25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

東京のせがれ

2019年07月31日 | 日記
 今日から大潮で、息子は素潜りでチャンポコ採り、孫娘たちは磯遊び。藻場になっているせいか、赤ちゃん魚が引いてできた磯の小さな池ではぐれている。ハコフグの赤ちゃんもいた。
 ぼくは竿を出してガシ釣り。笹ベラが釣れた。ガシを待つよりも、やっぱり、亀の手を採ろうと、古い出刃包丁をもってきたので、釣りから貝採りに変えた。
 磯の岩場の裂け目では亀の手の群れにカラス貝が混じり、やがてカラス貝に占領されるのか、逆なのかはわからない。
 夕方は孫娘も巻き貝を爪楊枝で刺して旨い旨いと食べていた。息子は偶然にヒオオギ貝が移動しているところに水中で出くわし、それを取ったらしい。さすが紀州の海。ヒオオギの身が小さい。孫娘が食べた。
 せがれ(息子)は東京で暮らしていて、妻子ともに、夏と冬必ず来る。夏は川遊び、海水浴、磯遊び、冬は熊野古道を歩いたりしている。
 今年の尾鷲滞在は長い。その分ぼくらはくたびれる。ぼくらの仕事を手伝ってくれるわけでもない。ただ飯食いに来るだけだ、と言えば細君は怒るが、まあ、親に自分たちの顔と孫の顔を見せにくるということだろう。
 孫娘のわがままに頭がカチンときてどやしつけてやった。人に怒らせるようなことをしたら怒られるものなのだ、と躾する。ジジババは無責任に甘やかしていればいいというものでもない。
 



 
 

覚悟

2019年07月30日 | 文学 思想
 名前が知られるようになる。つまり有名になる。それが幸せなことだとも言えないのは宮迫博之らのトラブルでわかる。何年か前のことがフライデイで報じられる。泣いて謝罪したと思ったら、また疑惑が報道される。
 無名の人となって気兼ねなく毎日を過ごせたらいいと思うことだろう。自分に利する人に感情は流れやすいから、宮迫ちゃん、人は去ってゆくものだよ。
 忘れていたことを思い起こされた。酔っぱらっていてよく思いだせないが、どうやら自分は直営業の話にのって歌を歌い、どうやらそのお金で仲間との打ち上げ代をおごり、お釣りを財布に入れたらしい。お金みらってなかったことにしとこ、と口裏をあわせをリードした。ぉれが宮迫博之の転落だった。彼はh詐欺グループの一員でもなければ反社会的勢力のものでもない。ただの売れっ子のこの頃芸をしない芸人である。
 名と顔が知れているから、フライデイも続いてテレビも飛びつくのだ。

 ちょっとした嘘で人生が暗転した。だいたいは人生は好転、停滞、暗転の繰り返しのようであるが、どんな空間にある日突然入ってゆくか、誰にもわからない。
 慎重に用心深く生きてきた人でさえわからないものだ。そのくらいのことを覚悟しておけば、つまりはよいということだ。


密陽

2019年07月30日 | 映画
絶対に自分では借りないDVDを息子がもってくるので、付き合いしてみている。「へそくり社長」もそうだったが、「シークレット サンシャイン」(密陽という町の名前の英語直訳題名である)にも付き合った。韓国映画である。2007年公開の映画である。夫が事故で死に、夫の育った町密陽に主人公と子供がやってくる。ピアノ教室を開く。優しくしてくれる男性が現れる。この男性の演技がとってもよいのだが、名前まで覚えられない。またこの男がいつもそばに来て付かず離れずして親子を気にかける。女性の子供が誘拐され、子供は死体となって発見される。この事件もさらりと淡々と描かれる。誘拐殺人事件がテーマではないのだ。この女性はあるキリスト教系の新興宗教団体に入信する。それでこころの安定を得、殺人犯をも許しに刑務所までいくのだが、殺人犯も同じ宗教を信じ、神は許してくれると信じている、と逆に言われたりする。
 宗教の中にいる人も嘘くさく見えてくる。嘘くささを確かめようと長老といわれる男を誘惑してみる。すると宗教的信念よりも性欲を抑えられない男だとわかる。そういう中でも常に女を近くで見守る男。決してこの映画的時間の中では結ばれるわけでもないが、不器用な「男性の優しさ」が宗教よりも「希望」のように思えてくる。

