25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

第三期人種混合時代2

2017年10月31日 | 社会・経済・政治

 第三期人種混合時代の現在において、それは急速に勢いをましているように思える。サービス産業での人材不足、例えばクロネコヤマトヤマトお荷物仕分けやBOXのなかの荷物回収などでは大いに活躍しているとクロネコも社長が明るく言っていた。

 フランスのように、二十年後この問題が日本でも深刻な問題となって現れるもだろう、例えば、大不況とか、外国人も犯罪が増えるとかいったときだ。

 おとぎの国のようだったこの国は千二百年、ほぼ人種の交わりがなかった。アメリカとはわけが違うのである。日本列島に稲作をもって入って来た民族と周縁におしこまれた縄文人は、融合していったように思える。まだ大虐殺、大戦争があった記録はまだ出ていない。

 入国管理局の方針はなるべく近い血統の外国人に居住と労働の許可を与えているように思える。白人コンプレックスをもつ日本列島人は、権利や自己防衛意識の高い彼らを大量に雇い入れるとは思えない。優生感を感じる外国人に許可を与えているように思える。スポーツ界でも芸能界でもハーフやクオーターの人も増えた。テレビに映る大活躍する人はほんの少数のはずだから、裾野では相当数根をはっているはずだ。

 人手不足は生産人口が減りはじめたからである。就職率がよいのも、若者の人口が急速に減ったからである。

 このような面からも、格差社会は危険であることを言っておきたい。怠け者の若い日本列島人が勤勉な移住者を排除し始めることもあり得る。

 科学がいくら進歩しても、このような問題は進歩するのに、犠牲と時間がかかり過ぎるのだ。

 

 


体内病院

2017年10月30日 | 社会・経済・政治

 この頃「鬼エビ」がイオンにでている。夕方にいくと安くなっているので、勢い2パック入りを買ってしまう。これを塩茹でして食べると旨いのだ。特にミソが旨い。都会にはでまわらないだろう。地元で食べられてしまう。

 自宅から30メートルほどのところにある干物屋さんの前ではカレイを干している。台風が早めに過ぎて、漁に出たのだろう。すぐに売れてしまうので、「帰りに寄るから残しておいてくれ」と声を掛けておいた。これも都会ででまわらないだろう。少量のものはやはり地産地消となる。

 痩せてもおらず、太ってもいない、これまでみたこともないと思った女優の名前が思い出せず、TSUTAYAでやきもきした。細君に電話をしたが出ない。Google でシャロン とか打っても、ダメで、あのスタイル抜群で超美人を探す手掛かりがなく、一度観た映画をもう一度観ようとしたのを断念した。

 昨日何気なくテレビをみていたら、体内病院ができるのも間近だという科学最前線を紹介する番組があった。1ミリの二万分の1のナノ化して、血液に入れるのだそうだ。それが検査の役割と治療をもする。体内病院か。また人類の科学技術は進歩する。ぼくらの知らないところで、4次産業化が進んでいる。世界はネットワークで繋がっていく。インドネシアでは三十年前に電話を持つ人などほとんどいなかった。一足跳びで、ニキアの携帯電話になり、今はスマホでSNSとなった。SNSでのフェイクニュースで仏教寺院が破壊されるという出来事が起こった。ヨーロッパ発の産業革命がいまもなお文明を支配し、強力に西洋化が図られている。伝統文化を守ろうとする人たちは多数いるが、生活の面はひたひたと変わってきている。バイクがいる。車がいる。携帯電話、テレビがいる。

 大気がずいぶんと冷たくなった。イガミ釣りの季節である。狙っている近場の磯がある。ここは危なくない。以前真下の岩場に落ちそうになったことがあるので、危険な磯にはもう行かない。ほんの近くで全く安全な磯だ。そこにイガミは数匹はいるだろうと思っている。とりとめのない一日である。


