□{}-   豚串   

―@@@@@-  つくね

―∬∬∬-    とり皮

―зεз-    軟骨

―⊂ZZZ⊃   フランク

―<コ:彡-    イカ焼き

―>゚))))彡-    魚の串焼き

―○□|>-    おでん

―●○●-    花見団子

─━━━     ポッキー


















恐怖の刷り込み







 昨日、こどもが、『すごく怖い話』というのをしてくれた。
友達と話していて、はっと気づいて、とても怖かったという。
それは、『刷り込み』。
 友達の話に、『お母さんがこれが良いって言ったから・・・』とか、『お母さんがこう言ってた・・・』とか、たびたび話の中に『おかあさん』との意見というのが紛れ込んでくるのが気になっていたという。
そして、あ、自分もだ!と気づいたという。
その時、凄く怖くなった・・・らしい。
 自分の判断とか嗜好だと思っていたものが、それは、まぎれもなく、お母さんの趣味や考えなんだと気づいてしまったという。
でも、2,3歳のこどもじゃないんだから、自分の考え方や好みが、母親に似てるだけでは?って思ったんだけど、違う!と言う。
そして、お母さんも、おばあちゃんソックリのことを言ったり、したりしてるよ、って。
これは、私もゾッとした。
 あ、自分の考えだと思ってたことが、実は、植えつけられたり刷り込まれた思考だったのかも。
それは、怖い。
 自分の考えを持ち、自分の判断をしなさい!と言われていたこと自体が、母親の考えの刷り込みでは?とも思う。
たぶん、長女から長女へ、そしてまたまた長女へと流れていった、女系の血か?
男の子だったら、またまた怖いことになったかも。
『だって、ママが言ってたもん!』って。
自分で気づいて恐怖に思うのと、他人が聞いて恐怖に思うのと。
どっちが怖いか?




















特別養護老人ホームあれこれ








(1)お婆ちゃん、またブツブツ言っている、の正体


 その女性高齢者はほとんど起き上がったり立ち上がったりせず、たいていは寝たきりで過ごしていた。他者との会話も不可能である。
そしてずうっとブツブツ何かを唱えているのである。
食事の時も就寝時間でも聞こえるか聞こえないかの低い声で、いつもいつも途切れることはない。
 彼女はすでに家族が面会に来ても誰だかわからないほどになっていた。
そのことが既に中年に差し掛かっていた娘さんにはつらいことらしく涙ぐむのが常であった。
 それでも孫を連れてきては話しかける。
看護師もかいがいしく声をかける。
しかし反応はなくブツブツブツが続く。

 「お婆ちゃん。またブツブツ言っているのね」という看護師だか介護士だかの声を私はなぜか聞きとがめた。
そして耳をそっと彼女の口に近づけてみた。
 最初のうちは何だかわからなかったが、やがてあるフレーズではないかと疑いを持ち始める。
「もしや」と胸騒ぎして自分の記憶をたどりつつ何度も聞き続けた。
そしてその正体を確信し心の底から恐怖した。
繰り返すが彼女は娘の顔さえ忘れて会話もできない。
ところがたった一つだけ唱えていたブツブツは、最後に残ったたった一つの記憶だったのだ。
 それは教育勅語だった。
私は大学で日本史学を学んでいたので戦後生まれながら教育勅語の概要は暗記していた。だが看護・介護する人は若くて当然知らない。
「朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ・・・・」を抑揚なく低い声で延々と繰り返したのだ。
強制奉読の際の独特の抑揚こそ消えていたが内容は紛れもなくそうであった。
教育の持つ刷り込みの恐ろしさや、戦前はまだこんなところにも残っているのだという感懐に襲われた。



(2)優しい家族


 その男性高齢者にはいつも笑顔の訪問者がいた。
男性高齢者はもはや人の顔を識別できない程であったが訪問者のことはわかるらしく、しきりに固有名詞の呼び捨てで語りかけていた。
内容は支離滅裂で私にはサッパリわからないが訪問者はニコニコと聞き、温かな雰囲気が回りを囲んでいた。
 帰り際に「お父様ですか」と聞くと訪問者は違うという。
親族かと問うとそれも違うというではないか。
では何者かと質問を進めたら何と何者でもないという。
ずっと以前に同じ施設を訪問した時に(その理由を訪問者は明かさなかった)その男性高齢者が私も聞いた息子とおぼしき固有名詞で呼びかけられて以来、時間が許す限り訪ねることにしているという。
つまり赤の他人だったのだ。
 もっと不思議なのは調べた限りでは男性高齢者には男子はいないようなのだ。
子どもでもない固有名詞で呼ぶ高齢者と赤の他人なのにそれを求めて何の見返りもなく訪ねる訪問者。
そんな関係を何と名付けるべきか。



(3)人生は五分と五分


 重度の認知症になっても性格は存在する。
大人しくたたずんでいるばかりの人もあればワンフレーズとワンパターンを繰り返す人もいる。
その男性高齢者はヒマさえあれば怒鳴り散らして廊下など公共スペースで騒いだり寝転がったりする「問題児」であった。
 ある日、その人が顔にあざを作っているのを見た。
どうせ暴れた結果のケガであろうと見過ごしていたが治った頃に別の場所に青あざや打ち身を設けている。
不思議になってしばらく見張っていると、どうやら公共スペースの隅の方で「ヤキ」を入れられているのだった。
誰がそうしていたかはこの際秘匿するとしよう。
 問題はその人物の過去である。
できる限り調べてみたら何と元高級官僚で官庁のかなり上位まで上り詰めたエリートだったのだ。
しかも当時を知る者によれば彼は現役時代から大変尊大であったという。
 私の知る限り、彼には一度も見舞いが来なかった。
誰も来ないのである。
そして認知症となっても尊大さは変わらない。
変わったのはかつては平伏していた相手に、今やヤキを入れられてる点である。
私はつくづく人生は五分と五分だと痛感した。



(4)ヌシの本当の姿


 特養に勤めている全員がヌシと認めている女性がいた。
かれこれ10年もそこにいるのだという。
年の割りには押し出しがよくてこよりのようなものを作るのが得意だった。
 皆が寝静まった頃、彼女は私に話しかけてきた。
言葉は清明である。
態度もシャンとしている。
とても認知症には思えないのでそう問うたら「違う」と明言した。
 その後にいくらかの会話をしたが記憶力などすべての点で素人の私でもわかるくらい「健常」であった。
ただ足に少々の身体障害を持つのを除けば。
 彼女もまた誰も訪ねては来ない。
しかし身寄りはあるらしい。
その身寄りと施設との間に何らかの関係があるらしく彼女は認知症でもないのに特養に居続けている。
寂しくないかと聞いたら「ここで私は必要とされている」と答えた。
 確かに千差万別の動きをする入居者の交通整理のようなことを彼女は甲斐甲斐しく務めてはいた。
時に彼女は看護師などが詰めている泊まり部屋にまでやってきては四方山話をしていく。驚いたことに勤めている側からさまざなな相談が持ちかけられるともいう。
















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2月26日(月)のつぶやき

2018-02-27 03:02:20 | _HOMEページ_




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日々の出来事 2月26日 琉球とキジムナー

2018-02-26 10:02:28 | B,日々の恐怖





  日々の出来事 2月26日 琉球とキジムナー





 今日は、薩摩藩が首里城を攻略した日です。(慶長14年2月26日)
徳川家康に始まる江戸幕府は、明と貿易するため、琉球を経由した間接貿易を考えました。
何故、琉球を経由した間接貿易を考えたかと言うと、当時、明は対等貿易を認めず、かと言って朝貢貿易では明へ服属を強いられたように見えるからです。
 そして、琉球へ間接貿易の承服を働きかけましたが、これを承諾することは江戸幕府への服属を意味すると考えた琉球王府は申し出を拒否しました。
そこで、江戸幕府は、1602年と1603年に琉球人が日本に漂着したのを送り返したのに お礼が来ないと難癖をつけ、徳川家康が島津家久に琉球への侵攻を命じます。
 二百年の平和が続いていた琉球は抵抗するすべも無く、島津軍は首里城に接近、琉球の尚寧王は和睦を申し入れ下城しました。
そして、薩摩藩主島津忠恒に伴われた尚寧王は徳川家康に謁見し、その後琉球に帰国、形式的には琉球王政は続いたのですが、実質は薩摩藩の服属国として幕藩体制に組み込まれて行きました。
これ以降、琉球は明と江戸幕府の両方の服属国として、苦しい立場に置かれました。












         キジムナー














☆今日の壺々話












   キジムナー(琉球の妖怪)






 沖縄にはキジムナーが住んでいます。
キジムナーは、大木を住家にしている木の精で、人間の子供と遊ぶのが大好きな優しい妖怪です。
 ある晴れた日、木の下で遊んでいる子供たちにキジムナーは声を掛けました。

「 俺って、タコを捕るのがうまいんだぜ。」
「 ホント、じゃ、捕りに行こうよ。」
「 うん、一緒に行こう!」

タコが捕れると言うので子供たちは大喜びです。
キジムナーと子供達は海にやって来ました。

「 よし、じゃ、タコも魚もいっぱい獲るぞ!」

 いよいよ漁の始まりです。
キジムナーは股間に大きな赤いタマキンがぶら下がっていますので、これを水中にふるわせると、魚たちは見たことのない物に好奇心を抱き、魚たちが近寄ってきた瞬間を捕まえると言う究極のキジムナー漁法を持っているのです。(すげ~!)
 そして、たくさんのタコや魚が獲れたので、子供たちはみんな大喜びです。
そのとき、突然、子供たちの内の一人がオナラをしました。

“ ぷ~!!”

キジムナーは、叫び声をあげました。

「 ギャ~!!」

そして、大急ぎでキジムナーは逃げてしまいました。

“ ぴゅ~!!”

