25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

エクソダス

2018年05月31日 | 映画
 寝る前に新約聖書を読んでいる。別に信仰もためではない。西暦30年から60年ぅらいの間に書かれた書き物として読んでいる。旧約聖書は「ヨブ記」を読んでいるだけである。
 マタイによる福音書を読み、マルコによる福音書、現在はルかによる福音書の途中である。ルカという作者はマタイやマルコが書いていないところも書き、重複が少ない。
 神と病気を治す奇跡をのぞけば、しっかりとした小説のようである、当時の世は戦争が絶えることなく、民は虐げられ、貧しかったのだろう。そんなこと思っていた。興味深いもは、イエスはモーゼだけは信じていたようである。それはまさに親鸞が法然上人だけは全面的に信じていたのとよく似ている。およそ自分の宗派をもとうなどとつゆほどにも思っていない親鸞であった。イエスhより積極的に12使徒を派遣し、普及に努めることを促した。
 モーゼとは一体どんな男なのだろうと思っていた。 

 すると、ちょうど借りたDVDがリドリー・スコット監督作品で「エクソダス」という映画の主人公がモーゼだった。まさかという偶然に喜んだ、有名な奴隷となって虐げられヘブライ人がエジプトを脱出する旧約聖書「出エジプト記(エクソダス)」を映画にしたものである。スコット監督お解釈が当然入っている。旧約聖書でどう書かれているのか知らないので、これは旧約聖書も読まねばと思ったのだった。
 BC1300年。300年に渡るヘブライ人の奴隷生活が終わる時。ヘブライ人という呼び名はエジプトの他民族がそう呼び、イエス・キリストはイスラエル人と呼んだ。
 同じ神を崇めるユダヤ教、キリスト教、イスラム教は現代においても人類が解決しなければならない問題として残っている。

聖書を読んでいて思うのは、書き物、いわば文学・思想として以後これに勝るものが出て来なかったことだ。インドではブッダ、中国では孔子がでているが、ヨーロッパではコペルニクスやダーウィンのような科学の登場とその理解を待つまでイエスに代わるものは出なかった。中東地域ではモハメットが戦争の中でイスラム法典の啓示を受けた。
 キリスト教は世界の隅々にまで果敢な布教を行った。アフリカ、南アメリカ、アマゾンの奥地にまで、アジアの東果てまで布教に努めた。

 生産力が上がり、人間が経済的に豊かになるにつれて宗教色は薄まっていくのも事実であるが、宗教色が薄まった地域でさえ、国民国家という宗教変形が現れ、いまも強固にそれは存在している。
ホモ・サピエンスのみが人類の中で原始宗教を作り出した。集団を大きくして、生物界を生き延びていくためである。この共同幻想にのちの人類は囚われることになった。
 AI だ、ロボットだ、IoTだという現代においてなおも、である。

ぼくの観念の中には「信仰」というものがない。人類にとって宗教を放棄する日がくるのだろうか。インドネシアのバリ島では人々は輪廻転生を信じ、日常的に敬虔な宗教に基づいた生活を当たり前のように送っている。それは村落共同体を観光産業から必死に守り抜こうとしているようにも見える。そして宗教そのものがうまく観光地化されているようにも思えるのだ。生活は慎ましい。多くを望めない。ゆったりとして現世を神とともに生きている。

 日本人のように働き過ぎない。日本人ほど多くのものをもたないが、完璧さに囚われず、隙間を残しながら生きているようにも見える。
 宗教は貧しさの中で生まれ、意識を共有させることで集団を守る。ぼくなどは「死んだら死にっきり」と思っているから、それは人類にとっては不遜なことなのだろうか。自分には本当に信仰心はないのだろうか。今のところいくら考えてもわからないのである。

 

  
 

映画とは、小説とは

2018年05月30日 | 映画
 映画だったら最初から最後まで観客を見させなければならない。そうでないと映画にならない。小説においても読んでもらえないと小説として成り立たない。
 だから、作り手側はまずその事に神経を使い、能力あるものは技を用いる。基本だからである。
 
 さらに時代を越えて生き残っていく作品には、人間考察への深みがなければならず、世界の一部の人々をも「自分のことが書かれている」と思わせるほどの共有性を提示し、こころの内にあるものをえぐりだすくらいの強烈さが必要である。このことは人間という生き物は共有する観念をもっているということである。個人幻想が共有によって共同幻想にもなりうる契機もはらんででいる。
 映画や小説でこの時間の遠くまで、意識の深みまで挑戦する人がいる。またそのような時間幅と深みをもった作品を探し求めている人たちがいる。
 
