25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

男がダメになっているのか

2016年09月29日 | 社会・経済・政治

  これまでの東京都知事は何をしていたのだろうか、と思うくらい、東京都の豊洲新市場の問題が「延期の鶴の一声」で、行政システムの問題、責任の問題、市場の安全性の問題から、談合、ひいてはオリンピックの建造物のことまで広がり、連日、小池主演のドラマが続いているようである。

 一体男というもの、何をチマチマとえらそうにしているのかと思えてくる。小池はストレートに問題の所在を話し、都政をこうしたいとはっきり言っている。都知事は外交や憲法などに関係なく、都の行政を推進していくだけでいいのだから、まい進できるというものだろう。

 それにしても野々村の詐欺事件は前舛添都知事にも飛び火し、富山市にも飛び火し、おそらく全国に飛び火するのだろう。われわれが払う税金である。それを政務調査費などという名目で政治家の懐に入っていくと思うと、憤怒である。なんと器量の小さい男たちばかりかと嘆かわしい。

 男がダメになっているのか、政治家になろうとする男にダメなものが多いのか、こんな政治家の下で戦争など起こしたらたまったものではない。オリンピックひとつで利権が群がる、それを政治家が仲介しているのではないかと想像させる。だったらオリンピックなどやめればよい。ギリシャはオリンピック後、破綻したではないか。

 科学技術が進展しているにも関わらず、人間の欲というのは変わることもない。

 どうやら秋も冬も、大晦日、正月を過ぎ、来年の都議会議員選までドラマは続くようである。一方、安倍政権は着々と憲法改正を伺っているように思える。北朝鮮や中国が逆に追い風を送ってくれているようである。

 


大相撲も終わって

2016年09月26日 | 日記

  大相撲が終わって、少し寂しくなった。けれど、白鵬が復活してくる九州場所が今から楽しみである。豪栄道はどうなるか、遠藤はどうか、やり直しの稀勢の里はどうか。相変わらず白鵬は強いか。中州のタジマのママさんは元気で砂かぶりに姿を見せるか。九州場所には行ってみたいものだと思うが、チケットをとる面倒さがあって、実行に移せない。

  ところで、長いスポーツニュースをやってもらいたいものだが、今のところ見あたらない。相撲は1時から6時までしっかりあるし、野球もサッカー、テニス、ゴルフもやっているが、リオオリンピックのおかげで、バドミントンのダブルス決勝が放映された。スポーツ競技は他にもいろいろあるので、ぜひ放映してもらいたいものだ。

 漱石の奥さんが語り残した「漱石の思い出」がNHKでドラマ化された。尾野真千子が夏目鏡子にぴったりのように思えて面白い。漱石30歳。まだ熊本で悶々としている。

 もっぱらは俳句を作り、外国の本を読んでいる。死まで、あと19年である。どう描くのかも楽しみにしている。

 そろそろハゼの季節がやってくる。今年もいてくれよ。


豊洲市場のこと

2016年09月23日 | 社会・経済・政治

  経費は安く済んだ方がよく、地震による液状化で建物が傾かないほうはよく、安心安全であればよい。これが豊洲市場の三つの方針だったはずだ。

 建物下に盛り土をせず、空間が現れ、ヒ素だシアンだ鉛だ、と検査結果がで出てきたが、それは海水にあるのとほぼ同様な安全なものであることがわかってきた。すると結論はこうなる。耐震化を考え、地下空間をより厚いコンクリートで覆い、さらに二重にして空間をコンクリートで遮断する。

 それで、ハイお終いとならないのだろうか。

 豊洲問題にはもうひとつ談合や議員の利権のことがある。電気工事では内田という都議連のボスが関係しているらしいし、他の議員にも疑いがかかっている。鹿島建設は都職員の天下り先でもある。これは粛々とやっていけばいいことだ。

 毎日昼の時間は「トト姉ちゃん」を見るまでのこの問題ばかりである。盛り土がいかにも最高の方法だったかのようにマスコミは言うが、液状化対策の専門員会でもなく、石原の言うコンクリートの箱の方がよかったかもしれない。