小池百合子の真意

2017年10月29日 | 社会・経済・政治

 日本の政治思想も、政治家たちのあいだで、はっきりしてきたし、国民にもわかるようになった。外交や憲法問題では、自民党も、維新も、希望の党も変わらない。内政問題でちょっと変わるという程度だ。立憲民主党は外交と憲法問題で、三党と違う。

 政治ではパラダイムの変化が起きないのに、社会では、様々な分野で革命が起きつつある。医学、情報工学、分子生物学、物理学、化学等。

 われわれは120歳までは事故でもしない限り死なない、しかも若返るというおまけつきで120歳の頃を謳歌しているのも、現実味を帯びてきている。そのことを視野にいれておかないと、政治は何の意味ももたなくなる。つまり、ついていけない。老人が今の掃いてく技術の操作さえついていけんないようにである。

 2022年にはロケットでの旅行が始まる。じそく4000キロのリニアモーターカーが筒の中を飛ぶ。ドローンには人が乗っている。車は水素で走っている。都市の住居は高層化がますます進んでいる。

 小池百合子が政治が遅れ過ぎている、と言っていたが、スピードアップしないと、という彼女の心配はどこにあるのか選挙中ではわからなかったが、バタバタとする政治家は選挙後援会の顔色を伺うばかりで、未来型から現在を視る余裕や才能はなさそうである。小池百合子の「政治の遅れ」の真意を知りたい気がする。 

 

 


想定外のこと

2017年10月28日 | 日記

   細君が東京へ行っていないため、静かに日を過ごしている。小説を書いている。ちょっとはましになってきたのかなあ、と思うほどになっている。

 宮尾登美子が十年書いて、出版社に持ち込み、ダメ出しを食らい、読んでくれさえもしてくれない時期もあったそうだ。十年経って気がついたことは、自分の恥部をさらけ出してしまうしかない、それが説得力ある小説になり得る、と考えるようになり、「櫂」を自分で500部つくったのだそうだ。フム、わかるような気がする。

 そういう言葉に勇気をもらって、明日は完成させ、翌日あらは見直しに入る。

 夜ひとりでいると、頭が冴えて来て、寝つきが悪い。夢も毎日読む。静かな秋雨全線雨が降っている。熊野灘もそこら辺で台風被害があったらしく、鉄工所や電気工事屋さんも忙しそうだ。遊木へいく道路が遮断され、船で工具や資材を運んでいるようであるが、また同じコースの台風が来そうである。

 自然災害はやはり想定外のことが起こると考えておいた方がよい。ぼくの事務所部屋の小さなガラスが破れていて、なんのことはないと紙ではりあわせていたが今日ドキッとした。気がつかなかったのだ。紙の隙間から蔦が入り込み、ガラス戸を這い、ついには電線コードに巻きつき、さらに上の方まで触手を伸ばそうとしている。意思ある生き物のようで気持ちが悪かった、僕がパソコンに向かっている背後で、少しずつ、動いていたのだ。まったくの想定外だった。


読み終えた「遠い山なみの光」

2017年10月27日 | 文学 思想

 カズオ・イシグロの第一作「遠い山なみの光」を読み終えた。比喩表現は一切なく、地の文は風景の様子と動作だけで、あとは会話であった。おもしろかったか、と聞かれれば、面白くなかったと答えるだろう。登場人物らの会話にズレがあったりしたが、人物像も描きがたく、時代が転換したあとの1952年頃の長崎での第一子妊娠時代にであ出会った佐知子とその娘万里子に気にかかり、戦前は校長をしていた義父を登場し、その時期の記憶をたどる、という話だった。佐知子はのちの主人公を思わせ、万里子はその頃お腹にいた景子とダブらせるところに小説的な技法があった。醸し出してくる風景の色合いは薄墨色で、特に「うまいなあ」というのでもなかった。それが英国王立文学協会で賞をとったということに違和感があった。

 よく考えてみると、これは元々は英語で書かれた小説である。ぼくには、会話での言葉使いが妙に奇妙で、粘着質的な会話にどうしてもなじめなかった。英語で読んでいるとどうなるのかそこは目を通してみたい気がする。

