今日はシティズフォーライフの日。死刑制度の廃絶を訴える世界1625の都市が加盟する、2012年カトリック系団体主催で制定されたそうです。1768.11.30に後の神聖ローマ皇帝レオポルド2世がトスカーナ大公時に制定した日を起源とするとか。
その根拠をチェーザレベッカーリア「犯罪と刑罰」に求め、即ち社会契約論的公権力の根拠が、国家は国民の譲渡した権利の集合体であるから死刑は自殺であり、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教において罪であるからでした。
さて、現在日本の法や国家もまた社会契約論に基づくのであれば、自殺が罪であるかどうかが死刑制度の判断基準になりうるかも知りません。そして日本において基本自殺は罪ではありません。理由として心身衰弱の可能性、法益性の減少に伴う違法性の減少などがあげられますが、重要なのは、個人的事柄は公権力に干渉されないという(生命の)自己決定権だと考えます。
世界的に自殺が許容される理由として、抗議、苦痛からの脱出等々ありますが、日本において特徴的なのが、恥をすすぐ、忠義による自死が美徳とされる武士道、懺悔や空によって許される宗教ではなく、自己責任に繋がる道徳を根幹に置くものであるからです。
この自己決定権が思想信条の自由と共に、消極的にせよこっそり「武士道」を憲法内にそして日本に、生き残らせるのに成功したのだと思います。日本国憲法は外国に押し付けられた?そうかもしれませんが、いやいや中々に強かなもんです。個と集合体の使い分けも見事なもんで。ご都合主義・・・ああ独り言です。
国内で「自己責任論」が聞かれるうちは、この国では死刑制度が廃止されることなんかないだろうななんて考えます。
その根拠をチェーザレベッカーリア「犯罪と刑罰」に求め、即ち社会契約論的公権力の根拠が、国家は国民の譲渡した権利の集合体であるから死刑は自殺であり、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教において罪であるからでした。
さて、現在日本の法や国家もまた社会契約論に基づくのであれば、自殺が罪であるかどうかが死刑制度の判断基準になりうるかも知りません。そして日本において基本自殺は罪ではありません。理由として心身衰弱の可能性、法益性の減少に伴う違法性の減少などがあげられますが、重要なのは、個人的事柄は公権力に干渉されないという(生命の)自己決定権だと考えます。
世界的に自殺が許容される理由として、抗議、苦痛からの脱出等々ありますが、日本において特徴的なのが、恥をすすぐ、忠義による自死が美徳とされる武士道、懺悔や空によって許される宗教ではなく、自己責任に繋がる道徳を根幹に置くものであるからです。
この自己決定権が思想信条の自由と共に、消極的にせよこっそり「武士道」を憲法内にそして日本に、生き残らせるのに成功したのだと思います。日本国憲法は外国に押し付けられた?そうかもしれませんが、いやいや中々に強かなもんです。個と集合体の使い分けも見事なもんで。ご都合主義・・・ああ独り言です。
国内で「自己責任論」が聞かれるうちは、この国では死刑制度が廃止されることなんかないだろうななんて考えます。