子供たちは呆気にとられて逃げていくキジムナーを見送り、海に取り残されてしまいました。
その後、子供たちは近くを通りかかった漁師のオジサンに助けられ、無事、家に帰りましたとさ。

☆念のため書いておきますが、この話のポイントはタマキンではなく、キジムナーが一番怖いのは”オナラ”だったと言うことです。

















オナラ






 おならといえば、自分も恥ずかしい体験がある。
その体験をした時期中間テストで、連日徹夜が続いていた。
中間テストの最終日、もうその日は体力&精神が限界で、学校に行ってテストを受けてもシャーペンが握れないほど眠くて眠くてしょうがない状態だった。

このままでは今受けてるテストを解いてもまずい結果になりそうだ。
そうだ、少し仮眠を取ろうと思い机にうつぶせて仮眠した。

 仮眠中、潜水艦の中でセーラー服を持参のバッグに大急ぎで詰めてると、突如現れたブラックホールに吸い込まれる夢を見た。
この吸い込まれるとき、もう本当物凄い恐怖に襲われた。
夢の中で叫ぶ叫ぶ。

たすけてーーーーーーーたすけてーーーーー
死んじゃうーーーーー死んじゃうーーーーーーーーー
からだが…バラバラになりますよ!!(悪魔の声)

恐怖が限界に達したとき、何故か肛門が一気にゆるんだ。
なにかが……なにかが生まれるぅっ!!

「 バン!」 

という破裂音のようなおならが教室中に響き渡り、このとき腰が少し浮いた。
その衝撃にビックリして凄い速さで立ち上がり、周囲を見渡して、

「 うわろ、誰だ!!」

ヨダレを食いながら聞いた。
みんな必死に笑いを堪えてた。
 俺はすっと冷静に席に座り、目を開くとまだ何も手を付けていないテスト用紙が目に入る。
意識が戻り、慌ててテストを解き始めた。
そしたらチャイムが鳴った。

「 はい、回収します。」

初の0点だった。

















中間テスト





 高校の中間テストの日のこと。
クラスの赤点確定なDQN男子たちがテンション高に絶望していた。

A男「うああぁぁ、勉強してねぇよ!わかんねぇよ!」
B男「こちとら人間様だぞ!植物の構造なんて知るかよ!」
A男「おい、誰かカンニングできる方法考えろよ!」
C男「5分でどうしろってンだよ!フジコフジコ!」

そんなやりとりを横目に休み時間を消化し、テスト開始。
問題を解き終わってふと黒板に目を向けると、


   〇年 A組

   出席 36名

   蒸散  1名       日直

                   維
                   管
                   束


  よく見るとクラス中が荒ぶる腹筋と戦ってた。





















彼氏いない歴21年







 今朝、爆裂灼熱屁が止まらないまま満員電車に乗った。
肛門に熱を伴いながら放屁を続けるしかなかったわけだが、いわゆるオナラ臭と硫黄臭が混ざり、我ながらガス臭がひどかった。
 周りがざわつき始め、いよいよ嫌疑がかけられるかと思ったが、乗客が窓を開けたりして対応。
この程度の騒ぎで済んでくれ、と思ったが隣の女性がしゃがみ込んでしまった。
 オナラ臭のせいなのか、立ちくらみや貧血だったのかは不明だけど、ちょっと罪悪感。
そして、車掌と話せる緊急ボタンみたいなのを押したおじさんが、

「 女の人が具合が悪くてうずくまっています。
それから、オナラかもしれませんが、ちょっと今までに体験した事がないくらいガス臭いです。
もしかしたら、この辺りに不審物があるのかもしれません。」

と通報。
 次の駅で電車が止まり、女性が助け出され、係員が大挙して乗ってくる騒ぎに。
放屁しながらそそくさと電車を降りた。
今朝の皆様、本当にごめんなさい。


















会議中





 会議中、制服スカートと椅子の背がこすれて、ぷぅ~っとオナラそっくりの音がしてしまった。
オナラと思われるとマズいと思い、大げさにスカートとイスを何回かこすって同じ音を出し、オナラじゃないのよ~とアピールした。
 ところが、その音が全部オナラだと思われてしまい、上司に笑いながら、

「 きみぃ、トイレに行ってきていいよ~。」

と言われてしまった。

「オナラじゃありません」と言えなかった・・・。

後で仲のいい子には、あれ違うのよといったけど、

「 すごいね5連発じゃん!
で、何発目のがホンモノ?」


















報告します





 報告します。
大学1年の時、僕はデートでドライブに行きました。
うららかな初夏の日、僕は幸せでした。
が、事態が急変したのは目的地の相模湖まであと少しのときです。
オナラがしたくなったのです。
 自慢じゃありませんが、僕のオナラはくさいのです。
特殊と言っていいぐらい、くさいのです。
狭い車内でするわけにはいきません。
グッと我慢しました。
 が、僕のオナラの特殊なところはもうひとつあって、一回目の軽い便意をやり過ごした後、次に第2波が先ほどの数倍の勢力で肛門に襲いかかり、第5波の頃には生まれてきたのを後悔するような大惨事になるのです。
運の悪いことに、この時のオナラが法則通りに動き出したのです。
突然、僕は無口になりました。
 彼女が心配そうに「どうしたの?」と聞いています。
返事なんかできません。
僕は闘いの真っ最中ですから。
 そして、相模湖に到着するやいなや、歩道に車を乗り上げ(このとき子供を轢きそうになった)、後ろも確認せずにドアを開け放ち、僕は湖に尻を向けものすごい勢いで後ろ向きにダッシュしました。
爆発的な音が彼女に聞こえないように、青筋をたてたものすごい形相を彼女に向け、

「 相模湖だぁ~、相模湖だぁ~!!」

と、大声で叫びながら道路を横断していました。
次の瞬間、右方から来たおばちゃん運転のスクーターに跳ね飛ばされ、病院に運ばれました。


















音を出さずにオナラをする方法






 くだらない話だけど聞いてください。
私は長年おならに困っていて、よくおならが出る体質みたいで、我慢するとおなかが痛くなるしで大変だった。
で、最近音を出さずに出す方法を見つけて、リアルな人に話すと引かれるだろうから、こっそりここの皆さんに教えます。


“ 手でおしりの片方を引っ張って肛門を広げます。
そして力むと、ふしぎと音が出ません。
人ごみの中とかで、急にもよおした時などにオススメです。”


夜中に変なこと書いてごめんね。
でも言いたかった。



師匠、秘法の伝授、ありがとうございます。


師匠、凡人にはこれをさりげなくやるまでに修行が必要です!


師匠、ニオイは止められますか?

















オナラで火がつく





 探偵ナイトスクープで、オナラで火がつくっていうのをやってて、友達と「俺らもやろうぜ!」って流れになり、オナラ番長の異名をとる俺が当然屁をこく役割で、男女8人ぐらいの集団の中でパンツ1丁になり、前屈の体勢になってライターを構え、

「 おら!目ん玉開いてよう見ろやあ!!ファイヤアアアーーーー!!」

と思い切りきばったら、うんこがブリブリ出た。
10年ぶりに泣いた。

















ブーナース






 高校生のとき彼氏の家におよばれした。
そのとき私は生理で、私は生理のときは下痢になるタイプなんだけど、彼の家で下痢でトイレに行きたくなってしまった。
 トイレに行ってしようとしたら、彼氏のお父さんがノックしてきたため何も出さずに我慢して部屋へ戻った。
もう一度行ってしようとしたら、今度は妹さんがノックしてきたのでまた我慢した。
 もう限界すぎて冷や汗流しながら、

「 今日はもう帰ります。」

と彼氏に伝えた。

 帰りに公園かどこかでするつもりだったのに、彼氏が心配して迷惑なことに付いてきた。
バスに乗らないといけない山奥だったため、バスに乗る前に公園行くつもりがそのままバスへ。
バスの中でも彼氏を無視し、ひたすら下痢を我慢することに集中した。
やっとこさバス停について、泣きながら、

「 もう今日はここでいいんです。」

と言ったら、

「 何かしたんだったら謝る。ごめんねどうしたの?」

とまだついてくる。
 そんな彼氏を突き飛ばし、チャリに乗ったもののサドルに座ることができない、下痢が迫りすぎて。
立ち漕ぎして近くの公園目指したら、また彼氏がチャリで現れた。
大好きなはずの彼氏が悪魔にみえた。

「 もうついてこないで!あっち行ってよ、バカ!」

と泣き叫びながら自分家を目指してたのに、彼氏は彼氏で「別れたくない」とか、なんとか言いながら、泣きながらチャリを立ち漕ぎして追ってくる。
 とうとう我慢できずに、チャリを立ち漕ぎしながら物凄い音とともに下痢をもらした。
ナプキンあっても無意味なほど大量に。
彼氏はびっくりしすぎて、泣き止んでしゃっくりしだした。
 恥ずかしさと腹立たしさで、私はうんこ漏れたまんま彼氏につかみかかって、

「 これで満足?!私を困らしやがって!」

と逆切れして大泣き。
白いスカートに黄色い汁やらとにかくすごかった。
 家について、パンツとスカート洗いながら彼氏も失ったと泣きまくった。
でも、その彼氏失わずにすんだ。
結婚できてよかった!



 もう一個あった。
私はおならがとてもでかくて回数がすごいんだけど、看護師してたとき我慢できずに、

“ バホッバホッブー!”

としてしまった。
そしたら、なぜか点滴してたおじいさん患者が、

「 おならがでた!はあ~すっきりしたわい、ごめんなさい。」

と私に謝ってきた。
 驚いた拍子にまた、

”ブブッ!”