 奇をてらい、ストーリーを重視するわけではない。わざと淡々と書いているようであった。

 物語全体が比喩だと言うこともあり得るので、考えてみた。確かに記憶が現在の主人公の比喩にはなっていた。でもそれだけ。小説のテーマはテーマになり得ない時代の急激な変化を思ったのだった。


気も晴れて

2017年10月26日 | 日記

 谷水から池に水をとるバルブが台風で壊れ、流されてしまい、ホースもどこへいったかわからない、というみじめなもので、業者さんのところに行った。5mほどのホースがいるということだが、90mが最少単位で、これにお金がかかるのと、新しいバルブが2個必要で、働き手が二人要るということだった。

 鍵については自分でなおした。ついでに庭の草刈りを「今年の最後草刈りだぞ」と思って草刈り機で、草を刈った。汗だくになった。

 気にかかることがあると、いつまでも放っておくのは落ち着かないので、今日は少しは気分が晴れた。

 今日からぼくは留守番で、明日は一番最初に生まれた孫娘の幼稚園運動会がある。続いて翌日はピアノの発表会がある。リハーサルで、頑として孫娘はお辞儀をしないらしいので、娘も、ババもやきもきしている。どうなるのだろう。お辞儀するのか、しないのか。しないのならどうしてなのか、知りたい気がする。近所のおじちゃんやおばちゃんに囲まれていつわけでもなかった。大都会で、夫婦家族がひっそりと生きているだけである。お節介な人も、優しい人も、親族以外は知らないのではないか。

 「プレバト」見て、「科捜研の女」見て、「ドクターX」見て、と今夜は忙しい。

 


日が悪い

2017年10月24日 | 日記
 
共有経済社会

  土地と家屋と食料を商売に使ってはならない。それらを共有とし安心を皆で保証する。村は先進技術などを取り入れ、住民の経済活動を支援する。この村で製造されるオリーブオイルは平均価格の......
 

  去年の昨日はこんなことを書いていた。天災はというよりも禍は忘れた頃にやってくる。ときどき、まとめてやってくるることもある。

 曽根の貸別荘の池の水は上の山の谷水から引いている、台風でホースが流されてしまった。池に水が来ない。また台風のがくるということで、修理と点検が来月になってしまう。イヤーなことは続くもので、今度は玄関の鍵の調子が悪い。こういう日は用心、用心。引きこんだ方がよい。思わぬ台風被害であった。

 当然不機嫌になってしまう。そう言えば選挙以来不機嫌なのだ。カズオ・イシグロの「遠い山なみの光」も、?????  でちっとも心を打ってこない。あと4分の1に期待している。腰が痛く関節可動域がますます硬くなり、さらに固いものが噛めない。これらのことも不機嫌に加担している。歌でも歌ってパッといくか、とも思ったが、どうも今日は日が悪い。

 


トットちゃん

2017年10月24日 | 社会・経済・政治

 マスコミの小池、希望の党たたきひどいものである。視聴率をとるために、小池都知事を毎日のように報道し、国政出でるかどうか、勝手に憶測しそのうちだんだんと批判するようになり、最後には馬鹿にしきったような様子である。持ち上げられ、落とされるとはこのことだ。

 小池百合子の政治思想は、あるのかないのかわからないが、ぼくにはわかりにかねるので、彼女に賛意を示すことはないが、マスコミは戦前と同様権力であり危うい存在であると小池報道を見ていて思える。

 選挙にでて戦う者と批評コメントばかりする解説者とどちらを評価するかと言えば、ぼくは断然、選挙に出る人の方に価値をおく。マスコミはいわば解説者の集まりであり、自在の出演者を選べ、前線の記者から持ち込まれた映像を自在に編集することができる。

 「トットちゃん」のお父さんに徴兵連絡がきたところで、今日の「トットちゃん」は終わった。トットちゃんの弟は膝のけががもとで熱が出、医者の誤診で、風邪だといわれたが、あっという間に敗血症で死んだ。たぶん死んだ原因には栄養失調もあったろう。