 だんだんとあんな汚染された土地をなぜ高価な値で買ったのか、決定をしたのは石原だ、となってきていて、気の毒と言えば気の毒である。

 盛り土なしの工法が検討され、コンクリート層を中間に造ることで落ち着くのではないかと今のところ思っている。

 僕は尾鷲に住んでいるのだから、東京都のこの問題をプールサイダーのように見ている。つまり面白がっている。学歴の高い都の関連幹部や担当職員のいかに潔さはないものか。責任をあいまいにする性質を持ち、小池都知事に渡した5ページの調査報告書もいかに杜撰であることか。僕はこの種の人間が嫌いである。コネを効かせる人間の不遜さも嫌いである。

 豊洲の問題は市場の建設物や汚染土については解決するだろうが、人間の高学歴者の狡さの問題は永遠の課題のように思える。そこで、一手は情報公開となり、責任の所在が明らかにわかるプロセスを都民に公開することになる。

 初めはおもしろく見ていたが、この頃は飽きてきた。どれだけITや科学の進歩はあっても人間の中身になると2000千年も3000年も変わっていないような気がする。悪さをする上の奴。何もいわず淡々と権力の下で生きる庶民。庶民にもいろいろあろうが、まあ、人間というものはそう変わらないということだ。

 


キャロル・キング

2016年09月20日 | 音楽

 僕がキャロル・キングを知ったのは1971年だった。1969年に自身による「タペストリー」がでるまでは、アメリカンポップスの作曲家で次々と歌手に楽曲を提供してはヒット曲を連発していた。15歳の頃から作曲していたのだから、宇多田ヒカルのようなものだったのだろう。

僕は You've got a friend.やWill you love me tomorrow? など彼女のLP盤を擦りきれるほどなんども聴いた。先日 ドキュメンタリーで、キャロル・キング出てきてインタビューにも応え、彼女のガーシュイン賞受賞に至るまでの人生を紹介していた。コンサートをほとんどしないシンガーソングライターだったから、僕はこの歳になってはじめて彼女の歌う映像を見た。

 トラウマや貧困などとは無縁な教師の家庭で両親に十分に愛されて育った。母親にピアノを教えてもらった。曲が湧き出てきたらしい。彼女が音楽界にデビューした頃は僕は寺町の路地で、まだテレビもなく、遊んでいた。

 これは想像だが、竹内まりやや山下達郎などは相当影響を受けたのではないか。

 僕はLPを買い続け、ロンドンでも聴き続けた。LPの時代が終わるとCD盤を買い集めた。彼女の歌はシンプルであるが心を歌う深みのようなものがあり、これからも人々よって歌い継がれていくことだろうと思う。ビートルズが真っ先に彼女の歌をカバーした。

 人生に影響を与えてくれた人は何人もいる。歌の世界ではこの人だ。僕は You've got a friend. を耳にすると、元住吉四畳半アパートで、自分の感情を言葉にできないもどかしさや、世界を把握する方法がわからず、悶えていたころを思い出す。

 インタビューキャロルは少女のように見えたのは不思議だった。

 


責任の曖昧さ

2016年09月18日 | 社会・経済・政治

 例えば、学校の教師が間違いを起こした場合、謝るのは校長や教育長である。大の大人が堂々と謝罪しない。

 日本にはなぜか責任の所在を曖昧にしてしまうところがあり、僕にはみっともないことに思える。

 豊洲の問題も、責任のなすりつけあいがはじまりそうだ。都議会のドンと豊洲市場の電気工事会社との関係や、談合らしき落札率などを見ていると、なにか怪しいと思う。小池知事が大汚染浄化をやってくれるとよい。

 富山市の市議会の詐欺議員たちは、どのように野々村元議員や舛添元知事の問題を見ていたのだろう。我が身に及ぶことも考えなかったのだろうか。借金大国の国で、何を考えて税金や交付金の使い方を討議してきたのだろう。政務調査費など本当にいるものなのだろうか。60万円の月給を70万円にするというのもいかがなものだろうか。まして富山市42万人の市に40人もの議員が要るものだろうか。

  市町村の議員はボランティアと考えている国もある。

 日本も抱える問題が多くなってきた。外国との関係、地方政権与党の腐敗、困難な財政問題、人手不足というのに、10兆円の追加経済対策、輸出業者への手厚い支援をしても、2%の物価上昇もできない。さらに消費者にはさほど買うものもないし、老後不安のために節約志向となる状況。