と、おならしてしまった。
そしたら、またじいさんが、

「 また出た、穴が緩すぎる。」

と言った。
 一部始終を先生が見てたみたいで、最初は私をかばってくれたのではと思ってたらしかったけど、様子がおかしいので、そのおじいさんの認知症が以前より酷くなったことが浮き彫りに。
 おじいさんの家族にも認知症が進んでることを伝えたが、なぜですかと言われ、私のおなら話を診察室で。
小学生のお孫さんたちは笑いころげて、それからずっとブーナースとよばれてました。
















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2月25日(日)のつぶやき

2018-02-26 03:07:40 | _HOMEページ_






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日々の恐怖 2月25日 幸福の妖精(1)

2018-02-25 18:34:36 | B,日々の恐怖




 
  日々の恐怖 2月25日 幸福の妖精(1)





 リクルートスーツを見る季節になると、毎年思い出す話がある。
今から10年以上前、俺は就職活動していた。
 正確な年は言えないんだけど、バブル崩壊後の冷や水ぶっかけられた氷河期世代あたりだと思ってくれ。
俺は理系で一応研究職希望だったけど、求人自体がほとんどなくて、滑り止めに受けた営業や販売すら落ちまくりだった。
 そんな中で、一つだけ最終面接まで進んだ会社があった。
ノルマなしの営業で、しかも待遇がめちゃくちゃいいところだった。
 OBも、

「 お前が来たいなら採用出してもらう。」

と協力的だった。
 そのOBから最終面接の前の日に、

「 お前は合格確実、ていうか合格決定だから。
一応面接だけ受けて貰ってから入社承諾書に判子持って来い。」

と連絡もらった。
 最初は滑り止めって思ってたけど、他は全然受かんないし、こんなに熱心に誘われたらどんどん気持ち傾いて、本当に承諾書出されたら、判子捺して入社しようかなと思ってた。

 最終面接の日、控え室で待機してると、40過ぎくらいのおっさんが入ってきた。

“ 最初会社の人かな・・・?”

と思ったら、受験者みたいな素振りで俺の隣に座った。
そして、いきなり場を弁えずに、大声で俺に話しかけてきた。
 面接は待機から見られてるなんて常識だからびびって、最初は諌めたり無視したりした。
でも、おっさんは何も気にしないで、

「 この会社、きれいなのは見えてるところだけだぞ!」
「 トイレとかすげー汚かった!この会社もうダメだな!」
「 あと○○(会社の商品)もだめだ。もうここは先無いぞ!」

周りもちらちら見るだけで助けてくれない。
 俺が、

「 いや、あの・・・・。」

とかろく返事もできないでいると、大声は外まで聞こえていたらしく、すげー怒った顔で会社の人が入ってきて、

「 (向かいの)社長室まで聞こえてたぞ!ふざけるな!出て行け!」

と、2人で追い出された。
 俺、しばらくポカーンとしちゃって、その後で当たり前だけど急速に怒りが湧いてきた。
おっさんに、

「 どうしてくれるんだよ!」

って掴みかかったけど、おっさん平然としてんの。













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日々の出来事 2月25日 箱根用水

2018-02-25 09:00:00 | A,日々の出来事_






  日々の出来事 2月25日 箱根用水






 今日は、箱根用水が完成した日です。(1670年2月25日)
箱根用水については、箱根用水トンネルの芦ノ湖側にある深良水門の石碑に沿革が記されています。

 石碑の記録(転記)

“ 徳川四代将軍家綱の時代,小田原藩深良村(現在の静岡県裾野市深良)の名主大庭源之丞は,なんとしても芦ノ湖の水を引いて旱害に苦しむ村民を救いたいと考え土木事業に経験の深い江戸浅草の商人友野与右衛門に工事を懇願しました。
 与右衛門は源之丞のふるさとを思う心に感動し工事の元締めを引き受け,湖尻峠にトンネルを掘り抜き、深良村以南の30ヶ村に湖水を引く大計画を立て,箱根権現の絶大な支援と庇護に支えられつつ,大変な苦労を重ね寛文6年(1666)ようやく幕府の許可を得,その年8月トンネル工事に着手したのです。
 この難工事も優れた技術によって驚くべき正確さで成し遂げられ寛文10年春,3年半の歳月と7300余両の費用をかけ当時としては未曾有の長さ1280メートル余りのトンネルが貫通したのです。
 爾来300有余年灌漑,飲水,防火用水に,また明治末期からは発電にも使用されるなどその恩恵は知れず,深良用水は地域一帯の発展の基と言えましょう。 
 この水門は,明治43年(1910)木造水門を現在の石造り鉄扉のものに改造されましたが老朽著しく,このたび神奈川県の協力を得て現水門を補強して永く史蹟として保存するとともに堅牢なる補助水門を新設して利水の利便性と治水安全度の向上を図ったものです。 平成元年(1989)10月”

 このトンネルは、芦ノ湖側と深良側の両方からツチやノミやツルハシで掘られ、岩盤に当たると避けながら掘ったのでジグザクなのですが、貫通したときは両方の差が1mしかなかったと言うのは驚きの技術です。
 この工事については、善良な子供向きのお話として”村をうるおした命の水”とか、映画では”箱根風雲録”が制作されています。
箱根風雲録では、幕府を蔑ろにしてトンネルを作ろうとする民衆に、幕府が何度も妨害工作をして、主人公を何度も投獄、最後には完成したときに幕府が主人公を殺してしまうと言う極悪非道な悲惨な映画になっています。
 実際は、幕府が援助していたのですが、映画としては”お上に逆らうヤツは酷い目に会う”と言うところが、監督が描きたかったところのようです。












     深良用水石碑



















☆今日の壺々話














700m走世界記録達成








 2009年8月25日午前9時ごろ、神奈川県箱根町の箱根登山鉄道彫刻の森駅で、箱根湯本発強羅行き普通電車の運転士(36)が、車掌(24)が乗車していないことに気付かず、発車した。
車掌は、線路沿いのほぼ平たんの道路を約700メートル走って電車を追い掛け、次の強羅駅で追いつき乗車した。
ダイヤの乱れはなかった。
 箱根登山鉄道によると、車掌は彫刻の森駅で一度乗客を乗せたことを確認し、電車のドアを閉めたが、改札口付近でほかの乗客に対応するため降車した。
運転士はドアが閉まったことから、車掌と乗客が乗車していると判断し電車を発車した。
彫刻の森駅は自動改札で、この時間帯は駅員がいないという。


追い付いた・・・・。
ダイヤの乱れ無し・・・・。
エイトマンか・・・・。
ちょっと古いか・・・・。



















箱根駅伝見て泣く嫁









 出会いはネット。
今は亡き某サービスで意気投合したのがきっかけ。
 メールしてたら頭も性格も極めて良さそうだったので、勝手に惚れ込んだ自分が、

「 わたし、全然可愛くないし…。」

と言う嫁と強引にアポ取り付けて会った。
 確かに美人てタイプじゃないが全然可愛いじゃん!と思った。
ふっくらした体型も好みだし、おっぱいもでかい。
実際に会って、優しさや育ちの良さそうなとこ、肝が据わった鷹揚なとこにますます惚れた。
 コンビニでも高いレストランでも、変わらず店員さんに丁寧に感じよく接する。
言葉遣いが美しい。
姿勢がいい。
よく食って、よく寝て、よく笑う。
毎年箱根駅伝見て泣く。
 責任感が強くて、仕事がよく出来る。
眠いとぐずる。
懐メロやアイドル歌謡に異様に詳しい。
歌がものすごく上手い。
 フィッシュマンズの歌を鼻歌で歌いながら夕飯つくる。
料理するとき仁王立ちになる。
抱きつくと怒る。
 俺が仕事忙しくて急激に髪が抜けたことが一時期あって、半泣きで、

「 俺ハゲたらどうする?」

って聞いたら、

「 100まで生きればみんなハゲるんだから、70年やそこら早くたって別にいいよー。」

といって笑った。
 3年付き合って今年で結婚2年目。
今は、ソファーでアホな子みたいな顔で熟睡中。
正直、好きでたまらん。



















深良用水








 私が中三の時のことです。
私の通っていた学校は中高一貫教育で、中学から高校に上がるときは無試験のエスカレーター校でしたが、その条件として中学三年の半年をかけて研究した”卒業論文”の提出が義務付けられていました。
 私はこの論文のテーマに”深良用水”(箱根用水)を選択しました。
夏休みを利用して旧家に古文書を見せていただき、深良用水の随道の中に入ってみたいと思うようになりました。
 でも、深良用水は日本三大権現のひとつである箱根権現の真下を貫通しています。
権現様とは、女性の大神です。
開削の江戸当時も箱根権現は女人禁制の総本山で、この権現様の御神体を掘り抜くとは何事と大きなタブーを犯しての大工事でした。
主導者であった友野与右衛門が通水成功の後に咎なく切腹を命ぜられ、ひとり息子の与市が手足の指を切られて長崎に流されたのも、たたりが遠因だったと言われています。
 深良用水は、開削工事の時も女性は絶対に入ることを許されませんでした。
労務者への水や炊き出しなどは必ず入り口で行なわれ、女性が隧道内に入ることはなかったのです。
 このことは、古文書の記述からみても明らかでしたが、私は隧道内に入ってみようと思いました。
当時、農林水産省の官僚だった父にも力添えをしてもらい、箱根権現の別当職の方、現在でも使用されている深良用水の水配人さんたちに頼みましたが了承は得られませんでした。
けれども中学三年生の私に何か思うところがあったのか、最終的にチャンスはただ一度だけ、女性らしい格好をしないこと、一時間で隧道を通り抜けるならばよい、という条件で許しをいただきました。

 私は当日に向けて長かった髪を切り、魚屋さんが着るような胸まであるゴムの長靴をはき、ヘルメットにライトを着用して随道調査に臨みました。
同行していただくのは、水配人の8名の方と地元の農政局の方、そして父です。
 随道の中は真っ暗で湧き水がしたたり、コウモリが無数に飛びまわっています。
三百年以上も前のノミとツチの痕もくっきりと、まるで昨日掘削したかのように懐中電灯に浮かび上がってきます。

