昼下がりのコーヒー豆のあくび アーリーアフタヌーンコーヒー日記

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コーヒー豆屋のちょっとだけゆっくり流れる時間

無門関チャレンジ4

2019-06-30 10:00:46 | 日記
胡子無鬚

禅師は言った。「達磨には、どういう訳で鬚(ヒゲ)がないのか」

ポイント
1、胡子とは、禅宗の祖インド人の達磨のこと。「彼が西方から来た理由」と言えば、
  「仏教の本質とは」と同じ事だそうで。業界用語でしょうか?
2、一般的な見た目の達磨の特徴は、赤い着物と立派な鬚。日本でもおなじみのアレ。
3、サンスクリット語でダルマは「法(あり方、仕組み?)」。

ボク的解釈。
固定観念、偏見、先入観の否定、及び警鐘でしょう。
空、つまり常に移ろうあらゆるものの相互的な依存、限定により
「aとはbである」は「真」とは言えないのです。

昔、テレビアニメで見た「一休さん」の対処方法は、
これ基準が多かったように思います

後継者人事

2019-06-29 11:54:22 | 日記
梅雨特有のムシムシした細かい雨が、道路を湿らせています。

1575年6月29日(天正3年5月21日)長篠の戦。
織田徳川連合軍に挑んだ武田勝頼軍は大敗北。多くの重臣を失いました。

圧倒的なカリスマ性をもつ信玄の後継者は、諏訪家へ養子に出された出戻り四男坊。
プレッシャーの中で、とにかく結果を出し続けるしかなかったのでしょう。

この戦にしても、支柱をなす旧重臣達が難色を示す中、
今後の武田家の中核を成させる自らの側近の進言を採用したとか。

その後の北条、上杉との同盟成立やら領地拡大などの実績を見るに
優秀なもののふであったかと思います。

強力な大集団の、信仰にも似たトップの座を引継ぐ事になった有能な、
しかし決して「神」にはなれない人物を、哀惜をもって偲びます。


無門関チャレンジ3

2019-06-28 10:11:06 | 日記
大した被害がなかったのは幸いですが、「6月の台風」にはビックリです。
さて、俱テイジュシ。

禅的な問いには、いつもただ、一本指を立てて答えとする和尚。
ある日、寺の小僧に、お客が「和尚さんの仏法の肝要な処はどこですか」と尋ねます。
小僧は、すかさず指を一本立てて見せました。

これを聞いた和尚。刃物で小僧のその指を切り落とします。

痛さで泣きながら走り去ろうとする小僧を呼び止め、
振り向いた小僧に指を一本立てて見せます。その瞬間小僧は悟ったそうで。

臨終前「一生かけても一指禅を使い切ることが出来なかった」と言って和尚は息を引き取ったとか。

ポイントは、
1、上座部仏教が多元的とされるのに対し、大乗は一元的で、それは「空(=縁起)」。
2、「一切皆空」ながら「空見」を否定。これは「空」を無とみることの排斥と有とみることの排斥、
  つまり異なるものがなく、全てがそれであるなら特長など有り得ない。
  一切特長のないものを、どうして有るといえようか。
3、形式論理学的には破綻しているが、相互依存を基本とするため「AがあるならBもある」、
  「AがないならBもない」という理屈が成り立つ。つまり「空が有る」と言えば同時に
  「空で無いものも有る」事になる。

独断解釈。すべては「空」だと一本指。ただし、空が「有る」のではないのです。
型のない相互依存の相。指が「無くても」空。
「有る無し」に捕らわれない、超えた「空」。 


無門関チャレンジ2

2019-06-26 10:12:09 | 日記
百丈野狐あらすじ

私は人ではないと告白する老人。大昔、此の山で住職?をしている時に弟子が、
「仏道修行を完成した人でも因果(の法則)に落ちて苦しむか」と問うたので「落ちない」と答えた。

すると、私は五百生も野狐の身に落ちてしまった。どうか、野狐の身より脱出させてほしい。
そして「修行完成しても因果に落ちて苦しむのでしょうか」と師に尋ねた。

師は答えた。「因果の法則をくらますことはできない」と。
この一言で老人は大悟。感謝し、自らの野狐の骸の葬式を頼んで去った。

葬式の後弟子を集め、事の詳細を語ると一番弟子が、
「老人は答えを誤ったため野狐の身に落ちたということだが、
 常に正しい答えを言っていたら何になっていたのか」と尋ねる。

師は「教えてやるからこっちにこい」。
弟子は師の近くに来ると、いきなり師の横っ面をぶん殴った。

「達磨(禅宗の祖」はワシだけかと思ったら、ここにもおったわい」と、手を叩いて喜んだ。

独断解釈。仏教では、本来1つのモノですが理解しやすいよう世俗的と本質的な
「2つの真実(二諦)」があるそうです。気を付けなければならないのは「どちらも対等」であること。

話は仏教界のことですので、理論の礎は「本質的な真実」。人と野狐も対等です。

また、良い事をしたら良い事が、悪い事をしたら悪い事が起こるというのは方便に過ぎず、
aはbである。というような形而上的なあり方を大乗仏教は認めません(そもそも善悪正誤の区別がない)。

ただ、瞬間々々のあらゆるものの相互依存、相互限定により相を成すだけ。
これを「縁起」と考え、当然因果も含みます。

野狐の老人も、なるようになっただけ。苦しむ必要など微塵もないのです。
(苦しみも幻想だそうなんですが、また今度)
人なら人の、野狐なら野狐の風流を楽しめばいいわけで。

一方弟子は、わかっていたうえで敢えて「正誤」を使って師を試したのか、挑発したのでしょう。

案の定乗ってきた師に縁起を理由に、先制攻撃。
師の求める答えを出した弟子の成長に喜んだことでしょう。

(長くなっちゃったんで終了。中途半端でごめんなさい。)






きっと途中で挫折する無門関チャレンジ

2019-06-25 10:53:01 | 日記
よく知りもしないのに「中道ファン」とか言ってしまった為、
引くに引けなくなって、「無門関」の解釈をする事に・・・え~ん。

無門関とは、中国南総時代の禅書で公案集。四十幾つかの例が載っています。順番にやってきます。
本も資料も持ってませんので各内容もネットから。(詳しい方いらしゃったら、やさしくお見守りください。)

では一個目、「狗子仏性」
 ある僧が先輩の僧に尋ねた。「犬にも仏性が有りますか」
 先輩の僧は云った。「無」

独断解釈。尋ねた僧は新人じゃないのでしょう。
で、先輩の僧が「お前の質問がありえ”無”い」んだと。

ポイントは、
1、大乗仏教においてすべてのモノに仏性はあるそうで、僕は仏性は縁起だと。
2、全ては「空=(縁起、但し一般的に思いつく時間経過を伴うもののことではない)」
3、仏教では、変わらず在るモノ(常住)はないし、滅び無くなるモノ(断滅)もない。
  有りといえば常住に引かれ、無しと言えば断滅に引かれる。

これが素人さんの質問なら「有りますよほうべ~」ですけど、
お前、今更何言ってんだって事かと。