 戦争の悲惨さを回避したり、否定するのは想像力である。アメリカが起こす戦争に付き合って、自衛隊員が死んだら、その家族は「戦争はやめて」と叫ぶことだろう。体験してからでは遅いのだ。想像力で集団的自衛権の危うさを知るしかないのである。

 自衛隊に入る人が少なくなれば、傭兵がでてきたり、ひどく褒賞金の多い募集になったり、それもうまくいかないと徴兵だという道筋が見えてくる。安部政権が扉を開いたのであるから、国民がこれを閉じなければならない。

  くれぐれも戦争にいくのは若い人である。男も女もない。法律を作るものは戦争には行かないのである。こんな理不尽があるものか。

 

 


田原総一朗

2017年10月23日 | 日記

 大雨は降ったが風らしい風はなく台風が東の海上を通って行った。朝外に出ると秋らしい空が広がっていた。

 選挙報道にも飽いて、「遠い山なみの光」を読んでいると眠くなってきた。小説がおもしろくないからそうなったのではない。翌日、録画してあった田原総一朗が司会する総選挙を終えての討論番組をみていたら、田原総一朗が口をモグモグさせてはイライラしながら、司会する態度に呆れて、評論家というのは気楽なものだと思ったのだった。座にいない人を呼び捨てにし、バカと言い、他の者が質問して、回答者が応じようとしているのに、遮って、自分が質問する。

 何様なんだと思う。よく政治家の大物を知っているとか、話をしたとか、自慢のようなことも口にする。だれも田原総一朗に口答えできず、彼をヨイショッする論客ばかりに最近の「朝生」はなってきた。

 小池百合子人気にあやかった多くの候補は落選した。はっきりと集団的自衛権は違憲解釈であると訴えた立憲民主党が野党第一党にからくもなった。

 自民党支持が30%で、反自民党が60%いるというのに、小選挙区制では312の与党議席をとってしまえることにも驚くが、共和主義から発展したアメリカやヨーロッパ先進国と違って、日本はようやく、ヨーロッパ型の政党体制が今回の選挙で芽生えたのではないか、と思う。

 田原総一朗の司会ぶりに嫌気がさして外へでた。庭の草もまた生い茂ってきた。今年最後の草刈りをしなければならないな、それにしても雨の日の庭がずいぶん水はけが悪くなったな、と思い飛び石でも置こうかと考えるのだった。長靴を履かないので、雨用の靴をはく妻はピンとこないようである。

 さてさて。


カズオ・イシグロ

2017年10月21日 | 文学 思想

 このままの勢いで台風が紀伊半島に上陸しようものなら伊勢湾台風並みになる。金魚たちはすっかり動かず、冬眠にでも入った様子である。これは水温もせいか、よほどサギから逃れるのに必死だったから用心しているのか判然としない、

 台風の度に、カーポートの屋根が剥がされ、今回あたりで、全部剥がれそうである。

 カズオ-イシグロの処女作「遠い山波の光」を読んでいる。比喩は一切いまのところない。地の文は風景と人物の挙措だけである。人物像は会話から想像するしかない。漱石は心理の動きを細密に描いたが、イシグロはこれも会話から想像するしかないようになっている。読みやすいが、説明がない分、沈黙の言葉が多くなっている。小川国夫の文に似ていると思った。沈黙もまた究極の言葉である。

 雨が降るので家にいて、DVDをみる。オニカサゴの釣りを見た。続いてアカムツ(のどぐろ)の釣りを見た。のどぐろが美味しいのは妻からも聞いているが、白身魚のトロとも言われているそうな。

夜はアカデミー賞の主演男優賞をついに取った、デ・カプリオの「レヴェナント」、宮部みゆき原作の「ソロモンの偽証」でも見て、台風をやり過ごそうと思っている。寝床でイシグロを読む。ノドグロ、イシグロ、奇妙だ。

 


