新 ・ 渓 飲 渓 食 時 々 釣 り

魚止滝のずっと手前で竿をほっぽり
ザックの中身をガサガサまさぐる男の日記

乗り鉄ひとり旅も楽しんでいます

大人になったら、したいこと・・・函館にて

2014-06-21 12:42:51 | 旅行、食い歩き

旅はまだ終わらない。函館行き路線バスの待ち時間を利用し鴎島を散策。千畳敷では釣り人がのんびりと糸を垂れていた。江差もいい街だなあ。

  

二時間ほどバスに揺られる。乗客は数人のみ。海岸線をひた走り、右折すると緑あふれる渡島半島を横断、13時半前函館駅到着。ここにはお気に入りの店が数軒あるが、そのほとんどは夜間営業の居酒屋。ならばとて頭に浮かんだ古い大衆食堂へ足を向ける。おお、まだ健在だ!いきなり気分は孤独のグルメの井之頭五郎だ・・・久しぶりの函館だが観光客にまぎれて海鮮丼の気分じゃない。俺の脳は今何を求めている?俺の胃袋は何を入れて欲しがっている?そうだ、肉だ!肉と言っても焼き肉屋の気分ではない、もっとガツガツ喰らうような大衆的な肉を俺は今無性に喰いたがっている。それほどまでに俺の空腹感は追い込まれている・・・と、迷わずカツカレーを注文。う、うまい。うま過ぎるほどの美味さでないところがまた嬉しいのは、思い出そのままの味に再会したからだ。久しぶりの味が前よりもっと美味くなっていたならば、それはただ単に美味いとだけ表現される薄っぺらい美味さであり、その中には喜びなど無いのだ・・・と、ほぼ10年ぶりの変わらぬ津軽屋食堂であった。

   

もう一軒寄りたい店があった。『酒の丸善 瀧澤商店』の創業は戦前で北海道を代表する角打ちの銘店なのだ。観光客相手の店では活イカ一パイ1000円以上は当たり前だが、この店ではなななんと350円で食える。小ぶりだがその歯ごたえはポキポキで味も甘く、この肝がまた美味いのだ。奥尻で撮った画像をディスプレイで再生しながらハイボールを楽しむ、まさに旅の余韻に浸るには最高の時間だ。「奥尻かい、いいねえ。なまらうまかったっしょ?」と店主の言葉に、二軒の寿司屋の大将と塩ラーメンの店の親子の笑顔が浮かんだ。21年間、ずっと抱き続けた憧れの奥尻島、この旅のフィナーレにふさわしい時間だった。この満足感、達成感は一生涯消えることはない。

   

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました

 

追記 

いつもお世話になっている大切なお客様方、ささやかではありますが北海道民ソウルフードであるお土産を用意いたしました。

どうぞお気軽に店へお寄りくださいませ。おそらく、もらっても迷惑なものでしょーが。

 


大人になったら、したいこと・・・奥尻島③

2014-06-20 14:16:49 | 旅行、食い歩き

逆方面へのびる路線バスにも乗る。下り最終便だったので途中下車できるのは一箇所限り。終点から折り返す便に乗らねばならず見学時間は20分足らず。運転手の方は賽の河原をすすめたが個人的に抵抗のある場所だったので、ならばと教えていただいた宮津バス停で下車。海に突き出た要塞のような岩の上にお社が建てられており、その場所へ行くにはとってもおっかなそうな急な階段を下りてからまたとってもおっかなそうな急な階段を上るのだが、これが本当にとってもおっかなくて、どれぐらいおっかないかと言えば冷や汗がだたららと首筋を垂れるほどおっかなかった。ここにはもともと番所があったが島人が大漁祈願のためお社を建て弁天様を奉納したそうだ。おっかない急な階段を下りきった場所からの眺めは素晴らしく、でもまたおっない急な階段を上って、また下って、また上らねばバス停まで帰れないと思ったら、やはりおっかなくなった。 

ここにたてられた説明書きによれば、奥尻の名前の由来は古いアイヌ語が起源で、イクシュン・シリがイク・シリと転訛し意味は「向かう(イク)島(シリ)」 江戸時代に著された「蝦夷史」の中で初めて奥尻の漢字を当てたそうだ。う~む、現場でお勉強をしてしまった。

   

宿でくつろぐが、暗くなると無性に外出したくなるのが旅先での本能だ。カメラをぶらさげ港の外れを歩くと、沖合の漁火が水平線にあかりの線を引いていた。幻想的な夜の光景にレンズを向ける。ISO3200では画像が粗くなってしまい、露出は開放のままISO1600~800でシャッタースピードを調整しながら撮影。上手な写真は撮れなかったが、昼間といい真剣にカメラと遊べた充実感に浸ることが出来た。