 深良用水の掘り抜き工事についてはいまだ謎が多く、なぜ両側から掘っていって、わずか1mの落差でぴたりと貫通させることができたのか、発破の技術もないのに、たった三年で掘り抜くことができたのはなぜなのか、実は今日でも解明されていないのです。
キリシタンバテレンの法を使った、修験者の呪法を使ったなどと幕府から言いがかりをつけられて、友野座が全財産を召し取られた上、厳罰にあうに至ったとも言われています。

 とはいえ、目にしているのは、開削以来、女性では誰も目にしたことのない光景です。
なんといっても、この隧道を通るのは女性では私が初めての者なのですから。
 許された一時間は過ぎ、私たちは何事もなく通り抜けを完了しました。
私たちは帰り支度を整えて、いったん場所を移して調査の首尾を話し合うことになりました。 
 この時、私はゴム長靴の下に普通のズボンとTシャツを着ていたため、何事もなく胸まであるゴム長靴を一気に引き下ろしました。
すると、その途端、その場にある視線が全部私に集中したのです。
誰もが声を失って、私を凝視しています。
 私は彼らの視線の先をたどって、自分の胸元を見下ろしました。
そして気づいたのです、
足から胸まで細い指を持つ真っ赤な血のついた女の手形がべったりと無数に付けられているのを。
それで、とにかく胸まで隠せるゴム長靴を履きなおし、私はライトバンに乗せてもらってひとまずは地元の大型スーパーに行き、着替えを買うことにしました。
 私は中学三年生、14歳でした。
この時の私の恐怖、満場の男性の目を前にした羞恥をわかっていただけると思います。
 この現象を目の当たりにした水配人さんは、今では決して頼み込まれても、絶対に隋道に女性を入れることはないそうです。
江戸時代よりこれからも、おそらくは私が最初で最後の深良随道に入った女です。
そして、その懲罰を山の神からその場でいただいた女です。
 山は魔界です。
山をあなどってはいけません。
山の神は怒り、祟るのです。




















箱根







 友達と箱根へ旅行に行ったときの話。
少し錆びれた感のある旅館に泊まりました。
 女将さんに「朝ご飯は大広間でどうぞ。」と案内され、みんなで大広間へ移動。
友達3人とテーブルを挟み、向かい合わせに私と息子(当時10ヶ月)が座りました。
 食事が運ばれて、食べ始めようとした時、友達3人の後ろにあった襖が10センチほど開きました。
私が『ん?』と思ってじっと見ていましたが、それ以上、襖が開くこともなく、誰かが覗いてくることもなく…。
 あの10センチは何のために、誰が開けたのだろうと不思議に思いながら、目線を下のほうへやると、お婆さんが横になった状態で、その10センチの隙間から両目でこちらをガン見していました。
生きている婆さんだったが、ぞっとした。


 幽霊より怖いじゃねーか。
一体その婆さんはなんでそんなとこに横たわってたの?


 何故そんなところで横たわっていたのかは不明。
ただその旅館は、2階のみが宿泊できる部屋になっていたので、女将さんのお母さんかなんかが生活してる部屋だったんじゃないかなと思われる。
 婆さんは瞬きもせずガン見していたが、何処を…、誰を…、ガン見しているのかは分からなかった。
あ、大広間は1階にありました。
説明不足でスマヌ。


















箱根






 会社のK子さんという同僚から聞いたお話で、彼女が実際に体験したお話です。
K子さんは先月の末、妹さんと二人で箱根の温泉旅館に行ったそうです。
その旅館は古くて由緒ある旅館。
文豪が定宿にしていたような旅館、といえば雰囲気は分かってもらえるでしょうか。
 二人は温泉も気に入り、お食事もおいしくいただいた後、部屋でくつろいでいました。
しばらくして、どちらからともなく、階下へ行ってお土産でも見て近くを散歩でもしようと言い出し、二人はそろってロビー階へ降りました。
 途中、何人もの仲居さんたちとすれ違いました。
ビール瓶のケースやスリッパがたくさん並んだ広間があり、閉じられた襖の向こうからにぎやかな声が聞こえてきます。

K子:「宴会やってるんだね」

 とりとめもない会話をしつつ、二人はロビー階へ到着。
ロビーといっても、従業員が常時いるようなホテルとは違い、ひっそりとしていました。
二人は、そこでお土産や宿の歴史が書かれたパンフを見たりし、その後お庭を散歩して、夕食後のひとときを過ごしました。
 そして数十分たった頃、肌寒くなったので部屋へ戻ろうということに。
二人は階上の自分たちの部屋へ向かいます。
ところが、自分たちの部屋がみつからないのです。
 さほど大きな旅館でもなく、たいして複雑な造りでもないにもかかわらず、何故か部屋にたどり着けない。

K子:「この年で迷子になるなんてね~。」

 仲居さんか誰かに尋ねようと、きょろきょろ辺りを見回す二人。
その時、妹さんが言いました。

妹:「おねえちゃん、なんか変じゃない?」

そう言われてK子さんも気づきました。
辺りがいやに静かなのです。
 宴会が催されていたはずなのに、廊下には仲居さんの姿はありません。
広間の前には、スリッパやビールケースこそ並んでいるものの、宴会の声もまったく聞こえない。
辺り一帯、人の気配がないのです。
 訝しく思いながらも、二人は廊下や階段を行きつ戻りつ自分たちの部屋を探しました。

妹:「ねえ、こんなとこに廊下あったっけ?」
K子:「ドアの造りが、私たちの部屋がある階とはちがうよね。」
妹:「ここ、さっきも通らなかった?」

 そういえば、踊り場で見た盛り花や絵画もどこか記憶と違う。
若冲のような絵だったのが、竹久夢二の美人画に変わっている。
別の場所で見たものをここで見たと勘違いしてるだけだろうか。
 最初こそ迷子気分を楽しんでいた二人でしたが、だんだん怖くなりはじめました。
降りた階段とは別の階段を上ったり、その逆をしてみたりを繰り返していると、予想とはちがう様子の廊下に出てしまうこともありました。

K子:「動けば動くほど、ここがどこだか分からなくなる・・・・。」
妹:「さっき、踊り場こんなに狭かった?」

そしていよいよパニック寸前、というところで、その人は突然現れました。

初老の女性:「どうかなさいました??」

 振り返った二人の目の前には、茄子紺色の丹前を羽織った初老の女性が立っていました。
不思議そうにそう尋ねた女性に、ふたりは安堵の面持ちで言いました。

K子:「私たち、自分の部屋が分からなくなっちゃって。」

しかし、それを聞いた女性は、さも可笑しそうにカラカラ笑うだけで、そのまま行ってしまったんだそうです。
 がっかりした二人が自分たちの部屋を見つけたのは、再び自分たちの部屋を探そうとした直後のこと。
 部屋に戻って安堵のため息をつきながら、さきの女性の不親切を愚痴るK子さんに、妹さんは言ったそうです。

妹:「あのおばさんが戻してくれたんだよ。」
K子:「どういうこと?」
妹:「おばさんが去ってくとき、なんか空気変わった感じがした。ぼにょーんって歪んだみたいな・・・。」
K子:「え?」
妹:「あの人、そういう係なんだと思う。」

 ちなみに、K子さんの妹さんは幽霊を見るような霊感はないそうですが、ただ非常に感受性が強く、普段からとても勘の鋭い人だそうです。
 結局、怖い思いをした旅館に二泊もしたくないということで、翌日の宿泊はキャンセルすることになりました。

従業員:「何か不手際があったでしょうか・・・」

そう聞く従業員に、

「なんかちょっと怖くって・・・。」

とだけ言うと、その従業員はそれだけで合点がいったという面持ちで、

「分かりました。」

と答えたそうです。
 地元のタクシーの運転手さんの話によると、その旅館のある一帯の地域では、以前から同様のことが起きるそうです。
雑木林の中や宿泊施設の裏の遊歩道など、屋外でも起こるらしく、そういう時は必ず人の気配がなくなるのだそう。
 そして迷った人々が元きたところへ帰還する直前には、いつも朗らかな初老の女性と出会うのだとか。

運転手:「怖いことはないんですよ。いっとき迷っちゃうだけでね。磁場っていうんですかね、それが狂うのが関係してるって言う人もいます。ただ、それとおばさんとが、どんな関係かは分かりませんけどね。」

K子さんから聞いた話は以上です。















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2月24日(土)のつぶやき

2018-02-25 03:07:51 | _HOMEページ_




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日々の出来事 2月24日 月光仮面

2018-02-24 09:00:00 | A,日々の出来事_





  日々の出来事 2月24日 月光仮面





 今日は、テレビドラマ”月光仮面”が始まった日です。(1958年2月24日)
月光仮面は川内康範原作の冒険活劇で、制作は宣弘社プロダクション、監督は船床貞男、主演は大瀬康一です。
 月光仮面は、悪人にやられそうになったとき、白いターバンと白い覆面と白いコスチュームと白いマントと白いオートバイ(ホンダドリームC70)で颯爽と現れ、悪人をやっつけると去って行きます。
そのとき、たとえ相手が悪人であっても懲らしめるだけで、過度に相手を痛めつけたり殺したりしないのです。
 月光仮面は、日本で初めてテレビ向けにフィルムで撮影された連続テレビ映画です。
制作にあたっては、予算が少ないので映画会社から制作を断られ、広告会社の宣弘社が自前のプロダクションを作り、費用が掛からないようにしました。
予算を抑える工夫としては、宣弘社のプロデューサーである小林利雄の自宅の応接室を祝探偵事務所、ガレージをどくろ仮面のアジトに、また、他の場面はすべてロケで撮影されました。
 それから、月光仮面もそうですが、悪人は仮面や覆面をつけて出て来ます。
これは、いつでも代役が出来るようにしていたのです。
どくろ仮面などは、プロダクションの宣弘社の社員が演じたこともあります。
 この月光仮面は、子供たちに圧倒的な支持を受け、視聴率は最高で67.8%、平均で40%もあり、放送時間には銭湯から子供の声が消えたほどでした。
そして、何時の時代にもあることですが、風呂敷をマントにしたお調子者の子供が月光仮面の真似をして高い所から飛び降り、怪我をする事故が全国で多発、有害番組だと新聞や週刊誌から叩かれたりもしました。
しかし、叩かれたとしても月光仮面の人気は落ちる事も無く、1959年7月5日の最終回でも、42.2%の視聴率を持っていました。
 また、月光仮面の主題歌”月光仮面は誰でしょう”は、とても歌いやすい歌で子供たちに大ヒット、レコードは子供向けの歌としては異例の10万枚以上を売り上げました。











