25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

大晦日

2017年12月31日 | 日記

 大晦日は温かく、曽根にはグループで、釣りを楽しむ人が結構な数が来ている。ぼくらであれば、遠出することなく、家族で紅白歌合戦でも見て、ゆく年くる年でも見て、となる。生涯で一度だけ、31日をニューヨークで過ごしたことがある。カウントダウンにもいかず、芸術家も愛したチェルシーホテルで、「Independent Day」を見ていた、翌日も1日は人の気がなく、教会には多くの人がいた。公園の公衆トイレは安全のためか仕切りがなかった。

 休みのニューヨークはガラガラなのだった。翌日に家族のいるシアトルのマーサーアイランドに戻った。紅白歌合戦を正月に見るの妙な感じで、ゆく年くる年感がなかった。

 今年は、ゆったりと時間が過ぎた。急くことなく一年が過ぎるというのはありがたいことだ。

 来年も多くの本を読む。新しい出会いも期待する。新しいアクションも起こしたい。

 

 

 


生と死の距離

2017年12月30日 | 日記

 病院が休みなので、母親のリハビリをしに行った。大腿四頭筋や腹筋を鍛えるためである。座って脚を上げ、力を込めて下げるときに抵抗を加える。片方を5回し、次の方を5回、これを3セット。息子を連れて行った。母親は苦笑いしながら息子の名前が思い出せず、関係性がわからなかった。ぼくの「孫かな」とも言った。

 母はすこぶる元気で、自分の認知について疑っていない。一方ひ孫の方は先の夏にバーベキューを一緒にしたことを覚えている。どうも、6歳と92.歳とではそうなるのか。

 ぼくは今一番相性が合うの中学生から高校生くらいだとおもう。80歳くらいになると、小学生、もしくは幼稚園児くらいかなと思う。

 今、自分が中学生相手の塾を開けば、一番の物言いができるだろうし、怒ることもテンパることないだろう。英語、数学理科、国語、プログラミングが教えられtらよい。

 尾鷲にはそれを担う塾がないので、ウズウズしているところである。

 さておき、今日の曽根の海は静かに青かった。ところどころで白い、波模様が小さく立っていた。この曽根の海には渡る船もない。不思議な感じになる。尾鷲の家に帰れば、DVD映画がある。そこには「猿の惑星」も「エイリアン3」もいる。そして暇をもてあまして、脳を刺激したいと思う。これが卑しいとも思う。

 孫娘はすくすくと育っているが、しっかりとぼくらの会話を聞いている。あくまで孫娘は自分本位で動いているように思えるが、耳を立てて聞いている。それが刻印される。

 孫娘はぼくの母との今日の面談を覚えているかもしれない。だが、母はきっと何も覚えていないだろう。記憶を閉じる母と記憶を開けて吸収していく孫娘。これは大変な人生哲学である。生と死の問題がわずかの距離にあるのだ。


「狩人の夜」

2017年12月30日 | 映画

 息子たちがやってきて、息子は休み中に、5本の映画を観ると言って張り切っている。多分ぼくのアンテナではとらえられなものだ。昨日付き合って見たのは1955年のアメリカ映画で、当時上映禁止れて、この監督が残したたった一本の作品である。監督の名前は忘れた。「狩人の夜」で検索すれば出てくると思う。ぼくには1939年代のアメリカ人の生活あ倫理観がよくわかり、背景の映像も珍しく、殺人鬼に追われる少年とその妹の逃亡劇であるが、その後のアメリカ映画のひとつのモデルを提示したようなものだった。英三が暗喩として挿入される場面も多々あった。監督の死後20年経って世に認められ、今ではアメリカ人がみなければならない50の映画に推薦されている。日本にも配給されたのだから、たいしたもんだ。

 もうひとつは若尾文子主演で、川口浩が相手役の「最高殊勲夫人」という1959年の大映映画だった。山の手の会社社長や有閑マダム、サラリーマンの上昇志向、女子社員の結婚願望という当時の金持ち社会を描いたものだった。