ここは北の島、夜になるとさすがに寒い。冷えた体は酒であたためるのが一番、やはり呑むしかあるまい。今夜はまた違う寿司屋へと足を向ける。まずは燗酒と、そしてウニ刺しを注文。なまらうめぇ~♪ この寿司屋にはホヤ刺し、海老卵の塩漬けなど酒のアテが充実しており居酒屋使いする地元客であふれていた。ここでもいろいろな話を聞くことが出来た。道内のそこここで楽しめる三平汁はこの奥尻島が元祖あるいは発祥の地で、その由縁は昔南部藩の斉藤三平さんがこの奥尻で作った汁が道内にひろがったとのこと。次の日曜日に催される賽の河原祭りではたくさんの海の幸が振舞われ、7月のウニ漁解禁を迎えると奥尻にも夏が来るということ。島は山菜の宝庫でもあることや渓流釣りも楽しめること。イカは朝から丼ぶりでかっ込むのが最高だとのこと。そして・・・

21年前の震災のことは島に上陸してから口にすることをひかえていた。あの日あの時間、僕はこの島にいるはずだった。僕が宿泊するはずだった地区や宿の方はどうなったのか、この答えが自分の安否と一致することは間違いのないことだった。報道された奥尻の惨状を見て震えがとまらなかったあの日から、僕の島時間は止まったままだった。その時計が、この寿司屋で動き出した。その地区すべては全壊したが幸いにも亡くなられた方はいなかったと言う事実、しかしこの島でたくさんの尊い命が奪われたことも悲しい事実、軽はずみには島人の過去の部分に触れてはいけないのだ。今は素直に島時間を楽しみたいと、そう思ったら酒がなまら美味く感じた。

  

  

翌朝4時前には目が覚めていた。6時50分発帰りのフェリーに乗る。短い滞在だったけど素晴らしい思い出ができた、最高の島旅だったと思う。これから夏になるとたくさんの観光客が訪れる奥尻島。イク・シリ=向かう島と名付けられた奥尻を島人はこう呼ぶそうだ、「奥尻は、こころの島」と。

  

さて、函館さ寄って一杯ひっかけてくべかね~♪

 

 


大人になったら、したいこと・・・奥尻島②

2014-06-20 12:28:04 | 旅行、食い歩き

もう一艘は兵庫の方で、日本一周はすでに達成されたことのあるベテランだ。お二人はネットのヨット情報を介してこの奥尻でお会いしたと言うが、なんだか昔からの親友みたいだった。このお二人に混ぜていただいたのが僕。3人でバスに乗るとなんだか男三人珍道中(失礼)みたいで楽しいのだ。いつの間にか青空がのぞき、一瞬だが北海道らしい干し草ロールの風景を見ることが出来た。

青苗地区へと向かう。ここは北海道西南沖地震で最も被害の大きかった場所。津波館に寄ると係員の方から生々しい体験談を聞かせていただくことが出来た。津波に襲われたのは地震発生わずか3分後のこと。地域によっては30メートルを超える巨大津波だった。北海道にはね返されたその津波は13分後に再び奥尻を襲った。東日本大震災の津波の3倍以上の早さで時速500キロを超えていたという。青苗灯台はへし折られ、沖で火災を起こした漁船は風にあおられ着岸すると地区全体が火の海となった。残されたのは青苗岬突端の洋々美徳という塔だけ。奥尻島では200人近い方が尊い命を奪われた。その慰霊碑として『時空翔』はたてられた。毎年7月12日の夕陽がそのくぼみに沈むよう設計されたという。 

緑の中で風にそよぐ黄色い野の花は復興した奥尻に似合っていた。優しくて、強くて、へこたれずに生きているのだ。  ※勾玉はとても貴重な出土品で、あとの説明は忘れました。

  

   

宿のある奥尻地区まで戻る。奥尻島のシンボルである鍋釣岩で記念写真後昼食の店を探す3人。魚介系の店は開いておらず大衆食堂に入ると、昨夜寿司屋にいらしたお年頃の女性のお店だった。兵庫の方が注文したウニ丼はかなり美味しかったようで、「これ食わないなんてダメだよ」と、横浜の方が、「こっちの塩ラーメンセットだって超うまいよ」・・・ごく自然の会話すら旅先では楽しい。数時間のお付合いでしたが、航海の話や麻酔科女医さんのナンパ話などなど、楽しいひとときをありがとうございました。10月過ぎまで航海は終わらないとのことですが、なにとぞ気をつけて夢をかなえてください。

 

