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日々の出来事 1月31日 ジャイアント馬場

2018-01-31 08:00:00 | A,日々の出来事_





  日々の出来事 1月31日 ジャイアント馬場





 今日は、ジャイアント馬場が亡くなった日です。(1999年1月31日)
ジャイアント馬場は、新潟県三条市出身のプロレスラーです。
プロレスラーになる前は、読売ジャイアンツの投手として活動、長嶋茂雄が入団して初めてキャッチボールをした相手です。
 野球については、宿舎の風呂場で転倒して左ひじ軟骨を傷めて引退します。
その後、1960年4月に力道山に弟子入りしは日本プロレスに入団します。
ジャイアント馬場と言うリングネームは、初めてアメリカに武者修行に行ったとき、プロモーターのビンス・マクマホン・シニアが名付けました。
アメリカでは、フレッド・アトキンスにプロレスを指導され多くの大舞台で試合をし、知名度も高く“日本人として初めてアメリカで成功したレスラー”と言われています。
 1963年に力道山が死去した後、ジャイアント馬場は日本プロレスのエースとしてリングに上り、インターナショナル・ヘビー級王座を獲得、また、アントニオ猪木とのタッグでインターナショナル・タッグ王座を獲得するなどの活躍を見せました。
 1972年に全日本プロレスを旗揚げし、社長になりますが、この頃から練習量が落ち、動きがスローモーション化します。
そして、ハエがとまる水平チョップや、ロープの反動で跳ね返ってきた相手レスラーが足を上げて待っているジャイアント馬場の位置を探してカーブを描いてぶつかって行く十六文キックなどの優れた得意技を開発しました。
 この頃から、ジャイアント馬場は多くの芸人の物まねの対象となり、関根勤に“あっぽ~!”の物まねを許可したり、バラエティ番組に出たりで、そのキャラクターは親しみを持って迎えられました。
それでも、ジャイアント馬場は生涯現役を通し、社長やタレントの仕事に比重を移しながらも前座としてリングに上がり続けます。
そして、試合数は、最後にリングに上がった1998年12月5日までで、5769試合にのぼりました。
















☆今日の壺々話










ジャンアント馬場の現在






 週刊新潮2012年7/14号です。
そこには、ジャイアント馬場は十三回忌を終えて未だに墓がないという記事がありました。

 ジャイアント馬場は未だに墓に埋葬されていない。
火葬されて焼骨となり、骨壺に納められ、告別式に始まって法要を重ね十三回忌まで終えているというのに、未だに埋葬が済んでいない。

 ジャイアント馬場の奥さんといえば元子夫人です。
骨壺が埋葬されない理由というのも、その元子夫人に起因するものらしい。
元子さんとジャイアント馬場との出会いは、十代のとき。
元子さんの実家は兵庫県明石市にある大実業家であり、当事は読売巨人軍のタニマチをしていました。
それで、度々、千葉茂や川上哲治といった往年のスーパースターを自宅に招いて食事会などをしていました。
 そして、或る年、巨人軍に入団したばかりの馬場正平、後のジャイアント馬場も巨人軍の選手として招かれました。
それがジャイアント馬場こと馬場正平と元子さんとの出会いで、二人は交際を始める。
超大型投手の馬場正平は期待の選手であったものの、左肘にケガを負ってプロ野球選手を断念し、プロレスラーへと転身する。
 そのプロレスラーへの転身を機に二人は結婚を決意するが、元子さんの実家がプロレスラーに転身したことが理由で馬場との結婚に猛反対をし、結婚までには実に10年を擁しました。
二人の結婚は、元子さんの友人によると、初恋を実らせた結婚だったと言います。
二人は仲の良い夫婦である。
全日本プロレス時代の同僚の証言として、その馬場夫妻の仲の良さぶりを表すコメントが掲載されている。

“ 現役時代は全国巡業で、一年間ずっと元子さんが一緒でした。こんなレスラーは後にも先にも馬場さんだけです。”

 それで、また埋葬が済んでいないという話に戻りますが、新潟県三条市の馬場家側では埋葬に関しては元子さんに任せており、当初は元子さんが神戸に墓をつくるという話だったが、なかなか墓はつくられない。
元社長のジャイアント馬場に墓がないと知ると、全日本プロレスの関係者が“ジャイアント馬場記念館”を作って、そこにお墓を建てたらどうかという提案もしてみたが元子さんの返事はかんばしくなく、そうして、ずるずると埋葬しないという状態が続いている。
 馬場家には二人の姉が居て、そこに週刊新潮が取材すると、「馬場家としてはお墓の事は全て元子さんに任せてあるから気にしていません。元子さんと疎遠になっている訳でもなくて、盆暮れのご挨拶はしているし、こちらから仏壇の飾り物を贈ればお礼状も頂きます。元子さんがちゃんと骨壺を管理してくれていれば、言う事はありません。」と、埋葬の件は元子さんに一任している。
 では、何故に元子夫人は埋葬をしないのか? 
週刊新潮が元子夫人本人に直撃すると、元子夫人は(手元に骨壺があると)「馬場サンが近くにいるような気がして気持ちが落ち着く。」と話しました。
 どうやら、元子さんは骨壺を独占して申し訳ないと気持ちでは思いながらも、骨壺を手放せないという心境で、ずるずると年月を経過させてしまっているらしい。
それ故に、親戚や全日本プロレスという会社としても、元子夫人に対して「お墓をどうするのか? 遺骨はどうしたのか?」と催促するような無粋な真似は辞めて、元子夫人に一任することにしているようだ。
と言う訳で、ジャイアント馬場の墓はありません。















ジャンアント馬場の過去






ジャイアント馬場さん


 ジャイアント馬場さんは、中高生のころから体が大きかったので、部活で大きな運動靴を履いていました。
それで、ある日、外に置いていた自分の靴を見たら、野良猫の親が子猫たちを入れていたので、その日は靴を持たずに登校しました。
ジャイアント馬場さんは、足が臭くない、心の優しいいい人なのです。
















インタビュー




 プロレスのベルトをかけたタイトルマッチ直前の控え室で、チャンピオンがインタビューに答えた。

「 今日、何か作戦はありますか?」
「 作戦だと? そんなもんあるわけねえだろ!! 何が来ようとこの自慢のチョップでなぎ払って、ロープからラリアットをお見舞いしてその後ボコボコにしてやるのさ!!」

インタビュアーは挑戦者にも同じ質問をした。
挑戦者は答えた。
「 作戦? そんなもんねえよ! とりあえず適当に攻撃したあとチョップを喰らって、ロープからラリアットで倒されて、そしてボコボコにされるのさ!!」













Q&A





質問
ジャイアント馬場の十六文キックって、よけられないんですか?



回答

初めてスカル・マーフィに言われて出した時は相手をKOし、ミスター珍戦では相手を死なせかけたので、相手に力量に応じて自分で当たってもらうスタイルに変えました。
前田がニールキックをカカトでやったらけが人を出し、ふくらはぎでやってもクレームが続出したので、太ももの裏で当たるようにしたのと同じです。
ロビンソンとオースチン・アイドルも受けなかった気がする。
アイドルは全盛期は二度と呼ばれませんでした。


よけれません。
昨日就職した新人が社長の握手を断れますか?
よけるからには、それ以上の盛り上がりを求められます。
蹴られることが1流のあかしなのです。


もしよけてしまうと“十六文キックに恐れをなして逃げた腰抜野郎”と言われます。
あの十六文キックに耐えられない程度の身体しか作っていないとも思われてしまいます。
当然、よけられるけどよけない、が正解でしょう。
「腰抜け」「ヘタレ」「怖いならリングに上がるな」と観客全員から罵声を浴びせられるよりマシです。


「しがらみ」という魔法がかかってますので、よけられないんです。
足の裏にギャラの数字が小さく書いてあり、それを見ようとして食らってしまう、という話も耳にしたことがあります。


よけられません 魔法にかかったように吸い寄せられて行くんです。


避けたくても避けられないんです。
プロレスラーにだけ効く不思議な魔術を馬場さんは持っていて、一部の超一流のレスラーを除いて全てのレスラーはそれに逆らえずあの足に吸い込まれてしまうのです。


日本で「円」を稼ぐ事をやめようと思えば・・・。


よけられますが、馬場さんの最大の見せ場なので、よけてはいけません。













ビートたけしの昔のネタ





ジャイアント馬場

・投げた瞬間にキャッチャーをまたいでしまうため、野球をやめた。
・巨人時代、ボールを投げようとしたら捕手の森の頭を叩いてしまった。
・車のサンルーフから頭を出して運転していた。
・車の窓から顔が出ない。
・飛行機に乗る時は、両手を翼の中に入れて、腹這いになる。
・タクシーに乗ろうとしたら、左のドアから右のドアに出てしまい、乗れなかった。
・ゴルフもショートコースはパターしか使わない。
・カップインしたボールを取り出そうとしたら、グリーンも一緒に持ち上がった。
・一緒に飛行機のファーストクラスに乗った時、前の席に座っていた馬場さんがシートを180度倒したらオレの腹の部分に頭がのった。

ついでに、ウルトラマンが怪獣と戦うときの身のこなしは、ジャイアント馬場を参考にしていたと言うことです。




同様のものに和田アキ子伝説があります。



 和田アキ子伝説

・引き戸を押して開けた。
・自動ドアが10M手前で開いた。
・ため息でかがみを割った。
・草食動物を狙っている。
・女になろうとしている。














嫁の得意技





 新人歓迎会、宴会芸を求められて困っている嫁をフォローしに隣に行く。

俺「…みんな、期待してるんだから、何かしないと。」
嫁「…何かと言われても。」
俺「…僕とデュエットでもする?」
嫁「…私、歌下手です。」
俺「・・・(その下手さをみんな楽しみたいんだよ!)」

“ 場に馴染もうとしない嫁にムカっ!”

嫁は明らかにイッパイイッパイ助けるを求める視線をこちらに。
 よく見ると美形ではないが、薄幸っぽい表情が庇護欲をそそる。

俺「何でもいいんだよ、得意技とか、本当にない?」
嫁「…得意技? あ、ある!」
俺「良かった、それでやればいいんだからね。」
嫁「…でも、一人で出来ないから。」
俺「僕ができる事なら手伝うよ。」

今まで弱った感じの上目遣いが急に生き生きとした笑顔になる。
結構可愛いじゃんと思った。
 後で聞くと嫁はこの時、俺と結婚すると神様から啓示があったらしい。
何の神様か不明だけど。

嫁「お、お願いします。」
俺「えー、みなさん、いよいよ嫁さんが得意技を出すそうです!」

一同拍手、パチパチパチパチ!!!

 工場の福祉施設のたたみの部屋、嫁の指示で仰向けに寝転ぶ俺。
立ったまま俺の脚をとり、自分の脚を間に入れて、俺の脚を折り畳み、ステップオーバー、クルリと反転、勢いつけて腰を落とす嫁。
“さそり固め”が炸裂。

「 イデデデデ!!」

 小学校の時、クラッシュギャルズのファンだったそうだ。
ギャラリー大爆笑、嫁テレまくり、俺突然の事でマジに痛く、涙目。
俺はあの日ギブアップして、そのままずっと嫁の尻に敷かれている。















還暦のジャイアント馬場について思うこと
(1998年記)





ジャイアント馬場が60歳になったらしい。
1938年1月23日生まれ。
ことしは1998年だから・・・・。
うん。
確かに60歳。
還暦だ。
計算は合っている。

でも。
60歳でプロレスなんてしていいのか・・・?
法律違反ということはないか・・・?
しかも、誕生日のリングでは見事に勝利を飾っている。

あの痛々しいほど細い腕で、チョップしている写真がスポーツ紙に載っていた。
なんで勝てるのだ?