 ぼくなどは大映映画というと、なんだか大人の映画で、馴染めず、避けてきた映画だった。

この「最高殊勲夫人」を見ていたら、漱石の「明暗」に登場する社長の夫人が思い起こされた。暇な夫人が夫の肩書きを武器につまらない画策をする。

 ぼくらにはない世界だけに、ああ、こういう有閑マダムは今もいるものなのか、と思うのだった。

 一方で日活は若い労働者の映画を作っていた。「キューポラのある町」を思い出す。ぼくは、吉永小百合や倍賞千恵子の映画の方を見た。

 これも息子が持ってこなかったらほぼ見なかった映画だと思う。

 尾鷲は帰省客で車が多くなった。国道に出るのに、コクドウ手前で信号2回待ちである。

 そう言えば、おととい、石川さゆりのリサイタルを見た。多くの曲が和太鼓、二胡、笛、ピアノ、バイオリン、アコースティックギターで、伴奏も歌も素晴らしかった。色々な歌に挑戦する歌手だが、NHKは「津軽海峡冬景色」と「天城越え」しか紅白で歌わせない。不本意という思いも越えてしまったのだろうか。

 来年は尾鷲にも「石川さゆり」が歌いにくる。


解説スタジアムスペシャル

2017年12月29日 | 社会・経済・政治

 NHKの「解説スタジアム」を録画して、翌日の午前中にうりと見た(意見を聞いた)。国際情勢、国内のくらし、スポーツ、日本の流儀をテーマ別にNHKの解説委員が論議するのである。

 社会保障、教育、格差を論じるのであるが、多くは綺麗事に聞こえる。つまり虚しい意見に聞こえる。子育て支援をするべきだ、高校の無償化はばらまき感がる。老年層のお金持ちに税金をかけて若年層への福祉支援をしたほうがよい。いつでも必要なときに学び治せる教育制度が必要だ。人を育てるのが一番だ。もちろん、論議には意味も価値もある。しかしむなしいのだ。

 視聴者にも、こうするべきだ、ああするべきだ、こうしてほしい、これが問題だ、といろいろ思うはずだ。

 単純に言えば、日本の借金は増え続け、いよいよ返済不能の領域に入っている。日本が資金繰り倒産を起こさないようにするためには日銀が国債引き受けをし続けなければならない。その出口が見えない。すると国の借金をなくすにはインフレを起こすことになる。物価が2%上がれば、国民の貯金価値は2%下落するが、政府の借金価値は2%下がる。ドイツでは数百億%になったこともあるし、日本でも戦後の戦争国債をチャラにするのに、貯金封鎖を行い、これまでのお金を廃止し、新札を発行することになった。

 この財政の議論なしに、未来へに意見など言えないと思う。「日本を信じ続けたい」と街角インタビューで答えていた女性がいた。ほとんどの人はまさか日本が倒産するとは思っていないのだろう。しかしながら日銀が国債買い入れをやめたら国は資金繰りができないのである。回避するには税金を50%くらいまでするという方法もある。しかしこれが起きればどうなることだろう。

 この財政問題を論じたるのが根本のように思える。解説委員が言っていることは日本人の貯金が紙切れになって、やり直しをするときに有効な意見のように思える。

 借金返済ができなくなって、ハイパーインフレが起こって、お金の価値が激減したときに、あらたな出直しの経済、社会、政治、教育が始まる。数年の我慢。この我慢の時期にどうやら、ぼくの年齢層も、団塊世代の層も生涯で最後の試練がくるように思える。

 さて、これからが思想や哲学の出番である。新しい日本型社会の理念が必要になってくる。

 


今年の関心事

2017年12月28日 | 日記

 僕にとっての今年の関心事を挙げてみる。身辺では、

 1)夜のお酒飲み女性友達のうち、一人は東京へ移住、一人は海外での事故で後遺症が残るほどの負傷を負い、入院し、今もしていること。それでめっきり夜のスナックの扉開けをすっかりしなくなった。

 2)小説を五作品書いた。これで吐き出しておきたいことの半分くらいは出したのではないかと思う。そのうちの2作品を新人賞に出し、来年3月締め切りのものに1作品出す予定である。