 作者は作品を作ってみるがなかなかうまくいかない。面白ければそれでいいのさ、ということも受けて手の自由である。

 夏目漱石のように現代でさえも「良い」と思わせる作家は少ない。また何度でも見たくなる映画も少ない。芸術としての言語、芸術としての映画もとても少ない。 

 いつも違う発想や物の考え方、ぼくの方からの想定が裏切られるようなものをぼくはいつも求めている。

 最近、優れた映画監督を認識した。リドリー・スコット。もうひとつ、
 前から知っていたコーエン兄弟。

 想像世界より現実が強い、と耳にすることもあるが、想像的世界を圧倒感で示すのはスコット監督だ。彼は人間の勇気が好きである。
 コーエン兄弟の映画は苦笑いのなかに人間のちっぽけな悪が巨大に連鎖していく様をみるが、かならず、登場人物にそれを見届ける人物を解決者としておいている。そこに安心感をわざと設定している。ぼくらはいつなんどき、偶然に何かを起こしてしまうかもしれない不気味な社会に生きている。

 芸術として才能を示す作家に現代では村上春樹がいる。彼の短編小説は珠玉である。時間も深みももっている。50年先にも読まれるはずだ。100年と断じる勇気はない。社会が一変しているように思えるからで、想像ができない。過去100年でどれほど変わったか。次の100年はとなると、遥かに想像しにくい。当然芸術家であるならば100年、1000年と生き残っていくはずだ、と思うが、弱きホモ サピエンスは、怠惰大食傲慢強欲憤怒嫉妬虚飾をどう始末するのだろうか。興味深い。100年先を見たいものだ。


 
 


2018年05月29日 | 日記
 黄色い色した梅はないのかと八百屋の大将に訊いたら、あるよ、と答えたが、今頃でてくる梅は梅酒ようやで、と言った。こちらは梅干し用を求めていた。そこにおばあさんがおり、
「梅干し用はもうちょっと一雨ふらなな」と言って、梅干し作りの自慢を始めた。曽根で採ってぃきた梅はまだどうやら早いらしく、しっている人はその辺にいるものである。
 妻が6年ほどまえに初めて梅漬をつくったとき、皮の柔らかい美味しい梅漬ができた。ところが翌年の梅漬は皮が硬く、どうしたことかと困ってしまった。よく熟してからだと、次には黄色くなったものを買った。それでも一回目のようなものができない。
 梅そのもののせいではないか。今年はどの花も早く咲いたからいつが採り頃なのか、わからない
 そのばあさんも、大将「ももうじきじゃい、一雨、あと4、5日で南高梅が出てくるわい」
 
 梅に斑点が出てくるのは農薬を使っていない証拠だという。斑点がでても味には支障がないという。「塩漬にしてな、それで三日三晩干すんさ。それでちょっと塩っぽいようやったらもう一回水に入れて、塩抜きするんさ。こどもらもばあちゃんのが一番旨いというがな」と笑う。
 昼から曽根に行き、また斑点のない大きくて丸い梅を十個ほど採って、塩漬けにして食べてみようと思う。南高梅と比べてみるつもりだ。

 ※昨日の晩は「人間の値打ち」というイタリア映画を見た。イタリアの現代、イタリアの資産家階級、その妻、こどもらの振る舞いや考え方、偶然の運命がとてもよく描かれていた。
 


不快感が残る

2018年05月28日 | 社会・経済・政治
 栃ノ心は惜しかった。久しぶりに優勝の儀式は見なかった。モンゴル同士の結びの一番にシラけるようになった。
 ちょうど相撲の時間の裏でバドミントンの団体戦の決勝があった。桃田の軽々とした印象は世界一ではないか、と思った。世界ランク一位にも、リオデジャネイロオリンピック優勝者にも圧倒勝ちした。
 ダブルスになると、その速さにびっくりする。惜しくも日本は1勝3敗で負けた。中国は強かった。

 バドミントンと言えばインドネシアかと思っていたら、中国、韓国
デンマーク、日本と強いらしい。
 BSがあるのでこんな試合をみることができる。毎日野球の結果を紹介するが、いろいろなスポーツを見せてほしいものだ。

 日大アメフト部の問題で、財務省の文書改竄、色濃く疑わしくなってきた安倍昭恵、谷サエコ、の証人喚問が必須になってきている。
 知らぬ存ぜぬを決め込んでいる安倍首相はどんな気持ちなのだろう。
 