ぶらぶら歩く。奥尻の美しい海の色を写真に残したかった。どっかと腰をおろし三脚を立て真剣にマニュアルモードにて撮影。安物の古いミラーレス一眼だけど、このカメラは旅の大切な相棒なのだ。せわしい移動を強いられるいつもの鉄道旅も好きだが、せっかくの奥尻島、静かな島の時間をもっと楽しまねば。

  

フェリーでのアクセスは瀬棚からの昼便もある。ターミナルでは島のゆるきゃら“うにまる君”が迎えに出ていたが、どうにも子供達には人気が薄いようだ。無視され怒ったうにまる君がおばば様にパンチを入れ幼な子を泣かしていた・・・ウソだけど。

ちなみに、うにまる君はその時(人)によって足の太さが変わるらしい。 

  

 

もちっと続く

 


大人になったら、したいこと・・・奥尻島①

2014-06-20 12:19:11 | 旅行、食い歩き

この島へ一番来たがっていたのは父だ。酔うと奥尻のウニと海への憧れを話してくれた。やがて僕自身が奥尻島に興味を持つようになり島旅の計画をたてたが、前日に都合が悪くなり急遽諦めざるを得なくなったのは1993年7月11日のことだ。翌12日22時17分、奥尻島を烈震が襲った。北海道南西沖地震だ。

タラップを降り島の地面を踏みしめると感激が爆発した。21年もの間、想いを抱き続けてきた奥尻島に僕は今、いる。

ほとんどの乗客は迎えの自家用車に乗り込み、21時の港はあっという間に淋しくなった。港近くの宿に向かう。荷物を置き夜の街へひとりくりだす。なんだろ、どこかローカル線の中規模な駅前を散策しているような、そんな錯覚をおぼえるのは街の明るさが離島の不安を消してくれているのだろう。数件の中から寿司屋を選び暖簾をくぐると70代の大将がカウンターへ招いてくれた。すぐにうち解けることが出来たのは大将の朗らかで温かい人柄に相違ない。寿司を握る姿はまさにいぶし銀、手際良く握られた寿司が皿に並べられた。まずはウニだ!ガリでちょちょいと醤油をぬりひと口で喰らう・・・思わず顔をあげると目を細めた大将がいた。このひと握りだけで奥尻に来て本当に良かったと思える、それほどまでの美味さだった。この店は地震の前年に新築したそうだ。幸い店は被災からまのがれたそうだが、苦労をされたことは間違いの無いことだろう。大将、女将さん、ごちそうさまでした。

11時半店を出る。テトラの隙間から洩れるのはいか釣り漁船の漁火。空をも照らす幻想的な光景にしばし酔いしれ、島唯一のコンビニでカツゲンを買い宿に戻る。長旅の疲れと、緊張と、酒の酔いに、口の中でとろける奥尻ウニのようにふわっと眠りの世界へおちた。

  

 

 翌朝、6時50分発江差便を見送りに行く。女子学生とその親友達であろうお別れのシーンがあった。なんだかほっこりして僕も陰から手を振ったら、女子学生の隣の男性が手を繰り返してくれた。あなたじゃ、ないんだよ~。

   

路線バスで島内を散策。どんより雲だが幸い雨は堕ちてこず、奥尻ではこれを“晴れ”と呼ぶそうだ。親切な運転手の方が風景の説明をしてくれた。どかない工事車両の説明もしてくれた。途中小中学生が数人乗車したが、どの子も気持ちの良い朝の挨拶をしてくれた。この運転手の方は高校生の時に地震を経験したそうだ。以来島内から出なかったのは、きっと島を守る強い意志があったのだと思う。あったかい人だったなあ。バスに揺られる間中、海の景色に釘付けだった。

1時間後、終点の神威脇に到着。ここには旅の目的でもある温泉が沸いている。朝8時、早速入浴。薄茶濁りの湯は少し熱めで朝風呂にはもってこいだ。窓の向こうには神威脇の海と漁港の風景がひろがっている。二艘停泊しているヨットはどこから来たのだろう。それにしても気持ちがいいなあ。東京の会社が発行する全国離島の温泉本でこの神威脇温泉は第7位に選ばれたそうだ。夕陽を見ながら湯に浸かる至福はなんともいえないだろ。地元の方と話をしたかったけど、残念ながら誰も風呂には現れなかった。

   

   

レンタカーで島周りするのが一番なのだろうが、風呂上がりや昼飯時にビールも飲めない旅など、僕にとっては屁みたいなものだ。休憩所で寝転がっているとおばば様7人衆が到着。青苗地区で一人暮らしをされている未亡人同士のお仲間だそうだ。送迎付き500円で週に何度かこの温泉を楽しまれていると話してくださった。米粉団子と自家菜園のイチゴをたっくさ~んくださった。この量には困ってしまったが、嬉しかった。このイチゴの赤色は一生忘れないと思う。いつまでも、誰ひとり欠けることなくずっと元気でいてくださいね。おばば様との最初の挨拶はやはり、「こんつわ」だった。