期日前投票

2017年10月20日 | 日記

 台風がこの地域を直撃しそうな進路予測なので、雨が降っていない今日の午後、期日前投票に行ってきた、市役所は同じことを考えている人が多いのか、投票者で混雑していた。

 最近は台風が外れていき、尾鷲は台風の道から外れてぢあったのか、と思っていて、いつも台風情報をみてもそのとうりだったので、久々強力台風に警戒している。なにせ、外で金魚と芽だかを飼っている。

 一昨日真夜中に強い風を伴う雨が降った。翌日の朝、家の玄関前にサギがいる。金魚かメダカを狙っているのだ。ぼくのいない隙にくる。金魚たちはすっかり怯えてしまったのか、いつものように、ぼくを追いかけるように餌を求めてこないで引っ込んでいる。サギがよほど怖かったのだろうか。それとも、水温が突然低くなったから活動が鈍いのか、ぼくのような素人にはわからない。

 植木鉢を割って、金魚が隠れられるようにと、空間を作った。すると、翌日からそこに隠れるようになった。今朝も妻によると、朝の新聞をとるのに、玄関ドアを開けたらサギがいて、素早く飛び立って行った、という。金魚は餌をあげてもいっこうに食べにこない。それに今度hs台風である。

 こんな心配事など選挙の結果に比べてどうってぉとんしはずだが、身近な事のほうが心配は現実的である。

 デイケアに行っている母にも言って、期日前投票に連れていこうと思っている。実家のトイレの水の出方がおかしい。故障したのかもしれない。毎日、解決していかなければならないことがある。


自分の躰の変化

2017年10月19日 | 日記

 膀胱に夢を見るスイッチでもついているのではないかと近ごろ思う、膀胱に尿がたまってくると結構リアルな夢をみ始めるのは朝方である。夜中にトイレにいくことはめったにないが、この頃は夢を見て、尿意を感じ、それで起床してしまう。したがって、あんなに遅寝、遅起きだったのが、けっこう早寝、早起きとなった。

 最近の医学では互いの臓器が、脳も含めて連絡を取り合っているというから、膀胱や腎臓、脳などが連絡とっているのだろう。それにしてもこの年になってきなぜ?

  もうひとつ疑問がある。夢の時間とうのはどのくらいのものだろう。夢を見ている間に、時間的に長いストーリーのものを見るが、それはその時間分夢をみているのだろうか。

 必死で頭や体を使う夢をみて、疲れて目覚めることもある。夢をみると熟睡感がない。このことは血圧のような血管系と神経系に関係しているのではないか、などと思ってしまう。

 体の変調なのだろう。十年前と比べて血圧も110とかだったのが130台になっている。中性脂肪は相変わらず高い。白血球値もいつも基準より高い。この前は肝臓のΓ-GTP が2ポイント上回った。酒の飲み過ぎだと思って量減らした。我が躰も敏感なものである。そのように敏感であることを自分では自慢気である。でも、油断大敵。やはり、酒量、食べる量が多い。


輪廻転生 佐藤正午

2017年10月18日 | 文学 思想

 月の満ち欠けはぼくらの身体にかなりの影響を与えているのだろう。太陽がなければ植物やぼくらは生きていくことができない、と知っている。月がなければどうなるのだろう。大きな引力がなくなる。女子の生理はどうなるのだろう。潮の満ち引きもなくなるのだろう。体内時計は月時計であるが、太陽時計に身体も統一されるのだろう。月の影響を受けるさまざまな細胞、臓器はどうなるのだろう。

「月の満ち欠け」という題の小説を読む前に、題を目にしてそんなことをぼんやり思った。それにバリ島では満月と新月の日に、必ずお祈りすることも、懐かしい風景として思い出し、それは本当は何を意味しているのだろうと思った。

  小説の内容は「生まれ変わり」の話だった。死んでもまた新月となって満月になるように、題名はこちら側から月が消えては形を変えて膨らみ、また細っていく満ち欠けを「生まれ変わり」に準えているのだった。そしてこの小説はおもしろかった。作者の構成力が優れていた。それに、面打ちされるような言葉が二つあった。ここで言ってしまえば興を損なうのでかかないが、その言葉はヒンズー教を強く信じる人には解ることばなのではないかとも思えた。