会社にいる60歳前後のおじさんたちが、
屈強な若いレスラーと闘っているところを想像してみる。


馬場さん・・・。
やっぱりそれは無理があるよ。


会社で机に向かっているだけなのに、

「 そろそろアナタは定年よ。ね、引退しなさい。」

と勧告されてしまう年齢なのだ。


赤いちゃんちゃんこ着て、
長生きしてメデタイメデタイってお祝いされる歳なのだ。
レスリングをしている場合ではないのではないだろうか。


少なくとも人間の生理に違反しているな。
アメリカだったら、訴えれば勝訴できるかもしれない。

「 見ていてスリルがありすぎる。
いつ死んじゃうか、心配でたまらない。
それ以来毎日悪夢に悩まされ、とうとう会社もやめざるを得なくなった。
ジャイアント馬場は60歳でプロレスをする、
という人間生理に違反する行為を公然とし、
私の生活をおびやかしているのだ!」

優秀な弁護士をつければ、勝てるかもしれない。
なにしろ「私がこんなにバカなのは私を産んだ両親のせいだ」という訴えが
勝ってしまう国だからな。


もちろん、プロレスにスポーツ的な面と興行的な面があるのは理解しているつもり。
馬場さんのプロレス界に対する多大な貢献も、わかる。

でも、ジャイアント馬場が60歳で勝ち続けることは、
きっとプロレス界にとっても本人にとってもイイコトではないと思うのだけど・・・。


( あ、ここらへん、熱狂的なプロレスファン&馬場ファンの方は気にしないで読み飛ばしてください。
あまり状況をわからずに書いています。)


ところで。
彼みたいに現役にこだわるタイプの人は、わりとボケやすい。
現役を引退したとたん、ガタッと気力と意欲を失って、ボケることが多いようだ。


ジャイアント馬場がボケたら、こりゃ大変だ。
“寝たきりジャイアント”になっても大変だが、
( おむつを換えるのも一日がかりだ。)
やっぱりボケた方が大変だと思う。


夜道を徘徊なんかした日にゃ、危険だ。
危険すぎる。


夜道で出会うボケた馬場ほど怖いものはない。
帰宅をいそぐ暗い夜道で、急に16文キックなど見舞われたら生死にかかわる。
いや、急にあの声で「アッポ~~!」とか叫ばれただけでも心臓発作ものであろう。
ジャイアント馬場が引退後どの街に住むか、これは要チェックである。


ちなみに、僕もボケる気がする。
すごくしっかりしていた祖父母がちょっとそうなって、父母はかなり介護に苦労していた。
ボケは遺伝もあるらしいから、父母も、そして僕も、あぶない。


僕の場合、もちろん夜道でいきなり16文キックなどはしない。
(ちなみに足は28cmなので、もしキックをしたらわりと効くかもしれない。)

ただ、
ただ不安なのは“食べボケ老人”になるのではないか、ということだ。

食べボケ。
つまり食べたのを忘れたり、食べ物の区別がつかなかったりするボケ症状。
それこそ「Chain Eating」し続けて、家族などに多大な迷惑をかける予感がしてならないのだ。


鬼ほど食べた後、食べたことを忘れてもっと食べさせろと暴れたらどうしよう。
ポトスの葉をせんべいと間違えてバリバリ食べたらどうしよう。

そして、
夜中に「夜道徘徊」ならぬ「レストラン徘徊」をしたらどうしよう。


夜中の2時ころ、シャッターが閉まったフレンチ・レストランのドアを叩いて、

「 ディナータイムですよ~! お客さんですよ~!
開店してくださいっ! 予約した○○ですよ~!
おなか減ったってば! なんか食べゆ~!
お~い! あれ?こんなところにトリュフが・・・、もぐもぐ。
うーん、これはとてもいい黒トリュフですね。」

などと、
暴れたあげく犬の糞をしたり顔で味わったりしたら、どうしよう!


どうしよう・・・・。
本当にそんなことをしそうだ。
予感が、ひしひしと、する。


いや真剣な話。
これに関してはまったく自信がないのである。

僕の引退後の住まいの周囲4キロには、
ジャイアント馬場が引越ししてこないことを、
レストランを開かないことを、
そして、なるべく犬を飼わないことを、
ここで、切にお願いしておきたいのである。















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1月30日(火)のつぶやき

2018-01-31 03:01:25 | _HOMEページ_
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日々の出来事 1月30日 買物ブギ

2018-01-30 11:00:00 | A,日々の出来事_



  日々の出来事 1月30日 買物ブギ



 今日は、服部良一が亡くなった日です。(1993年1月30日)
服部良一は、大阪市平野区出身の作曲家です。
 服部良一の音楽との出会いは、道頓堀のうなぎ料亭“出雲屋”が結成した出雲屋少年音楽隊に始まりますが、不況からこの出雲屋少年音楽隊は2年で解散、次に大阪フィルハーモニック・オーケストラに入団し、ここで音楽家エマヌエル・メッテルから作曲理論の指導を受けました。
そして、大阪でオーケストラの仕事をする傍ら、同時にジャズ喫茶でピアノを弾いていました。
その後、平行して大阪コロムビアで編曲を請け負い、徐々にレコード会社の仕事が増えて行きます。
 服部良一は、1933年に東京に進出、コロムビアの専属作曲家となります。
そして、コロムビアで淡谷のり子等にジャズやブルース、タンゴなどの風味のポピュラー曲を提供しヒットさせますが、ジャズは第二次世界大戦時、敵であるアメリカの音楽であると言う理由から服部良一は自由に作曲活動が出来なくなってしまいます。
 第二次世界大戦後は作曲活動を復活させ、笠置シヅ子の“東京ブギウギ”、藤山一郎の“青い山脈”、 灰田勝彦の“東京の屋根の下”、高峰秀子の“銀座カンカン娘”などの数多くのヒット曲を作曲しました。(作詞では“村雨まさを”の名を使っています。)
また、作曲家としては1993年2月26日、古賀政男の次に国民栄誉賞が授与されています。








       買物ブギ(歌、笠置シヅ子)
      村雨まさを作詞・服部良一作曲



ヽ( ・∀・)ノ 今日は朝から 私のお家は
      てんやわんやの 大騒ぎ
      盆と正月 一緒に来たよな
      てんてこまいの 忙しさ
      何がなんだか さっぱりわからず
      どれがどれやら さっぱりわからず
      何も聞かずに 飛んでは来たけど
      何を買うやら どこで買うやら
      それがごっちゃに なりまして
      わてほんまに よういわんわ
      わてほんまに よういわんわ ♪ヽ(´∀`)ノ

♪(´∀`)ノ゙ たまの日曜 サンデーというのに
      何が因果と 言うものか
      こんなにたくさん 買物たのまれ
      人の迷惑 考えず
      あるものないもの 手あたりしだいに
      人の気持ちも 知らないで
      わてほんまに よういわんわ
      わてほんまに よういわんわ ♪ヽ(´∀`)ノ

♪(´∀`)ノ゙ 何はともあれ 買物初めに
      魚屋さんへ 飛び込んだ
      たいに ひらめに かつおに まぐろに ぶりに さば
      魚はとりたて とびきり上等 買いなはれ
      おっさん 買うのと違います
      刺身にしたなら おいしかろうと思うだけ
      わてほんまに よういわんわ
      わてほんまに よういわんわ ♪ヽ(´∀`)ノ

♪(´∀`)ノ゙ とり貝 あか貝 たこに いか
      えびに あなごに きすに しゃこ
      わさびをきかせて おすしにしたなら
      なんぼかおいしかろ
      なんぼかおいしかろ
      お客さん あんたはいったい 何買いまんねん
      そうそう私の買物は 魚は魚でも
      おっさん しゃけの缶詰おまへんか
      わてほんまに よういわんわ あほかいな ♪ヽ(´∀`)ノ

♪(´∀`)ノ゙ ちょうどとなりは 八百屋さん
      にんじん 大根 ごぼうに レンコン
      ポパイのお好きな ホーレン草
      トマトに キャベツに 白菜に
      きゅうりに 白うり ぼけなす かぼちゃに
      東京ネギ ネギ ブギウギ ♪ヽ(´∀`)ノ

ヽ( ・∀・)ノ ボタンとリボンと ポンカンと
      マッチにサイダー たばこに ジンタン
      ややこし ややこし ややこし ややこし ああややこし ♪ヽ(´∀`)ノ

♪(´∀`)ノ゙ ちょっとおっさん こんにちは
      ちょっとおっさん これなんぼ
      おっさんいますか これなんぼ
      おっさんおっさん これなんぼ
      おっさんなんぼで なんぼがおっさん
      おっさん おっさん おっさん おっさん
      おっさん おっさん おっさん おっさん
      おっさん おっさん おっさん おっさん
      わてつんぼで 聞こえまへん
      わてほんまに よういわんわ
      わてほんまに よういわんわ
      あーしんど ♪ヽ(´∀`)ノ

こ、これは、スゴイ!!

(一部差し障りのある表現がありますが、原文で載せています。)


















☆今日の壺々話










  コンビニに買い物に行ったときの疑問





質問
「 大阪のファミマって客の身長測っているのか?
 自動ドアのところに、

 180
 170
 160
 
 ってステッカー貼ってあるのをみたんだが 。」



答え:ダフ屋(アラバマ州)
「 強盗がお金奪って逃げた時、身長の目安にするため。
 うちの近所のamapm、ローソン、セブンにもあるよ。」

「 そういや、サークルKにもあったな。」

「 常識でしょ。」

「 見たことないな・・・。」

「 うちの近くはないな
 治安が悪いところだけか?」

「 まあきっとそういうことだな。」

「 数字は書いてないくて色分けされてる場合が多いようだね。」

「 銀行の自動ドアの模様もそういう目的だったっけ。」

「 これ銀行とかの入口に観葉植物置くのもこの理由。」

「 植物だと伸びね?」

「 “植物のどのへんぐらいの高さだったか”で犯人の身長を判断するん
 だろうから、多少伸びても問題ないんじゃないの?」

「 アラバマにもそんなにコンビニがあるのか?」

「 治安が悪いところを常識の中央にしないでくれないか。」

「 過疎地以外のコンビニは、大体こうなっておりますですよ。」

「 近所の郵便局にもあったわ。」

「 とりあえず誰かamapmってのを教えてくれ。」

「 尼さんの午後、なんか卑猥だw。」

「 お前の想像力には脱帽だ。」













プログラマの買い物





“Could you please go shopping for me and buy one carton of milk, and if they have eggs, get 6!”
ある妻がプログラマの夫に「買い物にいって牛乳を1つ買ってきてちょうだい。卵があったら6つお願い」と言った。

A short time later the husband comes back with 6 cartons of milk.
夫はしばらくして、牛乳を6パック買ってきた。

The wife asks him, “Why the hell did you buy 6 cartons of milk?”
妻は聞いた「なんで牛乳を6パックも買ってきたのよ!」

He replied, “They had eggs.”
夫いわく「だって、卵があったから……」












スーパー





先日スーパーで買い物をしていると、三歳くらいの女の子が、お菓子売り場の床に寝転がって駄々をこねていた。
母親が「置いてっちゃうわよ!」と先に行く振りをしても、まったく動こうとしない。
見かねたのか、おばさんがひとり女の子に近づいて、「ほら、置いていかれちゃうよ。起こしてあげるから行こう」と言っても、起きようとしない。
母親はおばさんに礼を言って「この子ったら本当に頑固でいつも手を焼いているんですよ」などと話はじめる。
とはいえ、それなりに微笑ましい光景なので周囲の買い物客も和やかな顔で通り過ぎていく。
ひとつ手助けしてやろうか、そう考えた私は女の子に近寄り、「よし、おじさんがさらって行っちゃうぞ!」と言った。


私が警備員詰所から開放されたのは、それから2時間後の事だ。














買い物メモ





家のお母さんの買い物メモ。

・なんか野菜
・肉、豚かなんか
・なんか果物、安いもの
・漬物かなんか
・食べ物
・タマゴ、ベコーン

ベコーン・・・・、なんか凹んでいるのか・・・?















イカ焼き






うちの両親はあねさん女房。
しかし、父は威張っているし、結構横暴な人。

子供の頃、母に「どうしてパパと結婚したの〜?」と質問すると、母はいつもこう答えていた。

「 あのね、パパとママが結婚する前、二人ともすごく貧乏だったの。
ある日、買い物の帰りにお祭りがあったんで通ってみたら、屋台でママの大好きなイカ焼きが売ってたんだけど、買い物でお金使い過ぎちゃって、二人のお金合わせても一本に足りないくらいしかなかったのね。
そしたらパパが『俺が何とかする』って言って、屋台の人に『一番小さいやつをくれ!』って粘って買ってきてくれたの。
それでママは、この人と結婚しよう!って思ったんだよ。」

子供心にも感動し、そういう人と私も結婚しよう!と思っていた。

しかし先日、私は相変わらず横暴な父と派手に喧嘩をしてしまい、父が出掛けた後、母に久し振りで、

「 お母さんはどうしてあんな人と結婚したの!?」

と質問した。
と言うより、吐き捨てた。
すると、母はこう答えた。

「 あのね…本当の事言うと、お父さんが休みのたびに私の家に来てね…。
私が『もう来ないで』って言うと、『うん』って頷いて帰って行くの。
でも、次の休みの日に、気付くとうちの玄関の前に立ってて『来ちゃダメって言ったでしょ!?』って言うと、また『うん』って頷いて…、ポロポロ泣くのよ…、人んちの玄関の前で…。
周りの目もあるし、とりあえず家にあげたら、そのまま居着いちゃった…。」


“ おっ、お母さん、イカは?イカの話は!?
つーか、どこの猫の話をしてるんですか、お母さん!?”