   

   

帰りのバスの時刻まで港をふらふら歩く。岸壁の上に立つ石像は震災後奥尻島の復興を願い彫刻家流政之氏によってたてられたそうだ。著者は忘れたが『わが奥尻島』を読みこの石像を見ることを目標にしていたが、遠いのであっさりやめた。

風呂から見えたヨットの方と話をさせていただいた。仕事人生を終え、夢だった日本一周をされている途中にこの神威脇へ寄港されたそうだ。 ラメール号、かっこいいなあ。横浜にお住まいで、なんと奥様の実家は僕の家から歩いても10分足らずのご近所さまとのこと。この北の離島でものすごい確率の出会いだなあ。

 

まだ続くのよ

 


大人になったら、したいこと・・・路線バス 木古内・江差線に乗って

2014-06-19 12:13:36 | 旅行、食い歩き

長いトンネルを抜け、最初に停車した駅は北海道新幹線開通に向けて大規模な開発に追われていた。改札や待合所はローカル線の似合う雰囲気を保ってはいるが、この駅から西へ向かう列車はもう存在しない。この5月11日で廃線となった江差線に僕はついに乗ることが出来なかったのだ。それでも翌12日には函館バスにより木古内・江差線が運行され、今日僕はこのバスで夢の地をめざす。

国道沿いの定食屋の暖簾をくぐると多くの地元客で賑わっていた。近くの知内町はカキの名産地なのでカキミックスフライ定食と黒星を注文するやそのボリュームに度胆を抜かされる。大振りカキが4つ、エビフライ2本、ヒレカツ、松前漬け、玉子焼・・・う~む、嬉し過ぎるぞ!いよいよひとり旅が始まったのだと、そんな実感が一気に沸き立った。

海を見に行く。なにもないが、それがまた良い。静かな波の音は子守唄、すっかり熟睡してしまったようで慌てて時計を見ると、バス発車時刻までまだ2時間もあった。

暇だ、閑だ、ヒマだ。しかし時間潰しの達人としては時間に潰されるわけにはいかない。こんな時は駅に戻り地方ポスターいびりを楽しむに限る・・・・・・

ココロをカタチにだと?多くの人は学生さんの優しさに騙されることであろうが、実は美女に対する学生さんのシタゴコロが見事なまでに表現されたこのポスターは間違いなく大傑作である。青年よ大志を抱けもとい青年よ野望を抱けなどの名言をも彷彿とさせる言葉を作者は伝えたいのだ。その言葉とは・・・『青年よココロのカタチはいつもチョメチョメ!』 

むかしむかしの私に会っただと?こんな行儀のいい正座ガキなどいるわっきゃないべさ。大体いつどこで会った?ずっと昔の江差だと?笑かすなよバカチン!障子の上に換気扇が写っておるけどそんな昔にあるわきゃないべ!君は逆に猫背であぐらかきでひねくれたウソつきのハナタレクソガキだったに違いないな。

ところで、僕の精神年齢、このままでもいいのかしら?

   

路線バスは江差線沿いを走る。レールはすでに錆び付き、踏切跡は砂利で埋められた淋しい風景。それでも路線内で戯れる狐や狸、小鹿の姿は心を和ませてくれた。湯ノ岱駅で途中駅下車。天の川を渡りたどり着いた通称湯ノ岱温泉は憧れの湯だ。先客はおらずのびのびと湯に浸かる。少し塩気のある味、鉄分のような独特の臭い、身に纏わる気泡、床にへばりついた波模様は強い成分の証・・・ああ、素晴らしい湯だ。35度はジャグジー、他に38度、42度と3つの湯船で長湯を楽しむことが出来た。やはり旅の楽しみに温泉は欠かせない。

駅に戻る途中、猫と遊ぶおばあちゃんに会釈すると、「こんつわ」と笑顔を返してくれた。些細だけどこの旅で初めてのふれあいだった。

レールの終点は江差駅、だった。もう聞こえない電車のガタンゴトン。今となっては地域の方々に不便の無い選択であったことを願うばかりだ。駅舎でバスを待つ間、静かな雨が降っていた。

   

   

  

江差バスターミナルで函館行きに乗り換える。姥神FT前で下車するとすでに港にはフェリーが入港していた。出航はどしゃ降りの中だった。諦めてはいたが19時過ぎに外へ出てみると、薄らだがそこには沈む夕日の赤があった・・・やっとここまでこれた、もうすぐだ・・・ずっと思い続けていたその島へ、僕は向かっている。

   

続くんだ