      ”月光仮面は誰でしょう”

  歌 近藤よし子・作詞 川内康範・作曲 小川寛興



ヽ( ・∀・)ノ どこの誰かは 知らないけれど
      誰もがみんな 知っている♪
      月光仮面の おじさんは
      正義の味方よ よい人よ♪
      疾風のように 現れて
      疾風のように 去ってゆく♪
      月光仮面は 誰でしょう
      月光仮面は 誰でしょう♪ヽ(´∀`)ノ

♪(´∀`)ノ゙ どこかで不幸に 泣く人あれば
      かならずともに やって来て♪
      真心こもる 愛の歌
      しっかりしろよと なぐさめる♪
      誰でも好きに なれる人
      夢をいだいた 月の人♪
      月光仮面は 誰でしょう
      月光仮面は 誰でしょう♪ヽ(´∀`)ノ

♪(´∀`)ノ゙ どこで生まれて 育ってきたか
      誰もが知らない なぞの人♪
      電光石火の 早わざで
      今日も走らす オートバイ♪
      この世の悪に かんぜんと
      戦いいどんで 去ってゆく♪
      月光仮面は 誰でしょう
      月光仮面は 誰でしょう♪ヽ(´∀`)ノ












     月光仮面



























☆今日の壺々話













秘密基地






 見上げれば、そこに青い空があった。

 俺たちがつくった秘密基地は、大抵はおしゃべりな誰かのせいで3日もしないうちに秘密基地とは呼べなくなるほど有名になったし、雨が降れば濡れたダンボールが散らばるただのゴミ置き場のような代物だった。
それでも、”俺たちだけが知ってる場所”って事に特別な意味を感じて、いつだって胸を躍らせていたんだ。

見上げれば、そこに青い空があった。

 俺たちがつくった秘密基地は、いつも誰かの持ち込んだ使い古しのオモチャやマンガや拾ってきたエッチな本が散らばっていた。
自分の家にあっても決して見向きもしないような古ぼけたものでも、秘密基地じゃ皆が目を輝かせて遊んでたんだ。

見上げれば、そこには青い空がある。
いまだって、きっとあるんだ。





















 中学に入った頃からだろうか、急に夏の色が変わってしまったように感じられたのは。
来年になればいつもの夏がやってくると思い込んでいたけど、あの夏とは別れたまま。
今も同じ家に住んでいるのに、同じ季節は巡るのに、なぜか季節の色だけが変わってしまった。
 まだ静かで涼しい早朝の坂を駆け下りて、今は封鎖されてる空き地へラジオ体操にいってた。
秘密基地はそこにつくった。
ダンボールをガムテープで繋げて、新聞紙をひいて、せんべいとかお菓子を持ち込んだ。
 ある日行ったら跡形もなくなっていた。
木の影だったが、大人の背の高さから見たら丸見えなのが、今になれば分かる。
作ったのは夏の始め、壊されたのは夏の終わりくらいだった。
あの夏の思い出はそこにあった。
 ラジオ体操の最後の日には、お母さんたちが公園で大量のカレーを炊きだして、スイカ割りとゲームをした。
景品は「宝箱」(でかい箱の小分けの切り込みを開けると中に駄菓子)の選択権だった。
皆が解散するとき、少し泣いた。
あのとき、生き生きした夏を失ってしまったような感覚が、まだ胸の中にリアルに残っている

















あの頃





 なんで雲は動くんだろう。
なんで救急車が通ると音が変わるんだろう。
海はどうして青いのだろう。
いつも不思議がいっぱいだった。

風邪をひいて学校を休んだ時に見る、朝9時からの「たのしい理科」が大好きだった。

「すごい学者になる」本気でそう思ってた。

 あの時の俺はどこにいったんだろう。
アルバムの中の、アブラゼミの羽を不思議そうに見てる俺。
なにが不思議だったのか思い出せない。

















公園






 飽きるほどに通った公園なのに、いつまでも飽きなかったのはどうしてだろうな。
思い出はなぜだか夕焼けに染まっている。
裏手の幼稚園から七つの子が流れてきて、それがさよならの合図だった。
 名残惜しそうにサッカーボールを蹴り続けるガキ共の中で、どうしても一人だけ顔が思い出せない。
いつもチョロチョロと兄貴の後を追っかけて、そんなに得意でもないサッカーに明け暮れてた。
 人一倍夢見がちで、大人になれば何でもできると思っていた馬鹿なヤツ。
そんなクソガキの顔を思い出しに、今年の夏は実家に帰ってみようと思う。



















忘れ物





 前を歩いていた小学生二人の片方が、突然立ち止まり、

「 あ!おれ、学校に忘れてきた!」
「 え?何を?」
「 将来の夢!」←たぶん宿題か何かの題名

と言って戻って行ったのを見て、ちょうど、その後ろを歩いていたオッチャンがポツリと呟いた。

「 俺も忘れてきた気がするな・・・。」
















ガキの頃






ガキの頃はバカだったなぁ。
あの頃は段ボール1つでヒーローになれたんだ。
古タイヤ転がすだけで幸せになれたんだ。
用水路を歩くだけで探検家になれたんだ。
風呂敷をマントにして空を飛べたんだ。
木に登るだけで星をつかめたんだ。
土管に入るだけで宇宙へ行けたんだ。

あの街が僕の全世界だったんだ。

ガードレールからかっぱらった反射板が一つあればウルトラマンになれたんだ。
2つあれば仮面ライダーにもなれたんだ。

毛布を被るだけで怪獣になれたんだ。
イチゴのキャンディーをなめるだけでドラキュラになれたんだ。
サングラスかけるだけでハリマオになれたんだ。
ついでにシャンプーキャップとマスクをつけるだけで月光仮面になれたんだ。
映画の下敷き買っただけで次の日話題の中心になれたんだ。
竹ボウキ2本もあれば真剣勝負ができたんだ。
なぜだか涙が止まらないんだ。


















名前






 小学生の頃、良く遊んだガケの下にコンテナを発見して改造しまくった。
近所の粗大ゴミ捨て場からえっちらおっちらいろんなの持ってきた。
椅子とか、変な木の像とか。
 レースのカーテンを拾ってきて、窓っぽいとこにつけた時は狂喜乱舞。
親に隠れていろんなことした。
本読んだり、木からミカン取ってきてみんなで食べたり。

 しばらくしたら、俺が転校することになって、みんながその秘密基地を俺にくれた。
拾ってきた板に彫刻刀で全員の名前を彫って、出入り口のところにつけた。
 一番大きく彫られているのは、俺の名前。
泣いた、学校のお別れ会では泣かなかったけどそれ見て泣いた。
今は当然もう無いだろうけど、それでもいいのだ。
俺は覚えてる。
嬉しかった。



















ひみつきち






 息子がリビングにダンボールで囲いを作った。
新しく買った洗濯機が入ってたものだ。
部屋の隅っこにあって、シーツを上から掛けて屋根まで作っている。
 正面には切込みを入れ、ドアっぽく開くようになっている。
どうやらここが入口らしい。
そこにはミミズが這ったようなひらがなで「ひみつきち」と書いてある。
 その横にはプリンターのダンボールで作った車が置いてある。
折り紙で飾り付けられ、タイヤやハンドルも貼り付けている。
ボディの横には同じくひらがなで「せるしお」と書いている。
僕が嫁によく、今度はセルシオにしようと言っていたのを聞いていたらしい。
 嫁は邪魔だから片付けてくれと頼んできた。
「はいはい」と生返事をして、そうっと中に入ってみる。
中には紙で書いた時計や、水鉄砲などが壁に掛かっていた。
横になって蹲り、「撤去反対!」と小さく手を上げて言ってみる。
「あーもう!」と少しヒステリックになって屋根を捲る嫁。
横になった僕と目が合い、僕は「すいません」と小さく呟く。

 朝になって息子が泣いていた。
「ひみつきち」を壊したのはいつの間にか僕のせいになっていた。
「せるしお」は僕へのプレゼントだったらしい・・・。
 その日は会社を休んだ。
息子も学校をサボった。
僕たちは仲直りを条件に一日中遊ぶことにした。
 「せるしお」をもう一度作った。
今度はアクセルやブレーキも作り、シートも座椅子を組み込んだ。
他にもお金を掛けずに知恵と工夫で色々作った。
男同士の共有の秘密も作った。
もちろん「ひみつきち」も・・・。

仕事から嫁が帰って来たら発狂してたけどね、うぇうぇ。





















青い橋の下






 あの半年間をこんなふうに、あらためて振り返るときが来るとは思わなかった。
俺たちの街の、あの青い橋の下の、俺たちが大人になってからつくった秘密基地のこと。

 俺たちは一緒に成人式を終えてから、1年経って二十一歳になって。
でも本気で社会に出るまでには、まだそれぞれの猶予があって。
だから、世間でいうモラトリアムってやつだったんだろう。

 秘密基地つくろうぜ、ってなったのは、そんな空白の時間が、まるで季節みたいに俺たち4人にめぐってきて、お互いにそうさせたのかもしれないって思うことがある。
 最初は川原で、街の人たちが赤い橋って呼んでる橋の下で、バーベキューとか花火とかやって遊んでるだけだったんだ。
それが地元の後輩に広まって、親に見つかって、近所でやっちゃダメ!、みたいな話になっちまったんだ。
遠くならいいのかって話だけど、まあ、親に理屈で返すのも大人気ないから。