 韓国映画を見ていると、日本の三十年ほど前のような感覚がある。言葉使いがそうである。女性への言葉、視線、卑猥な言葉などから、そんな感じがある。もうひとつ国境が地続きにあって、虐げられてきた歴史もあって、いざのときの狂気のような怒りや反抗の言葉が現れる。

 これが韓国映画の復讐映画などになるとぼくは見ておれないのだ。憤怒が強すぎて。日本列島で育ったぼくなどはやわいものだ。安穏を1950年以降暮らしてきたというものだ。

へそくり社長

2019年07月29日 | 映画
息子がいつものようにいろいろなDVDをもってきて夜孫娘も寝てから、付き合って見ている。1956年の白黒映画で森繁久彌主演の「へそくり社長」が第一弾で、これにはクスクスと笑ってしまった。この時代の映画を見るとき、当時の風景やファッション、言葉使い、知っている俳優の若いころの姿を見るのもストーリーや演技だけでなく楽しいものだ。1956年と言えば、ぼくは6歳で、東京のこの商事会社の社長は本当は米のご飯を食べたいのに、越路吹雪演じる奥さんに入り婿ゆえつよいことも言えず、パンやスープ、野菜ジュースが朝食である。ご飯もの、例えば寿司などは禁じられている。今、思えば、1956年には今の家庭の食卓をやっていたわけで、わざと監督たちが未来を予測したのか、アメリカンブレックファーストを揶揄ったのかはわからない。

小林桂樹や司葉子、三木のり平が出ている。藤間紫も八千草薫、古川緑波、上原謙らが出ている。ゆるーい映画である。高度成長期に入る頃なのだろう。11年前の荒れ地から東京は回復していた。
 尾鷲も、6歳の頃は幼稚園に行っていたし、元気にあそびまくっていた。姉がいたし、路地にはぼくより二、三歳上の子供が結構いたので、よく遊んでいた。当時はまだ路地の向いは役場で路地では役場の男たちが丸い筒のようなところから紙を取り出して、設計図を日光であぶってというか、なんらかのことをして、のんびりと仕事をしていた。尾鷲はそれまでの町から市になり、役場の移転も決まり、それまでの役場と消防署は取り壊され、小学6年生頃までは空き地となった時期があった。紀勢本線をつなげる工事があり、続いて水力発電の工事、国道42号線の建設、三田火力発電所の工事と続き、尾鷲市はぼくが高校生になる頃には3万4千人ほどの人口となり、外からの労働者も来て、賑わっていた。現在の商店街は見る影もないが、昔は商店街通りを歩けば肩があたるくらい人がいたのである。

 東京のこの映画の商事会社もこれから大きくなっていくのだろう。芸者屋や置き屋は戦後の復興と洋式のものが入ってくることで、すたれ始めた。スナックやバーができ始め、飲み代は会社のツケとなって、社用族が夜の遊びを変えていった。この辺の変化は有吉佐和子の「木瓜の花」に詳しく書かれている。

 源氏鶏太のサラリーマン小説が売れる中で、青春小説は石坂洋次郎の「青い山脈」を代表に明るいよ、日本は変わってゆくよ、女性だって物言うぞ、希望なんていくらでもあるさ、みたいな世の中だったように映画を見ていて思える。知らないところでは貧困や、貧困からくる誘拐事件や殺人事件はあり、差別されるものはされ、外を知らない島国人間そのものだったのだろうが、兎に角復興、そのための工事、建設だったから戦争が一番の経済復興の要因であったと認めるしかない。その復興、それを引き継ぐように高度経済成長期が終われば、日本人はどうしてよいかわからなくなった。西洋、アメリカから真似るものはほとんど真似た。社交ダンスといえば、着物を着てまでして踊る女性の姿があった。ロックが流行れば日本列島の若者も真似た。

 今を映画で、社長シリーズなど作りようもない。映画はストーリーが重視され、面白く、または切なく、感動を呼び、憤怒にテンションを上げるしかない。
 まさに日本の現代とは是枝裕和監督が描いたように「万引き家族」に象徴されるのかもしれない。