母からは口止めされたんだが、それから数時間後に当たり前のように帰宅し、堂々と家の中に入って来た父を見て、“こうなるまでに苦労したんだね、あんたも!”と思ったら、ニヤニヤしてしまって、父に頭叩かれた。














スーパー




俺は2年前スーパーでバイトをしていた。
5時~11時までの夜間レジで、遅い時間は結構マナーの悪い客とか多かった。
俺たちバイトは女の子の方が多くて、店長からも「変な客がきたらお前がなるべく対応しろ」って言われてた。
でもそこまで問題になるような変な客は来なくて、俺自身そんな客こねえだろうと思い込んでた。
そしたら来た。
突然店の棚を蹴り始めて、大声で意味不明な言葉を叫んでた。
他のお客さんも騒ぎ出したんで、とりあえずそのオッサンとこに走った。
話を聞くと、どうやら欲しい商品が品切れだったらしい。
俺、店長→平謝りだったんだけど、それがまた気に入らなかったらしく、オッサンヒートアップして叫んだ。

「俺は○○組幹部だぞ!?」

店内が静まり返った(気がしただけかもしれないけど)。
俺でさえ聞いたことある組だったし、普段偉そうな店長さえ青い顔してるもんだから、おれマジでびびってた。 
情けない男2人だった。
そこへ現れた救世主はバイトの女の子(19歳)で、そのオッサンに、

「 すいませんが、お話は事務所のほうでお願いします。」

と言い放った。
俺と店長はヒヤヒヤ。
オッサンがまた何か言おうとしてたが先にその子が、

「 いいから来いよ。
酔って暴れて迷惑掛けるのが○○組の教育か?」

見たいな事言って、普段はおとなしい仕事もよく出来る子だったから、俺たちは声も出ないくらい驚いた。
んで、オッサンもびっくりしたらしく、最初はポカーンとしてたんだけど、急に、

「 あっ…。」

とか言っておとなしくなって、その子と事務所のほうに歩いて行った。
俺と店長も慌ててついていくと、オッサンが敬語でその子に謝ってんの!
その子組長さんの娘だったみたいで(オッサンが口にした組とは別)、その一件の後もバイトしてたけど、すごくいい子だったなぁ…可愛かったし…。













大型ショッピングモール





先日A県に新しく出来た大型ショッピングモールIに行った時の話。
買い物中、急に腹の具合が悪くなって近場のトイレに駆け込むが満室。
仕方ないから従業員用のトイレを拝借したんだ。
で、用も済ませ売り場に戻る途中、通路脇に狭い地下に降りる階段を見つけ、なぜかそれが妙に気になったんだ。
その店は地下の売り場や地下駐もなく、降り口に立入禁止の札があったのだけど、興味本位で降りてみた。
そしたら、降りてすぐに観音開きの扉があって、ちょろっと開けて中を覗いてみたら、かなり広い空間に一面お墓が並んでた。
怖いつーか、正直そこまでするぐらいなら違う場所に建ててろよと思った。













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1月29日(月)のつぶやき

2018-01-30 08:59:48 | _HOMEページ_


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日々の出来事 1月29日 ベンツ

2018-01-29 11:00:00 | A,日々の出来事_




  日々の出来事 1月29日 ベンツ




 今日は、カール・ベンツがガソリン自動車を発明した日です。(1886年1月29日)
1844年、カール・フリードリヒ・ベンツ(Carl Friedrich Benz)は、ドイツのカールスルーエ・ミュールブルクで生まれました。
 ベンツは機械技術に深く関心を持ち、、カールスルーエ工科大学で機械工学や内燃機関について学びます。
大学卒業後は、機械工場に勤めながらエンジン開発を研究していました。
 1883年、ベンツはマンハイムで、ベンツ社の母体となるベンツ&シー・ライニッシェ・ガスモトーレン・ファブリーク社を設立し、1886年に始めてガソリンを動力とする自動車を開発しました。
この自動車は、4サイクルのガソリンエンジンを搭載した三輪の自動車で、1886年1月29日、この発明に対して特許局から特許登録証が交付されました。
 また、ゴットリープ・ダイムラーも同じ年にガソリン車を開発しておりダイムラー社を設立、ライバル関係になりましたが、1926年に両社は合併し、ダイムラー・ベンツ社となりました。














☆今日の壺々話









ロールスロイス





 あるお金持ちがロールスロイスで砂漠を横断するという冒険旅行を楽しんでいた。
ところが、過酷な旅がこたえたのか彼の車は砂漠の真ん中で故障してしまい、全く動かなくなってしまう。
そこで、彼はいざというときに備えて車内に積んであった無線機を使い業者に連絡をとることにした。
 すると、やがて水平線のかなたから小型飛行機が現れて彼にピカピカのロールスロイスの新車を届け、故障した車を積み込むと瞬く間に引き上げていったのだ。
あっけにとられながらも対応の早さに感心した彼はそのまま旅を続け、無事に砂漠を横断することができた。

 さて、旅から帰って来たそのお金持ちだが、不思議なことに彼のもとにはいつまでたっても業者からの連絡や請求書が来ない。
新車を飛行機で届けてもらったのだから、さぞや高い金額を請求されるだろうと思っていたのに。
 不審に思った彼は業者に連絡してみたが、業者の方はそんなサービスはしていないという。
驚いた彼が確かに砂漠でロールスロイスが故障して・・・と説明を始めると、相手は途中でその言葉をさえぎぎってこう答えた。

「 お客様、ロールスロイスは故障いたしません。」














自動車修理工場





 友人が勤めている自動車修理工場に、アラブ系の人が二人ほどいる。
最初の一月は、なんか宗教的だなあと思える行動(祈るとか絶食とか)をしていたのに、3ヶ月もすると、会社の付き合いについてきてはビール飲んで枝豆と冷奴にはまって食いまくるわ、になったらしい。
 飲み会の最中に友人が「もうお祈りとかしないでいいの?」って聞いたら、
「メンドーニナッチャッタヨー。エダマメ美味シイカライイヨー!」と、ご機嫌で答えたようだ。
 本場の技術を学んで祖国に生かす! と張り切っていた彼らはどこへ行ったのだろうか。
ちなみに、彼らの目標は日本に家族を呼び、国籍をゲットして過ごす事だそうです。














自動車整備工場





 自動車整備工場で働いているんだけど、先日18歳で自動車免許取得3週間の子がやって来た。
物腰も柔らかく、非常に感じのいい少年だった。
車を傷付けてしまったので、修理を頼みたいとの用件であった。
 車を確認すると悲惨な光景が広がっていた。
前も横も後ろもズタズタに擦り傷、凹み。
親に買ってもらったばかりの、走行距離120kmしかない新車のレクサス。
見積もりを渡し、代車のマーチを貸してその日は帰った。
 数日後、車も完成し午後から引き取りに来る予定。
時間通りに現れ、礼儀正しい少年。
しかし、なぜか徒歩での来店・・・?
「 代車のマーチは?」と尋ねる。

「 前、ここで貰った車ですか?
あれはかっこ悪いんで売りました。」

真顔で喋りだす。
あれは代車だと説明するが、イマイチ伝わっていない。
 終いには、

「 あれはプレゼントなんじゃないですか?
もう売り払ったので手元にありません。」

愕然とした。














自動車教習所にてありがちなこと





・ハンドブレーキを引いたまま発車。


・ハンドブレーキを握ろうとしたら教官を握った。


・数日前フラれた子と同乗・・・。


・教官「半クラやって。」
オレ、三回クラクション鳴らす。


・高速、降りれなくてもう一周。


・教習所内の信号倒した。


・指導員「そこ右ね。」
俺「はい、右ですね。」
そして左折へ。


・卒研で川に落ちた。


・教官「この道なんkm/hが知ってる?」
俺「はい。40ですよね。」
教官「わかってるなら、いいんだ。うん。」
現在時速80km


・教官「気を付けて!」
俺「はい!」
教官「気をつけて!」
俺「はい!!」
教官「きをつけて!」
俺「はい!?解りましたよ」
教官「キーをつけて!」


・半クラだよ!半クラ!
と言われたのでプ プ とクラクションを半分押す感じで鳴らした


・教官「右曲がって。」
車……右折ウインカー点滅
教官「次左曲がってね。」
車……ワイパー始動


・俺が見たわけじゃ無いのだが、コース内の電柱に車をよじ登らせた女がいたそうだ。
電柱が一本だけ鉄筋むき出しで傾いていた。


・教官「右に曲がってー」
俺、なぜか左のウインカーを点灯。


・右と左を間違えておっさん教官とラブホに入りかけた。


・卒業試験で路上試験終了、教習コース内に戻る為一旦試験官に運転交代。
「運転代わるから気をつけて助手席に」
と言われ、ギアをまたいで助手席に移動。
運転席に乗り込んできた試験官に、
「どうやって席に移動した?!」
と驚かれ、試験ということでテンパっていた自分は、
「気をつけて移動しました!」
と元気よく返答。


・木々が紅葉し始めた頃の路上教習中
教官「この季節は川が綺麗だね。」
俺「へ〜、そうなんですか。」
教官「お前は前を見てろ。」


・発進しようとして、クラッチとアクセルじわっと踏んだ段階で、「シート合わせて」といわれた。そのまま、シート調整のレバーを引くと足突っ張ってたから一番後ろまで下がってわけわからん状態。



・教官より先にのってドアロックした


・田舎の教習所だったんだが、前年に田んぼに車ごと転落した事故があったらしい。
賠償金がすげぇ額になったらしく「刈入前には絶対に田んぼに突っ込むな」と講義で言われた。


・ハトを轢きました・・・。














駐車場





 もうずいぶん前の話です。
深夜のマンション駐車場、2階建て立駐の1階部分。
壁の無い開放構造だが、昼間の喧騒は無くさすがに静まりかえっている。
車を降りてロックし帰ろうとすると、どこからか子供のような声で、

「 うっうっうっ、うえぇぇぇんん・・・。」

と聞こえたような気がした。
 薄気味悪いし帰ろうかと思ったのだが、近所に公園があり勢いで走り込んでくる子供も見たことがあるので、他の車の間や下を覗きながらひと回りしてみた。
ネコの子一匹いない。水を打ったようにし~んとしてる。
 トータル5分位居たろうか。
もう帰ろうとして端っこまできたところで、

「 うぇぇぇんん・・・。」

かすかだけど今度は確かに聞こえた。

「 だれかいるかい?」

近所迷惑覚悟で大き目の声を出してみた。
そしたらちょっと間があって、

「 うわぁぁぁんん!」

と泣き声がした。

「 閉じ込められた?声出して、声!」

と大声出しながら、声のするほうの車を片っ端からコンコン叩いて探っていった。
すると、あるセダンのトランクから、

「 ここぉぉぉ・・・。」
「 わかった、わかった!もう大丈夫だよ!」

と言いつつ、よく見ると車の鍵はかかっていなかったので、慌ててドアを開けオープナーを引くが開かない。

「 ちょっと待っててね!今助けるからね!」

と言って110番通報。
 管理会社はさすがに不在だったので、そのまま119番も通報。
交番の警官とパトカー、続いてすぐ救急車と消防車が到着。
 騒ぎに気付いた近所の人が、直接地主に連絡してくれたらしくて、ほどなく地主が鍵屋を連れて到着、ほぼ同時にJAFも到着。
辺りは騒然。
赤灯が回る中でトランクはあっさり開けられ、助け出されると歓声が上がった。
いつのまにか車の持ち主らしき人もきてた。
普段から鍵はかけてないらしい。

 泣いてた男の子は元気そうだったが、念のため救急搬送され、軽い脱水症状以外は特に問題なかったとあとから聞いた。
炎天下じゃなくてよかった。
下手すりゃ死んでるよ。
 どうもこの子は遊んでいてたまたまあいたトランクに入り込み、自分でトランクを引っ張って閉めちゃったらしい。
で、内側から開けようと暗闇で探ってるうちに、オープナーを無効にするロックがかかっちゃったようだ。
 何度も助けを呼んだけど、誰も気付いてくれなかったらしい。
元々人の出入りは少ないし、深夜でもなければ周りはそこそこうるさいからね。
俺もちょっと覗いたけど、水抜き用ドレン?のメクラ蓋がなくなってて、2~3cmくらいの穴があって、酸欠は免れたみたいだった。
危なっ。
 その子の親が菓子折り持って礼に来た他、感謝状とか話もあったけど、そっちは断っちゃった。
通報しただけであと何もしてないしね。
後日管理会社から、車のロックを必ずしてくれって通知が来たけど、わかっとるっちゅうねん。
俺が一番ビビったんだから。
というわけで、特に夏の季節は、みんな気をつけてね。