 3)「前提が違う」という概念を掴んだこと。分かり切っていることだが、昨年の自分と今年の自分とではすでに前提が違ってしまっている。ぼくは百冊ほどの本を読み、百本くらいの映画を見、百くらいの音楽を訊いた。今では過去に読んできたものと今年加わったもので、前提が違っている。 20歳の若者と話をするにも未来がいっぱいあり、経験が浅いという前提。乳児、幼児期に虐待、ネグレクトを受けた人と話す場合でも前提が違う。この「前提」というキーワードを思考に導入しようと思ったのだった。

 4)尻の左部が痛いこと。なかなか治らない。自分でボディチューニングをすればいいのだが、それをせず、中途半端な痛みなので、放ってある。アリナミンAを飲んでごまかしている。

 5)久しぶりに名画「鑑定人と顔のない依頼人」に出会ったこと

  6) 樹木を植え、金魚とメダカを飼い始めたこと。これによって、水をやるとか、水を替えるとか、餌をやるとか、様子を見るというようなことが日常になった。

 7) 母の葬儀のありかた、自分の葬儀のありかたを決め、子供らにも宣言したこと。クラウドの時代に墓の役割は済んだと思うようになった。

社会的には

 8)安倍政権と日銀の関係はいわば「ファシズムぽい」と考えるに至ったことと、共謀罪成立も、安保も、森友、加計問題もこの強権に関係していると常日頃思うようになった。

 9)山尾志桜里の文春記者突撃インタビューで、うろたえた姿。あの場面こそがその人間の脆さを表した。危機のとき、人間性がどうでるか。いくら元検事でも、高学歴でも、その時に「なんですか、そのむきだしの好奇心は」と食ってかかってほしかった。後で言っても遅いと思った。これは残念なことだ。思想や信条の問題ではない。「うろたえ」という問題である。人間だれでも「うろたえる」。山尾志桜里だけのことではない。

10)小池百合子騒動によって立憲民主党が生まれたこと。その原因として、蓮舫議員の退任、山尾志桜里議員の離党、前原民進党議員の決断にまで及んだことをテレビで興味をもって見ていたこと。

11) 大相撲界の白鵬と貴乃花、それと相撲協会。白鵬の人気が落ちるのではないかと心配し、早く記者会見でもすればよいのに、と思い、貴乃花の意地にも敬意を表する。何か喋れば、マスコミがみっともなくあることないこと言うだろう。貴乃花はよほどマスコミに懲りているのだろうと思ったこと。

 指先から出てくるままに並べてみた。 二ヶ月に一度はバリ島に行っていたが、母の交通事故から早や四年。もう四年もバリ島に行っていない。東京に出ることなど外に出ることもすっかり減ってしまった。明日から息子たちが来る。新しい刺戟がきっとあるのだろう。


アメリカ映画、たけしの映画、日本の現在

2017年12月27日 | 映画

 アメリカ映画の特撮技術というか映画製作技術には参る。世界が市場だからできることなのだろう。「プロメテウス」にも参ったが、SFもの、アクションものでアメリカ映画がぶっちぎりに圧倒する。遊園地のジェットコースターに乗っているみたいだし、二時間の炭酸飲料水かとも思う。「バットマンVSスーパーマン」は一種のゴジラ映画である。ビルなどは次々と破壊される。人間には破壊願望があるのではないかと思うくらいである。

 毎日一本は予告編をチェックし、メモして、TSUTAYAに借りにいく。

 この三十年で日本の名目GDPは1.5倍。アメリカが4.1倍、イギリスが4.9倍、韓国は17.8倍、オーストラリアは7.4倍、シンガポールは9.8倍、中国はなんと75倍である。2010年に日本の名目GDPは世界で三番目に陥落してからわずか7年で中国の名目GDPは2.5倍である。

 アメリカはますますすごい映画を作れるはずだ。中国はハイブリッドを経なくても、固定電話を飛ばして携帯に行ったように、ハイブリッド車や新幹線を作らずとも一足飛びにEV車に飛び、リニアモーターカーにいくはずだ。

 日本は経済成長は30年で1.5倍しかなかったのに歳出を2倍にしてしまった。成長産業が育たなかったのだ。しかも円高を放置していた。

 戦後日本の荒地からの復興は社会主義がもたらした成長で、それを資本主義だと言い通してきた。バブル崩壊後、戦後からの復興はすでになく、成熟した社会になっていて、停滞期が30年も続いている。社会主義から抜けるかまっとうな資本主義に入っていくかの期間が今もなお模索中と言っていいだろう。