 株主と輸出企業ばかりを応援してきたこの政権は副作用として、銀行を窮地にたたせ、人々の実質賃金を下げてきた。そして忖度させる行政雰囲気を作ってきた。海外では支援金をバラ撒き、アメリカからは軍事備品を大量に買う大判振る舞いをやってきた。ロシアからは経済支援が足りないと言われる始末であり、ロシアは北方領土を返すつもりなどはない。北朝鮮とアメリカが終戦をして、和平への道を進めば、日本がアメリカに代わって戦後賠償の形で多額のお金を出すには筋道としてできているのだろう。本来、そんなお金は日本にあるはずがない。
 日本はすでに経済大国ではない。軍事大国のロシアになぜ経済協力が足りないと言われなければならないのか、わけがわからない。
 マスコミは3000ページの改竄文書や自衛隊イラク日報の報告書など読んでいる暇がない。
 たとえ、悪事であってもニュースの賞味期限がある。今がその時なのだろうか。
 不快感だけが残る。

貴種流離譚

2018年05月27日 | 文学 思想
 今度の図書館での「よもやま話」の課題本は「竹取物語」である。高校生のころ教科書か参考書で知っている程度である。「かぐや姫」という題でお馴染みであり、最近亡くなった高畑勲も「かぐや姫」を題材にしたアニメ映画を作っている。
 このスマホには「青空文庫」という著作権が切れた小説などを読むことができるアプリをダウンロードしてある。「竹取物語」を読んでみた。読んでみて特段におもしろいものでもない、日本での最初の物語と言われている。
 作者は不明だが、反権力者だろうと思える。大納言やら中納言やらがかぐや姫を嫁にほしいと言ってくる。五人の男たちをコケにしている作者の目がある。
 
 またこの話は「貴種流離譚」である。「桃太郎」も同じである。遠いところからやってくる人物、氏素性もわからないが、強く、知恵があり、または美しいものを有り難がってしまう。普遍的にどこにでもあり得る話である。

 この話の逆をぼくは知っている。ぼくは新約聖書「マタイによる福音書」や「マルコのよる福音書」に書かれているイエス・キリストの話を思いだす。
 弟子たちからイエス様の故郷に行こうと言うので、イエスはいくのだが、病気の人達を癒すことができず、つまり奇跡は起こらず、イエスが説法するにも、「あいつは大工の子じゃねえか、兄弟もよく知っている」などと言い、イエスは「故郷や家族、親戚というのは預言者(私)を受け入れない」
と言って出ていってしまう。
 どんなにえらくなっても、どんなに知識を増やしても、えらそうなことを言っても家族には通用しないものだ。
 地方では遠くの学者がきて講演し、ありがたいような話をして帰る。地方に白人の外国人が来ようものなら、「寿司食いねえ」と大歓待するのである。(これが貴種流離譚である)
 イエスのような当時の異端者では故郷もそっぽを向いたことだろう。
 これは貴種流離譚を逆に見たのである、

 「かぐや姫」はその美しさと神秘さからついにミカドから宮に仕えよ、と催促される。物語も極まったところで、貴種はいなくなってしまう。かぐや姫の場合は月に帰るという一大舞台装置が作られている。
 現代の普通の人ならば、有名大学を出た、有名会社で働いていたという幻想の肩書きをもつ人が田舎に移住してきて、物語の極まるところは、その人間もごく普通の人であり、アホでさえあったというオチになることだろう。
 そして相変わらず、家族や親戚、故郷はイエスが言ったとおりだろう。相変わらず外の人を有り難がる。

 

通信販売のことなど

2018年05月26日 | 日記
 テレビ通販で、強力に吸い込むハンディ型の掃除機をみたので買った。6時間充電して初めて使ってみた。吸いまくるのだと思った。車の床面には庭の枯れ草を乗るたびに運んであろう枯れ草が積もるようにある。こんなものもきれいに吸い込んでくれると思った。
 スイッチをつけると、吸い込み力をみるのに、手のひらをあててみた。通常のコードのある掃除機の半分の力もない。枯草も全部、さっさと吸わない。あの画面での紹介はなにもだったのか。誇大広告のように思える。埃は吸った。こんなものを買ってしまったことを後悔した。テレビ通販のものをつい買ってしまったのは2度めである。快眠のサプリ「グリナ」ぼくには合わなかったもか睡眠の質は変わらなかった。2回め購入はせず、電話がかかってきたので、説明し、丁重に断ったが、その後毎日メール広告がくるようになった。毎日削除している。テレビ通販には慎重にならざるを得ない。