呪いの赤いベンツ





 1914年6月28日、視察の為サラエボを訪れていたオーストリア皇太子フェルディナンド大公夫妻が、歓迎パレードの最中に射殺された事件、世にいうサラエボ事件です。
この暗殺事件をきっかけに、第一次世界大戦が勃発しました。
 そして、同時に、恐ろしい呪いの連鎖が始まったのです。
その時大公夫妻が乗っていた車は、当時の最新型だったベンツ540でした。
そして、そのボディーは赤く塗装されていました。
 サラエボ事件の後、この赤いベンツは、事件当時警備係として大公夫妻に同乗していたポチオレック将軍が所有する事となりました。
これが、呪いの始まりです。
 前線で指揮をとっていたポチオレック将軍は3個師団を失う大敗を喫し、前線から召還されてしまいます。
その屈辱に将軍は精神を病み、赤いベンツの所有者となってから20日後に死亡しました。
 次に赤いベンツの所有者となったのは、ポチオレック将軍の部下だったドスメリア大尉ですが、その僅か9日後、赤いベンツを運転していた大尉は、農夫2人を轢き殺した挙句に立木に激突、首の骨を折って死にました。
 第一次大戦が終わると、赤いベンツは新生ユーゴスラビアの某州知事が所有するところとなりました。
州知事は赤いベンツを修復し、愛用しておりましたが、4ヶ月の間に4回もの事故に見舞われました。
事故で右腕を失った知事は、この車は死神に取り憑かれている、と恐れおののき、赤いベンツを解体する事にしました。
 しかし、友人の医師が解体に反対したので、州知事は二束三文で赤いベンツを医師に売り渡しました。
呪いなど信じない医師は格安で手に入れた赤いベンツに大喜びでした。
しかし、半年後、路上で横転した赤いベンツの下から、圧し潰れた医師の死体が発見されました。
 赤いベンツは再び修復され、あるオランダ人宝石商のものになりましたが、1年後に再び売りに出されました。
宝石商が謎の自殺を遂げたからです。
この頃には、呪いの赤いベンツは人々の耳目を集めるところとなっており、宝石商の身に何が起こるのか、注目されていた中での事件でした。
赤いベンツはある医師に引き取られましたが、ベンツの呪いを恐れたのか、患者がさっぱり寄り付かなくなってしまったため、スイス人のカーレーサーに売却。
 現実主義者のレーサーは呪いなどは全く気にせず、アルプス・ドロミテのレースに赤いベンツを改造して出場しました。
しかし、そのレース中に横転、車から投げ出されたレーサーは首の骨を折って、即死してしまいました。
 次に赤いベンツを手に入れたのはドイツ人の実業家でしたが、僅か2日後に石壁に衝突して、死亡しました。
 いくら世の中広し、好事家多しといえども、さすがにここまで来るとおいそれと手を出す人もいなくなり、赤いベンツに買い手はなかなかつきませんでした。
 しかし、物好きというのはやっぱりいるようで、今度はサラエボの農場主が赤いベンツのオーナーとなりました。
呪いの噂を良く知る農場主は、運転には最大の注意を払い、数ヶ月が経っても事故一つ起こしませんでした。

「 なんだ、やっぱり呪いなんて無かったんだ。」

と、そう思い始めた農場主でしたが、ある朝突然エンストして動かなくなった赤いベンツを修理工場に運ぼうと、通りがかりの荷馬車に引いて貰って街に向ったところ、赤いベンツのエンジンが突然かかり、赤いベンツは暴走を始めました。
赤いベンツは荷馬車を蹴散らして、農場主と荷馬車を引いていた農夫を即死させ、自らも道路下に転落してしまいました。
 それでも修理工場まで運ばれてきた赤いベンツを、よせばいいのに、修理工場の経営者が買い取りました。
経営者は、因縁つきの車をそのまま乗る気にはならず、赤い塗装を青に塗り替えましたしかし、そんな小手先では呪いが鎮まる筈も無い。
ある日、結婚式に参列する為、友人4人と”青い”ベンツを飛ばしていたところ、突然車が暴走し、対向車に正面衝突!!乗っていた経営者と友人達合わせて5人の命が失われました
 その後、再び修理されたベンツですが、もはや買い手は無く、オーストリア政府が接取して、ウイーンの博物館に展示される事となりました。
 博物館の案内係のブルナーはこのベンツを大切に管理していましたが、第二次大戦が勃発すると、連合軍の爆撃で博物館は崩壊してしまいました。
そして、瓦礫の中からは、赤いベンツの残骸どころか破片一つ見つからず、ブルナーの遺体も発見されずじまいだったそうです。
長い長い旅を経て、ここでようやく、赤いベンツの呪いは終わりました。



ウイーン軍事史博物館所蔵のベンツ。(赤くないけど・・・?)




と言う訳ですが、何故か現在も展示されているベンツです・・・・。













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1月28日(日)のつぶやき

2018-01-29 03:07:36 | _HOMEページ_
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日々の恐怖 1月28日 高校球児の朝は早い(10)

2018-01-28 19:09:37 | B,日々の恐怖




  日々の恐怖 1月28日 高校球児の朝は早い(10)




 俺が考え込んでいると、父は言った。

「 な、言っただろ。
あの老婆は生きているんだよ。
おまえが見たり聞いたりしてるのは、幽霊じゃないんだよ。
幻覚なんだよ。
おまえがそれを認めないと、いつまでも幻覚を見聞きすることになるんだ。
きちんと自分と向い合ってみよう、なっ!」

 それから三日間、同じように老婆を見に行った。

“ 老婆は生きてる。
それは間違いない。
と言うことは、幽霊は出ない。
あれは幻覚、なのか・・・・・。”

 病院にもきちんと通うようになり、薬もきちんと飲んだ。
そして、老婆の声は次第に聞こえなくなり、いつしか聞こえなくなった。
俺が聞いてた声、見た姿は幻覚だった。
 まさか、あれほどはっきりと聞こえるものとは思わなかった。
思い出すと、当時の自分は明らかにおかしかった。
でも、自分で自分のことをおかしい、とは思えないんだ。

“ 自分は正しい。
まわりがおかしい。”

 これくらいのことで、そこまでおかしくなるか、と思う人もいるかもしれないけれど、神経の細い人は案外簡単におかしくなってしまう。
俺はあれ以来、幻覚は見ないし、聞こえない。
 その後、俺は野球部に復帰した。
当然、高校球児の朝は早い。
ただ、老婆の出没する辺りは避けることにした。













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日々の出来事 1月28日 スーパーマン

2018-01-28 11:00:00 | A,日々の出来事_




  日々の出来事 1月28日 スーパーマン




 今日は、ジェリー・シーゲルが亡くなった日です。(1996年1月28日)
ジェリー・シーゲルは、スーパーマンの原作を作った人です。
スーパーマンは、ジェリー・シーゲル(脚本)とジョー・シャスター(作画)のコンビが創り出し、1938年、DCコミックス社のアクション・コミックス創刊号で初めて出版されました。
 このスーパーマンがアメリカン・コミックス界に与えた衝撃は強烈で、その後2年間で、ほとんどのアメリカン・コミック出版社がスーパーヒーロー物のシリーズを発表することとなります。
そして、スーパーマンは世界中で熱狂的に支持され、世界で最も有名なキャラクターとなりました。
普段は冴えない主人公が、スーパーヒーローに変身して活躍するパターンは多くのストーリーで使われています。












☆今日の壺々話








スーパーマンの呪い





・ジョージ・リーヴスは1951年の映画『スーパーマンと地底人間』と、続いて連続テレビドラマ『スーパーマンの冒険』でスーパーマン役を演じた。1959年6月16日、結婚を数日後に控えた日のこと、リーヴスは自宅でショットガンによる射殺死体となっているところを発見された。

・1978年の映画『スーパーマン』でスーパーマンの赤ん坊時代を演じたリー・クイグリーは、1991年3月に、有機溶媒の吸入により14歳で亡くなった。

・1980年代の映画『スーパーマン』四部作でスーパーマン役を演じたクリストファー・リーヴは、クロスカントリー競技中に落馬して首を骨折し、半身不随となった。2004年10月10日に、リーヴは彼の健康状態に起因する心臓発作により亡くなった。

・スーパーマンの恋人ロイス・レーンとしてリーヴの相手役を務めたマーゴット・キダーは、激しい双極性障害に陥り、1996年4月に数日間失踪した後に、偏執症の発作を起こしている状態で警察に保護された。

・1993年のテレビシリーズ『新スーパーマン』でクラーク・ケントとロイス・レーンの上司ペリー・ホワイトを演じたレーン・スミスは、2005年4月に筋萎縮性側索硬化症であるとの診断を受け、2005年6月13日に病死した。

ただし、悪役は、みんな元気です。











スーパーマン






 昔、高度な文明を持つクリプトン星は崩壊の危機に瀕していました。
この星のジョー・エルは、息子であるカル・エルをカプセルに乗せ地球へ脱出させます。
そして、カル・エルが脱出直後、クリプトン星は宇宙から消え去ります。
 このカプセルは、アメリカ合衆国カンザス州スモールヴィルに到着し、子供のいないケント夫妻に拾われ、カル・エルはクラーク・ケントと名付けられ育てられます。
成長したクラーク・ケントは、自分の能力を世の中のために役立てることを誓い、スモールヴィルから大都会メトロポリスへ上京します。
そして、クラーク・ケントは、大学卒業後、デイリー・プラネット新聞社に入社し、新聞記者に身を隠しながら世の中の悪と今日も戦っているのです。


(大都会メトロポリスの街角にて)

“ タタタタタタタタタ!”

「 あらっ、人が走って来るぞ。
 どうしたんだろう?
 あの~、どうしたんですかァ~?」
「 ハア、ハア、ハア、・・・・・。」
「 何か、お探しですか?」
「 そうだ!
 もう、三日も探しているんだ、ハアハア。
 何処を探しても見当たらない!」
「 何をですかァ~?」
「 電話ボックスだ!」
「 あ~、今、みんな携帯を持ってますからねェ・・。
 田舎の方に行けば、あるんじゃないですかァ。」
「 そうか、田舎か・・・。
 よし、分かった、急げっ!」

“ タタタタタタタタタ!”

一年後

「 最近、スーパーマン、見ないよなァ?」
「 何処に行ったのかなァ・・・・?」













新聞記者






 ある新聞記者がカンサスのド田舎の農夫を取材した。
どうにもネタが無く、その老いた農夫なら何かおもしろい経験をしているのではないかと思ったからである。
まず、記者はこう尋ねた。

「 あなたはこちらに長いこと住んでいますが、何かとてもハッピーになった出来事があれば教えて下さい。」

農夫は少し考えて答えた。

「 ああ、いつだったか近所の羊が道に迷ってな、わしらで捜索隊つくって羊を捜しだしたことがあった。
見つけた羊はみんなで盛大にファックしてから連れて帰ったなあ。」
「 そんなの記事にしたらクビにされます。
じゃあ他にもっと、こう、みんながハッピーになった出来事はありませんか?」

農夫はまた少し考えて答えた。

「 そうそう、いつだったか近所のべっぴんな娘が道に迷ってな、わしらで捜索隊作った。
羊よりでかい代物だから、捜索隊の人数もずっと多かった。
もちろん、見つけた娘はみんなで盛大にファックしてから連れて帰ったとも。」
「 そんなの新聞にのせたら編集長のクビが飛びます。
じゃあ、ハッピーな話はもう結構ですから、何かとても悲しかった出来事はありませんか?」

農夫は途端にうなだれ、黙ってしまった。
少しして、絞り出すような声で言った。

「 いつだったか、わしは道に迷ってしまってなあ。」












ヒーロー





 アメリカのある地方に、野球観戦の大好きな目の見えない少年がいました。
少年は大リーグ屈指のスラッガーである、○○○選手にあこがれていました。
 ある日、少年はその選手へファンレターを送ろうと思い、母親に自分の言いたいことを伝えて手紙を書いてもらいました。

「 ぼくは、めがみえません。
でも、まいにちまいにち、あなたのホームランをたのしみにしています。
しゅじゅつをすれば、めがみえるようになるのですが、こわくてたまりません。
あなたのようなつよいこころがほしいです。
ぼくのヒーローへ。」

 少年のことがマスコミの目にとまり、二人の対面が実現することになりました。
カメラのフラッシュの中、ヒーローと少年はこう約束します。

“ ヒーローは、今度の試合でホームランを必ず打つ。
そして、その次の日、少年は手術を受けることを。”