 一方でアメリカやEUは資本主義を抜けていく状況にある。ところが資本主義の先のシステムモデルがない。資本主義の終わりに近づいているという論者もいるが、それは外の世界のことであり、日本ではまだ終身雇用制だし、正社員が既得権益を持っているし、競争原理が働きにくい制度や習慣、規制が跋扈している。

 政治家や金融業界の専門家や経済学者は何をもって毎日生きているのだろうかと思う。いいときもあれば悪いときもあるさ、悪くなったって、5,6年もすりゃ、またよくなるさ、ぐらいの鷹揚さで世を見ているのだろうか。会って、話を聞いたこともないのでわからない。

 アメリカ映画を見ていて、映像の技術進歩に驚かされるが、資金規模のすくないヨーロッパなどの映画は技術進歩よりも安上がりの映画で内容面を深めているように思える。ビートたけしの映画がフランスで評価されるのは、映像制作のIT技術ではなくて、リアルさと人間の暴力性という業のようなものと、時に見せる不思議な感覚である。そして映画に出口がない。それは日本の社会そのままを映しているように見える。

 30年で世の中は変わったのだなあ、とこの頃つくづく思う。リアルな社会の変化(成長から停滞へ)は始まったとき、ぼくはあまりその変化を敏感に感じ取れなかったと後悔、反省しきりであった。ああ、なあ、と思うばかりである。

 


その情熱を加計にむけろ

2017年12月26日 | 社会・経済・政治

 そうそう、書いておかなければならないことがあった。テレビ局は貴乃花を追いかけ回すが、その情熱をなぜ加計孝太郎に向けないのだろう。政治浪人を雇い、面倒を見る人物であり、安倍首相とは仲良しである。一切マスコミから逃げている。自民党からは守られている。

 卑劣な奴というのはいるものだ。蓮舫議員が立憲民主党に入るりそうなニュースが流れると、すでに解決している二重国籍問題を言い出す輩がいる。

 この三十年の間で日本はどうにかなってしまった。小渕総理のあたりからばら蒔き政治が始まった。現政権は異次元の金融緩和で、日銀の独立性を軽んじ、80%もの国債を引き受けさせている。この出口戦略はなく、ハードランディングを良しとする政策である。それでも選挙で自民党が勝つのだから、ハードランディング=ハイパーインフレを折り込み済みだと考えるしかない。

 そんなことを思いながら、週に一度の週刊誌まとめ読みを「コメダ」でする。いしだあゆみが「ブルーライトヨコハマはなんだか抑揚がなくてお経を歌っているようだった」と懐かしがっていた。舟木一夫の「ファンサービスの徹底ぶり」を解説した記事もあった。73歳になる舟木は青春歌謡のレジェンドだとも言っていた。池波正太郎と藤沢周平という時代小説家は二度と出ない逸材ではないか、と評する記事もあった。日本テレビが大好調らしい。ぼくらはめったにみない局なのでピンと来ない。なんでも「バラエティー」が最強なのだそうだ。

 年末、これもおぼえておかなければならない。トランプ大統領の減税政策が議会承認された。海外にでていったアメリカ企業を呼び戻すのだろうか。そして帰ってくるのだろうか。来年からの経済にきっと影響を及ぼすだろう。

 


それでも夜は明ける

2017年12月24日 | 映画
 
セラピスト

 50年後に残る職業として「セラピスト」がランキング4位に挙げられていた。「第4次産業革命(世界経済フォーラム ダボス会議」の発表である、セラピストとは直訳すれば「こころを癒す人」......
 