 もしも、安倍政権が失敗したら、責任は退陣というだけである。責任はその程度である。腹を切るくらいのことを考えてもらいたいものだ。

 今回の東京都の様子をみていても、天下り先が多いのにも驚く。

 経済成長主義という価値観や政策観はそろそろ検討されなければならない。尾鷲で言えば、地場産業を叫ぶのが虚ろであるのと同じようにである。

 

 


不快

2016年09月16日 | 日記

  2つのウォーターボトルに水を入れてそれを毎回20回ほど持ち上げる。いくつかの筋肉トレーニングをしていたら、左肩あたりなのか腕の付け根あたりなのか、そこを傷めてしまい、左腕をある角度にすると痛い。この不快がもう二ヶ月ほど続いている。

 この前、歯周病なのか下の歯がぐらついて、痛く、歯医者にいくと抜くしかない、というので、困ったことだと思い、一本でも残したいと思うものの、そう言われてしかたなく抜いた。すると今度はその隣に感染してきた。歯科医というのはどうして「歯周病」を治せないのだろう。いつも不思議に思っている。治せる歯医者さんはないものなのか。技術はないものか。

 要するに身体的に不快な日々を送っているのである。すると精神衛生的にもよくない。イラつく。食べる物に気を使わなければならない。精神が元気になれない。

 目もよくない。この前テレビを見ていたら、画面の一部がぼんやりする。これはやばい、と気をもんだが、翌日以降がその現象がでていないので、放ってある。何かの予兆だと思うのだが。耳鳴りは小さくいつもしている。髪の毛は細くなってから久しい。

 なんというか、血管系や内臓系では別段異常はなく、血圧も高くなければ、血糖値も肝臓や腎臓の数値にも異常はない。免疫系も普通である。

 歯、目、耳、腕、髪の毛、外と関係するところが悪くなっている。案外しんどいものだ。ひとつひとつ解決していかなければならないのだろう。普通、人はそんな風なことを解決して年を重ねていくのか、と思うとややうんざりもする。

 もう、なまこ、あわび、干したスルメイカなどは食えない。あああ、と思うのである。 


リピドー

2016年09月14日 | 日記

 この頃リピドー( Libido)について考えることがある。日常的には性的欲望または性衝動と同義に用いられる。母子の授乳、この時に母の乳首を男根にたとえ、乳児の口を膣とたとえると、母はその時は男性となり、乳児はすべて女性となる。これが本能的に備わった哺乳類のリピドーの始まりであると僕は理解している。間違っているかもしれない。このリピドーは生きるエネルギーに変換されていく。

 この前、NHKの「桑田佳祐 昭和歌謡を歌う」の中で、インタビューアーが、桑田歌にはどこかにエロい歌詞があるとかどうとか、それはなぜかみたいなことを訊いていた。すると桑田は、「僕らの頃にね、〇〇パンチとか〇〇ボーイとかあってね、それ見て、想像力を刺激されちゃってね、そのエロい想像力が、バネになってね、エネルギーになってね・・・」みたいな趣旨のことを言っていた。

 ああ、この人はリピドーってことがわかっている人なんだ、とその時、僕は思ったのだった。名声を得たい、金持ちになりたい、名誉を得たい、美味しい物が食べたい、異性と付き合いたい、こういったエネルギーもリピドーのなせることではないか。

 このリピドーの強さ、弱さは個人によって違うのかもしれないが、50歳や60歳、70歳になってもリピドーが溢れる人がいる。これは何か。精神の鍛錬なのか、性格なのか、つまり物の考え方によるものなのか。

 昨日知り合いに偶然出会って、顔がどす黒く、覇気がなく、どうしたんだろう、体のどこかが悪いのではないかと心配した。おそらくリピドーが失われつつあるのかもしれない。美は健康に宿ると同じようにリピドーも健康に宿るのかもしれないが、それは精神とも多分に結びついていて、精神のリピドーが肉体のリピドーと連携して、ホルモンも、エロスも前に進もうという力も湧いてくるもののように思える。