 バリ島で家具の買い付けと輸送を手伝ってもらえないかと福岡の人から依頼があった。これはぼくがお金を払って経験してきたことから他人になんらかのことができることを成就するためである。
 近所の人が車にはねられた。手続きがややこしい。保険会社の言いようになってしまう。被害者のほうが結局は損なのだ。だから、母の事故の時に経験したことで、他人のためにする。
 ぼくの体験が無駄ではなかったと自己証明することでもある。

 仕事でてんやわんやしていた時期、特に1980年代。ぼくのアンテナにかかってこず、今時間があるものだから、まるで新品をみるように映画を見ている。
 リドリー・スコット監督作品とコーエン兄弟、かれらが大活躍していた。これは不足する知識、美意識、体験を今になってしているということである。
 人間がもっているかも知れない概念言葉に、勇気、正義、善悪、恐怖、正直、同朋、闘争、知恵、法、決断、失敗、母、父、兄弟、姉妹、子、家族、野蛮、生死、絶望、自由、希望、平和、愛などがあるが、これら抽象語の解釈が映画で繰り広げられている。一流の監督は人間がもつこれらの不可思議な概念と真剣に取り組んでいる。

 

 

 

相撲協会のこと

2018年05月24日 | 日記
 相撲ほど怪我の多いスポーツはないのではないか、と気にかかる。力士の大型化も原因のひとつだろう。膝や肘という力のクッションやバネともなる箇所の使い方がもっと研究されていいような気もするが、年6場所と巡業の多さの見直しも検討されていいのかも知れない。

 「潰す」という言葉をアメフトで耳にするようになったが、日馬富士によって、稀勢の里が潰され、膝の悪い照ノ富士を正座させ、殴る。その照ノ富士は来場所は幕下である。貴乃花親方は干され、貴の岩は再起の二場所目である。暴行事件さえなければ、この力士もそろそろ自分の型を見つけ出す時期であったことを思えば、彼も潰されたのである。
 相撲協会はあの事件のとき、日馬富士を本場所に出すべきではなかったのに、出場させた。日馬富士側についてしまったようにぼくらには思えた。
 この協会は公益財団法人であり、収入が100億円あるのに、払っている税金はわずか15万円である。なぜ、スポーツでこの団体だけが公益法人であるのかも不思議な話だ。
 主婦の方々が「相撲協会の公益法人の取り止め」を管轄省に申し出たニュースを聞いた。もっともである。どうして税金を免除されるのだろう。宗教法人も同様に不可思議さを覚える。
 大相撲に入る若者が少なくなって、相撲協会は外国人力士に頼るようになった。日本人力士だけでは運営できていけないのだ。貴乃花は入門する若者が激減していることを案じていた。
 
 さて話が力士のことになるが、陰ながら、昔ドキュメンタリーをテレビで見たことが切っ掛けで、旭大星を応援してきた。その旭大星が勝ち越した。もう一人、怪我からどん底まで行き、這い上がってきて、自分の相撲の型を見いだした栃ノ心を応援してきた。
白鵬に対して勝ちなしに25敗。しかし栃ノ心がここ三場所で横綱相撲をとっている。
 興奮して結びの一番を見た。がっぷり右四つに組んだ。どちらも得意の型である。去年の秋場所ではこの型になっても白鵬に押し寄られた。同じ格好である。栃ノ心の左腕は強かった。両腕でのひきつけに白鵬もなすすべがなかった。圧倒した寄り切りであった。

 連日満員御礼が続いている。だが大相撲の終わりの始まりがスタートしたように思えてならない。
 十両にならないと給料がない制度。ベーシックインカムもない。怪我をする。寿命が短い。貴乃花の時代には入門力士は多かった。「満員御礼」で我が世の春だと協会の理事たちは安穏としておれまい。
 五年、十年、その先を考える必要がある。