 しかし、運命の試合の日ヒーローは1打席目も、2、3打席目もホームランを打つことが出来ませんでした。
迎える最後の打席。
2ストライク3ボールと、追い込まれたヒーロー。
二人のことを、ラジオや新聞で見た多くのファンが、スタジアムで固唾をのんで見守り、また少年自身もラジオの中継を祈る思いで聞いています。
 しかし、ピッチャーが投げた最後のボールは、大きな空振りとともに、キャッチャーミットに突き刺さりました。
全米から大きなためいきが漏れようとしたその時、スタジアムの実況がこう伝えました。

「 ホームラン!月にまで届きそうな、大きな大きなホームランです!」












ヒーロー





 小学生の頃、無茶をする奴がヒーローだった。
給食でスイカが出ると、限界まで食う挑戦が始まり白い部分まで食ってた。
最後は皮まで食った奴がヒーローになった。
 後日、給食に「ゆで卵」が出た。
僕は今日こそヒーローになろうと思い、「俺は噛まないで飲み込むぜ!」と言って丸ごと飲み込んだ。
しかし、そんなことは他のクラスメートも楽々クリアーして次のステップに進んだ。
 「俺は殻ごと食うぜ!」と言った奴が殻ごとバリバリ食い始めた。
クラスの視線はそいつに集中し、今日のヒーローそいつに決まりかけた。
だが、僕もこのまま引き下がれない。
何かないか考えた。
 ゆで卵に付ける塩としてアジシオの瓶が数本用意されていたので、「俺なんて、このアジシオを一気しちゃうもんね!」と言って、内蓋を外しアジシオを一気に飲み込んだ。
焼けるように喉が熱かったが、涙目になりながら牛乳で流し込んだ。
苦しそうな僕の姿を見て、クラスメートは賛辞を送った。
そして、僕は今日のヒーローになれた。
 しかし、5時間目の授業中に急に具合が悪くなってきた。
ヒーローが保健室に行くのはまずいと思い、必死に耐えたが限界だった。
僕は机の上に吐いてしまった。
そしたら、先程食べたゆで卵が丸ごとゴロンと出てきた。
その日から、僕のあだ名は「ピッコロ」になった。

 中学校に入学した頃、スラムダンクが大流行していた。
もちろん僕も学年の半数以上の生徒と共に入部届けを出した。
顧問もあまりの入部希望者の多さに困っていたが、「先生、バスケがしたいです」と三井バリに泣き出す奴が居たので、渋々ながらも全員の入部が認められた。
 しかし地元では一応、強豪校だったので練習も厳しく、次々と部員数は減っていった。
だけど僕は根性でバスケを続けた。
身体も大きくなり、地元じゃちょっとは名の知れた名センターとなった。
 そして3年になった時、キャプテンに指名された。
僕は、これを機に髪型を角刈りにし、ダンクを決める時は必ず「ウホッ!」って叫んだ。
そんな努力の甲斐もむなしく、僕のあだ名は「ピッコロ」のまま。











ヒーローインタビュー





―今日もまた一機撃墜でしたね。
電柱:「そうですね。自分の仕事をこなしたまでですよ。」


―けれど今回はなぜ怪我で留めたのでしょうか?

電柱:「彼はまだ若いので立ち直って欲しかったんですよ。それに怪我と言ってもアゴ骨折ですからね。恐怖心は植えつけられたと思います。」


―詰めが甘いという批判もでていますが?

電柱:「我々の仕事は電力供給の補助とDQNの討伐です。しかし、ただ裁きを下すだけではなく、生き残った者の口から語られる体験によって周りの人々に注意と警告が周知されればと思っています。彼もまた悲惨な体験を語り継ぐ一人となるでしょう。」


―最後になにか一言お願いします。

電柱:「我々の仲間はどこにでもいる。君たちがルールに従うかぎり我々は無害な置物にすぎない。しかし、ルールを踏み外したとき我々は君らにとって冷酷な裁きを下す存在になることを忘れないで欲しい。そう、我々は決して見逃さないのだ。」












タイムレンジャー





 数年前の話。
俺、キャラクターショーやってた。
デパートや遊園地で仮面ライダーとか戦隊モノとかのショー。
で、その日はN○Tの社員慰労会イベントで「未来戦隊タイムレンジャー」ショーをやりにいったのよ。
 俺は悪ボス(マイク持ってショーを進行する悪役。子供と遊んで「お前の母ちゃんきれいか?」とかのたまう人)で出演だったから、ショー終了後の握手会はスタッフとして動き回ってた。
 ほんで握手会も無事終わり、タイムレンジャー五人を控え室に誘導して、後片付けをしてた。
そしたら、俺の所にショーの担当者とは別の担当者が来て、

「 あの~、すみませんが、どうしてもタイムレンジャーに会いたい子供がいるので、写真撮らせてもらえませんか?」

 まぁ、ショー終了後にクライアントや関係者から写真撮影をお願いされるっていうのは日常茶飯事なので、

「 あぁ、いいっすよ。
んじゃあ、タイムレンジャー呼んでくるんで、その子をここに連れて来て下さい。」

と言い残して控え室に戻った。(一般の客には知られない様に)
 で、タイムレンジャー連れて指定した場所に戻ってみるとその子が来てた。
年は3歳~5歳位の男の子。
でも、その子普通とはちょっと違う子で、歩行器に乗って歩いてる。
まぁ、歩いてるっつっても歩けてないらしく、お父さんが手を繋いで支えてあげてる。
で、俺もタイムレンジャーも動揺しちゃって。
 そしたら、その子お父さんの手を離して、自分で歩いて来たんだ。
右手をタイムレッドに伸ばしながら。
必死になって、タイムレッドに向かって歩いてくるんですよ、ゆっくりと。
 タイムレッドのとこ来たら、レッドに抱き締められて、その子すっごい嬉しそうな顔してんの。
表情もあんまり作れないらしく、喜んでるのかよくわかんない顔だったけど、あれは絶対に喜んでる顔だった。
 で、ふと横見たらお母さんが静かに号泣してる。
お父さんも目に涙溜めながら「○○くん、よかったね」って。
それ見たら俺の目も真っ赤になっちゃって。
 で、タイムレンジャーと握手して、写真撮って。
その子、帰る時ずーっと後ろ振り返りながらバイバイしてるんだよね、必死に。
その家族が帰った後、担当者にも「本当にありがとうございました」って頭下げられた。
 この現場の帰り道、タイムレッドやってた親友と、「あぁいうの弱いんだよね」としんみりしちゃって。
ぶっちゃけこの時、この仕事に限界を感じてたんだけど、この事があったので身体が続く限り子供達の為に夢を!って決意して今にいたるんだけど。
最近、特撮ヒーローがイケメンだとかで盛り上がってるけど、やっぱりヒーローってかっこいいなって思った。
 あの時のボク、タイムレッドに会えて嬉しかったですか?
元気分けて上げられましたか?














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1月27日(土)のつぶやき

2018-01-28 03:03:33 | _HOMEページ_
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日々の出来事 1月27日 野口雨情

2018-01-27 11:00:00 | A,日々の出来事_




  日々の出来事 1月27日 野口雨情




 今日は、野口雨情が亡くなった日です。(1945年1月27日)
野口雨情は、茨城県多賀郡磯原町出身の詩人です。
生家は水戸徳川家藩主の御休息所である“観海亭”で、廻船業を営む名家に生まれました。
 野口雨情は少年時代より作詞をし、回覧雑誌へ掲載するなど文学的素養に富んでいました。
その後、早稲田大学に入学、坪内逍遥に学び、就職は小樽日報で新聞記者をしており、そのときの同僚は石川啄木でした。
そして、少しの休憩を置いて斎藤佐次郎により創刊された“金の船”で復活、童謡を次々と発表し数多くの名作を残しました。

代表作を並べますが、たくさん知っているものがあると思います。

“赤い靴”、“七つの子”、“シャボン玉”、“雨降りお月さん”、“こがね虫”、“あの町この町”、“十五夜お月さん”、“証城寺の狸囃子”、“兎のダンス”、“俵はごろごろ”。


     赤い靴

   赤い靴はいてた
   女の子
   異人さんに
   つれられて
   行っちゃった

   横浜の埠場から
   船に乗って
   異人さんに
   つれられて
   行っちゃった

   今では青い目に
   なっちゃって
   異人さんの
   お国に
   いるんだろう

   赤い靴見るたび
   考える
   異人さんに
   逢うたび
   考える


 赤い靴は、静岡県清水市の岩崎きみ の哀しい物語をモチーフにして作詞されました。
岩崎きみ は未婚の母である岩崎かよ の娘で、母親の再婚とともに北海道の開拓農場へ入植します。
しかし、開拓生活の厳しさから、岩崎きみはアメリカ人宣教師のヒュエット夫妻に養女として託されることになります。
 その後、ヒュエット夫妻がアメリカに帰国するとき、岩崎きみは結核に罹っておりアメリカに連れて行けず、東京麻布の孤児院に預けられてしまいます。(当時、結核は不治の病と言われていました。)
そして、岩崎きみは孤児院に預けられたまま、結核のため9才で亡くなりました。
しかし、母親はこの事実を知らず、岩崎きみはアメリカで幸せに暮らしていると思ったまま生涯を終えたと言う話です。





質問

「 “異人さん”を“いい爺さん”とか“ひい爺さん”とか思っている人はいませんかァ~?」

世の中に、ホントに、こう思っている人はいるのです。













☆今日の壺々話











とっても怖い童謡たち





     しゃぼん玉



 しゃぼん玉とんだ 屋根までとんだ
 屋根までとんで こわれて消えた

 しゃぼん玉消えた 飛ばずに消えた
 うまれてすぐに こわれて消えた

 風 風 吹くな
 しゃぼん玉とばそ

 作詞したのは野口雨情。
彼は30過ぎてから結婚したのだけれども、なかなか子宝に恵まれなかった。
やっと授かったと思った子どもも流産してしまった。
雨情の悲しみ様と言ったら、それはそれはすごいものだったそうだ。
そんなときに作った詞が「しゃぼん玉」だと言われている。
「うまれてすぐに こわれて消えた」という辺りに露骨に書かれていることからも分かるだろう。
しゃぼん玉遊びに、生まれてくることのできなかった子どもへの思いを託しているのである。 





   通りゃんせ



 通りゃんせ 通りゃんせ
 ここはどこの 細通じゃ
 天神さまの 細道じゃ
 ちょっと通して 下しゃんせ
 御用のないもの 通しゃせぬ
 この子の七つの お祝いに
 お札を納めに まいります
 行きはよいよい 帰りはこわい
 こわいながらも
 通りゃんせ 通りゃんせ


 天満宮に子供を捨てに行く唄。
捨て子が余りに多いため、誰も拾わず見殺しにしていた頃、天満宮の境内で捨てられた子供だけは神社が拾って育てたという噂が広まって、みんな捨てに行った。
 警備の人間もそれを分かっているから中々子連れの女を通そうとしない。
で、子供の七つのお祝いにお札を納めに行きます、と嘘を言って捨てに行く。
行きは子連れだからよいが、帰りは「子を捨てた母親」のレッテルを背負って帰るから「怖い」、でもそうしなければ親子共々飢えて死んでしまう。
だから怖いながらも通りゃんせなんだと。






 かごめかごめ



 かごめかごめ
 籠の中の鳥は
 いついつ出やる 
 夜明けの晩に
 鶴と亀が滑った
 後ろの正面だあれ?


「かごめ」はそのまま篭め、つまり「閉じ込めろ」
「かごの中のとりは」・・・籠の中の虜(とり)は
「いついつ出やる」・・・いつとも知れない(出てくることはないという暗喩)
「夜明けの晩に」・・・目隠しされて出てくる
「鶴と亀がすべった」・・・長寿の逆だから寿命を待たずして死ぬ
「後ろの正面だあれ?」・・・目隠しされた身には後ろも正面もないが、真後ろには首切り役人が立っている。

・・・つまり昔の罪人が刑死する歌です。

怖いですネ!















