昼下がりのコーヒー豆のあくび アーリーアフタヌーンコーヒー日記

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コーヒー豆屋のちょっとだけゆっくり流れる時間

今日の晩酌の銘柄が決まる絵画

2023-10-31 07:37:27 | 日記
1638年の今日が誕生日のメインデルトホッベマ。17世紀のオランダ画家の多くがそうであったように、結婚してからアムステルダムのワインの検査官に就任、画家とのWワークを生業とします。が、静穏で抒情的、親しみやすさが特長だった彼の風景画に硬さが目立つようになり、製作数も激減。

そんな中、1689年に描かれた「ミッデルハルニスの並木道」は唯一の例外であり、「白鳥の歌」と称えられる偉大な作品だとか。

遥かに続くトネリコの並木道。緻密な一点消失遠近法(透視図法)で得た奥行を保ちつつ、視線が一気に奥まで進行するのを防ぎ、上下奥行に加え、水平方向へと拡散させる、犬を連れゆっくり散歩する人の配置。広大な風景表現に成功したように思えます。

さて、このトネリコの並木道をプラタナスに変えれば、あら不思議。
路傍で待っているハリーの前を、一瞥もくれず通り過ぎていくアンナ。場所はいつの間にかウイーンに。
あっという間にモノクロのラストシーン・・・第三の男。

BGMは勿論「ハリーのテーマ」。ああ、エ〇スビールのCMだ、これ。

今夜の酔朋は決まったかな?ちょっとお高いですけど。

悲愴

2023-10-30 07:49:12 | 日記
十三夜、部分月食、木星伴走と、三夜にわたりライブパフォーマンスを楽しませてくれた月。
見上げながら、称賛→ドビュッシー→ベートーヴェン→悲愴→チャイコフスキー第6交響曲→「悲愴」というタイトルの是非という具合に思考進行。

個人的に、不安からの安心、希望、そして反抗期的衝動風へとイメージする第1楽章の一部と、ラストの第4楽章には当てはまりそうな「悲愴」というタイトルも、夢見がちな第2楽章、自信に満ちてノリノリな第3楽章を含めて考えると、どうもしっくりきません。前3章から4章への落差狙いの意図があってのことなのでしょうか。

どうやらпатeтичeckaя(パテティーチェスカヤ)という原語タイトル、悲愴だけではなく、情熱といった意味を持つこともあるようです。
元はヱヴァンゲリヲンの主題歌でお馴染みの、pathos(パトス)からきているそうで、ならば快楽、苦痛を伴う受動的な一時的な感情という事か。

外部的刺激により翻弄され大きく変化する個人の感情、その哀れさを客観的に見れば、なるほど「悲愴」というタイトルも頷けます。
ただしポイントは「一時的」で、エートス(持続的、習慣的)やウーシア(本質的)ではないということ。

そこに人生の深淵を見たのかもしれません。




存在できる範囲

2023-10-29 08:33:53 | 日記
市立総合病院東の交差点。東西の道をCD重力崩壊限界、南北の道をABコンプトン限界としたなら、物質の存在のできる範囲は、三角形CBO,市立総合病院と産業大を含む北西地域だけなんだなとか考えます。(うろ覚えの図はLabBrainさん参考)

量子重力論に基くオーストラリア国立大の研究仮説で、宇宙は時間がたつほど温度と密度が低下するという観点から製作した密度分布によるチャート図のスーパー簡略版もどき。ビックバンをインスタントンとして、ブラックホール以上の高密度では物質が押しつぶされ、素粒子存在線AB以下では位置と運動量の同時測定は不可能で物質として認定できない。とすれば、物質として存在できるのは⊿CBO内のみ。

人を直径170cm,70kgの球として考えると四角形EGHF内密度に納まりますが、人だけではなく、現在人類が認知しうる全ての物質がこの範疇内にあることになるそうで。

今、諸要素を排除し、x軸を暴力、経済力、精神力といった力、y軸を自己欲望達成度として、他者抑圧と自己制御のグラフを作ったら、CD,ABのような一次関数になるでしょうか。

もしそうであるなら人が存在するには⊿CBO内に納めなければならず、まして標準的な人が存在可能には四角形EGHF内である必要があります。

ロシア、ウクライナ、イスラエル、ハマス等、紛争中の指導者各位に、大局的な視点を希望する者であります。






十三夜

2023-10-28 07:35:08 | 日記
欠けたもの、足りないものを、美しいと想えるこの国独自の感性は、ひょっとしたら、
この世を支える一柱ぐらいにはなれるかもしれないと、ふと思います。

からころ僅かに聴こえるは、焙煎機に取り残された珈琲豆粒か、それとも、
想い人を忘れられず、身を持ち崩した車夫の引く輪の音か。

十三夜。


皮肉の「らしさ」

2023-10-27 07:58:36 | 日記
明治トンネルを抜け、宇津ノ谷の集落を通りバイパスを超えると、蔦の細道の静岡側入り口。
お天気もいいし、ちょっと散策でもと登り始め、サンダルで来るのを止めた己の判断を褒めてあげました・・・それでもすり減ってペラペラになっていた靴底を通して伝わる小岩や石のデコボコが、自然の足ツボ押しとなって、ひーひー言いながらの40分強のハイキングになったわけですけど。

峠の頂にある在原業平の歌碑は、都への認めた文「駿河なる宇津の山邊のうつつにも夢にも人にあはぬなりけり」・・・伊勢物語のアレです。
蔦の生い茂る寂しく暗い、遠く駿河の宇津の山で、ふと都にいる貴女を想います。現実でも夢でも貴女に逢えないのは、貴女が私の事を忘れてしまったからなのでしょう・・・うわ、いじいじの皮肉!でもモテ男が言うと意味合いが変わってくるから不思議なもんです。

鳥獣戯画で有名な鳥羽僧正覚猷(かくゆう)。貨財の収集にアクセクし、権謀術策やこびへつらいを日常におく本分を忘れた貴族、坊主生活を厭んでいたそうで、自らの臨終時に、自分の遺産は腕づくで決めるべしと言い残したとか。権力横行への当てつけ、きっつい皮肉です。
誰が言っても意味成すわけではなく、彼が言うから効果があるんでしょうが。

ファッション雑誌やマネキン着用品を、そのまま猿真似するを良しとしたような政治経済、日常生活まで含めた昨今の風潮。
悪いとは言いませんが、自分に備わっていないものを無理やり取り入れて、表面上飾り立てたところで真価は発揮できないでしょうに。

ましてや、それを得意分野とする相手に、相手のルール、土俵で戦って、勝てる気でいるんでしょうか。笑いは取れるかもしれませんし、長い目で見た研鑽のつもりならわかりますけど。

自分の色は何色で、どんな形、臭いを持ち、何ができて何が苦手なのか。それすらわからないのかもしれません。