日々の出来事 2月20日 ルバング島
今日は、ルバング島で小野田寛郎が発見された日です。(1974年2月20日)
小野田寛郎は、太平洋戦争が終結したにも拘らず、29年間フィリピンのルバング島で戦闘を続けていました。
陸軍少尉で情報将校であった小野田寛郎は、現地で手に入れたトランジスタラジオを改造して短波受信機を作り、米軍倉庫から奪取した金属製ワイヤーをアンテナに使って、日本や世界の情勢を分析していました。
日本の情勢については、皇太子御成婚や東京オリンピックから、日本は繁栄しており、戦争に負けたとは思っておりませんでした。
小野田寛郎は、終戦直後の日本はアメリカの傀儡政権であり、実は満州に日本の亡命政権があると考えました。
そして、朝鮮戦争へ向かうアメリカ軍機を、満州に亡命した日本政権の反撃に対するもの、また、ベトナム戦争へ向かうアメリカ軍機を見て、いよいよアメリカは日本に追い詰められたと考えました。
これは、小野田寛郎が所属していた諜報機関での作戦行動予定と矛盾が無いことから起こった勘違いで、その結果、29年間戦い続けることになってしまったのです。
1972年1月にグアム島で横井庄一元伍長が発見され、フィリピンにも元日本兵がいると言う噂は流れていました。
フィリピンで何回か捜索はされましたが、ゲリラ戦の小野田寛郎は見付かりません。
この小野田寛郎と初めて接触したのが冒険家の鈴木紀夫です。
鈴木紀夫は、”戦争の生き証人と直接会って話してみたい”とルバング島を訪れ、偶然に小野田寛郎と出会います。
そして、鈴木紀夫は”直属の上官の命令解除があれば任務を離れる”との小野田寛郎の言葉を得、元上司の谷口義美少佐から小野田寛郎の任務解除と帰国命令が下り、ようやく小野田寛郎の戦争は終わりました。
小野田寛郎は、帰国した半年後に次兄のいるブラジルに移住して小野田牧場の経営を始めます。
そして、凶悪な少年犯罪が多発する現代日本社会に心を痛め”小野田自然塾”を主宰、また講演活動を行うなど、日本とブラジルを往復しながら社会貢献活動を続けていましたが、2014年1月16日、肺炎のため東京都中央区の病院で死去しました。
小野田死去に際し、ニューヨーク・タイムズ紙は、“戦後の繁栄と物質主義の中で、日本人の多くが喪失していると感じていた誇りを喚起した”とし、小野田が1974年3月に当時のフィリピンのマルコス大統領に、投降の印として軍刀を手渡した時の光景を、“多くの者にとっては格式のある、古いサムライのようだった”と形容し論評しました。
なお、小野田寛郎を見付けた鈴木紀夫は、1986年に”雪男探し”にヒマラヤを訪れ、ダウラギリ峰で遭難、38才で亡くなりました。
B&Bの昔の漫才
島田洋七が島田洋八のアフロヘアに向かって叫びます。
「 小野田さ~~~ん!!」
☆今日の壺々話
ワニ
ルバング島の河口付近で釣りをしていた男のボートが転覆した。
男は岸に泳ごうとしたが、河口のあたりの岸辺にはワニがいるかもしれないと怖くなった。
岸辺を散歩している老人が見えたので、男は叫んだ。
「 岸辺の方にワニがいますか~!」
老人が返事した。
「 いや、いないよ~! もう、この辺では何年もみないよ~!」
安心した男は、岸に向かって泳ぎだした。
岸まで半分ぐらい泳いだところで、また、叫んだ。
「 どうやってワニを追い払ったんですか~!」
老人が返事した。
「 わしらはなにもしてないよ~! サメが全部食ってしまったからだよ~!」
ジャングル
探検家がアマゾンのジャングル深くを探険していたとき、突然人喰い人種の大群に取り囲まれた。
彼は心の中でつぶやいた。
「 神様、俺の悪運もつきました。」
そのとき天からひとすじの光が射し、声が響きわたった。
「 迷える仔羊よ、お前の運はまだ尽きていない。
さあ足元の石を取り、彼らの酋長の頭を殴りなさい。」
探検家は勇気をふりしぼって石をとりあげ、酋長の頭を目一杯殴った。
足元には死体が転がり、周囲には怒りに燃える人喰い人種の群れ。
探検家がどうなるかと息を殺していると、またも天からの声が響いた。
「 OK、仔羊よ、これでお前の運は尽きた。」
水木しげる
ゲゲゲの鬼太郎の作者・水木しげるは南方へ派兵された。
最前線で水木は片腕を失い、所属した大隊は全滅して、水木は後方へ移動になった。
水木が新たに配置された部隊は上官のイジメが酷く、水木は特にイジメられたらしい。
ある日、その上官がマラリアで倒れた。
水木が見舞いに行き「何か欲しい物はありませんか?」と尋ねると上官は「パパイヤが食べたい」と答えた。