 リピドーはすべての人間活動の変形として考えられ、リビドーは無意識を源泉とする。性にまつわるものだけでなく、より正確には人間の性を非常にバラエティに富んだものへと向ける本質的な力と考えられている。

 整形手術で若く見える人も、「整形をしてまで若く見せたい」というエネルギーを持っている。逆に、化粧ひとつしなくても精神が若々しい人もいる。そういう人は健康でもある、ように思える。

 どうやらリピードを持って生まれ、リピードーが消失して終わるのが人間のようだ。週刊誌二誌が「六十代からの性」を昨年あたりから毎週のように扱うのは、作り手側もリピドーを何かしら感じているからなのだろう。


くたびれるけど

2016年09月13日 | 日記

  三日続けて草刈りをし、やはりくたびれてしまった。これで2回目の草刈りである。あと一回しなければならないだろうと思うが、次は最終なので、剪定も含めて、シルバーセンターにお願いしようかとも思う。くたびれて、コーヒーでも飲んで少々くつろぎ、買い物をし、相撲観戦となる。今場所は白鵬がいないせいか、場所に重しがないような気がして、奇妙な気分である。二日間の相撲を見ていて、「琴奨菊」「豪栄道」「日馬富士」の調子がよさそうである。「御嶽海」「隠岐の海」「若の岩」も連勝している。中でも「若の岩」は相撲も早くなり、圧力も増し、相当に強い力士になりそうである。録画で十両取り組みも見ている。宇良と石浦の相撲は面白い。幕内に早く上がってもらいたいものだ。石浦が、犬が小便をしたあとに後ろ足で土を掻くような仕草をするのでおもしろく、奇妙なルーティーンもあるものだと思ったりする。

 夕方を過ぎると体力が戻り始める。「プレバト」の俳句のコーナーが好きなので、図書館で借りたプレバトの添削講師である夏井いつきの「俳句の作り方」を読んだ。添削の仕方を見ていると言葉の魔術師のように思える。作り方としてのコツは思ったこと、見たこと、感じたことをまずなんでもよいから12語で作り、それから歳時記を見て、どこかに季語を入れる。まず基本がこれで、これをああでもないこうでもないと一番ふさわしいものにしていくらしい。

 一日というのは淡々と過ぎていくものだが、目から入る情報は多種多様である。豊洲新市場の問題、北朝鮮の核実験、ヒラリークリントンの肺炎から健康問題、フィリピンのルテルデ大統領のオバマ大統領への遠慮のない言説、それに民進党の代表選挙戦、蓮舫候補の二重国籍などといやがらせの排他的な週刊誌やネットニュース。特に蓮舫候補に対して、産経新聞社などのインテリであるはずのものたちが、いやがらせの記事を書く。朝日新聞もやや問題にしていた。不思議なことだ。この国はインテリが、特にジャーナリズムが二流なのかと思ってしまう。

 東京都は新しい知事の登場で、次々と都庁職員のいい加減さが明るみにでてきている。豊洲に850万円もどうしてかかったのかも、検査の場所などについても徹底してもらいたいものだ。途中で放り投げた石原慎太郎は下手な文を書いて、田中角栄をほめそやし、いかにも作家であるような格好をしている。この人の文を読んでみるとよい。稚拙も甚だしい。

 


林忠崇 逝きし世の面影

2016年09月08日 | 文学 思想

   こんな男がいたとは知らなかった。上総請西藩で十九歳で徳川譜代の藩主となった林忠崇である。忠誠を誓う将軍・慶喜は水戸で謹慎して恭順姿勢・・・藩主である自分が自ら挙兵したなら、藩も領民も戦いに巻き込む事になると考えて、彼は脱藩する。そして幕府軍の遊撃隊に飛び込むのである。鳥羽伏見の戦いから始めまった戊辰戦争で、彼は各地を転戦する。箱根戦争、東北戦争、函館戦争などなどだ。徳川家が存続され、慶喜の命も助かると聞いて、忠義は終わった、と降伏し、幽閉生活を地元に戻り百姓を始める。実際には、5ヶ月前の閏4月29日に決定していた事であるが、各地を点々としていた彼の耳には入っていなかったようである。