ムチャクチャ日本

2018年05月24日 | 社会・経済・政治
 日本はどうかしてしまったのではないか。
 株価が上向いていうにもかかわらず、実質賃金は下がっている。100時間までの残業を認めようとする。無制限に残業時間に縛られない高度プロフェッショナル制を経団連に言われる通りに行う。残業を100時間してでも、ドイツの一人あたりの生産高に及ばない。ドイツは残業は一日2時間まで。4日続けば一日休みがとれる。
 日本はまず構造的な問題を考えるべきである。
 国会はムチャクチャである。首相もムチャクチャ、財務大臣もムチャクチャ、取り巻きの官僚もムチャクチャ、自民党もムチャクチャである。国民は政権交代可能な野党を育てることはしない。おれらがえらんでやる、という態度である。
 日銀による金融緩和策で銀行が悲鳴を上げている。
 これから4万、5万人の銀行員がリストラとなる。地方銀行の行員は、どこへ再就職できるだろう。
 介護保険がまた上がる。介護保険制度ができたとき、値上げはないと言っていたのに、何度も上げる。年金から取っていく。消費税アップが待っている。また実質賃金が下がる。その分、人は節約する。
 経済の安倍で登場したはずが、経団連の安倍であり、日本会議の安倍である。
 権力に居座るものは腐っている。腐っていることの自覚もない。

 日大の宮川選手は加害者だけど、佐川元理財局長や柳瀬元首相秘書官を比べてみよう。みなわかっているはずだ。


僕らの祖先

2018年05月23日 | 社会・経済・政治
 生命は単細胞から始まり、やがて動物と植物に分かれた。ぼくらの系統は動物のほうに進んだが、分かれる前の名残ものこして、魚類や両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類へと変化していった。故三木成夫の研究で、受精した瞬間から38億年の進化の歴史を胎児の十月十日で一気に進化する様を写真で見ることができる。妊娠3日目のころは海の弱い生き物だったぼくらの祖先は2億年かけて陸に上陸したのだった。この困難な時期がつわりの時期に相当する。
 哺乳類のなかでもネズミのようなぼくらの祖先イクチオステガは生き抜いていき、やがて木の上で暮らすチンパンジーのようになった。チンパンジーから最初の人類が誕生したのはアフリカのジャングルの中であった。祖先は弱かった。いつも他の強い動物の餌食になるかもしれなかった。足と手はまだ同じ形をしていたが、人類は二足歩行の方が食べ物を一度に運べることに気がついた。遺伝子が変化した。やがてアフリカの大地は地殻変動で気候が変わり、ジャングルが樹木の少ないサバンナとなった。生きるのが難しくなってきた。このサバンナで生きるには他の動物のようにメスの取り合いでエネルギーを費やすことを好まなかった。一夫一妻によって、夫が食料をとってきて、妻が子育てをする。それが効率がよかった。熱中症になってしんどくなった動物を長いランニングで追いかけることも覚えた。エネルギーの配分も体に費やすより脳に費やすことで、脳が発達し、やがてこころも芽生えたのである。
 人類は27種いたが最後まで残ったのはホモ・サピエンスである。ヨーロッパにいるネアンデルタール人よりも強くなかった。サピエンスは弱かったから、仲間をつくる人として進化した。ネアンデルタール人が10人の集団をつくれば事は足りると自分の強さを過信したのかもしれない。サピエンスは100人、200人という集団を作った。人類の歴史の中でサピエンスだけとなったのはまだ推定10万年から5万年ほどである。骨髄を掻くだす石器を作りだしてから数百万年がある。
 農業革命が起こるまで、人類の進化はとても遅いものであった。
 
 胎児の頃にもこの時代は長い。

サピエンスは集団を維持、発展させていくために、原始宗教を誕生させた。個人幻想が対幻想を生み出し、集団での狩りから共同幻想を生み出した。この力は強かった。
 胎児はやがて母の体内から外にでるが、宗教まで遺伝子に入っていない。それは母とこの印画紙のように思えるがもしすぐに違う環境で育てれば、わかるはずだ。
 宗教をもたずに今日まできている集団もある。南アメリカにいるピダハンは精霊の概念も言葉もない。右や左みない。当然神もない。

 約40億年を繋いできたその先っぽにぼくがいて、息子、娘、孫たちがいる。これは奇跡である。地球上の35億人は人数が多いのではない。奇跡によって運良く命を次に繋げて生きてきた末の存在である。
 ぼくはいつも想像する。いつ食べられるかわからない海の中でも、川辺ででも、ぼくらは偶然にも絶えることなく命を繋がれてきた。逃げ、隠れ、怯え、拾い、奪い、闘い、守り、与えてきたであろう祖先を想像するのである。

