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御摂理とはなんでしょうか? 【公教要理】第六講

2019年01月03日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。

公教要理-第六講  御摂理について



天主は創造者であり、すべての物事の司り主です。天主とは何か。天主は純粋な霊で、限りなく完全で、すべての物事の創造者と司り主です。
前回は、創造者ということを説明してきました。天主は、存在していなかったある物を、何の媒体もなく、無から存在させるのです。
しかしながら、天主の御業は、あるモノを存在させることに留まりません。

天主が「光あれ」と決定したら、光は出来ました。確かに、創世記を読んでみると、一日ごと天主は続けて創造しています。因みに、「一日」とはいっても、多少長い期間と解釈することは可能です。一日に当たる解釈の件については、教会は何とも決まっていません。それは兎も角、一日ごと天主は我々の知っているすべてのことを創造していきます。物質的な被造物や植物や動物や人間などです。

そして、創世記によると、7日目になったら、天主は休まれました。というのは、もう天主が創造した宇宙への関心が無くなったという意味でしょうか。世界から、人間から、遠くに距離を取って、もう面倒を見ていないことにしているという意味でしょうか。違います。
いや、実はその反対です。天主は、自分の創造した宇宙に関心を持ち続けている上に、そうすることを望んだというべきです。これは、御摂理といいます

摂理とは何かというと、簡潔に覚えやすい定義があります。「天主が被創造物のために常になさっている世話」、これが摂理です
それで、世話するというと、第一に出てくるのは、被造物を存在させ続けることこそがそうです

とはいっても、私たち人間なら、ちょっと理解しづらいところがありますね。それはそうでしょう。芸術家が作品を作ってしまったら、彼が死んでも、作品は残ります。
だからこそ、なぜ天主は被造物において常にましまして積極的に存在させる必要があるのか、理解しにくいですね。例えてみると、ここに花があります。花は、存在するために、木の樹液が流れなければなりません。樹液を止めてしまったら、花は死んでしまいます。同じように、すべての被造物も、極まりなく天主に依存しているので、常に、絶えず、すこし物理的な表現を借りるとすると、存在するために、天主と結び付いている、と言えます。これこそが、摂理と呼ばれるものです。
但し、私が天主に結び付けるのではなくて、いや、天主が絶えず私へと存在を流し続けています。言い換えると創造という働きは、被造物が創造された時に終わったわけではなくて、今でも目の前にあるすべてにおいて、周囲にあるすべての現実において、創造の働きが常に続いています。そして、常に続いている創造の働きは、摂理と呼ばれています
つまり、摂理ということは、初めに与えられた存在の延長です。自分が存在しる。つまり、創造されました。しかも、今も存在し続けています。天主は、私に、御摂理であらしめています。私を存在させ続けてくださっています
これこそ、被創造物に対する、天主によるお世話、御摂理です

私たちの主は、摂理を語る為に、そして、私たちにおいて、私自身よりも天主は遥かに親密に奥深くましますという事実を語る為に、私たちの主イエズス・キリストはこう言います。「あなたたちは頭の毛までもすべて数えられている。」
つまり、私たちにおいて存在しているすべては、天主が存在させ続けてくださっているからこそ、存在できているという意味です

天主は被造物の世話をなさいます。御摂理です。語源は「プロヴィデーレ」で、「その先を見る」という意味です。ある意味で、あるモノの存在を展開し繰り広げるかのように、存在においてそのモノを維持させることです。
天主にとって創造するというのは、初めの存在のインパルスを与えて更に、常に存在を流しつづけることでもあります。また、補給し続けるともいえます。たとえば、電球をコンセントにつなぐときに、つなぐことという最初の働きがあります。それで、電力が、電球まで流れてきますね。そのお陰で、電球の光が突然存在できます、光り始めます。しかしながら、コンセントは繋がっているままでないならば、電力の補給は続かなければ、電球は光り続けられません。


同じように、天主は、最初のインパルスを与えて、私たちに存在を与えました。しかしその上に、存在を与え続けています。天主の摂理といいます。
旧約書によれば、ヨブによる素晴らしい言葉があります。「天主は私にすべて与え給い、すべて奪い給うた。天主の御名は祝されよ」。つまり、すべてのことは、天主の管理下にあります。天下では、最悪に見える出来事にしても、必ず天主の管理下にあります。天主は被造物を見捨てたことはありません。天主は、すべての被造物において、そのものよりも、遥かに親密に奥深くにまします。実際に、天主は常に今ここにまします。

しかしながら、それだけなら、ある問題が出てきます。被造物によって生じた悪とは、一体なんでしょうか

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