 初めて4人で青い橋の下に行ったのは9月だったかな。
雨が降ってた。
赤い橋からちょっと歩けば隣にあったんだから、少し遠くなっただけで、実質、親の言う “近所” と変わりゃしない。
 でも、橋の下で雨を見上げながら、橋の梁の空間に人を入れないためにびっしり檻みたいに溶接された鉄棒が一本飛んでるのを見つけたときは体が熱くなった。
入れんじゃねえか、って興奮した声で言ったのは誰だっけ。
俺だった気もするし、別の誰かだった気もする。
忘れちまった。

 それからみんなで手分けして、材料をどこから集めてくるか目星をつけて、つくるのは、案外簡単だった。
ガキの頃と違って車があるから、ものの3日で大まかな部分はできちまった。
 まわりが寝静まった夜の12時ぐらいに集まって、廃材を建設資材置き場の汚れた型枠板なんかも拝借してきて、俺ともう一人が橋の裏に入って、下の二人から板を受け取って、檻の内側に敷き詰めていって、初めて “床” に体の重みをあずけるときはドキドキした。
 床ができて下の川原が見えなくなっただけで、ここは俺たちの部屋だ!基地だ!、って急に実感したんだ。
なあ、そうだったろ? 
お前も。

 でも、あれ、ぜったい怪しかった。
灯りがロウソクと防災用の自家発電ランプだけだったから、夜中に橋の下で火がゆらゆら揺れて、知らない人が見たら怖かったと思う。

 ロウソクとランプの光で照らされた部屋の中は、4畳ぐらいあった。
入り口を挟んだ向こうのスペースも同じくらいあった。
そっちは物置にしてた。
タタミとカーペットと絨毯を敷いたら、本当に家みたいになった。
 梁の鉄板が壁になって、部屋の高さは140センチはあったっけ? 
飛び跳ねるには高さが足りなかったけど、あの床は飛び跳ねたって抜けなかったと思う。鉄棒は太さ4センチはあったし、20センチ間隔ぐらいで並んでたから。
いっぺんに10人ぐらい入ったこともあったけど、ビクともしなかった。

 それからは、毎晩みんなで集まって。
朝の3時4時まで酒飲んで、カードゲームで遊んで、カセットコンロでラーメンゆでて食って、ときどき女の子と合コンの鍋パーティもやって。 
楽しかったなあ。


 その基地も冬を越して春4月になる頃には自然に終わった。
俺は結婚しちゃったし、お前は美大に受かったし。
保育士の専門学校に通ってたあいつも、まぁ、あいつは最初から雰囲気に馴染めなかったみたいだけど、みんなに嘘つくようになったり、借りた金返さなくなったりで、途中から来なくなった。

 その意味では初めから期間限定の夢っていうか、遊びだったんだ。
公園でダンボールの基地つくって遊んでた子供の頃のあれを、大人になってからもういっぺんやりたくなっただけ。

 遊びだったんだ。
やっぱり。
変な高揚感っていうか独特の盛り上がり感あったし、終わりのある遊びだってことは、みんなわかってたはず。

 え? 
あいつはまだ覚めてないって? 
親に借金つくって返せなくて勘当された、あのフリーターの。
 あいつはなぁ、寝袋持ち込んで本気で家にしてたこともあったもんな。
この前別の友達ンちで会ったら、リフォームしよう、って言ってたって。
おい待てよ、お前もやりたいのか。
美大の仲間に見せたら受けがいいからって、マジ?

 ごめん、もう俺はいい。
俺は、もうついていけない。
だって、あのことは、そんなのじゃなかったはずだろう。
また現在進行形で、おんなじように盛り返してやるなんて。

正直言っていいか。
おれはもうあそこは燃やしちまいたい。
終わりにしたいんだ。

 俺たちはいい夢を見た。
成人式の日に市長がくれた、あの防災用の自家発電ランプに、こんなの使い道ねーよッ!、って悪態ついてたのが基地をつくるのに使えて。
つくった後も、部屋の中の照明にして。
 みんなで酒飲んで遊べる場所が必要だったってのはあったにせよ、ようはガキの頃の基地遊びを思い出して、秋から冬、春にかけて、みんなで楽しい夢が見れたわけ。
それでもういいと思うよ。

 そういえば、一度だけ、そろそろ基地も終わりかなって思ってた4月後半頃に、嫁と一緒にたまたま近くを通りかかったから橋の下から基地を見せた。
そしたら、彼女が言ったんだ。

「 何やってるの。
これ、警察沙汰にならないとも限らないよ。
いい年してこんなことやってるなんて、私、あなたを疑う。
こんなこと一緒になってやるような友達と付き合ってるのも、どうなの?」

 俺が基地のことをもう終わってるって感じるのは、べつに彼女に認めてもらえなかったせいじゃない。
むしろ彼女には、何でわかってくれないんだろう、って思った。
合コンに来る女の子はみんなわかってくれたのに、なんで嫁はわかってくれないんだ、って。

 今でもそれは同じ気持ちだ。
ダンボールで作った基地に興奮してた俺が、車に乗るようになって、会社で働くようになって、結婚もした。
でも俺の中で、幼い頃の俺は、まだ生きてるんだ。
 だったら、あの基地を燃やしたい理由がわからない、って? 
俺もわからねえよ。
お前らがまだ続いてるのに俺だけ卒業しちまった成り行きを、俺自身がまだ消化しきれてないから、そう思うことはある。
 今も何かの拍子で近くに行けば、川原に下りて基地を見上げてみる。
でも、もうあの中に入ろうとは思わない。
もういいよ、って俺を止めるのは、俺の中の少年か、大人になった俺か、どっちなのかはわからないけど。


















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2月23日(金)のつぶやき

2018-02-24 03:04:39 | _HOMEページ_






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しづめばこ 2月23日 P515

2018-02-23 20:54:53 | C,しづめばこ



 しづめばこ 2月23日 P515  、大峰正楓の小説書庫で再開しました。


小説“しづめばこ”は読み易いようにbook形式になっています。
下記のリンクに入ってください。
小説“しづめばこ”



大峰正楓の小説書庫です。
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日々の出来事 2月23日 漢委奴國王

2018-02-23 09:00:00 | A,日々の出来事_






  日々の出来事 2月23日 漢委奴國王






 今日は、金印が発見された日です。(天明4年2月23日)
1784年、教科書にも載っている”漢委奴國王”の金印が、福岡市志賀島の叶崎で発見されました。




    金印物語



( 叶崎にて )


“ カツン!”


「 おい秀治。」
「 なんだよ、喜平?」
「 鍬に何か当たったぞ?」
「 何だろ?」
「 うわっ、ピカピカ光っている。」
「 金だ、金のハンコだ!」
「 ネコババ、しようか・・・。」
「 それ、ヤバイんじゃないかな・・・。」
「 じゃ、この田の持ち主の所に持って行くか。」
「 そうしよう。」


( 甚兵衛の家 )


「 甚兵衛さん、ホラこんなの田から出ましたけど・・・。」
「 ゲッ、大変だ!
 口上書を付けて、庄屋さまから郡役所に届け出なきゃ!」


( 郡役所にて )


「 何だ、何だ、このクソ忙しい時に・・・。
 あ、何だ、賀島村の庄屋の武蔵じゃないか。」
「 あ、これは奉行の津田源次郎さま。
 田から、こんなの出ましたけど・・・。」
「 おわっ、金印だ。
 う~ん、これはスゴイ物に違いない。
 漢学者の亀井南冥に鑑定を頼もう。」


( 亀井南冥の鑑定 )


「 どれどれ・・・、おっ、これは・・・。
 ”漢委奴國王”とな・・・・・。
 う~ん、後漢書の中元2年に光武帝が倭国から来た使者に金印を授けたとある。
 この金印は、それに違いない。」
「 それは重要なものか?」
「 いやいや、たいしたことはない。
 良ければ、15両で引き取っても良いが・・・。」
「 どうしようかなァ~。」
「 珍しいものじゃから、引き取りたいなァ~。」
「 でも、拾得物だから、保管しなければならないなァ。」
「 じゃ、100両出すからさァ・・・。」
「 何、100両、怪しい!」
「 しまった!」
「 藩庁に届け出るぞ。」


( 黒田の藩庁 )


「 金印を修猷館で調べさせろ!
 なになに、修猷館の教授は亀井南冥ってかァ。
 ヤバイな・・・・。
 よし、甚兵衛に白銀五枚を与えて、金印を黒田家の所有物としてしまえ。」


( 黒田家の庫裡 )


“ ぐぅ~、ぐぅ~、ぐぅ~、・・・。”(金印は眠っています。)


( 明治になって国宝に指定 )


“ えっ、俺って国宝かァ。”


( 昭和29年、第1級の国宝に再指定 )


“ 東京の国立博物館に進出だァ!”


( 昭和54年、黒田家から福岡市に寄贈 )


“ ふるさとの福岡市博物館に戻って来たぞ。
 俺って、一般公開もされているので見に来てね!
 えっ、ニセモノかもってかァ~。
 ホンモノだよっ!!”


