25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

富の偏在はろくなことはない

2019年07月19日 | 社会・経済・政治
 昨日の京都アニメーションへの放火、爆発事件の犯人は41歳ということである。周辺の聞き取りでは「パクりやがって」という憤怒の声を上げている。京都新聞によると、小説をパクった、と言ったらしい。それが本当か、妄想かはわからない。
 気にかかるのはぼくらが心配する20代、30代、40代での貯金ゼロ48%という人たちのことだ。
 どうもこの41歳の男はガソリンの性質には無知で、結果を想像する力もなかったようである。その上でブチ切れている。
 日本は財政的にはたいへんな借金がある。この借金なんて怖くないよ、インフレをコントロールできるのなら日銀が国債を買い取るのはOKだよ、というMMT(現代貨幣論)の論者を増税反対論者たちが日本に呼んで、講演会などをしている。国債を増やせばよく、増税は反対であるという論理である。
 例えば、政府が20兆円の国債発行したとしよう。すると20兆円は日本も中を駆け巡ることになる。20兆円は国民の資産だということになる。ところが多くの人に自分にも20兆円の一部でも回ってきたら、おお、景気もよくなったか、と消費をするかもしれない。ところが1700兆円の貯蓄があるといっても20代、30代、40代の半分には回ってきていない。どこかに富は偏在している。企業の内部留保金かもしれない。あるいはどこかでお金は眠っているのかもしれない。

 お金の偏在は不安な社会を作る。不安が続くと精神に異常をきたす。自己を客観的に見えなくなり、社会と個人の部屋の区別、いわば個人幻想と共同幻想の区別もつかなくなる。わけのわからない犯罪はおおかたが個人幻想が共同幻想をも凌駕してしまうときに起こるのだ。
 国債を発行して、銀行が買い、それを日銀が買い、日銀が金利やインフレをコントロールできるなら、20代に10兆円、30代に10兆円とあげてもいいはずだ。それをしないのはMMT理論に不安があるからである。ぼくはそう思う。いずれにせよ、富の偏在はろくなことはない。


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