あめふり






 誰もが一度は耳にしたことがあるだろう童謡の1つに、“あめふり”ってのがある。
僕は子供時代、その歌が嫌いで嫌いでたまらなかった。
 小学校にあがる少し前、母は僕の入学式に出席することができないままこの世を去った。
車での買い物の帰り道、軽トラックと正面衝突をして、軽トラックの運転手ともども即死だった。
覚えているのは人の大きさをした大きな布の膨らみと、それにすがりつきながら「痛かったろう、痛かったろう」と大声で泣き喚く父の後ろ姿だけ。

あめあめ ふれふれ かあさんが じゃのめで おむかい うれしいな
ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン

 ちょうど事故で母が死んだ日も、路面が滑りやすい雨の日だった。
この歌が雨の日の給食時間に放送で流れると、保育園に迎えに来てくれた優しい母の顔を思い出し、僕は耳をふさいだ。
 その日もそんな雨の日で、ごたぶんに漏れず給食時間の放送からはあの歌が流れていたと思う。
朝の天気予報では晴れマークが出ていたので、傘を持ってくるのを忘れた僕は、下校のときのことを想像するたび憂鬱な気分になっていた。
 母の件のせいにするつもりは毛頭ないけれど、その頃の僕はおせじにも可愛い子供ではなかった。
当然友達なんかいないから傘に入れてくる人なんかいるはずないし、父は仕事で今日も遅いから、まさか僕の傘のために仕事を抜け出して迎えに来てくれるはずもない。
むしろ当時の僕は本当に可愛くなくって、
“もし父がそんな風に迎えに来てくれたとしたら、一体どんな顔をしたらいいんだろう。”
なんていう風に、子供らしくないネガティブな悩みかたをしていたのを覚えている。
 でもそんな悩みなんかもとから不必要で、結局父が迎えに来てくれることはなかった。
当然だ。片親で子供一人を学校に通わせるのは今思えば楽なことではない。
大工であった父はその日も屋根の上で雨に濡れながら家族のために必死に働いていたんだろう。
 どんどん強まっていく雨足と、ぽつりぽつりとクラスメイトが減っていった薄暗い教室は、今思い出しても寂しい気分になる。
一度寂しいと思うと、その寂しさはどんどん膨らんでいくもので、そんな時に母の顔を思い出してしまった僕はもうどうしようもなかった。
 もしお母さんがいてくれて、傘をさして迎えにきてくれたら、この雨もどんなに楽しいだろう。
そう考えたとたん、涙がぽろぽろこぼれてきて、僕はまだクラスメイトもちらほら残っている放課後の教室で泣き出してしまった。
 それに気づいたクラスメイト達も何事だとこっちをうかがいはするが、もちろんなぐさめてはくれない。
やりきれなさと寂しさで胸がいっぱいになっていたところへ、担任の先生が声をかけてくれた。
 当時僕の担任の先生というのは、結構なお年の女性の方で杉本先生といった。
ぽっちゃりした体型と人懐っこい笑顔に派手めな眼鏡で、生徒からはおばあちゃん先生なんて呼ばれていたけど、本人はむしろその呼び方に愛着を感じているらしく、微笑みながら応対していたように思う。
 どしゃ降りの雨がふる教室のなかで、小学校2年生の子供が泣きじゃくりながら事情を説明する言葉なんて、一体どれだけ聞き取れただろうか。
先生は膝をおって同じ高さまで顔をもってくると、僕の背中を優しくさすりながら「そうね、そうね」と独特の九州なまりであいづちを打ってくれていた。
 僕がやっと泣き止むと、杉本先生は僕に「そんなら先生と一緒に帰ろうか」というと、やっぱり派手めな赤いチェックのはいった小さな傘を差し出した。
途中、杉本先生の家にあがらせてもらい、色んな話をした。
 「今度から雨の日は先生と一緒に帰ろう」と言ってくれたのが、僕は嬉しくてたまらなかった。
なんだかんだで恥ずかしさも伴い、一緒に下校したのはそれっきりだったけど、僕はそれからは雨がそれほど嫌ではなくなっていた。
 杉本先生、お元気にしてらっしゃいますか?
僕は今年、夢だった教師になることが出来ました。
先生に報告に来ました、なんていう言い訳を抱えて、実家に帰省した折にはご挨拶に伺わせて頂きたいと思っています。














赤い靴






 小学校4年のときのこと。
当時、俺は仲良しグループの中で楽しく遊んでいた。
 仲良しグループとは、俺、俺の親友のKと、TとR(どちらも女)の4人。
この4人は小2~3と連続で同じクラスになり、席も何回か近くなったりして、自然と仲良くなった。
小4でKとTとはクラスが離れてしまったが、それでも放課後に、皆で廊下で待ち合わせしてよく遊んでいた。

 ある夏の暑い日、いつものように放課後廊下に集まって、今日は何して遊ぶかを話し合った。
少しして、Kが窓の向こうを指さして言った。

「 あの高いマンション行ってみない?まだ行ったこと無いよね?」

そのマンションは15階建て。
ここらの町の中でも一番高さのあるマンション。
 当時のここらのマンションは、住民以外でも自由に出入りでき、よくこのグループで、近くの色んなマンションに行っていた。
だが、あの高いマンションは少し遠く、友達も一人も住んでいなかったので、何か近寄り難い感じだった。
 するとRが言った。

「 あそこはダメだよ…。」

意味深に言ったものだから、Kは「何で?」と勢いよく返した。

「 よくわからないけど…。
親から『あそこは行っちゃダメ』って言われた。」

そうRは言った。
 俺は何がダメなのか気になり、「 何だよ、それ。行ってみようよ!気になるじゃん。」と言って、全体を行く雰囲気に促した。
するとRは、「 んじゃうちイイや…ごめんね。」と言って先に帰った。
TはRが帰った事を少々気にしていて、行ってみたい的なことも言っていたが、気を遣い、結局Kと2人で行くことにした。


 そのマンションまでは3kmぐらいあっただろうか。
着いたときは、もう、時間は遅く、夕暮れ時になっていた。
それに、道のりが遠かったので、少々足がくたびれていた。
 いつもマンションを探検する時は、エレベーターを使わず階段で一番上まで上がり、徐々に階段で降りていたが、この日は疲れていたので、上へはエレベーターで行き、上から階段を降りながら探検しようという事になった。
しかし、Kが「疲れたから休もう」と言い出したので、探検の前に、エレベーターホールの奥にあるベンチで一休みする事にした。

 10分ぐらい学校の話など色々していたら、2つあるうち片方のエレベーターが1階へ降りてきた。
エレベーターはベンチから斜め前の少し離れたところにあり、扉は開いたが誰も出て来なかった。
 あれ?と思って、俺がトコトコ歩きエレベーターを覗きに行ったら、エレベーターの中、ベンチから死角になったところに、真っ赤な女物の靴が揃えて置いてあった。
人は誰も乗ってない。
 俺は不思議に思って、Kを呼びにベンチに戻った。
んで、Kに、その赤い靴を見せようとした。

「 靴、靴!」
「 何?」

しかし、次に2人でエレベーターを覗きに行くと、何故かその赤い靴が無くなっていた。

「 あれ・・・、さっきはあったのに・・・・。」
「 見間違えじゃネ?」

少し奇妙に思いながらも、まあ、いいか・・。
で、2人で15階までそのエレベーターで上ることにした。

 このエレベーターの停止階は1・3・5・8・11・14で、停止階以外の階に行く時は、最寄りの階から階段で行く形になっている。
俺は最初「あれ、14階しかないのか?」と言ったら、Kがそう教えてくれて14のボタンを押し上に昇る。

「 どうして15階まで、エレベーターを作らなかったんだろ?」
「 さあ、知らない・・・。」

Kの返事に期待してもムダだった。

 エレベーターは、どんどん上に上がる。
エレベーターの扉の窓からは各階のフロアが見え、上から下に移動して行く。
それで、5階の停止階を過ぎる時だった。
通り過ぎる一瞬、向こうにさっきの赤い靴が置いてあるのが見えた。
それは、通路にこちらを向いて二つキチンと並んでいる。
 俺が「あ!さっきの…!」と言った時には、5階を完全に通り過ぎていた。
Kが「何?」と聞き、俺は「さっき1階で見たはずの赤い靴が5階にあったんだ!」と言ったが、Kは俺が何を言っているのか分からない様子で、信じないというよりは“どうでもいい”という反応だった。
 俺は何か気掛かりになって、8のボタンを押した。
それは、エレベーターを途中で降り、5階のエレベーターホールまで降りて、確かめようと思ったのだ。
俺はKに「先に上行って、待ってて。」と言い、8階で降りた。

 8階のエレベーターホールには何も無く、俺はそこから7、6…と階段で降りていった。
そして5階に着いて、周辺を見渡してもあの赤い靴はなかった。
 “さっきのは何だったんだろう…。”と思いながら、5階からエレベーターを呼んだ。
片方のエレベーターは『14』を表示していて、“あぁ、Kはもう着いたんだな。”と思い、急いで向かおうとした。

 エレベーターが5階に着き、俺は乗り込んで14階へ上がって行く。
途中、10階を通過したとき、俺は「うわ!」と声をあげてしまった。
エレベーターホールに、あの真っ赤な靴が揃えて置いてあったのだ。
周りに人はいない。
 エレベーターはそのまま14階に上がって行く。

「 14階にあったら、イヤだな・・・・。」

俺は何か、そのエレベーターで上に上がるのが怖くなった。
しかし、上ではKが待っている。
 14階に着いて、エレベーターの扉の窓から外を注意して見ても、靴は無かった。
俺はホッとして、エレベーターを出、階段を駆け足で15階まで上る。
 何か俺は焦っていた。
早くKに会いたい、という妙な孤独感に襲われていた。
 そして15階に着いた。
しかし、15階のどこを探してもKはいない。
もしかして、俺が遅すぎるのに腹を立てて、先に下に降りたのか。
俺は寂しくなり、Kの名前を大声で叫んだ。

「 K~!どこだ~!」

マンション中に俺の声がこだまする。
近くにいるなら聞こえるはずだ。
 しかし、返事が無い。
もっと下にいるのか。
はたまた声が聞こえていながら無視しているのか。
俺の声を聞いて通路に出て来る住人もいない。
 俺の精神状態はだんだんおかしくなっていった。
不気味な光景をたて続けに見た恐怖感。
それをKに伝えられないで一人で彷徨う孤独感。
 俺は15階にKがいないことが分かると、一刻も早くこのマンションから抜け出したいと思った。

“ マンションの外でKを待とう・・・。”

 俺は14階に降りて、エレベーターを呼び、乗る。
そして1のボタンを押し、早く着いてくれと思いながら目をつぶり待っていた。
 エレベーターは降りて行く。
俺は怖くて仕方なかった。
目をつぶりながら屈み、エレベーターの向こうを見ようとしなかった。

 そしてエレベーターが止まった。
ドアが開いたが、俺は怖さで顔を上げようとしなかった。
 すると、大人の男の声がした。

「 子供一人発見しました、小学生のようです。」
「 え…?」

顔を上げると警察官が2人、俺を見下ろしていた。
 1人は無線で会話していた。
そして、もう1人が俺に話しかけてきた。

「 どうした?何でこんな所にいるんだ?」

俺は訳がわからなかったが、安堵感からその警察官に思い切り抱きつき号泣した。
 そして、俺は、その場で警察官に色々聞かれた。
その最中に、Kが降りてきたエレベーターからノコノコ出て来て、一言。

「 何、やってんだよ!?
ずっと、待ってたのに・・・。
あれっ、警察、なんでいるの?」

 俺とKは、警察からさらに詳しく事情を聞かれた。
警察がやって来た理由は、付近の住民から、女の人が飛び降りたと通報があったから。
でも、マンションの周辺に飛び降りた人は見付からなかったし、結局、悪質なイタズラとして処理された。
 俺とKは、何故15階で会えなかったのか・・・。
そして、あの赤い靴は・・・・?













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1月26日(金)のつぶやき

2018-01-27 03:03:18 | _HOMEページ_
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日々の出来事 1月26日 三菱銀行人質事件

2018-01-26 11:00:00 | A,日々の出来事_




  日々の出来事 1月26日 三菱銀行人質事件




 今日は、三菱銀行人質事件があった日です。(1979年1月26日)
1979年1月26日、大阪市住吉区の三菱銀行北畠支店で強盗事件が発生しました。
犯人の梅川昭美は、警官と行員4人を殺害し、北畠支店に42時間立て籠もりました。
この事件については、散弾銃の流れ弾に当たって倒れている行員が死んだかどうか確かめるため他の行員に耳を切らせたり、狙撃されないよう女子行員を裸にして盾代わりにするなどの梅川昭美の卑劣な行動が報道されています。
 この篭城が終わるのは、事件発生から42時間後の1979年1月28日午前8時41分です。
常に猟銃を身に付けていた梅川昭美は、猟銃を机に置き新聞を読み始めましたが、疲れからウトウトし始めました。
その様子を見た機動隊狙撃班の6人が、下から50cmほど開いていたシャッターの隙間から突入し一斉に射撃、梅川昭美は首を撃たれて死亡しました。
この突入の様子はテレビ中継され、NHKの視聴率は42.3%もありました。
 梅川昭美は、1949年広島県大竹市で生まれ、工業高校を1年で退学、窃盗などの常習犯で地元を追われ香川に引っ越し、15才でアルバイトをしていた土建業者の家に強盗目的で侵入し23才の女性を殺害しました。
そして、この罪で特別少年院へ送致され、退院した後はバーテンや飲み代の取り立てなどを職業としていました。
梅川昭美は、30才の誕生日を前にして、“俺もおふくろを心配させたらあかん年齢やし、一旗あげたる”と意気込み、その結果“銀行強盗”をしてしまいました。

あのォ~、“一旗あげたる”って言葉の意味は・・・・・・・。
















☆今日の壺々話









慣れるまで大変だった
   (2009/09/10)






今ジャパンネット銀行からメールが来たのだが、なんと初の支店増設するらしい。
いままでは、
001 本店営業部
のみだったんだが、
002 スズメ支店
ができるそうだ。
な、なぜスズメ?