 バリ島の人々は輪廻転生を強く信じている。このキーワードが悪事をも、村人たちの規律の元になっている。村落生活を守っていくうえで、人間が考えだした観念だとぼくは思っている。小説では転生した実際の女性をみることになる。あり得ないような話をあり得るかのように書くのが小説家とも言える。1Q84年はあり得るか、あり得ないか。個体の中ではあり得るのではないか。

 さあ、いよいよ最後の十ページくらいになった。そこでわかる。小説家の価値が。


千人殺せるか

2017年10月17日 | 社会・経済・政治

 人一人殺してこい、と言われても普通人間は殺せるものではない。ところが縁さえあれば人千人をも殺してしまうことがあり得るのも人間である。

 戦後、幣原喜重郎や進駐軍によって起草された「戦争放棄」という人類の未来に希望をよせたこの憲法条項は、ぼくの理解によれば、千人もの人を殺すという「縁」を断つものである。集団的自衛権は「縁」を断たず、千人を殺し、殺されることにとびらを開くものである。

 もうひとつこの集団的自衛権について言いたい。この憲法解釈をするのは戦争に行かない人た老人たちである。殺すも殺されるのも、若い自衛官である。あるいは志願する若者かも、徴兵された若者かもしれない。

 現在の内閣で先頭に立って、最前線にいく肝の座った政治家がいるはずもない。アメリカに追従し、戦争にまきこまれたら、反対運動が起きることも想定されて共謀罪も制定されてしまっている。ぼくらはだんだんと身動きができないようになってしまっている。

 安部政権に今人気はなく、不支持率が多いいが、自民党については支持率が多く依然として優勢だと世論調査は伝えている。

 ぼくのような視点から九条が論じられたことも聞かない。もっと憲法についての論議が必要であることは言うまでもない。成長した日本列島人を示すか、後退した日本列島人を示すのかは、この憲法論議にかかっている。ぼくは自分の孫には戦争には参加させない。

 

 


ぼやいて、ぼやいて

2017年10月16日 | 社会・経済・政治

 選挙が大混戦の様相になっている。選挙後、安倍三選はもはやないだろう。森友、加計

それに昭恵夫人のオカルト宗教への入れ込み、それへの各省忖度支援も、国会追及をされ続けるだろう。安倍を与しやすいとねらった元生長の家原理主義者たちの描く工程も狂い始めることだろう。

 僕らは、戦争をせずにすむし、有事の際への戦争反対もまだ言えるくらいの空気をもつことだろう。

 昔の自民党は寛容な党でリベラルから右保守までいたが、憲法を守り、野党にも理解を示し、権力とはどのようなものであるかをわきまえていた。本来宏池会などは立憲民主党の考え方ではなかった。

 共謀罪だの一強内閣への忖度など、国民の反対運動が起これば、結社も、グループ活動も、政権への反対運動をも押さえ込むことのできる共謀罪を廃止してもらいたいものだ。集団的自衛権で、アメリカの戦争に巻き込まれないようにするためには集団的自衛権解釈を止めることだ。武器輸出をでいるようにし、国内の軍事産業を育成し始めたのも安倍だ。困ったことだらけ。経済がよいなどとうそぶく。輸出企業、株主優先にお金をまわしたのは日銀に国債を買わせ、年金で株価を支えただけのことではないか。おかげで企業の内部留保は400兆円。でも本当に景気はよくないから、そのお金も吐き出せない。

 日銀が買い込んだ国債はどうなるのだろう。燃やしてしまうのだろうか。いっこうに減らない政府も借金。25年借金を重ねてあっという間に1030兆円。

 夫婦でぼやいて、怒り、この国の良識はどこへいくのか、とこのところ、選挙の折りながら、そんな話ばかりしている。気分が悪い。