このニュースを聞いた忠崇は、
「もともとの願いが叶った以上、この先の抵抗は私利私欲の無意味な戦い・・・戦いのための戦いになる」
と、あっさりと降伏する。自らの死を目の前にして、うろたえて悪あがきする事なく、冷静に先を読むわずか21歳の青年は、家臣と引き離され、新政府によって監禁される事になる。幸いな事に切腹は免れ、しばらくの獄中生活の後、明治五年(1872年)に釈放され、晴れて自由の身となった。

 時代は長州と薩摩の時代に入った。

 ここからが面白い。彼は藩主ではない。脱藩したのである。藩主であれば男爵などの爵位が与えられる。やがて元の藩で百姓となる。それから東京の下級官吏になる。やがてやめて北海道で物産賞の番頭をする。その後も大阪の役所の戸籍係となり、職を転々とする。教師もする。その辺の経緯の彼の内面はわからない。

 彼は己の生涯について全く愚痴らしきことはいわず、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応、明治、大正、昭和という時の流れを生きたのである。長州の吉田松陰が唱えたアジア侵略を長州の政権が実行に移してきた、その流れも見ていたのである。それを思うと胸が熱くなってしまう。

 琴となり 下駄になるのも 桐の運

昭和16年、94歳で死んだ時、アパートに暮らしていたというが、近所の人は「お殿様だった」ことは誰も知らず、家臣の子孫たちが参列して驚いたらしい。家臣のひとりが辞世の句を聞いたという。すると彼は辞世は明治元年に詠んだ、今はない」と答えたという。21歳の時の辞世、

 真心の あるかなきかはほうり出す 腹の血潮の色にこそ知れ

 写真

 こういう男がいたことに僕は感動する。潔さ、筋を通す倫理観、不要不言。胆力。

 思えばひとつ戦争もない日本列島の稀有な時代が江戸時代であった。多くの日本を幕末、明治初期に訪れた外国人はこの国のおとぎの国のような美しさと人間の優しさに触れ、西洋のようになってはいけないと日記や手紙に書いたのであった。

 逝きし世の面影 (渡辺京三  平凡社ライブラリー)に詳しい。

 


映画「パガニーニ」とN響まろさんの話

2016年09月07日 | 映画

  脚本家の中園ミホはフランス映画の「男と女」を100回は見たという。僕などいくら「ドクタージバゴ」が好きだからと言って、精々5回くらいのものである。「ゴッドファーザー」でも3回ほどだ。

 久しぶりで外国映画をDVDで見た。「パガニーニ」(原題 Devil's Violinist)を見た。その中で、パガニーニが伴奏をして若い女性が歌うアリアは素晴らしく良かった。ソプラノの高い歌声とパガニーニのバイオリン伴奏は清冽であり、美しい風のようであり、澄み切った小川のようでもあったが、内面の熱情をもしっかりと歌い込んだものであった。久しぶりでこんな良い歌にめぐり逢った。まだ二十歳にもならない乙女をパガニーニは好きになってしまう。しかしそれは引き離さなければならない愛であった。絶望のままに、博打に狂い、アヘンをやり、水銀中毒になっているパガニーニの愛を成就をさせられないと考える、彼の天才性を売り出す世話人の気遣いであった。

 「超絶技巧」で有名なパガニーニだが、後世の評価はやや低かった。映画や小説というのは所詮作り話である。同じ人物を立場を変えてみると、さまざまであるだろう。

 ところで、音楽のことで言えば、先日NHK交響楽団が「N響ほっとコンサート」をやっていた。第二部で「まろさん(篠崎史紀コンサートマスター)と指揮者の広上淳一の対談には、特にまろさんの言葉には目からうろこが落ちる思いだった。知っている、気がついているはずなのに、最近忘れていた、と言っていいだろうか。音楽は感性で聞くものである。これはわかる。しかしながら、自分の想像力を越えた想像力、これが楽しみなことだという風な意味のことを言っていた。

 そして自分風に面白かったのは感性で聞く音楽にも関わらず、教えるときは、「今日は暑い日でした。しかし・・・、とか そして・・・」とか接続詞があると、次に何かなって想像力が働くよね」などと演奏の仕方をしっかり言葉で説明しているのである。演奏する側は言葉の解釈と感性の磨きと技術が求められる。教える側はより言葉の操作が求められる。聴く側は感性だけでよいということになる。そんなことを思いながら、この対談を楽しんだ。  