比較的暇で安全な後方部隊勤務だった為、水木は空いた時間を使ってはジャングルに分け入ってパパイヤを探し、ついに立派なパパイヤの実を見つけた。
しかし、あまりに立派なパパイヤだった為、持って帰る途中で我慢できなくなり水木本人が食べてしまった。
その後なかなかパパイヤは見つからず、ついに上官は死んでしまった。
上官は死ぬ間際大きな声で「パパイヤー!」と叫んだそうだ。
陸軍特攻基地九州知覧にて
昭和20年6月6日、特攻隊員に愛された富屋食堂の横を流れる小川に無数のホタルが飛んでいた。
それを見た宮川三郎軍曹が、店主で特攻隊員の母と言われた鳥浜トメさんに、
「 母さん、お世話になりました。
明日出撃します。
私が国の為に散っても泣かないで下さい。
ホタルになって必ず帰ってきますから。
今頃、夜の9時頃に帰るので戸を少しあけておいて。」
そして翌日沖縄方面で特攻戦死。
その夜の事、いつもの様に特攻隊員でいっぱいの富屋食堂で時計が9時を告げた時、ちょっと開いていた戸の隙間から、大きなホタルが一匹すーっと入ってきて店の中を飛び回り出したのです。
店の娘たちが、
「 あ、宮川さんだ!お母さん、宮川さんが帰ってきた!」
と叫んだ。
台所から飛び出してきたトミさんはそれを見て、普段は余り涙を見せないのに号泣した。食堂にいた隊員たちも息を呑んでホタルを見つめていた。
資料館
高校卒業後、すぐに自衛隊に入隊した俺だったんだが、7月の後期教育のある日、駐屯地にある小さい資料館の掃除ってのがあったんだ。
班長の説明では、この駐屯地は元々海軍航空隊の基地で、旧日本軍の遺物みたいなのが置いてあり、駐屯地祭で一般開放されるから、それに控えた掃除をやるのが教育隊の恒例行事なんだとか。
軍オタの同期は凄い喜んでたが、俺は興味無いのでどうでもよかった。
むしろ、戦闘訓練や射撃訓練、行軍訓練やるよりラクでいいやー程度に思ってた。
んで、掃除が始まると、俺はラクそうなショーケースの中の掃除をやっていたんだが、ラップみたいなのに包まれた古い手紙みたいなのを、手にとって台から外そうとした時、シミが入って字も薄くなって読みにくいんだけど、何コレーっと読もうとしたら、何故か物凄い悲しくなり、凄い勢いで涙がボロボロと流れたんだ、字も読めないのに。
俺は日本軍信仰とか全くないので、自分でも何で泣いてるのか良く分らなかった。
というか、涙が流れ始めてから、自分が自分じゃないような変な感覚に陥ってて、その後、マッチョ同期と班付に抱えられて医務室へ運ばれたらしいのだが、その事は全然覚えていない。
ただ、同期や班付の話だと、物凄い自虐モードで、ずっと何かに謝ってたらしい。
その日の課業外、すっかり復活した俺は、キレ気味の別の班の班長に呼び出されて、色々聞かれるハメになった。
キレかかってて怖いので全てを正直に話すと、どうもその班長は心霊事例でノイローゼになるケースもあるので、調べておきたかったそうな。
班長の話だと、演習場の中にある旧日本軍時代には弾薬庫や滑走路だった場所には、日常的にいるそうで、そういった類のモノが悪さしていないか、という質問だったが、生まれてこの方幽霊なんぞ見た事ないし、そういった体験なんぞ全くないので、班長の期待にはそぐわなかったようだ。
結局、同期に下手な不安を与えると色々マズイので、俺は表面上、旧日本軍信者で、毎年終戦記念日には靖国神社に参拝してるような右翼君、という事にされた。
俺は元々大学進学の資金確保の為に入隊したので、2任期4年で退官。
昨日開かれた同期会の飲み会では、東日本大震災に派遣されてた現役組の、心霊、非心霊含めた色々シャレにならない話でどんよりしていた頃、丁度あの手紙みたいなモノを思い出して班長に聞いてみると、あの手紙は志願した特攻隊員が家族に宛てた最期の手紙で、その遺族から提供して頂いた大変貴重な資料だった。
そして、その特攻隊員の戦果は、戦果不明(班長曰く、特攻失敗)だったそうだ。
その後、班長に色々と話を聞かせてもらったのだが、旧日本軍兵士の幽霊というのは、風貌からとても怖いイメージがあるが、基本的にこちらからちょっかいをかけなければ、害のない幽霊が殆どだそうだ。
逆に、ちょっかいをかける相手に対しては、とことん容赦が無いとのこと。
そして、俺がこの体験をしたとき、班長は俺が手紙に何かイタズラをしたと思っていたようで、俺を呼び出した時は、泣いたり笑ったり出来ないぐらいシバいてやる予定だったと笑顔で言われた。
あの時嘘を言ってたら、と思うと今でも背筋がゾっとする。
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