夏がようやく来た

2019年07月28日 | 
 息子たちが夏休みということで帰省した。いつも津まで迎えにいく。以前は名古屋まで迎えに行ったものだが、高速の渋滞に耐えられなくなり、いつの間にか、息子も娘らも迎えは津駅までとなった。津駅には3階に別所書店もあって、待つ時間に本の探索もできる。
 今日は、久しぶりに宮部みゆきの短編小説集「さよならの儀式」が出たと新聞広告で知ったので、しかも「宮部みゆき」の新境地」と帯にあることから、すっかり出版社のコピーを信じて、買うことにした。もうひとつ買いたい本があった。葉室麟の「蛍草」である。これはNHKのBSで金曜日の夜8時から始まった時代劇ドラマの題名で、短編小説なのか長編小説なのかわからず、どの出版社の文庫本なのかも事前に調べなかったので今日はちょっと後悔した。結局探せなかったのである。テレビドラマ見て読んでみようと思ったのだった。なぜそう思ったのかと言えば、朝ドラの「なつぞら」でなつの妹役をした女の子が主人公で武士の娘であることを隠して
武士の家の女中となるのである。これがまたこの武士の娘がよくて、凛とし、耐えるところは耐え決して無駄口はせず、きっと最終あたりでは父のあだ、いまの改革派の主の仇をとるのではないか。ぼくはこういうキリッとした女性が好きなのだろう。映画「花のあと」の北川景子もよかったら。
 葉室麟の別の長編小説「紫匂う」と彼の考えを知るのに「河のほとりで」というエッセイ集を買った。エレベーターを降りると、息子たちの姿が見えた。今年36歳になるという。ロスジェネではない。孫の百合子は今年小学に入って、いよいよ性格がはっきりしてきたような気がする。夏休みの宿題は早々にやってしまったようである。さっさとすましてしまわないと気が済まないのかもいれない。
 昼は美味館で中華を食べて、ぼくらは息子たちを賀田の古川に送って、曽根での仕事を済ませたのだった。一時間後に息子らをピックアップした。川の水は冷たかったらしく、一時間は長過ぎたようだった。
 今日から孫中心の日になる。港祭花火大会は3日。その翌日に帰る。娘家族は9日から来るということだ。
 

いろいろある

2019年07月27日 | 日記
 
 昨日は、母親が目が痛いと言っていると、デイケアの方から電話があり、病院に連れて行ったり、台所の電灯のスイッチのヒモが切れてしまったり、解決の見込みがようやくついた難しい問題がまた蒸し返えされたりとなんだか慌ただしく、嫌なことってまとめてやってくるものよ、と、そんな日もあることを思うのだった。それと台風がどうなるかもイライラの一因でもあった。今日は民ぱくの客がくる。キャンセルなく、無事にいきそうである。母の目には逆さマツゲがあって、それを抜いてもらったら今日はすっきりしていた。台所の電灯もLED に換えてもらいこれも解決した。難しい問題は待つことだけなので、待つ以外にない。
 若い起業家たちが「朝から生テレビ」の討論番組で討論していたので、録画をしておいて、今日の午前中に見た。
 若者のごくほんの一部の起業家である。日本は起業する人が少ない国らしい。
 話を聞いていて、なるほどな、と思うことも多くあったが、変わらないな、と思うところも多くあった。1995年あたりのアントレプレナーブームのときとあんまり変わらないには規模の小ささである。これから大きくなる企業もあるのだろうが、今のところ巨大なインフラになるとも思えず、隙間産業かな、と思った。遺伝子編集の会社をやる女性もいたが、どんな独自性があるのかよくわからなかった。

 ただいつもの顔ぶれの政治家や評論家、学者が出てきての討論よりはずっと面白く、知識、物の考え方も知った。

 やはり、失敗を許さない国、ということが話題に出た。田原はなぜこの国はそうなのか、と尋ねた。この国の教育がそうだから、と若者の一人は答えた。この国の一人一人がそうだから、という若者もいた。失敗したことのないひちが社長になる国でもある。
 世襲制の政治家の問題も出て来た。地方創生の話も出てきた。
 
 テレビに抱き込まれるなよ、と三浦瑠璃を見ながら思った。テレビは恐ろしいよ。恐ろしいと思う前に成長させ、大きくなっていろよ、と老婆心が起こる。
 村上春樹の短編小説「With the Beatles」は面白かった。この面白さは僕ら世代特有の面白さではないはずだ。そう思う。