世良修蔵と奥羽越列藩同盟

2016年09月06日 | 社会・経済・政治

  世良修蔵という東北鎮撫総督府下参謀となって第二奇兵隊の大将を務めた卑しい男がいた。会津を攻めるため、仙台に到着すると、武士の礼儀もわきまえず、この男とこの隊は女を強姦し、酒に溺れては、女を強姦するという振る舞いであった。さすがNHKの「八重の桜」ではこにのすさまじさは描けなかったのだろう。この男の所業が、奥羽越列藩が薩長軍と和平工作しているところに、火をつけたようなものだった。仙台藩の武士たちが怒りに耐えかねて、この男を斬首してしまうのである。この噂を聞いた奥羽越列藩の武士たちは喝采をしたらしい。それほどひどい、下卑た男だった。遊び金は水戸藩から出させ、商家を脅迫してお金を出させる。女を犯す。人は殺す。

 この暗殺で奥羽越列藩同盟、中でも会津藩、二本松藩、長岡藩などの惨劇が起こることになった。潔い奥羽の武士たちも「官賊」と対決することになった。世良修蔵ひとりがどれだけの老若男女を死に至らしめたか。

 歴史で「もしも」「だったら」は禁句であろうが、一人の地位ある人間の振る舞いが、多数を死に至らしめるということは知っておいた方がよいと思う。

 思えば、薩長政権はすでに148年続いている。吉田松陰が唱えた外国進出は長州陸軍によって、昭和12年より展開を見せた。そして外国人も日本人にも多大な命を失わせ、敗戦となったが、まだその政権は今も脈々と続いている。そして東北はいつも関東や西側に支配され続けている。福島になぜ東京電力があるのか、考えただけでもわかる。

 すでに莫大な借金で消費をあおり、経済成長主義、アメリカに追随するグローバル主義を主張する中央集権体制は崩壊しつつある。地方分権、道州制など現政権が許すわけがない。ところが地方はどんどん凋落し、東京開発が闇の中で進み、マスコミは取材能力と発言力がないとなれば、これは崩壊の兆しである。

 


税金詐欺オリンピック

2016年09月05日 | 社会・経済・政治

 豊洲市場の建設費。東京オリンピックの各種競技場の建設費のニュースなどを聞いていると、ボート競技場は当初予算の15倍になり、再検討されても7倍になっている。巧妙なのはオリンピック予算から出さないで、環境課であるとか、産業局だとかが替わって予算をとり、ボート競技場や仮設施設のお金を出すという風である。コンパクトなオリンピックで1兆円も見込んでいなかったのに、今や2兆円とか3兆円と言われている。ひどいものだ。土木事業や建設業という公共投資をしたら景気がよくなると本気でまだ思っているのだとしたら、政治家も官僚もどうかしている。

 これは税金から巧妙に盗み取る詐欺のようなものだ。巧妙にすり替えていくプロセスなどは情報公開されないため、舛添前知事がそのまま知事をやっていたら、全く藪の中であった。小池知事が「情報公開」を言い始めてから、マスコミも問題視するようになった。本当はマスコミも以前から取材し、情報を発信するべきだあった。

 何か、建設費に関する闇があるのではないかと疑う。資材費の高騰、人件費の高騰というが2%、物価を上昇させるのに躍起になっているというのに、どうしてオリンピック施設が何倍にもなっていくのか。当初の企画案が相当杜撰だったのか、はなから国民、都民をだましたのか、あとでどんなにしてでも予算は追加できる、という慣習なのか、普通の企業では考えられないことだ。

 こうなるとオリンピックを終えたギリシャが経済破綻したのと同じようなことが起こるのではないか、と現実味を帯びてくるという感想をもつことになる。もっと有効に税金を使えないものか。国の借金は増え続けているというのに。

 あまりにも オリンピック誘致から派生する予算取りは「えげつない」。えげつなさに満ちている。 


水温の変化が心配

2016年09月03日 | 日記

  今日はちょっと嬉しいことがあった。新宮のイオンにハイランドのスコッチウイスキー、グレンモレンジー シングルモルトがあったのである。デパートやモールにいくと必ず探してみるのだが、いつも見あたらない。それがあったので興奮して、衝動買いをしてしまった。