支店一覧見てみたら増えてた。
何故鳥シリーズ?
001 本店営業部 ホンテン
002 すずめ スズメ
003 はやぶさ ハヤブサ
004 ふくろう フクロウ
005 かもめ カモメ



ふくろう支店カワユス。
三井住友銀行は、ひまわり支店がある。



セブン銀行は、口座開設した月ごとの花シリーズだよね。
私のはアイリス支店。
友達のはハイビスカス支店だった。



イオン銀行は誕生石だ。
我がダイアモンド支店には数万しか入ってない。



イーバンクの音楽支店名シリーズといい勝負かも。
ジャズ・ロック・サンバ・オペラなど色々あるよ。
私はルンバ支店。



イーバンクの支店名 慣れるまで衝撃的だったよ。
取引先への振込口座聞いたら、

客「 ダンス支店です。」
私「 (ふざけんなコノヤロー)恐れ入りますが字はどのように?」
客「 ダはダンスのダッ!」
私「 (こ、こいつ・・・)漢字だと、どう書くのでしょう?」

繁忙期に殺伐とした空気流れたよ。
知らずにごめんなさい、お客様。















USA銀行






男が銀行にやってきて、窓口の女性行員に言った。

「 くそ口座を作ってくれ。」

女性行員が言った。
「 え? なんておっしゃいましたか?」

「 耳が聞こえねえのかよ! 
このくそ銀行に今すぐ、くそ口座を作りたいっていってんだよ!」

「 申し訳ありませんが、私どもの銀行では、そのような言葉はご遠慮願いたいのですが。。。」

女性行員は窓口を離れると、マネージャのところへ行き、迷惑そうな客が来たと報告した。

マネージャは女性行員といっしょに窓口に来ると、見下した態度で言った。
「 お客様、なにか当行にご不満な点でもございますか?」
「 別にねえよ!」 男は言った。
「 ロトくじで、500万ドル当たったんだよ。 
だから、このくそ銀行に、くそ口座を作りたいんだよ!」

マネージャが言った。
「 はい、かしこまりました。 
窓口のくそ女がたいへん失礼いたしました。」















返済






 ふたりの弁護士仲間が銀行にいました。
数人の武装グループが押し入ってきて、ひとりは窓口に突進、 別のひとりは入り口を監視、もうひとりはフロアの真ん中に立って怒鳴った。

強盗:「よし!全員壁にむかって立て。持ち物をすべて出すんだ。
    金目のものはすべて、時計も、財布もだ!」

とっさに弁護士は、仲間の弁護士の手に何かを握らせた。
でも、仲間の弁護士は強盗に脅されているので手を見ることができません。

仲間の弁護士:「な、なんだこれは?」

弁護士:「お前から借りてた100ドルだよ。」














暗証番号





 銀行で窓口業務をしている親戚の話。
ある日、おばあちゃんが新規口座開設にきたので、“4桁の暗証番号を決めて下さい”とお願いしたら、えらく悩んでいた。
“おばあちゃん、明日でもいいから決まったら教えてね”と言って、その日は帰ってもらった。
 そして次の日、おばあちゃんが持ってきた申し込み用紙にはハッキリと、

『 ど・ん・ぐ・り 』

と書かれていた。
前夜のおばあちゃんの苦悩の様子が頭に浮かんできたそうです。














ATM




 ATMで思い出したけど、以前、休日に近所の銀行のATMで閉じ込められたことがある。
自動ドアがぶっ壊れたらしく、外からは入れるけど中から開かなくなった。
おばちゃんと2人で出られなくなって困った。
 とりあえず、ATM横にある備え付けのインターフォンで銀行の人に連絡取ったけど、休みのため、到着するまで数十分かかると言われた。
C級ホラーなら、凶悪化したATMにいつ食われてしまってもおかしくない。
 ちょうど、外から何も知らない別のオッサンが入ってきたため救われた。
一緒にいたおばちゃんは帰って、俺も帰ろうかと思ったけど、自分がいなくなってしまったら、そのオッサンが出られなくなっちゃうので、自動ドアの外で待っててあげた。

その時、インターフォンのスピーカーから俺の名前を呼び出す声が・・・。

「 ○○さん、いらっしゃいましたら、インターフォンに出てください!」

・・・ええ、思わず入ってしまいましたよ、人食いATMコーナーに再び。













ドライブスルー






ドライブスルーのATMを設置したときのマニュアルを作って見た。




☆男性のお客様用手順



1.ATMの位置まで車を乗り入れる。
2.車の窓を下げる。
3.キャッシュカードを挿入し暗証番号を入力する。
4.お引き出しになりたい金額を入力する。
5.キャッシュカードを取り出す。
6.窓を上げる。
7.車を発進する。







☆女性のお客様用手順



1.ATMの位置まで車を乗り入れる。
2.車をバックさせて車の窓がちょうどATMに並ぶようにする。
3.ハンドブレーキをかけてから、車の窓を下げる。
4.バッグを出し中身を助手席に全部空けてキャッシュカードを見つける。
5.携帯電話の相手に後でかけ直すと伝える。
6.ATMにキャッシュカード挿入を試みる。
7.車のドアを開け、ATMまで手が届きやすいようにする。
8.キャッシュカードを挿入。
9.キャッシュカードを正しい向きに挿入しなおす。
10.スケジュール帳の後ろに書いた暗証番号を見つけるためにバッグの中身をあさる。
11.暗証番号を入力する。
12.訂正を押し、正しい暗証番号を入力する。
13.お引き出しの希望金額を入力する。
14.バックミラーで化粧のチェックをする。
15.現金とレシートを取り出す。
16.財布を探して現金をしまうためにバッグの中身をもう一度空ける。
17.引き出した金額を書きとめておく。
18.もういちど化粧のチェックをする。
19.車を出し、1メートルほど進む。
20.車をATMまでバックさせる。
21.キャッシュカードを取り出す。
22.バッグの中身をもう一度空けて、カードホルダーを探してカードをホルダーポケットにしまう。
23.後車のいらだった男性ドライバーに意味ありげな視線を投げかける。
24.エンストした車をもう一度エンジンかけて発進する。
25.先ほどの携帯通話相手に電話する。
26.2~3キロほど運転する。
27.ハンドブレーキを解除する。




お~い、男は現金を取ってないぞ!














トラップ





 私は積み立て貯蓄をしており、その額は7桁後半。
その通帳を細々した物をパクろうとしたついでに見つけ、印鑑ごと泥棒したママ友。
銀行で現行犯逮捕され、執行猶予と併せて収監決定。
 ご自慢のマイホームとやらは更地に戻り、旦那さんと息子さんは引っ越ししますとの事。
旦那さんが、“もしお礼参りなどあったら、此方に連絡をして下さい”と、連絡先を渡され、最後の挨拶に来られました。

 ママ友は、“最後まで騙された!詐欺師!”と喚いていたので、減刑もなかったんだと。
で、通帳の届け出印と全く違う印鑑を、通帳と一緒に輪ゴムでくくって置くのは何罪になるんだろうか。













人影





 その日、わたしは夜の8:30過ぎに自宅近くのATMに行った。
次の日に友人と横浜までドライブに行く予定だったので、前日のうちに現金を引き出しておこうと思ったのだ。

 当時、わたしが住んでいた場所は田舎だったので、PM9:00にはATMは閉まってしまう。
わたしがATMに着いたのは9時ちょっと前だった。
現金を引き出すために中に入ろうとしたわたしは、ドアのガラス越しに人影が見えたので手をとめた。
どうやら、体つきの大きな男の人が先に利用しているようだ。
 ドアガラスには目隠しのスモークがはいっていたのでハッキリと確認出来ないが、先客はATMの機械の前に立って作業している様子。
中からはATM独特の機械的な女性の声で「お振込先番号を入力して下さい」と音声案内が聞こえてくる。
わたしは先客が出てくるまでATMの前で待つことにした。

 ドアの横に取り付けられたランプには、赤文字で「使用中」の表示が出ていた。
それを眺めながら5分も待ったろうか。
わたしの他にもう一人、中年の女性がATMを利用しようとやって来た。
女性は「使用中」の表示とガラス越しの先客の人影を見てからわたしの後ろに並んだのだが、いくらも待たないうちに車に乗っってどこかに行ってしまった。
他のATMを使った方が早いと思ったのだろう。

 時計を見るとPM8:50分。
早くしないとATMが閉まってしまう。
先客の男性はぜんぜん出てくる気配がない。
少しイライラしてドアをノックしたのだが、返事がない。
そこで「すいません、まだ時間かかりそうですか?」と声をかけてみた。
だが、やっぱり返答はなかった。
失礼な奴だなと思いながらドアをそっと開けてみると、ATMの中には誰もいなかった。

“ あれっ・・・?”

 ドアの外の表示を確認すると「御利用できます」の文字が緑色に光っていた。
機械の故障か、目の錯角だったのか、とにかく早く現金を引き出さないと営業時間が終わってしまうので、わたしはカードを取り出し、革の財布をATMの上に置き、「お引き出し」のボタンを押そうとした。
すると ピッ! という音と共に「お振込」画面が出て来た。

 はじめは操作を間違えたと思った。
取り消しボタンを押してもう一度やりなおすと、やっぱり「お振込み」画面が出てくる。何度やっても「お振込み」画面が勝手に表示されるのだ。
 こんな時に限って故障か?
少し焦ってそんな作業を繰り返していると、ATMの上に置いておいた革の財布が突然 バサッ と落ちた。
わたしが触ったわけでもなく、落ちるはずのない場所に置いておいたので、どれほど驚いたことか。革の財布がひとりでに滑って落ちるハズはない。
すると、今度はATMが正常に動作した。

 財布を拾い、現金を引き出して、わたしはATMを出た。
狐につままれた気分でATMを振り返ると、ドアの外の表示は「使用中」の赤文字になっていて、あろうことか、中にはさっきの男の人影があった。
 ギョッとなって目を凝らしてみたが、やっぱり中に誰かがいる。
それから、中の男はゆっくりとこちらを方を振り向きはじめた。
その時、ちょうど営業時間が終了したのだろう、ATMの電気が消え、ゆっくりとシャッターが降りはじめた。

 あの不思議な出来事は何だったのか・・・・・、単なる機械の故障だったのだろうか、それとも、目の錯角だったのだろうか。
以来、何度か同じATMを利用しているが、不思議な男の人影は見たことがない。
















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1月25日(木)のつぶやき

2018-01-26 03:02:02 | _HOMEページ_
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日々の出来事 1月25日 日本最低気温

2018-01-25 11:00:00 | A,日々の出来事_




  日々の出来事 1月25日 日本最低気温




 今日は、日本最低気温が記録された日です。(1902年1月25日)
1902年1月25日、北海道旭川市で日本最低気温の-41.0℃が気象庁の公式記録として観測されました。
しかし、その後、1978年2月17日に幌加内町母子里の北海道大学演習林で-41.2℃が観測されましたが、これは気象庁の公式記録の対象から外れていたため、旭川市の記録が公式の日本最低気温の記録となっています。
 この幌加内町母子里(ホロカナイチョウ モシリ)の町名は、町の南部を流れる幌加内川から来ており、ホロカナイとはアイヌ語で“逆に流れる”、モシリは“世界”と言う意味を持っています。
 山に囲まれた高地の盆地にある幌加内町は、10月中旬から雪が降り、翌年の4月頃まで雪の中です。
今でも最低気温は-30℃以下になり、積雪は3m、除雪後は道路の両側にこの3mの雪壁が出来ます。
 そして、この幌加内町は日本一人口密度が低い町です。( 人はいます。 )
また、幌加内町に行くと日本最低気温のアピール看板も立っています。( 日本最寒地到着証明書の記念カードもあります。 )

