25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

へそくり社長

2019年07月29日 | 映画
息子がいつものようにいろいろなDVDをもってきて夜孫娘も寝てから、付き合って見ている。1956年の白黒映画で森繁久彌主演の「へそくり社長」が第一弾で、これにはクスクスと笑ってしまった。この時代の映画を見るとき、当時の風景やファッション、言葉使い、知っている俳優の若いころの姿を見るのもストーリーや演技だけでなく楽しいものだ。1956年と言えば、ぼくは6歳で、東京のこの商事会社の社長は本当は米のご飯を食べたいのに、越路吹雪演じる奥さんに入り婿ゆえつよいことも言えず、パンやスープ、野菜ジュースが朝食である。ご飯もの、例えば寿司などは禁じられている。今、思えば、1956年には今の家庭の食卓をやっていたわけで、わざと監督たちが未来を予測したのか、アメリカンブレックファーストを揶揄ったのかはわからない。

小林桂樹や司葉子、三木のり平が出ている。藤間紫も八千草薫、古川緑波、上原謙らが出ている。ゆるーい映画である。高度成長期に入る頃なのだろう。11年前の荒れ地から東京は回復していた。
 尾鷲も、6歳の頃は幼稚園に行っていたし、元気にあそびまくっていた。姉がいたし、路地にはぼくより二、三歳上の子供が結構いたので、よく遊んでいた。当時はまだ路地の向いは役場で路地では役場の男たちが丸い筒のようなところから紙を取り出して、設計図を日光であぶってというか、なんらかのことをして、のんびりと仕事をしていた。尾鷲はそれまでの町から市になり、役場の移転も決まり、それまでの役場と消防署は取り壊され、小学6年生頃までは空き地となった時期があった。紀勢本線をつなげる工事があり、続いて水力発電の工事、国道42号線の建設、三田火力発電所の工事と続き、尾鷲市はぼくが高校生になる頃には3万4千人ほどの人口となり、外からの労働者も来て、賑わっていた。現在の商店街は見る影もないが、昔は商店街通りを歩けば肩があたるくらい人がいたのである。

 東京のこの映画の商事会社もこれから大きくなっていくのだろう。芸者屋や置き屋は戦後の復興と洋式のものが入ってくることで、すたれ始めた。スナックやバーができ始め、飲み代は会社のツケとなって、社用族が夜の遊びを変えていった。この辺の変化は有吉佐和子の「木瓜の花」に詳しく書かれている。

 源氏鶏太のサラリーマン小説が売れる中で、青春小説は石坂洋次郎の「青い山脈」を代表に明るいよ、日本は変わってゆくよ、女性だって物言うぞ、希望なんていくらでもあるさ、みたいな世の中だったように映画を見ていて思える。知らないところでは貧困や、貧困からくる誘拐事件や殺人事件はあり、差別されるものはされ、外を知らない島国人間そのものだったのだろうが、兎に角復興、そのための工事、建設だったから戦争が一番の経済復興の要因であったと認めるしかない。その復興、それを引き継ぐように高度経済成長期が終われば、日本人はどうしてよいかわからなくなった。西洋、アメリカから真似るものはほとんど真似た。社交ダンスといえば、着物を着てまでして踊る女性の姿があった。ロックが流行れば日本列島の若者も真似た。

 今を映画で、社長シリーズなど作りようもない。映画はストーリーが重視され、面白く、または切なく、感動を呼び、憤怒にテンションを上げるしかない。
 まさに日本の現代とは是枝裕和監督が描いたように「万引き家族」に象徴されるのかもしれない。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