  去年はこんなことを書いていた。最近新書ばかり読んでいたが、小説も一作読んだ。「教場」という長岡弘樹の警察学校の話である。知らない世界のことだらけで、職務質問の仕方、パトカーに乗るにも4ランクの検定がいるとか、白バイのこと、逮捕術、調書など、へえ、へえというばかりであった。この小説以外は経済書ばかりだった。それに政策が絡むものもある。

 やはり、どう読んでも、どう考えても、日本政府は、あるいは日銀が、といってもいいのだが、危ない、出口もないトンネルをアクセルふかし、そこにはブレーキもないという有り様である。どう自分を守るかは、自分以外にない。

 さて、今年は山茶花の花が多く、去年剪定した甲斐があった。今年は草花も育てが、やはり樹木の花の方が放っておいてよいので、来年は草花はやめようか、と考えているが、きっとホームセンターに行けば、あらま、綺麗な花だ、などと買ってぢまうのかもしれない。

 二ヶ月ほど前に、裏庭の刈った草や剪定した枝木を燃やすのに、裏庭のドラム缶のそばに置いておいた。一ヶ月前に徐々に枯れたものを燃やしていたら、草がすでに腐葉土のようになっている部分があり、どこにはかぶと虫の幼虫がゴロゴロといた。おお、これは、と思い、孫達が来たら見せてあげようと思ったのだった。迂闊であった。一週間後再びのぞきにいくと、どうやら猪かなにかに食い荒らされた後があり、かぶと虫の幼虫は一匹もいなかったのである。柵を作ってネットでもしておけばよかった。湿った場所で幼虫は冬をすごすはずだっただろう。

 夜、「それでも夜は明ける」というアメリカ映画を見た。以前学生時代に「ソルジャーブルー」を見て、アメリカに入ってきた移民は原住民を殺して、なんとひどいことをした上での建国か、と思ったのだった。今回の映画は奴隷の実話である。アメリカも自慢のできるような歴史を持ってねえな、振り返れば短い歴史の中で恥部ばかりじゃねえか、と思ったのだった。アメリカは経済力はつけたが、何が自慢できることなのだろう。

 


採用慣習の不思議

2017年12月24日 | 社会・経済・政治

 いつも思うのはこの国の不思議な人材採用の仕方である。まず、なにがなんでも新卒主義である。とくに教員を含めた公務員は大学を卒業して社会的経験を積まないまま職場に入る。

 人材を即戦力として育てるのが大学ではなく、企業が行う慣習がある。育てている間に「鬱病」が蔓延し、仕事にならない若者も多い。

 日本の企業に勢いがないのは雇用の仕方にもひとつの原因があるだろうと思うゆえんである。

 日本は多くの分野で世界一位か二位を争っていたのに、現在では多くの分野で八位とか九位。東大もトップクラスにほど遠い。

 資源のない日本は頭脳や技で生きていかなければならないというのに、教育かける予算が少ない。少なすぎる。さらに新卒主義、せいぜい臨時教員の再試験採用である。

 相変わらず公共工事が多い。防衛費も多い。教育に重視をおく国ならば、教員の待遇をよくすることが必要であるが、新教員の社会的経験のなさを考えれば、世間が医師並みの給料をだすというのには抵抗があるだろうー

 特区を作れば忖度をする公務員。官邸に支配される独立のはずの日本銀行。この点では安部独裁支配になっている。

 共謀罪まで成立したのだから、反対運動もできない。この国はいつか破綻し、再生するが、破綻の責任を誰がとるのだろう。

 せめて教育だけは未来のこの国のために質を落としてはならない。


Xデイはいつか

2017年12月23日 | 社会・経済・政治

 1997年、韓国やタイの経済危機がインドネシアにもおよび、1円15ルピアだったのが、1円120ルピアになった。日本円をルピアに替えて銀行に貯金していた人は大ショックだった。1200万円が150万円になってしまったと考えればよい。ドル貯金をしていた人たちは幸運だった。ルピアの信用がないので、ホテルやレストランは今でもドル表示をする。日本ではそんな風景をみたこともないが、そんな日があり得るとぼくは思っている、

 第一に大企業に勢いがない。ベンチャー企業を起こす環境を整えていない。クリエーターを育てて来なかった。語学力が相変わらず無い。戦後の荒地からに再興はたやすかったが、熟成期から成長はなかなかに難しい。アメリカはマイクロソフトやアップル、アマゾン、Google facebookなどと世界的な若いベンチャー企業を育てることができた。日本はできなかった。

 政府が借金をして予算を作っても、勢いがでない。消費者物価も2%上昇までほど遠い。黒田総裁も安倍政権の成長戦略やきもきしていることだろう。特区を作る目的は特区での成果を全国に波及させるためにするのである。加計学園の獣医学部の設置がモデルとなって多くの獣医学部ができるとも思えない。つまり日本政府のやっている成長戦略は当てにならないのである。ただお金を日銀に刷らせて、支援者たちにばら蒔いているだけである。