オリンピックは本当に必要だったのか

2019年07月26日 | 社会・経済・政治
石崎徹という衆議院議員。丸山穂高衆議院議員、豊田真由子元衆議院議員。佐川元国税庁長官らの面々。高学歴と性格・倫理観・愛情なんて何も関係がないことを思わせるもので、世間一般の人も、あの人は「東大出だから」だの「りっぱな会社にいて」とか「どこそこの社長ですか」などなどおべっちゃらくらいなならまだしも、票を入れたり、後援会に入ったりするのは慎重にやらないと。
 多くの人は学歴なんてそうそう自慢できるものではないことは知っているのだが、自慢できるものだと勘違いしている人が多分、これはぼくの憶測であるが、国民の半分くらいはいるのかも知れない。
 テレビ局のバカがつまらないクイズ番組作って「東大生なんとかなんとか」みたいなのをやって「東大生はさすがによく知っている」と思わせる。あほか!と思う。

 それよりも「オリンピック過ぎたら景気はどうなるんだ」を教えてほしい。よくなるの?悪くなるの?変わらないの?

 政治・経済の波というのは確実にぼくのような一個人にもある。これまでもあった。事業起こしたら突然、大不況とかもあり得るし。先がある程度読めないと何をするにも気持ちが悪い。若いころは勢いでやっていたが、これからは勢いでやれない自分なのである。

 東京オリンピックなんかなぜ誘致したのだろう。箱もの作ったら景気もよくなる、みんな元気になる、と単純に思ったのだろうか。オリンピック時期は東京に行って仕事はできない。10500円の部屋が6万円すると昨日テレビで言っていた。

 テレビではオリンピックを盛り立てるためにか楽しそうに期待を膨らませているが、こちとら、紀伊半島の隅っこからテレビで見ているだけだ。テレビは大騒ぎするだろうから。
 桑田佳祐もひと肌脱いでしまった。これを光栄というのか、しかたなし、というのだろうか。
  
 「もう決まってしまったもん、つべこべ言うなよ」は日本社会の悪いところである。つべこべ言っている奴もいるのだ。本当は多いのではないだろうか。

 日本は二度目の夏季オリンピックで浮かれている時ではないのだ。箱ものをどうやって維持するのだ。賃金はどうやって上がるのだ。10月には実質賃金が2%下がり、ついでにガソリンの値上げ。ぼくには「ええじゃないか、ええじゃないか」とオリンピックが被さってくる。
 これも尖閣列島問題と同じように、築地問題と同じように石原慎太郎が残したものだ。猪瀬直樹が継いでしまった。
 ぼくはオリンピック後からまた停滞、衰退が続くと思っている。ぼくみたいな楽観的な人間が言うのだから、ぼくよりも楽観的な論者と悲観論者の意見を聞いてみたいものだ。


万引き家族をみた

2019年07月25日 | 映画
 遅ればせながら映画「万引き家族」を見た。リリー・フランキー、安藤サクラ、松岡茉優、樹木希林/俳優として冴えわたる人物でこの映画はできていた。小悪人風の男がよく合うリリー・フランキー。やさぐれているけど優しい安藤サクラ。こっそり悪いことをしている樹木希林。よいとこのお嬢さんで家が嫌いな家出の松岡茉優の不埒なアルバイト仕事。
 こういう疑似家族がいるのは創作だとしてもありそうな話で、社会上よさそうに見える夫婦が子供を虐待したり、メンツばっかり重んじたりする人というのはゴマンといる。そういうゴマンといる家族からこぼれ落ちて集まったのが「万引き家族」である。
 この映画を作ったからと言って、この問題の本質が解けるわけではない。ああ、とため息をつくばかりだ。
 家族関係が崩壊していると言われ出してから20年や30年経つ。
 地方から出てきて大手企業の労働者となり、家庭を築けあげてきた一家の主婦は息子が大学進学することを夢見ていた。この息子が酒鬼薔薇聖斗だった。1997年のあの事件以降、家庭内に犯罪の原因があるような事件頻発するようになった。
 また祖母が死んだら年金が入らなくなると、死亡届けをださないという事件も続いた。

 現代のなかになにか歪みが生じている。非正規社員の増加。正規社員の減少。見えない老年期の姿。見えない明日。見えない夢。夢がきえるとは命が消えるより残酷なことだ。
 是枝監督はこういう人間たちの処方箋は書いてないが、「落ちこぼれることは避けたい」と思わせ、じつは「刑務所にいくニセ母親」の方が「世間体ではまともにみえる本当の母」より優しい、と思わせたのだった。賞をもらったには刑務所内の扉を開けて面接者らにむける微妙な笑顔である。
  