加計問題の山場がきた

2018年05月22日 | 社会・経済・政治
 加計問題も最大の山場になった。山場というのは国民の支持率がどうなるか、という意味においてである。
  憲法記念日の日、NHKスペシャルで「憲法と日本人」という番組があった。それでは1949年から1964年まで政府内に憲法調査会が設けられ、審議員たちはアメリカまで行って、調査をして、日本国憲法の成り立ちを報告した。広瀬参議院議員という戦争中の元大臣が執念深く、憲法改正を訴え、内閣法制局の人間まで使い、頑張ったのだった。その末に憲法調査会が政府内で発足し、鳩山内閣が憲法改正に必要な3分の2の議席を狙って総選挙にうってでたのだった。自民党は惨敗に終わり、議席は3分の1以下になった。国民は認めなかったのである。その憲法調査会も1964年に最終報告として、「アメリカ合衆国に押しつけられた憲法と一方的に言えない」という主旨のことを述べた。
  平和主義は幣原喜重郎の案であることもわかっているし、議会で日本人によって議決された憲法である。
  悲惨な戦争の全面に立ったのは国民である。女房、子供を残し、飢えや、マラリアに苦しみ、空からは一般住宅にまで焼夷弾が落ちてくる。310万人の犠牲の上に成り立った憲法である。国民はこの憲法を享受し、自民党も憲法が生活に定着していることを認めざるを得なかった。憲法改正を要求するアメリカの圧力を躱せたのも憲法のおかげである。アメリカのような自己都合で日本に改正を迫るというやり口はあまり知られていないが、アメリカの圧力を躱しながら自民党政権は憲法改正を封じたのである。
 それが安倍政権となって再び現れてきた。すでに特定秘密保護法、安全保障法、共謀罪法が成立し、憲法解釈によって現憲法が骨抜きにされようとしている。

 広瀬参議院議員は戦争中の大臣時代に前線などには行かなかったのだろう。岸信介にしても中曽根にしても戦争を体験している戦後の政治家は「実際の戦争」を体験していない「理念的な」「頭の中だけの」「上から目線の」戦争体験があるのかもしれない。泥にまみれ、蚊に刺され、飢え、病気になり、家族を思い、未来を失う若者の当事者としての体験はなかったのだろう。
 それで平気で「軍隊」を持たなければ普通の国家ではない、と言えるのだと思う。悲惨な戦争体験をした人々がこの世を去っていく昨今であるが、二度と戦争をしてほしくない。戦争などかっこいいものではない。恐怖と不安のどん底で死んでいくのだ、と言いたいことだろう。

 まして一度明治憲法に戻せと唱える百地章、伊藤哲男、椛島有三や稲田朋美ら成長の家の創始者谷口雅春、組織で言えば日本青年協議会(青年と言っても幹部は団塊世代かちょっと上の世代だ)、日本政策研究センター、日本会議の主張は歴史の後戻りである。安部政権は彼らに乗って、憲法改正をやりたがっている。櫻井良子などはその使い走りだ。
 ぼくはやはり国民の多くは今の憲法の肝の部分は変える必要はないと考えていると思う。
 徴兵制への隙間を作ってはいけない。新しい政権が集団的自衛権も共謀罪も廃止しなければならない。

レプリカント

2018年05月21日 | 映画
 この3月、4月、5月とアクション映画とSF映画をよく見た。中でも傑作だと思ったのは 「プロミテウス」と「エイリアン コヴェナント」だった。こんな創造をする人達というのはどんな人だろう、と思い、監督名に目を凝らすと、リドリー・スコットという英国人(現在はアメリカ住んでいる)だった。ウィキぺディアで調べると、代表作に「グラディエーター」がある。高倉健と松田優作がでた「ブラックレイン」も彼の作品である。
 すで80歳を越えている。「プロメテウス」と「コヴェナント」は大ヒットした彼の「エイリアン」の前日譚である。

 監督は「レプリカント」という言葉を造りだし、「アンドロイド」と区別した。アンドロイドには機械のイメージがつきまとう。レプリカントはあくまで機械ではない人造人間
で、監督は1983年に公開された「ブレードランナー」以降、レプリカントに飽きることのない興味を示している。

 「コヴェナント」ではレプリカントはさらに進化し、寿命までもなくなっている。そしてエイリアンを支配する野望まで抱くようになる。

 ぼくの興味は監督らが描く、未来の都市のイメージや見たこともない惑星の風景である。バックの風景には凝りに凝った美術監督らの想像力が随所に見える。室内でのグラスコップまでも、現在もものと違う。当然、車はビルも登り、空も飛ぶ。