 甚兵衛が貰った白銀五枚のうち、どれだけが秀治と喜平に渡されたかは記録に残っていません。
そして世間では、金印の発見者は”甚兵衛”と言われているのです。









          金印


















☆今日の壺々話












印鑑






 “お客さまにありがとうと言ってもらえる仕事です、日給1万円から。”
という折込求人広告を見て、行ってみるとマンションの一室。
ネームプレートは出ていない。
 チャイムを押すと、始め少しドアが開いたがチェーンがしてあるようだ。
中の男の人は、俺を確認するとチェーンを外して中に入れてくれた。
俺は来たことを後悔した。
 それから仕事内容の説明があり、人気の開運グッズの販売だという。
日給は1万円だけども、請負の歩合制の方が稼げるからこっちにしなさいと言われる。
とりあえず、先輩について見学ということになった。
 先輩はビシッとスーツを着た可愛い女の子。
足元はスニーカー、スニーカー???
営業は電車で移動するらしい。
移動の道すがら、先輩(といっても女の子)が俺に話しかける、

「 ○○君はすごくラッキーだよぉー。
この会社との出会いは運命だよ。
きっと神様が見守ってくれてるんだろうねー!」(え?)

 向かった先は、自殺で有名になったこともある某巨大公営住宅。
俺の不安をよそに、先輩は次々チャイムを押していく。
そのうち、話好きそうなお婆ちゃんが出てきて、先輩は親しげにお婆ちゃんに話しかけ、なんと家に上がってしまった。
 ドアの前で待つこと数十分、出てきた先輩はホクホク顔で、

「 売れたよぉー!」

と言うから、”なにが売れたんですか?”と聞いたら、

「 開運の印鑑だよー。
これ持ってるとねー、すごくご利益があるのー!」

“いくらですか?”と聞くと、

「 安いのは1万円のもあるけど、今日売れたのは30万円のものだよぉー!」

俺は頭がクラクラして、

「 それはお婆さんが本当に欲しいって言ったんですか、あまりこういうのは良くないんじゃないですか?」
「 どういう意味?
お婆ちゃんも、もちろんよろこんでくれたよ~。」
「 いや、これは悪徳商法じゃないですか、俺止めときますよ。」
「 ○○君はルシファーに惑わされてるんだよぉ~。
一緒に頑張ろうよー!」

 俺は先輩に背を向けて、逃げるように帰りました。
なんつーか、世の中まだ知らないことがあるなって思いました。



















ハンコ






 俺の場合はイジメなんて生易しいレベルじゃなかった。
まず、学生時代は男子だけでなく女子にまで陰湿な嫌がらせをされていた。
特にAって女は、俺の学生ライフを最も狂わせた人間だった。
 クラス全体にハブられて、ぼっち状態の俺に罵るような言葉を四六時中浴びせ掛けてきたし、下校の時はおろか、登校の時まで自宅の前でわざわざ待ち伏せをして粘着してくる徹底ぶりだった。
 男子連中から弁当を隠されて腹を空かせていた時なんか、自分の弁当を無理矢理俺に食わさせたくせに、”礼をしろ”とか言い始めて、俺の唯一の安息日である休日にそいつの買い物の荷物運びをさせられたこともある。
 高校を卒業、無事大学に進学してやっとイジメから開放されたと思ったら、同じキャンパスにそいつも入学していた事を知った時は目眩いがした。
偏差値の低いクラスのメンバーが誰も入れないような難関大学に死ぬような思いをして入ったというのに。
“あら、奇遇ね”とか言いながら、意地悪く笑ったあいつの顔は今でも忘れられない。
 結局、社会人になってからも、その女は執拗に俺をイジメてきた。
大学4年時、今度こそ確実に逃げ出すために超一流の企業へ就職すべく、廃人のような生活も送ったにも関わらず、またしても”あら、奇遇ね”と言いながらヤツは現れた。
 ちなみに、就活シーズンにそいつの顔が死人のようにやつれていたから、柄にもなく心配してやったら、”お前のせいだ”と因縁をつけられたのも覚えている。
そういえば大学受験の時も、あいつは一時期もの凄くやつれていたような気もする。
まあ、関係ないだろう。
 そして今、人の家に強引に押し入って、食事はおろか寝床すらも勝手に奪ったその女が一枚の紙切れを俺に突き付けてきた。
何だかよく分からない細かい文字が沢山書いてあって、その中にある小さな白枠にハンコを押せと迫ってくる。
 嫌がらせに使われるに違いないと踏んだ俺は、慎重にその枠にハンコを押したらどうなるかを尋ねてみた。
そうしたら、そいつは”あんたの苗字を貰ってやる”と意味不明なこと言いやがった。

“ なんだよ、苗字を貰うって?”

顔を真っ赤にしているけど、きっとアレは笑いを堪えているのだろう。
ハンコを押したら、また酷い目に合うに違いない。




















ワールドカップ






 イングランドサポに「ハンコショップアリマスカ?」と聞かれ、最初「??」と思い、「英語少しなら喋れますよ。」と伝えると、やっと判子だと理解できて、近くの判子屋さん21に連れていきました。
そしたら自分や家族の判子を作ってもらいたいらしく、「リンダ、オーウェン、アイル」を、「凛騨、王宴、愛瑠」と携帯で漢字検索しながら、当て文字もしてあげたら大変喜んでいただけました。
 一つ100円しない価格にも驚き、最終的には45人分も作成しました。
「ダフネ」という人が嫌いらしく、「変な漢字にしてくれ」といわれ、「堕負寝」にして意味を教えたら「アイツにぴったりだ!」と大喜びしました。
作ってもらってもどの判子が誰のだか分からなくなるので、一つづつ袋に名前と意味を書いてました。
 最後にスリーライオンの帽子をもらい、メアド交換とベッカムの物まねのやり方を教わりました。
お土産の判子が評判よければいいなあ。



イングランドに帰国したサポからメールが来ました。

 オハヨゴザイマス○○(私の名前)
○○が日本でしてくれた好意に本当に感謝します。
 ハンコの人気はすごい!
娘はハンコにチェーンを通し、首からさげている。
ジェイは日曜に漢字タトゥーを入れに行くとバーで叫んでいた。
ダフネも喜んでいた!意味は二人だけの秘密にしておこう。

 ただ一つ問題が起こった。
ジャパニーズレッドスタンプ(多分朱肉のことだと思う)がないので、ブラックスタンプやインクを使っているが大丈夫なのだろうか?日本でもそういう使い方をするのか?

 ○○はいつイングランドに来るのか?
娘も妻も○○が我が家に訪れる日を楽しみにしている。
イングランドナショナルチームや、マンチェスターのビデオが見たかったらいつでも言ってくれ。
 マンチェスターのシャツは持っているか?
持っていなかったら○○の名前を入れて送るから好きなナンバーを教えてくれ。

○本当にありがとう。アリガトウゴザイマス

というような内容でした。
















会社






来日中の米国人スミスさんが、

「 僕も書類にサインじゃなく印鑑を押したい。」

と言ったので、会社が作ってやったのは…。

「 酢味噌 」

















   お話“契約”








「 404号室を借りたいのだが・・・・。」

そのおかしなヤツは言った。
 妙な注文を出すヤツはよくいるが、こいつはその中でも注文も外見も飛びきり風変わりだった。
顔は浅黒くて、背はひょろんとしている。
声は無理やりしぼりだしているようなかすれ声だった。
おまけにこの暑いのに全身真っ黒なコートにくるまってやがる。

「 えーっと、何度も説明致しました通りですね。
このビルには404号室は存在しないのです。
縁起が悪いとオーナーがおっしゃってましてですね。
こちらのように。」

と言って私は見取り図を見せた。

「 403号室と405号室の間に部屋はありませんのです。」

これを説明するのは何度目だろう。

「 知っている・・・、404号室がないのは知っている。
でも借りるのだ。」

こいつは白痴だろうか?
それともどっかのやくざが因縁付けに来たのか?
冗談じゃない。
こっちはまっとうに商売してきたつもりだ。

「 何度も説明したとおりですね。
ないものはないので、貸しようがないのですよ。」
「 それは分かっている。
金は払う。
そちらは404号室を貸すと言う書類をつくって私と契約してくれればそれでいい。
部屋はなくてもいいのだ。」

こいつは、狂っている。
間違いない。
私は堪忍袋の緒が切れて声を荒げてしまった。

「 おい、あんたいい加減にしないと警察を呼ぶぞ。
冷やかしならさっさと出て行けよ。」

 騒がしくなってきたことに気づいて、所長が事務所の奥からのっそり出てきた。
むかっ腹が立っていた私は所長にいままでの経緯をまくし立てた。
私から全ての経緯を聞いた所長は、

「 お客様、詳しいお話をお聞かせ願えませんでしょうか。」

と言うと今まで私の座っていたいすに座り妙な客と話し始めた。

「 あ、申し訳ないが君は席をはずしてくれないか?」

まあ、所長の好きにさせるさ。
手に余るに決まってる。
無い部屋を借りようだなんてバカな話は聞いたこともない。
私は事務所の奥に引っ込み、所長がいつまで我慢するのかみてやろうと、聞き耳を立てていた。

「 いや、うちのものが失礼致しました・・・。」

などと所長が謝っているのが聞こえたが、やがてひそひそ声しかしなくなった。
いつ切れるかいつ切れるかと30分もまっただろうか、うとうとしかけたころ、

「 おい、君。話がまとまったぞ。」

所長に声をかけられた。

「 このお客様に404号室をお貸しする。」

バカかこの所長は?
この夏の暑さで気でも狂ったのか。

「 でも所長。ないものをどうやって。」
「 いつものとおりだ。
書類を作って手続きをとる。
お互いに404号室については納得済みである。
なんの問題もない!!」

大ありですよ。

「 オーナーにはなんと言うのです。」
「 さっき、確認をとった。
家賃さえ払ってくれるなら細かいことは気にしないそうだ。」

めちゃくちゃだ。

「 役所にはなんと。」
「 無い部屋なんだから、報告する必要はない。
黙っていればいい。」

それでも所長か。

「 問題は全て片付いたようだな・・・・、では書類を作ってくれ。
金はここにある。」

黒尽くめの男が陰気な声で言って、手元のかばんを開けると札束を取り出した。

「 はい。
直ちに作りますので、少々お待ちくださいーー。
ほら君早くして!!」

ご機嫌になった所長に言われて、私はしぶしぶこのバカな話に付き合った。
 書類を作りヤツにサインを求める。
ヤツめ、手まで真っ黒だ。
妙な筆跡で読みづらいが、名はNyoru・hatepとか言うらしい。
手続きが終わると、