草刈りとどん詰まり

2019年07月24日 | 日記
夏になると草刈りがほぼ日常の仕事になってくる。草はどんどん伸びてくる。石垣の間でも生えてくるし、蔦は屋根にまで這いのぼっていく。蚊がどこかから来るから蚊よけが必要。汗をいっぱいかく。必ず借り残しがある。八つ手で刈った草を掻き集めないと借り残しはわかりにくい。電動の草刈り機にしてよかった。ボタンを押すだけが動きだす。前のには参った。紐をひっぱるのである。なかなかエンジンがかからない。これはストレスだった。
 鋸が必要になったらやはり電動にしようと思う。今のところ鋸の要る作業はシルバーセンターに依頼している。

 ようやく梅雨も明けたようで、すぐに草刈りをした。

 朝日新聞は「MMT」についてのわかりやすい説明をしていた。自国通貨を発行する国では国債をどんどん出してもいい。破綻はしない。インフレになればすぐ抑えればいい、という理論である。朝日はリスクが高いと書いていた。
 注意すべきは財政が緩み、放漫な財政運営で要らぬ、無駄な、生産性のないものにお金を使ってしまうことである。

 尾鷲市もどん詰まりし始めた。尾鷲市は自国通貨をもっていないからMMT理論から排除である。 相変わらず地場産業と念仏のように唱えてきたツケだ。生産性の高い物を作り出すことができず、若者に起業のチャンスも与えなかった。政治家や行政マンは古い発想で、独自のアイデア、企画もなかった。尾鷲市が夕張市のようになったら、どれほどこの町を出ていく人がでることだろう。30代、40代の女性がいなくなることは看護、介護の職につく人がいなくなると言っても過言ではない。尾鷲病院がもたない日が来る。困ったものだ。

 

いい加減にしろ!

2019年07月23日 | 社会・経済・政治
 吉本興業のこと、テレビは興奮してやっているが、ぼくには見苦しくてかなわん。こてまで批判もしていなかった芸人が今とばかりに言うのもおぞましく、会長を守らなあかん、動きます、といって動く男も見苦しい。
 宮迫も、亮も、岡本社長も一家のメンバーである。この一家で騒ぐ男たちはヤクザめいている。ヤクザではないのだろうが、ヤクザによく似た性質がある。駆けつける、庇う、忠告する、裏切る。そんな体裁だ。
 参議員選挙が終わって、「れいわ新撰組」などあつかったことなどなく、無視してきたテレビ局
が予想外の「れいわ新選組」の健闘にあわてたのか、そのニュースに切り替えたいところだった。そこに、「吉本」の邪魔が入った。
 泣きの誠意と口下手の誠意が日本を席巻している。うんざりしているのはぼくだけだろうか。本当は司会者たちもうんざりしているのではないか。
 吉本興業があろうとなかろうと、宮迫や亮がいようといよまいと、ぼくら庶民にはちっとも生き死にの問題ではない。
 全く、テレビをつけると、またか、と思う。いい加減にしろよ、と言いたくなる。

  

何か変

2019年07月22日 | テレビ
 何か変。記者会見で芸人二人が泣きながら喋っている。大の大人がなあ、と思った。すると、翌日吉本興業の社長が記者会見して、涙して語っていた。これにも違和感を感じた。
 要するに涙なんか簡単に流すなよ、とぼくは思ってしまうのだ。
 これはぼくの性格からくるのかも知れないが、吉田沙保里がリオのオリンピックで金メダルを逃したときの泣き姿にもうんざりしたのだった。見苦しかったのである。
 宮迫や亮は直営業と知っていて商売し、客が彼らが知らなかったにもかかわらず、反社会的勢力だったということに加えて、お金をもらってなかったと嘘をついたことである。つまり、ドツボに
自ら飛び込んだのである。
 で、なんで泣くのかねえ、と思い、社長まで泣くというのが吉本興業らしいのかな。
 ぼくが変なのか、泣くことに納得できないのである。

経済はややこしい

2019年07月22日 | 社会・経済・政治
 さほど気にもならず、この国の国政選挙の様子を見ていた。各政党人、候補者は必死であろうが、こちらは必死ではない。早々とチャンネルをBSに切り替えて、卓球TSダイヤモンドを観戦する。加藤美優は準決勝で話にならず、朱雨齢のストレート負けした。丁寧との三位決定戦を見る気がせず、早々に二階の我が部屋に引き込んだ。「パニック経済」を読んでいる。
 そう言えば、金利が下がると国民のお金が下がった分だけ国に行ってしまうのだった。もうひとつ金利が下がれば、企業や個人はお金を借りる際に有利になる。だから消費は活発化する、はずである。しかしなかなか借りる人、企業は少ない。