 したがって日銀は出口戦略がとれず、いつの日かXデイがくる。

 すると幸運なことに政府の借金価値はドンと減る。銀行に借金のある人もドン減る。一方貯金や、年金、保険はドンと価値を失う。

 ぼくはこのXデイがオリンピック後ではないか、と疑っている。

  自分で防御しなければならない時が必ず来る。年金などあてにできるものではない。ハイパーインフレがきたら、みなパーである。戦後期のようにしばらくは食糧を作り、獲る人が強くなる。それは日本人がハイパーインフレを一度経験したことだ。

 


母、回復に向かう

2017年12月22日 | 日記

 4日前は60メートルをゆっくり棒つたいにあるくと、血中酸素濃度が90をきり、しばらく深呼吸をすると、酸素の量があがっていた。心臓のポンプは歩行直後だと100を越え、シンコキュウをしているちと80くらいまでに落ち着くのだった。母親の回復度の話である。

 今日のリハビリを見ていたら、脈拍が80に戻るのが早かった。酸素もすぐに95になった。

 本人は結構意気軒昂で、どこも悪くない、と言う。夢を見るのか、トイレにも歩いていけるし、とか言っている。まだオムツがとれないというのに。

  交通事故のダメージで全身が、内蔵や脳も含めて弱ったことは確かである。4年経っての転倒である。これも手術などのダメージがあったはずである。

  姉を呼んで、今後のことを話しあった。慣習にとらわれない考えの持ち主なので、この際に、葬儀のことなどを話しておいた。ぼくに一任、一切文句言わない、ということだった。姉に葬儀への拘りがあれば、姉の希望に沿おうと思っていた。特になし。ぼくは安堵。

  姉の義母は97歳で死んだ。大腿骨を折り、それが治ると、今度は反対側の大腿骨ひびが入った。しばらく介護施設の厄介になり、そうして自宅に戻った。

 心不全が起こりはじめて、入院。入院後一ヶ月しないうちに肺不全となり帰らぬ人となった。老衰ということなのだろう。

 母も今度初めて、心不全がある、と言われた。それで驚いたのだった。事故のときにも心臓はしっかりと働いてくれた。腎臓ももちこした。肺臓も耐えた。

 今度ばかりは、退院後、内蔵系に影響がくるかもしれない。それであれば、交通事故でやや生きる時間を失ったが、老衰ということになるのだろう。

 まだ元気でいるのに、あれこれ考えてしまうのである。


横綱審議会に物申す

2017年12月21日 | 文学 思想

 大相撲社会は体のよいヤクザ社会じゃないかと思ってしまう。中学生が起こしたような事件をあれこれと言っているテレビ、コメンテーターも馬鹿らしく思っているのではないか。殴られたら、「ごっつあんです」。リンチがまかり通る。白鵬も人気が落ちたことだろう。と言って白鵬のいない本場所はなにか締まらない。日本人力士が入ってこないのもわかるような気がする。

 ところで横綱審議会の白鵬についてのコメントには驚いた。彼らは相撲を知っているのだろうか。張り手、かち上げはリスクを伴う技である。よい例が大砂嵐だ。彼は恐るべきかち上げをする力士である。怪我もあったが、彼は十両である。かち上げは上げた分脇が開いてしまうので、リスクがある。大砂嵐もいつの間にか、その弱点をつかれることになった。

 横綱がなぜかち上げをして勝つのが美しくないと感じるのかわからない。張り手も同様である。要は張り手をされても動じず、あるいはかわしたらよい。それも技能である。

 白鵬は右よつ、左よつ、突っ張りから押し、吊りまでできる。万能の取り口をする。重心の捉え方、力の伝え方も、膝や肘についても、腰の位置についても、目はどこを見るかもよく知っている。驚くばかりだ。そういうことも横綱審議会はいうだろうべきである。白鵬の取り口について、一度白鵬に聞いてみるのが筋というものだろう。