 「ブレードランナー」では新宿歌舞伎町と香港町の混沌とでぃたイメージを参考にしたらしい。ネオンサインの進化したものも、コカ・コーラが相変わらず、巨大電子広告をしているのも、画面を惹き付ける役割をしている。
 見たこともない風景、見たこともない物を映画は見せてくれる。映画だけがもつ力である。
 ぼくは「2001年宇宙の旅」を見たのは1972年。2001年はとっくに過ぎた。スタンリーキューブリックが描いた宇宙ステーションはとっくに現実化している。
 「ブレードランナー 2049」が今年DVD発売となったので、早速借りることにしている。2049年あたりはAI.IoT.ロボティクスによる産業革命の真っ只中だろう。日本の人口が減りに減っている時期である。
 世界はどうなっていることだろう。レプリカントも作られていることだろうか。
 

梅の実をとる

2018年05月20日 | 日記
 梅の実がポツポツと落ち始めた。今年の梅や桜や藤は七日から十日早めの咲いたというから、今日大きな実で、斑点のないきれいな実を2.5kgほど採って、持ち運んだ。剪定していないので、屋根にまで枝先が伸びてしまったので、今度の晴れ間にも剪定しておこうと思う。
 草刈機は順調に萱草などをちょん切った。汗だくになった。手がジンジンとしびれ、指の動きが悪い。
 ボタンを押すだけでエンジンがかかる草刈機はたぶんあるのだろう。ぼくのは、ヒモを引っぱってエンジンをかけるもので、これに最初うんざりするほどの労力を使う。
コツが飲みこめたものの、一回でOKというわけにはいかない。
 マックで休憩して夕飯の買い物にいく。それから相撲である。昨日は栃ノ心対遠藤だったが、遠藤の上腕二頭筋肉断裂で栃ノ心の不戦勝。楽しみが幾つか減った。旭大星は無様な負けかたをした。もっと強く当たれないものか取り口に憤慨する。

 リドリー スコット監督の最高傑作と言われている映画「グレードランナー」をTsutaya で借りた。イオンでかいものしている二人の女性出会い、冗談話をした。
 母親は相変わらず食欲旺盛で、肉やマグロを食べたがるので、今日は肉を選び、デザートに葛もちを買った。
 家に帰り、さて旭大星の相撲を見た。100点満点の押し相撲だった。三重県出身の千代の国も調子がよい。
 夜は「西郷どん」を見て、「ブラックペアン」を見て、NHKスペシャル「縮小ニッポンの衝撃 現役世代3500万人減 80代まで働く時代到来 頼みの綱は外国人!?」を見る予定である。
 

有難いこと

2018年05月19日 | 日記
 夜中の雨も通りすぎて、気持ちのよい朝だった。電話が鳴った 神保さんからだった。「ブログでみたけど、草刈機の刃が替えられんて? おれがしたるさか・・・」「えぅ、できるん?」「できると思うよ」「10時半にもってくで.ありがたいわ」
困りに困っていた。着替えにをして、すぐに草刈機を車に入れて、神保さんの家に向かった。車で1分もかからない。背の高い神保さんは帽子を被って庭から手招きした。
 庭の方まで車で入り、草刈機を取り出すと、神保さんは、「取説にあるやり、
読まんかい」と言いながら、「ここに穴あるやり。ここにこれ差して」というと、レンジをだして六角形のネジをギュギュと時計回りに捻った。すると刃が見事に外れた。ものの10秒。魔法でもなく、ひどく力学的であった。取説をなくしたか、しまい忘れたか、やはり取説はとっておかないとこんなことになる。しきりに反省した。
 神保さんの庭には今、なでしこが咲き、大きなカラーも見事に咲いていた。庭を歩くと、薔薇も最咲いている。いろいろな草木を育て、ハーブ類も、野菜類もある。雑草ひとつなく、彼の徹底ぶりがわかる。
 奥さんもやってきて、ひとしきり尾鷲の町の談義となる。
「奥さん(ぼくの)、フラダンスせんかいな」 ぼくは「フラダンスまだやっとるんかな」「5人でな」と言って、指をさして「そこにホールがあってな」、神保さんは苦笑いしていた。昭和19年の津波のときの状況の話し方を聞いて、尾鷲もは木がいっぱいあるので、またたくまにバラックの仮設住宅ができたことも聞いた。
 息子さんが桑名から単身赴任で、今同居しているらしい。その息子さんは格好のよい大きなバイクの手入れをしていた。潮の岬までツーリングをしたという。311号線を走り、熊野に入り、左に七里ヶ浜の太平洋を見て、紀伊半島の端っこまでバイクで走るのもさぞ、気持ちがよいものかもしれない。ぼくなどは車の運転にも飽きがきていて、面倒さを感じる。