 政府はすでに大規模の金融緩和をやり、貨幣供給も500兆円と膨大になっている。政府の国債は銀行が買い、その銀行の国債を日銀が買っている。日銀はそれだけ引きうけているのだから市中にお金が回り、消費もしてもらいたい。しかしながら市中にお金が回らない。なぜか。銀行は膨大なお金が市中に回れば、スーパーインフレになってしまうことを恐れているからか。あるいは単なる貸し出し先がないだけの話か。日銀が買い取ったお金が塩漬けされている。
 とまあ、こんな風な本を読んでいるのである。今年になって経済本を数冊読んだ。経済のことは難しい。自信をもっていう人はクエスチョンマークである。「国民は国にお金を貸してるんだ」と自信をもって言うのは結構であるが、裏を返せば、「国民は貯金を担保に取られてるんだ」とも言えるし、「金利操作ひとつでお金は国に没収されるのだ」とも言える。

 MMT(現代貨幣理論)にしても自国で貨幣を作り、自国民で国債が賄える限り、財政バランスよりも国債を発行しても国は破綻しない、と言っても、大量の国債を何に使うかでその結末は違うだろう。不要な公共工事にお金を出し、回収できないようなものなら、維持管理費がかかるばかりである。教育に使われるならば、これありである。人材あってこその日本だからだ。このMMTは民主党の左派サンダース候補の経済政策ブレーンの理論であった。可笑しいのは、このいわば社会主義的理論を自民党の西田昌司議員が一生懸命唱えていることだ。消費税増税をやめ、国債を発行しろ、というわけである。これは「れいわ新選組」がさらに踏み込んで「消費税ゼロにする」と言っているのと同じである。不可解なのはサンダース上院議員は貧困と格差で喘ぐ若者の社会主義化傾向に賛意をしめし、選挙活動の地盤はそういう人たち支持で行われたのだった。森友問題でも安倍首相を擁護していた西田昌司は? 藤井聡のような安倍政権元ブレーンは? MMTは何にお金を使うのか、その内容が一番重要なのである、とぼくは思う。 

投票日

2019年07月21日 | テレビ
 母親を投票所に連れて行った。保育所が投票会場であるが、その場所は一番奥にあり、母は長く歩くのが大変そうであった。一番手前の教室を使えばいいのに、と職員に言った。もしくは車椅子のサービスがあってもよい。会場内では至れり尽くせりで、みなさん親切に投票の手伝いをしてくれた。
 ぼくの投票会場はまた違うところである。会場に市役所の職員が多くいる。これほどいるかと思う。日当の公平性からもしかしたら全職員が働いているのではないかと思うほどである。財政難で喘いでいる尾鷲市である。

 今夜は選挙速報である。選挙後の安部政権は難題が山積している。なんと言っても、「有志連合」への参画かどうかだ。韓国は米国にすり寄るだろう。
 イランとの戦争は絶対に避けなければならない。アメリカにはシェールオイルがあるから石油運搬ではそれほど関心はない。あくまでも過去にアメリカに敵対したということと、核開発をする意志をもっていることだ。

 夜9時からは卓球の準決勝がある。昨日、加藤美優(20歳)が世界ランク一位の中国陳夢を破ってのことだ。彼女以外は男も女も一回戦で早々と敗退した。何度も言うようであるが、卓球、バドミントンは世界レベルであり、今度はテニスで錦織圭を継ぐように望月慎太郎が出てきた。陸上100メートルでも9秒台が3人となった。スポーツ競技を根性論ではなく、合理的な練習と身体つくりの努力をしているのだろう。

 大相撲名古屋場所も今日で終わり。来場所は遠藤章造は小結になるだろう。そして期待することもできる。膝の故障で停滞した遠藤である。膝もずいぶん回復しているように見える。彗星のごとくに友風という尾車部屋の若い力士が出てきた。かつて負け越したことがないようである。
 スポーツの世界は様変わりしている。政治の世界にどうやら様変わりはない。



