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蕪村の俳句(120)




■旧暦2月15日、水曜日、彼岸明け、満月。

東電福島原発事故刑事訴訟支援団へ年会費を送付。金曜官邸前デモに、2013年から、月に一度くらいのペースで参加していく中で、この刑事裁判の支援団のことを知った。二度の検察庁の不起訴処分を超えて(この検察の判断が「国家利権村(原子力村含む)」の所以である)、2015年7月に、検察審査会が、東電の勝俣元会長、武黒元副社長、武藤元副社長の3名を、津波対策を怠って、原発事故を起こし、死傷者を出した業務上過失致死で、起訴すべきことを決定した。

今も10万人もの人々が元の土地に戻れず、不自由な生活を強いられている。事故の後、多くのいのちが自殺や慣れない生活の中で失われたが、いまだに、だれも責任を取っていない。事故の全容解明も、なされていない。そんな状況で、原発再稼働や原発の輸出にやっきになっている安倍政権。これはどう見ても、狂っているのではないか。

この裁判が、津波対策を怠ったことを焦点化しているのは、やや、疑問を持つが、というのは、そもそも、津波対策以前に、原発の耐震性に問題があり、そのことを、国家利権村は、確率論を用いた安全神話(この点については、2012年の東京情報大レクチャー「偶然と必然、あるいは確率と因果律」で詳しく展開した)で正当化してきたからだが、それでも、刑事責任を明確化するこの裁判は、とても意味のあることだと思う。

年会費は、一口、1,000円からである。文庫本一冊我慢すれば済む。「構造的な悪」にだれも責任を取らない退廃した状況は、ただ倫理的に許されないだけではない。これを放置すれば、次に、この「構造的な悪」は、自分に向かってくる。なぜなら、われわれは、この構造にすでに深く組み込まれているからだ。福島原発事故が起きたとき、責任主体を明らかにしないまま、「首都圏の電気の使用者にも責任がある」などという詭弁で、広く加害者を作りだし、真の責任主体をまやかしてきたのは、この「構造的悪」、すなわち「国家利権村」ほかならないのである。このまやかしに加担しているところまでが、国家利権村の範囲と言って差し支えないと思うが、これがやっかいなのは、現実に国家に利権のある人々だけでなく、権威・権力への過剰適応をしている人々(被操作主体)も含まれる点にある。





法然の数珠もかゝるや松の藤

明和7年 五車反古ほか



■宗教と俳人の関係は、なかなか、興味深い。いっとき蕪村は浄土宗の僧侶だった。どの宗教を奉じたかで、その俳人の社会的スタンスがある程度、わかる気がする。蕪村や一茶は、浄土宗と浄土真宗なので、庶民と言っていいのではないだろうか。松にかかる藤の花の見事さを法然の数珠に見立てている。

芭蕉は仏頂禅師との交流から、臨済禅に傾倒していたらしいことがうかがわれるが、臨済宗は、まったくの庶民の宗教とはなかなか言いがたいのではないか。鎌倉に入ったときには、武士の宗教だったわけだから、支配階級の宗教という面も持つだろう。庶民が完全に他力本願で「あなた任せ」になってゆくのと対照的に、禅はどこまでも求道的で自己研鑽的。蕪村や一茶に、芭蕉のような段階的な発展(変化)のようなものが截然としてないのは、宗教との関わりも大きいように思う。

蕪村のこの句、法然への帰依と称賛が、素直に現れている。





蕪村句集 現代語訳付き     (角川ソフィア文庫)
クリエーター情報なし
角川学芸出版






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