昼下がりのコーヒー豆のあくび アーリーアフタヌーンコーヒー日記

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コーヒー豆屋のちょっとだけゆっくり流れる時間

日本の死刑制度の背骨

2022-11-30 07:38:38 | 日記
今日はシティズフォーライフの日。死刑制度の廃絶を訴える世界1625の都市が加盟する、2012年カトリック系団体主催で制定されたそうです。1768.11.30に後の神聖ローマ皇帝レオポルド2世がトスカーナ大公時に制定した日を起源とするとか。

その根拠をチェーザレベッカーリア「犯罪と刑罰」に求め、即ち社会契約論的公権力の根拠が、国家は国民の譲渡した権利の集合体であるから死刑は自殺であり、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教において罪であるからでした。

さて、現在日本の法や国家もまた社会契約論に基づくのであれば、自殺が罪であるかどうかが死刑制度の判断基準になりうるかも知りません。そして日本において基本自殺は罪ではありません。理由として心身衰弱の可能性、法益性の減少に伴う違法性の減少などがあげられますが、重要なのは、個人的事柄は公権力に干渉されないという(生命の)自己決定権だと考えます。

世界的に自殺が許容される理由として、抗議、苦痛からの脱出等々ありますが、日本において特徴的なのが、恥をすすぐ、忠義による自死が美徳とされる武士道、懺悔や空によって許される宗教ではなく、自己責任に繋がる道徳を根幹に置くものであるからです。

この自己決定権が思想信条の自由と共に、消極的にせよこっそり「武士道」を憲法内にそして日本に、生き残らせるのに成功したのだと思います。日本国憲法は外国に押し付けられた?そうかもしれませんが、いやいや中々に強かなもんです。個と集合体の使い分けも見事なもんで。ご都合主義・・・ああ独り言です。

国内で「自己責任論」が聞かれるうちは、この国では死刑制度が廃止されることなんかないだろうななんて考えます。

執着

2022-11-29 08:07:09 | 日記
アッと気づけば28日も正午を過ぎて、あー昨日だったじゃんと。
大正11年11月27日。宮澤トシ子さんの命日、「永訣の朝」の日です。毎年読むなり朗読したりしていたんですがすっかり忘れていました。

頭の何処かでは覚えていたようで、そういえば日曜の朝には突然亡くなった父の歌を思い出したりして、今になって思えば、ああ、ケンジ繋がりかと解るんですが、全く気づきもしませんで、己の発想力の貧困さに大きくため息。

でも、もしかしたら長年にわたる執着に、もうそろそろいいんじゃない?という合図なのかなあとも思いました。

29日、藤枝に降る雨は暖かく。

みんないっしょは

2022-11-28 09:35:09 | 日記
一喜一憂するワールドカップの中、「こういう順位つけるのは苦手でね。みんな1位じゃダメなのかな」とお客様。それはなかなか難しいかも知れませんねとボク。
何で?と尋ねられましたので、うーん、僕らが原子、つまりクオークやレプトンでできてるからですと。

エネルギーが満ち溢れた状態は置いといて、例えば個を区別しない状態であれば、粒子はクオークや電子、ニュートリノなどのレプトン等であるフェルミ粒子と、光子、グルーオン(強い力)ウィークボソン(弱い力)などのボース粒子に分けられます。で、後者が同じ場所(エネルギー準位)にいくつも所有できるのに対し、前者は1つの場所に1つ(の状態)しか所有できない。

僕らの体が原子でできている以上その枠組みに捕われますから、誰が何位になるかはどうでもいいですが、順位は自然と存在します!と。
ただ、スピンが逆だったりすれば存在できるわけで、サッカーと野球、どちらの1位も存在するでしょ。

・・・ま~大方便です。グルーオンもウィークボソンも持ってますし。先日チラッと触れた核子の総質量の5%の質量に過ぎない構成粒子であるクオーク+グルーオン。その運動、位置エネルギーが単純に95%の質量を生み出すとすれば、その相互関係こそが大きな意味を持つのでしょう。基本超低温下の話だった気もしますし。

フェルミウム、フェルミ分布、フェルミのパラドックス等々多くの構成機を残したエンリコフェルミ氏のご命日に、申し訳ございませんでしたと手を合わせます。

山男の唄

2022-11-27 08:05:12 | 日記
缶コーヒーで手を温めながら、滝ヶ谷公園から山と呼ぶには些か気後れのする烏帽子山が朝焼けに染まるのを眺めていると、ふと山を愛したと聞く畦地梅太郎さんの版画が思い浮かびました。

「山男とカップ」・・・1983年7月のカレンダーの挿絵版画だったか。カップの中身は冷たい湧き水でしょうか、ボクには湯気が立って見えました。

 娘さんよく聞けよ山男にゃ惚れるなよ 風に吹かれりゃよお 若後家さんだよ

結婚した途端、趣味だった登山をきっぱりやめたオヤジのヘタクソな唄が聞こえます。

依存

2022-11-26 08:07:43 | 日記
今日は4コマ漫画ピーナッツの作者故チャールズMシュルツ氏の誕生日だそうで、以前スヌーピーの言った「僕らは皆、配られたカードで闘う?しかない」という台詞が話題になったのを思い出しました。兼ねてから、今持っている道具をどう使って生きていくかが人生なんだろうなと思っていましたので、すんなり受け入れられた気がします。

財産や権力、スマホなどに限らず、知識や運動能力、器用さ、音感、歌唱力、画力等々すべて道具であると考えています。どの道具も個体能力差はありますが、それは大した問題ではなく、それをどう使ってどう対処していくかが必要なことなんじゃないかと。学校や会社といった組織内にいると、ややもすれば道具それ自体の性能の評価に終始しがちですが、それはそれで素晴らしいものの、副次的な要素にしか過ぎないと昔から感じていました。

そして怖いと思っていたのが、優れた道具を持つが故の工夫の放棄。道具に依存しすぎて、使用者であるはずが、いつの間にか道具に使われるようになってしまうということ。
道具には必ず訪れる、故障や経年劣化、時代変化への対応能力の低さなどに、本体である使用者自体が否定された感を持ってしまうこと。たかが道具ですよお。

優れていようがいまいがそれしか持っていないわけですから、それをどう使うかだけのこと。本質的に人や過去の自分と比べるのは、大して意味のあることではないと考えます。

それを道楽、ゲーム感覚で楽しむ方々を否定はしませんが。