歴史の最先端の事故

2019年07月20日 | 社会・経済・政治
 たとえば、1000億円の箱ものをつくると、約30年で同じ金額の維持管理費がかかると言う。一時、橋やトンネル、道路のメンテナンスの問題が出たが、これらの維持管理費も儲けがない限り、税金で払って維持しなければならない。最後は壊すお金さえ、準備しなければならない。
 すると東京オリンピックでできる箱もの、関連道路などの維持管理はどうなることだろう。
 尾鷲市も箱ものをつくるのが好きだったが、さすがここ10年目立った箱ものは保育園とかそんなものである。
 大曽根に野外コンサートホールがあるが使われていない。文化会館があるが使用頻度は少ない。海洋深層水の取水装置があるが赤字である。今後夢古道も怪しくなる。メンテナンスが必要になるときが問題だ。
 社会保障費が総予算も3分の1になろうとしている。介護士や保育士の給料を上げよう、上げなくては、という声が多くある。一方で、建設業の社長は部下に億単位のお金を使い込みされても、平気そうに鯉に餌をやっている。今後戦後に建設されたインフラを維持するだけでも、建設業はやっていける。準公務員のようなものだ。東日本大震災復興、オリンピックでも建設業は儲かる。ただ単純労働者も利益の配分をちゃんとうけるのかは知らない。
 経済大国を目指すことは日本には無理がある。宇宙にかけるお金もないし、サイバー戦争にかけるお金はない。軍備にかけるお金も、そもそもアメリカや中国、インドに対抗できるような人口をもっていないし、すでに人口は減っているのである。経済強国という価値観を変えなければならないのである。日本列島人は島で育ち、歴史を育んできた。他国から侵略されるかもしれないという不安をもつこともなかったが、唯一連合軍のアメリカに占領されただけだ。いつも他国からの侵入を警戒してきたヨーロッパ、中東、中国、朝鮮半島とは危機意識が違う。戦後、再び、アメリカの支援の下、経済復興を果たして、世界二位の経済大国になった。それを誇りにも思い、ある時期繁栄の恩恵を受けた。60歳移譲の人たちが、である。

 京都アニメーションの放火事件は日本列島の歴史が積み重なった現在を象徴しているのかもしれない、とぼくは疑っている。まだ犯人の動機や背景がわからないのでなんとも言えないのであるが、負の政策のツケの結果の一部かもしれない。不安社会が続けば、これからもよく似たことが起こるにちがいない。

富の偏在はろくなことはない

2019年07月19日 | 社会・経済・政治
 昨日の京都アニメーションへの放火、爆発事件の犯人は41歳ということである。周辺の聞き取りでは「パクりやがって」という憤怒の声を上げている。京都新聞によると、小説をパクった、と言ったらしい。それが本当か、妄想かはわからない。
 気にかかるのはぼくらが心配する20代、30代、40代での貯金ゼロ48%という人たちのことだ。
 どうもこの41歳の男はガソリンの性質には無知で、結果を想像する力もなかったようである。その上でブチ切れている。
 日本は財政的にはたいへんな借金がある。この借金なんて怖くないよ、インフレをコントロールできるのなら日銀が国債を買い取るのはOKだよ、というMMT(現代貨幣論)の論者を増税反対論者たちが日本に呼んで、講演会などをしている。国債を増やせばよく、増税は反対であるという論理である。
 例えば、政府が20兆円の国債発行したとしよう。すると20兆円は日本も中を駆け巡ることになる。20兆円は国民の資産だということになる。ところが多くの人に自分にも20兆円の一部でも回ってきたら、おお、景気もよくなったか、と消費をするかもしれない。ところが1700兆円の貯蓄があるといっても20代、30代、40代の半分には回ってきていない。どこかに富は偏在している。企業の内部留保金かもしれない。あるいはどこかでお金は眠っているのかもしれない。

 お金の偏在は不安な社会を作る。不安が続くと精神に異常をきたす。自己を客観的に見えなくなり、社会と個人の部屋の区別、いわば個人幻想と共同幻想の区別もつかなくなる。わけのわからない犯罪はおおかたが個人幻想が共同幻想をも凌駕してしまうときに起こるのだ。
 国債を発行して、銀行が買い、それを日銀が買い、日銀が金利やインフレをコントロールできるなら、20代に10兆円、30代に10兆円とあげてもいいはずだ。それをしないのはMMT理論に不安があるからである。ぼくはそう思う。いずれにせよ、富の偏在はろくなことはない。