「 では、邪魔したな。
これから引越しの準備があるのでこれで失礼する。」

そいつは事務所から出ていった。

「 所長、おかしいですよ、どう考えても。
変な犯罪に巻き込まれたらどうするんです。」
「 変でも変でなくてもいいんだ。
金を払ってくれるんだから別にいいじゃないか。
無い部屋を借りようなんてよく分からんが、まあ世の中にはいろんな人がいてもいいだろう。」
「 でも引越しとかいってましたよ。
どっかの部屋に無理やり住み込まれたらどうするんです。」
「 そうしたら追い出すだけさ。
貸したのはあくまでも404号室だ。
404号室ならいいが、それ以外はだめだ。」

 それから、一週間後。
退去者がでるので、件の貸しビルへ明渡と現状の確認に訪れた。
一週間前のことを思い出して4階の様子もみてみようと思ってエレベータで4階に行くと・・、そこには404号室があった。
 大方、例のヤツがどこかの部屋に無理やり住み着いて、部屋のプレートを書き換えてるんだろう。
所長め、やっぱり厄介なことになったじゃないか。

 ベルを鳴らすと真っ黒のヤツが部屋の中から現れた。

「 ああ、この間の方か・・・、何か用かな?」
「 おい、あんた何をやってるんだ。
借りるのは404号室をと言う契約のはずだぞ。」
「 見ての通り、404号室だが。
何かおかしなことでも?」

すっとぼけてやがる。

「 ふざけるなよ。
そういうことをすると警察の厄介になるぞ。
早く荷物をまとめてでていけ。」
「 残念ながら、君の考えているようなことはしていない。
よく確認して見たまえ。」

私は4階の部屋の数を数えた。
見取り図では401から405まである。
そのうち404号室は存在していないわけだから4部屋あるわけだ。
部屋が4つだからドアも4つ。
単純な計算だ。
しかし、ドアはなぜだか5つあった。

「 そういうわけだから、お引取り願おうか。」

ヤツにバタンとドアを閉められたが、こっちはどうしても納得がいかない。
やけになって他の全ての部屋にあたってみることにした。

401号室の住人
「 え、404号室はなかったんじゃなかっったって?んーーそういえばそんな気もするけど今あるってことは最初からあったんだろう。」

402号室の住人
「 404号室ですか。確かに最初はありませんでしたよ。いつのまにか出来て人がすんでるみたいですね。ちょっと変だけどまあ、特にこっちに迷惑がかかるわけでもないし・・・。」

403号室の住人
「 お隣さん?引越しの時に挨拶したけど別に普通だったよ。」

405号室の住人 
「 隣の方ですか?黒ずくめでかっこいいですよねえ。俳優さんかな。」

どういうことだ。
 他の階に行ってみると全てドアは4つだ。
4階だけ5つあるってことは404号室の分だけどっかから沸いて出てきたってことになるじゃあないか。
管理人にも聞いてみよう。

管理人
「 404号室に引っ越すって言ってきたときはなんかの間違いだと思ったけど。
あの人と一緒に4階に行ったら本当にあったねえ。
びっくりしたけど、世の中はいろいろあるからねえ。
書類もきっちりしているし、オーナーも承知だし何の問題もないだろう。」
「 何か変わったことはないですか?」
「 お客さんが多い人みたいだよ。
妙にのっぺりした顔の人が多いね。
前に仕事を尋ねたときがあるけど、相談所なんかをしてるみたいだよ。
お国の人の悩みを聞いてあげてるそうだよ。」

隣の部屋のやつらも管理人ももっと不思議がれよ。
都会人が他人に無関心というのは本当らしい。
 もう一度4階に行ってみようと思い、ヤツの部屋のベルを再び鳴らす。

「 また、あなたですか・・・。
いい加減にしていただきたいな。」
「 ちょっと、部屋の中を見せてくれないか。」
「 断る。
私は金を払ってこの部屋を借りている。
あなたに勝手に入る権利はない。」

その通りだ。
しかし、どうしても我慢できない。
 無理やり中をみてやろうとヤツを押しのけるように部屋に入ろうとした。
そのときゴツンと何も無い空間に手ごたえがあった。

“ なんだ、これは?”

何も無いのにまるで防弾ガラスでもあるようだ。

「 部屋は用も無いものが入ることを許さない。」
「 私は管理会社のものだぞ。」
「 だからと言って無断に立ち入る権利はない。」

くそっ。
その通りだ。
ヤツと問答していると、エレベータが開いて人の声がした。

「 お、ここだここだ。
え、404号室か。
あ、こんにちはー、ご注文のものを届にきました。」
「 待っていた。
この部屋だ。運び込んでくれ。」
「 はい、わかりました。」

そういうと、業者は私がはじかれた空間を何の抵抗も受けずに通り抜け部屋に入っていった。

「 おい、どうしてあいつは入れるんだ。」
「 彼は荷物を届けるのが仕事であり、ゆえに部屋に入らなければならないからだ。」

筋は通っている。
 なんとか私も用事を考えようとしたが、駄目だ。
何も思いつかない。
この場は引き下がるが、絶対に部屋の中をみてやる。
どんな手品かしれないがタネは絶対にあるはずだ。
そのからくりを暴いてやる。

 それから仕事も手につかなくなった。
なんとかヤツに一泡吹かせてやろうと、色々考えたがどうしても用事が思いつかない。
所長に声をかけられた。

「 君、最近ふわふわしているがどうかしたのかね。」
「 あ、実は」

と、今までの経緯をすべて話すと。

「 ふうむ、君それはいけないよ。
お客様のプライバシーに踏み込むようなことはしちゃいけないなあ。」
「 でも、ヤツは住んでるんですよ、404号室に。」
「 確かに不思議だが。
しかし家賃はしっかり払ってくれている。
管理会社としてそれ以上なにを望むんだね。」
「 妙だと思いませんか。」
「 思わんね。」
「 何故。」
「 金は払ってくれているからだ。」

埒があかない。

「 お客様に迷惑をかけたりするようなことがあれば、君の査定にも影響してくるぞ。
さあ、くだらないことに迷わされていないで、しっかり働くんだ。」

くだらない?
くだらないことか?
所長も管理人も他の住人もどうかしてる。

 しかし、遂に私の疑問も解ける時が来た。
一ヵ月後のことだ、

「 ああ、君。こないだの404号室の方が退去されるそうだ。
明渡しに立ち会ってくれ。」

やった。
とうとう用事が出来た。
これはケチのつけようがない立派な用事だ。
退去する時とは残念だが、必ずタネを暴いてやる。

「 くれぐれも失礼なことはするなよ。」

404号室のベルを鳴らす。

「 やあ、入らせてもらうよ。」

ドアが開くや否や足を踏み出す。

“ よし!”

今度ははじかれることもなく、すんなりと部屋にはいれた。
こんなにあっさり入れると、ちょっと拍子抜けするほどだ。

「 はやく確認をすませてくれないか・・・。」

黒ずくめのゴキブリがなんか言ってるが知ったことか。
 私はとうとう入れた部屋の中をじっくりと確認した。
何かおかしなことはないか、どこか妙なところはないかと必死に探した。
しかし小一時間も探したが、何一つ妙なところはない。
ごく普通の部屋だ。
私はすっかり困り果ててしまった。

「 参った。
降参だよ。
いったいどうやったのか、本当に知りたいんだ。
教えてくれないか?」
「 なにを・・・?」
「 この部屋だよ。
どうやって一部屋余分に繰り出したんだ。」
「 私は何もしていない。
契約だから部屋が出来た。
契約終了と同時に部屋は消える。
もう確認は済んだだろう。
私は帰らせてもらうが、あんたはどうするんだ?」

すっとぼけやがって。
何が契約だよ。
うまいこといいやがって、きっと何か秘密道具でもしかけてあるんだろう。
何がなんでも探してやる。

「 ああーーいいとも。
確認は終わったよ。
きれいなもんだ。」
「 一緒に帰らないか?」

こんな薄気味の悪いヤツと並んで歩くのなんてまっぴらだ。

「 では、お先に・・・。」

そういうとヤツは部屋を出て行った。

 それからヤツが帰ったあともひたすら部屋の中を探ったが何もわからない。
気が付けば外も薄暗くなってどうやら、もう夕方のようだ。

「 一旦帰るか。」

 私はドアをあけて帰ろうとした。
が、ドアが開かないのだ。
カギをいじくってもだめだ。
いやな予感がして窓を開けようとした。
これも開かない。
ベランダにもでれない。
 ふと時計を見る。
午後3時。
なのにどんどん暗くなっていく。
外から歩く音がする。
4階の他の住人が廊下を歩いているようだ。
ドアをたたき、

「 おーい、あけてくれ!」

と叫んだ。
住人はまったく気づかず通り過ぎる。
 そもそも何で外が薄暗いんだ。
今はまだ3時なのに、なんで暗くなるんだ。
外を見ると今までの光景と全く違っている。
今までは外に見えていたのは普通のどうってことない町並みだ。
なのに、今、外には何も見えない。
真っ暗な空間がぽっかりあるだけだ。


 それから半年が過ぎた。
ヤツの言葉が思い出される。

「 契約終了と同時に部屋は消える。」

 もしかすると、部屋は消えたくないんじゃあないのか?
契約終了ってことはつまり私が現状確認をしてこの部屋を出ていくことだ。
つまり私がこの中にいるかぎりこの部屋は存在できる。
 部屋は私を死なせたくないようだ。
備え付けの冷蔵庫の中にはいつも食料がたっぷりだ。
どういう仕組みか水もでるし、電気も通っている。

“ ここから出たい。”

私は一生このままなのだろうか・・。















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