 でなければ白鵬の努力にケチをつけることになる。あるいは横綱は「張り手、かち上げ、猫だまし、立ち合い時の引き」を禁じるルールにした方がよほどすっきりする。

 横綱審議員の中で、どれほど技や力の原理を知っている人がいるのだろう。相撲を取ったことのない人にはわかるはずがない。こんな名誉職を設けるなら、合気道や古武術家も委員に入れるべきだ。どうして政治家の高村元副総裁までいるのか。なぜ毎日新聞の元社員がいるのかわからない。

 日本人の嫌な面が浮き彫りになるドタバタ騒動である。貴乃花もいつの間にかファッションがマフィアぽくなったもんだ。こういうファッションになるにはそれだけの理由があるのだろう。「貴乃花一門の総会」という言葉にもあきれたものだった。


明日の約束

2017年12月20日 | 映画

 ようやく、テレビドラマ「明日への約束」が終わった。この問題、つまり子供お自殺あ何が原因なのかは、20年前の神戸のサカキバラ事件で、識者の間では結構論議された。この場合は14歳の少年による残忍な他殺である。

 息苦しい親から解放を求める少年の右脳に自分だけの逃げ場所を見つ、そこでの想像が、現実侵犯にまで及んでしまった。カエルを解剖するときも、猫を殺すときも、快楽のホルモンドーパミンが放出されるという意見もあった。

 親が本気で謝り、少年とともに寝起きを共にして治療をおこなうほうがよい、という意見や、本を出した母親はまるでわかってなく、自己弁護が多いという批判もあった。

 この事件によって本来少年への刑を年齢を上げるべきだという意見もあったが被害者感情を考慮してか、ぎゃくに処罰の年齢が下がることになった。

 あれから20年。この間いくつもの少年事件があったが情報番組や新聞は事件の表層を伝えるだけで、ノンフィクション作家などに深いところのことは委ねられることになった。新聞などは真実のところまでわざといかないのである。

  昨日のドラマでは主人公である大人の女性で、しかもスクールカウンセラーとう主人公が最後に対して、家をでます、と告げる場面があった。そして、「私に謝って」というセリフがあった。原作者もしくは脚本家はきっと神戸の事件での論評を読んでいたに違いないと思った。

 完璧で正しい親というのはあり得ないと思う。母親の育て方に原因を求めれば、さらにその母の育て方と遡ることになる。昨日のドラマは「毒母とSNSで書かれる母親」の苦悩も描かれ、ある面でそれが罰となり、自分を振り返ることの契機にもなった。担任の教師は退職した。学校ウンセラーの女性も退職し、自分と母親お関係にも距離をおくことを宣言でした。

 現在のところの精いっぱいの掘り下げ方だろう。若干イライラしたが、結局最後まで見た。この種の事件はまだまだ増えることだろう。これからの事件にはさらに「格差」の問題が加わってくることになる。


今日の一発目

2017年12月19日 | 日記

 朝起きると左目に異物感があり、痛い。擦れば傷がつくとわかっているので、手でさわらないようにし、目を洗う液でしばらく目を洗った。ちょっとは痛みが減った。それでも異物を感じるので、しかたなく眼科クリニックに行った。 

 眼科というと「待つ」というイメージがあり、億劫であったがしかたがない。新しくできたという眼科クリニックを選ぶことにした。ネットで検索すると「ただいまの待ち時間」が載っている。これはいい、と思い、たいしたもんだと、と思い、すぐに行くことにした。都会の素敵な空間、庭を見るといろいろな花木が植えてあり、中央には屋根付きのガゼボまである。待合室も広く、中待合室まである。

 予め、用紙に来た理由をチェック欄に記入してある。

 医師は30代後半から40代前半に見えた。笑顔である。笑顔の医者はめったに見ない。

「朝、起きると左目が痛くて、異物感があり、目を洗う液でなんども洗い、初めよりはよくなったのですが」

「左目ですね。ここに顎を置いてください」

 その医師はまぶたを指でめくり、

「足元を見てください。左を見てください。上を見てください。まっすぐ見てください」

 と言って大型の顕微鏡のようなもので見ている。そして目に液をポトリと落した。

 すると、これまでの異物感がなくななった。

「あれ、異物感がありません。全く大丈夫です」

「いえ、麻酔のせいですよ。小さな傷があります。目薬を出しますので、一日4回点眼してください。治っていきます。異物はありませんでした。流れたのでしょう。それと、白内障の初期段階です」