  外は台風の目の雨である。明日も雨ということである。夜、音楽でも聴きながら、飲もうかと、楽しみである。

  近年、台風や大雨がない尾鷲である。幸運というしかない。料理屋さんで、この頃は尾鷲でも メバルが釣れるんだと聞いた。これまでは釣れなかった魚である。これは嬉しいことだ。しかし心配もある。

  僕の楽しみのひとつに、ハゼ釣りがある。このハゼがいなくなるのではないかと心配するのである。よく釣れていたポイントでは3年前から全くハゼの姿が見えなくなった。もうひとつ知っているところではハゼがいたので ひと安心したのである。この場所でいなくなると、ガックリとなるので、いまから心配しているのである。

 しかしながらつくづく日本は災害列島である。そして近年は亜熱帯化して夏などは東南アジアの年のなかでも最も日本の都市が暑いのではないだろうか。これはやは料理人工的な要因も加味しなければ ならないのだろう。

 

 

 

 


病気の原因

2016年09月02日 | 社会・経済・政治

「まあ、えのもとさん、歌うまいん!」などと褒め殺しをするスナックのママさんがいて、これには参る。褒められると悪い気がしないものである。そういう褒め殺しのママさんが、もしも客に合わせて人の噂話などに、うっかりと、あるいは性分としてか、他者を悪くいってしまうと、「ほめ殺し」は暗転して薄気味悪いものになる。

 客商売の繁盛のコツは「見ざる、言わざる、聞かざる」。他店、人の悪口だけは言わないことである。コメダやマックなどに客が多いのは店の主人と話などできない、遠距離、スタッフとの会話無しスタイルだからである。気楽なのだ。

 小さな美容院とかエステとかスナックは目的は髪を整えたり、マッサージをしたり、酒を飲ませて歌わせることなのに、そこに客の愚痴話などを聞かされることになるからストレスがたまることだろう。

 僕は病気のほとんどの原因が「他者との関係性」ではないかと思っている。もちろん過度の飲酒は命を縮めるのはよく目にしている。しかしストレスというのは自然からのストレスもあるが、大方は人間関係のストレスである。自己の成り立ちがストレスを作る場合もあれば、ストレスに耐え切れない場合もあろう。

 ストレスを避けているのが現代日本人の傾向ではなかろうか。だからほどほどの付き合いをする程度で、上司に誘われても飲みに行かない人も増えているのだろう。


大衆の無意識

2016年09月01日 | 文学 思想

 昨日、行司となる若者を主人公にした、青春小説を書き終えた。さっそく今日から手直し、校正をしている。「相撲とりになるど」のスピンオフ小説である。勉強に身が入らず、デザインの専門学校いこうか、どうしたらよいか、迷っている高校3年生。相撲部屋をやっている叔父から、行司枠が空いたので、和馬に声をかける。カメラの眼をもっているのを叔父は知っている。 おもしろおかしく書いているわけではない。真面目に、18歳の少年を描いたつもりである。

  テレビドラマで「家を売る」という北川景子のドラマがある。セリフを聞いていると、これじゃあ明治の漱石も敵わんぜ、と思わず思う。脚本技術は進みまくり、 小説でいわんとすることをこともなげそうに、人の気持ちを書いてしまい、役者は演じてしまう。裾野がひろがったサブカルチャーはサブをとっていいのかもしれない。「坊っちゃん」と「家を売る」とでは断然、「家を売る」の方が面白い。それはそうだろう。明治時代に「坊っちゃん」程度の読み物なんてなかったのだから。言語のみで表現できる芸術は、俳句や短歌以外にあり得るのだろうかとも思えてくる。たしかに「千年の愉楽」は本が勝っていた。テレビドラマや映画にできないものもある。逆もある。芸術は分野も飛び散ってひろがっていったが、大切な作品として残していくのは、なんとも知れぬ大衆の無意識なのだろう。良いものを残すというなにかが働くのだろう。芥川賞をとっても、残らない作家はいっぱいいる。面白く読んでも心にしみ、残らない作品は星の数ほどある。