 草刈機の刃が新しくなったので、早速自分の家の雑草を刈った。シュンシュンと切れる。爽快に切れるのである。あっという間に、前日切れていない草も無慈悲に切って、10分くらいですっきりとなった。熊手で草を集め、乾かしてしまう。
 明日は曽根の方をやろう、とやる気満々になった、
 神保さんにはプラグの掃除の仕方まで教わった。
 有難いことだった。もう観念してシルバーセンターに頼もうかと思っていた。
 神保さんは名前を美也というが、まさに背の高い彼はそんな風に見えた。感謝、感謝。

草刈機、アメフト、西城秀樹

2018年05月18日 | 日記
 草苅機の刃を交換するのに、ネジがかたくどうしても回らない。ホームセンターで買ったものだから、刃を交換してくれとも言えず、ああ、こんなのは専門店で買わないといけないな、と反省しきりで、イライラするばかりだ。ネットでも同じ悩みの人がいるらしく、奮闘する様子が書かれている。ネジは時計回りだそうで、刃が回転すればするほどネジはきつく締まっていくそうである。ぼくの道具と力量ではどうにできない。
 草刈機の刃も二年使えばもう切れない。

 アメフトの、バカ話でテレビは占拠され、肝心の改竄や友達優遇の新たなこよがでてきても、アメフトのよう大きくならない。他に大事な審議があるだろうと与党は言い出す始末である。
 西城秀樹が心不全でなくなったというニュースもあった。ニュースは彼の全盛期や病気後の復活への努力を報じるが、歌も聞こえてくる。西城秀樹は歌がうまかったのだと改めて思った。ただ、Young man のような歌は上手く聞こえないのだ。「抱きしめてジルバ」は西城秀樹が郷ひろみにまさった。
 63歳という年だったら、大人のいい歌がまだ歌えるはずだ。惜しかった。
 星由理子も亡くなったと聞いた。
 人の命の運命はわからないものだ。生命の誕生から40億年。人類誕生から700万年、
その一番先っぽで人は死ぬ。
 病院は今日も老人でいっぱいだった。

栃ノ心 いいぞ

2018年05月17日 | 日記
独特な伝統を創り出していった大相撲の世界は「国技」とまで称されるようになり、神への「儀式」とまで呼ばれるようになった。この大掛かりな興行には先人は必要な芯のようなものだったのだろうか。
 現在は「公益財団法人」となって税金も免除されている。土俵上への女人禁制も頑固に守っている。女人禁制を守る意味がどこにあるのか、語れるものはいないだろう。ただ「伝統だから」「そういう風にしてきたから」が精々だろう。
 伝統的なものは徐々に変化して受け継がれていくのもまた事実である。
 番付によって着る物、足袋、草履、帯まで違ってくる。乗り物さえも。
 鬢付け油の香りも大相撲独特のものだ。

 日常生活も朝が早い。新入りの弟子はさぞかし辛抱の生活だろう。料理、買い出し、稽古、昼寝、自主練習、筋力をつけ、体を大きくすることも目標のひとつである。
 力士の凄まじいぶつかりは恐ろしいほどである。
 現在、ぼくは栃ノ心に声援を送っている。怪我で十両まで下がり、そこから這い上がった。遠藤も同様である。怪我で不調であったが、彼は休まず、回復させながらも相撲をとった。そして膝の痛みとうまく付き合いながら、相撲をとるようになったという。
 照の富士も気の毒である。また上がってきてほしいが、今のままだと幕下へ転落である。
 栃ノ心のような這い上がり方をすると、応援したくなる。廻しをとったら俄然強さを発揮するが、この頃は右でも左をとっても、左右上手でも、突きでも勝負ができるようになった。
 今場所を見ていると、今一番強いのではないかと思える。よく相撲という重心や力の伝え方などの極意のようなものを掴んだのかもしれない。
 幼い頃から相撲を見、遊び相撲を取って、またクラブなどで、相撲をとってきた日本の力士とは違い、全く相撲を知らなかった栃ノ心は相撲を身につけたように思える。
 毎日楽しみである。