「はあ? 白内障ってどんな症状なんです?」

「物が見えにくいとか、霧がかかったように白くみえるとか、ですね。まあ白髪だと思ってください」とにっこり笑う。鴨がネギしょって来たか、てなもんだ。

「だんだんと見えにくくなってきます。その時、また来てください」

 診察室を出て、また待合室で支払いを待った。しばらくして名前を呼ばれたので、ついでに、白内障の手術っていくらかかるんですか、と訊いた。

「一ヶ月以内に両眼をしますと、45000円です。片方だけでも45000円ですが、一ヶ月以内ですと片眼の手術料金となります」

「はあ。なるほど。さっさとやってしまいましょうということか」

 処方箋を持って馴染みの薬局に。

「まつげか目ヤニが入ったんじゃないですか」

「初期の白内障だといわれましてね」

「ぼく、去年やりましたよ。よく見えるようになりました。全く違いますよ。きっとステージ1ですよ。ステージ5まであるんですが、ぼくは3でやりました」

「眼鏡かけてるじゃないですか」

「ずっと眼鏡かけていたものですから、なんか落ち着かなくて。それに目を保護するにもいいでしょ」

 薬剤師は嬉しそうに、

「なんにも痛くありません」

「そうですか。いずれはやらんといかんのでしょうね」

 点眼薬をもらって、事務所に行き、パソコンをONにする。すると画面の矢印が動かない。マウスをチェックした。電池がないのだろう。電池を探した。無い。車でイオンまで買いに走った。駐車場は満車であった。しかたなく、コメリに移動した。その間、なんだ今日は物事の一発目が悪い。注意、注意と思い、今日は引きこもりにしようか、などと思ったのだった。


弔いの方法

2017年12月18日 | 日記

 転んで股関節の骨を折り、入院している母の状態があまりよくない。すでに骨は大丈夫であるが、腎臓がよくない。膵臓手術で腎臓がさらに衰弱したのではないか、と思う。体の中の尿が抜けきらないらしい。今日が検査で、明日担当医師と面会することになっている。

 そうすると、あれこれ、母の死について考えることになる。縁起でもない、と言う人がいるかもしれないが、ぼくは真剣に考えている。母にはたいへんいつまでも世話になった。気丈で、怖気ない人であった。

 遺体はぼくの車で病院から運び出す。その前か、間に、母を寝かせる部屋の片づけをしておく。寺には連絡しない。死亡届を出し、火葬の許可証をもらう。父の場合は母がいたから母の希望で寺で通夜、葬式をし、寺の裏の墓に父の骨を入れ、お坊さんにお経を唱えてもらったのだった。

 僕が喪主だから、寺を信用していないぼくは自分で家族を呼んで、弔いをする。棺桶は農協から買う。母の枕元には母の写真と母が作った短歌と描いた絵を飾る。好きだった歌を枕元でかける。父と母のアルバムはすべてSDに保存する。姉や孫たちにはそれを数だけコピーして渡す。クラウドに保存してくれてもいいし、スマートフォンに一部入れてくれてもよい、と告げる。火葬の時刻に火葬場まで母を運ぶ。棺桶は農協から購入する。遺骨は海に散骨する。

 墓に母の名前を刻みたいが、寺の許可が必要だと墓石屋は言うに決まっているので、ぼくが百年は消えないくらいの塗料を探して、それがない場合は、自分で刻んで刻銘する。

 この案でどうだ、と姉に問い、姉が反対したら、姉の気持ちを尊重して寺で行う。

 とこんなことを考えている。死というのはあくまでも自分では体験できないものだ。死は身辺の人にとって「死」である。だから一人でも反対者がいたら慣習に従おうと思っている。

 ぼくが死んだ場合は寺なしでよい、と妻に言ってある。妻の場合も同様である。ただし、息子、娘がそれはだめというなら好きにしてくれてよい。

 弔いのしかたも変化してきている。戒名代? 馬鹿な。お経代?馬鹿な、と思うのはぼくだけではないだろう。しかたがない? そんなことはない。92歳半の母である。

 

 

 

 

 

 

 

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