 地球温暖化から言って、日本最低気温の記録が塗り替えられ、他の地域になることはもう無いと思われます。
















☆今日の壺々話










吹雪の話




 昔、連絡網ってのがありました。
もう20年以上前の事ですが暴風雪警報が出ていて、

「 明日は吹雪なので、10時登校。 」

と言う連絡が途中から、

「 明日は吹雪なので、ジャージ登校。 」

に伝わってしまい、3人の生徒が普通に八時半からジャージ姿で教室にいました。
















【お悩み相談】ずうずうしい野良猫の話





Q:通ってくる野良猫が大変にずうずうしく、困っています。
始めは家の外でみゃーみゃー鳴いて飯をねだる程度だったのですが、冬の寒空、外は辛かろうと一度玄関に泊めたのが運の付き。
それから飯をねだるだけでなく、毎日家の中に入ってきて、6kgの巨体でホットカーペットを占領するようになりました。
 野良の分際で、根が生えたようにホカペから離れず、
家人が部屋のドアを開け閉めすれば寒いと鳴き、
部屋から人がいなくなれば誰か来いと鳴き、
人が来たら来たで撫でろと鳴き、さらには膝に乗せろと要求する始末。
 それでいて、自分が外に出たいときにはとっとと窓際に行き、夜中だろうが家人が寝てようが窓を開けるまで鳴き倒します。
こやつ、一度私にとっ捕まって去勢手術されたのですが、拉致して痛い思いさせた相手の前だというのに腹出して寝ている姿を見ると、野良としての矜持はどうしたと小突きたくなります。
どうすればよいでしょうか。

A:あなた以外はみんな気づいていると思いますが、その猫は野良猫ではなく、あなたの飼い猫です。いままでどおり、やさしく世話してあげてください。


















寒い日の猫の話





出刃包丁を持った猫が、俺に包丁を突き付けてきた。

『 おかねちょうだい。』
「 お金? いくら?」
『 さんぜんえん。』
「 いいよ。はいどうぞ。」
『 固いのも。』
「 小銭のこと?全部持てるかな、何買うの?」
『 カリカリ。いっぱい買う。』
「 そっか。でもお店まで遠いよ?一緒に行く?」
『 …うん。』
「 包丁は重いから置いておきなよ。後で取りに来ればいいから。」
『 うん。』

「 カリカリいっぱい買えてよかったね。」
『 …うん。』
「 それ重いでしょ?ずっと持って歩くの?」
『 重いの…。』
「 家置いておく?好きなとき取りに来ればいいじゃん。」
『 …うん。』
「 外寒いよ ?帰るの?」
『 …。』
「 泊まる?」
『 …そうする。』



寒い日の犬の話


ある日俺が道を歩いていると、犬に包丁を突きつけられた。

犬「 お金!お金もってる!?お金出してくれる?!ねぇ!お金!」
俺「 お金?いくら?」
犬「 わかんないから!僕犬だからいくらとかわかんないから!」
俺「 いいよ。はいどうぞ。」
犬「 本当!?大丈夫なの!?かたいのはいらないの!?」
俺「 小銭のこと?全部持てるかな。何買うの?」
犬「 なまにく!いっぱいかう!」
俺「 そっか。でもお店遠いよ?一緒に行く?」
犬「 よかったぁ!じゃあ行こうね!一緒に行こう!」
俺「 包丁は重いから置いておきなよ。後で取りに来ればいいから。」
犬「 そうなんだぁ!置いていっていいんだぁ!じゃあ後で取りに来ればいいんだねぇー!」

俺「 なまにくいっぱい買えてよかったね。」
犬「 うん!買えたよ!いっぱい買えた!」
俺「 重いでしょ?それずっと持って歩くの?」
犬「 だいじょぶだから!僕犬だから重たいのだいじょぶだから!」
俺「 家においておく?好きなときとりくればいいじゃん。」
犬「 本当!?埋めないでいいんだ!?じゃぁ置こうね!なまにく置こう!」
俺「 外寒いよ?帰るの?」
犬「 だいじょぶだから!僕犬だから寒いのだいじょぶだから!」
俺「 泊まる?」

犬「 ・・・・かたじけない、貴殿の御親切痛み入った。
かくなる上は拙者此度の御恩決して忘れず生涯貴殿に忠節を誓い、
誠心誠意お仕え申す所存で御座る。」
















冬山の話






 学生時代、友人が所属していたT大学山岳部に、代々伝わるという話である。
ある年の三月、T大学山岳部は新人三人を連れて、東北のY岳で冬山訓練を行った。
三月といえば、平野ではそろそろ新芽も顔を出し、春の息吹が聞こえ始める季節だが、高山はいまだ深い雪の世界である。

 メンバーは新人が三人、リーダーと副リーダーの三年生が二人。
合計五名の雪山山行だった。
先頭に副リーダーが立って、膝まで埋まる雪をラッセルし、真中に新人の三人を挟んでリーダーが隊列の最後尾についた。
新人三人も高校時代から山に通っており、高山ではないが冬山も経験していたので、快調なテンポで五人は雪の尾根を登った。

 ところが五合目を過ぎた辺りから灰色の雲が空を覆い始め、六合目を過ぎて雪が舞い始めた。
天気はなおも下るという予報もあったため、パーティは小休止を取り、先に進むかあるいは撤退するか、リーダーと副リーダーがミーティングを行ったが、結局リーダーの判断でこのまま山頂を目指す事になった。
しかし、この後、雪は本降りとなり、八合目を過ぎた頃には猛烈な風も加わり始めて横殴りの吹雪になり、一歩前に進むことも困難な状態に陥ってしまった。

 前を歩く部員の姿も確認出来ないようなホワイトアウトに近い状態の中で、リーダーは山頂を目指す決断をしたことに後悔しながらも、前を歩く新人たちに懸命に声を掛けながら前進を続け、周りが暗くなり始めた午後の四時過ぎに何とかY岳の肩にある避難小屋に辿り着いた。

 雪に埋まった扉を懸命にこじ開け、先頭を歩いていた副リーダーが雪崩込むように避難小屋の中に飛び込む。
わずかに遅れてふたり目… そして三人目…。
さらに五分ほどして、最後尾を歩いていたリーダーが、全身雪まみれになってが避難小屋に入ってきた。

「 あれ? Kはどうした? 」

副リーダーが荒い息を吐きながら、防寒着の雪を払っているリーダーに聞いた。

「 なに? やつは来ていないのか!? 」

副リーダーの顔を見返して、雪を払っていたリーダーの手が止った。

隊列の四番目、つまりリーダーの前を歩いていたはずの新人のKがまだ小屋に着いていない。

「 ちくしょう!はぐれたか!? 」

そう叫ぶと、リーダーは座る間もなく再びピッケルを手にして小屋を飛び出した。

「 俺もいくよ! 」

副リーダーが後を追おうとして腰を上げた。

「 おまえは新人達の面倒をたのむ。
なあに、ここに着くほんの十分くらい前に後ろから声を掛けて、前にKがいる事を確認しているんだ。
すぐに見つかるさ。」

 そう言って副リーダーを避難小屋に戻し、リーダーは目を開けるのも辛くなるような猛吹雪の中に姿を消した。
避難小屋に残った三人が一言も声を出す事もなく固唾を飲んでいると、二十分程して小屋の入り口でドーンという大きな音がしていきなり扉が開き、吹雪といっしょに白い塊が避難小屋の中に転がり込んできた。

 それは新人のKだった。
肩で荒い息をし、それでも自力で立ち上がり、

「 すみません、途中で道を逸れてしまったようです。」

と荒い息といっしょに吐き出すように副リーダーに言った。
小屋の中にホッとする空気が流れたが、それも一瞬のことだった。

「 おまえ、リーダーに会わなかったのか?」

新人のひとりがKに聞いた。

「 リーダーがどうかしたのか?」

Kが聞き返す。

「 さっき、おまえを探しに飛び出して行ったんだ。」
「 えっ!?」

 ニ重遭難。
四人の頭に不吉な言葉が浮んだ。
副リーダーと新人のひとりが装備を整えて、小屋の扉をこじ開ける。
ブワァァ~~~ッ!
もの凄い勢いで風と雪が小屋の中に吹き込み、目を開ける事もできない状況だ。
何より小屋の外は、すでに日が落ちかけていた。

「 くそ・・。」

副リーダーは歯を食いしばって小さく唸ると、ゆっくりと小屋の扉を閉めた。

 県警、山岳部OBも加わって懸命に捜査を続けたにもかかわらず、山に緑が戻り、山道にフキノトウが顔を出すころになっても、リーダーの遺体は見つからなかった。
特に避難小屋の肩から西に切れ込むK沢は入念に捜索されたが、遺体はおろかその痕跡すら見つけることが出来なかったのである。

 捜査が打ち切りになった翌年の三月、同じY岳でリーダーの追悼山行が計画された。
その年の冬は例年に比べ雪は多かったものの、天候は比較的安定していた。
その日も、見上げれば空は真っ青の快晴で、昨年のメンバー四人を含めた総勢八名のT大学山岳部員たちは隊列を乱すこともなく、時間通り、昨年事故があった避難小屋に登り着いた。
登頂は明日果たす事とし、その日は避難小屋の中でリーダーの思い出話に部員それぞれが花を咲かせた。

 冬の山に夜の帳が下り、そろそろ寝ようかと部員達が目をこすり始めた午後の十時過ぎ、 避難小屋の外の様子が突然変わりはじめた。
風が避難小屋の板壁を叩きはじめ、その中に雪も混じリ始めたようだ。

「 おかしいなあ。天気図を見ても今日明日、天候は崩れないはずなんだが。」

そう言って立ち上がったひとりが、小屋の扉を薄く開けて叫び声を上げた。

「 うわぁ!完全に吹雪いているよ。」

慌てて扉を閉める。

「 これは、明日は上まで登れないかもしれないな。」

つぶやきながら白い息を吐き、ランタンを囲む車座の中に戻って来る。
 その時、車座の中で酒を飲んでいたひとりがぽつりと言った。

「 おい、誰かこっちにくるぞ。」

今まで賑やかに語り合っていた部員達が口を閉ざし、いっせいに避難小屋の扉を見た。
すると、聞こえてくるのだ。
吹雪の音に混ざって、雪を踏みしめる山靴の音が。

ザッ…ザッ…ザッ…ザッ…。

 夜の十時過ぎだ。
こんな時間に冬山に登ってくるヤツなどいるわけがない。
しかし、の靴音はだんだんと大きくなり、そして小屋の前で止まった。
 八人は声を出す事も出来ず、ただただ避難小屋の扉を見つめ続けた。
しばらく小屋の外は吹雪の音だけになった。

そして、山靴の音また聞こえ始めた。

ザッ…ザッ…ザッ…ザッ…。

山靴が雪を踏みしめる音が、やがて避難小屋の周りを回り始めた。

ザッ…ザッ…ザッ…ザッ…。

八人は肩を抱き合って避難小屋の真中に固まり、ただただ、その足音を耳と目で追いかけた。
 避難小屋の中の空気が凍りつき、八人の歯のなる音が小屋の中に響く。
部員たちの吐く息が白い。

『 ・・は・・かあ・・・。』

八人のうちのひとりが震える声でつぶやいた。

「 何か言っているぞ。」

耳をすますと、雪を踏みしめ小屋の周りを回り続ける山靴の音と板壁を叩く吹雪の音に混じって、微かに男の声が聞こえるではないか。

『 ・・は・・いるかあ・・・。』

何かを言いながら、山靴の音が小屋の周りを歩き続ける。

ザッ…ザッ…ザッ…ザッ…

昨年、副リーダーだった四年生が、周りの部員の顔を覗きこみながら言った。

「 おい、あれって、リーダーの声じゃないのか?」
『 Kは・・・、いるか・・あ・・・・。』

八人の耳に、今度ははっきりとその声が聞こえた。
それは昨年、この避難小屋に辿り着く直前に逸れた新人のKを探しに飛び出したまま、冬のY岳に消えたリーダーの声だった。

ザッ…ザッ…ザッ…ザッ…

『 Kは、いるかァ・・・!』

小屋の周りを回りながら、リーダーの声が吹雪の音に混じって叫び始めた。
そのうち、肩を抱き合う八人の中で、握り拳を作って懸命になにかに耐えていたKが、
堪え切れなくなって避難小屋の外に向かって叫んだ。

「 僕は無事です! ありがとうございましたァ!」

その途端、小屋の外を回っていた山靴の音がピタリと止った。

 そして、しばらく吹雪の音だけになったと思うと、避難小屋の外の山靴の音はまたゆっくりと雪を踏みしめて歩き始め、それは少しずつ小さくなっていき、やがて山の中へと消えて行った。
しばらく呆然としていた八人は、やがて我に返り、山靴の音が消えていった避難小屋の外に向かって無言のまま深く頭を下げ続けた。


 昨年あれほど、捜索したにもかかわらず、その痕跡すら見つける事が出来なかったK沢上流で、リーダーの遺体が発見されたのは雪がまだ残る五月の初めのことだった。
その遺体には不思議なほど傷みがなく、まるで何かに安心したかのように安らかな顔をしていたそうである。















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1月24日(水)のつぶやき

2018-01-25 03:04:14 | _HOMEページ_
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