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芥川龍之介の俳句(13)


■旧暦11月26日、金曜日、、大晦日

(写真)in Basel

朝、新聞を読んでから掃除をしようと思ったら、埃取りのスペアが切れている。早速、買いに出て、午後一杯かかって、部屋の本の片づけと掃除、風呂の掃除。かなり疲れてしまい、夕方には、ウィスキーを飲み始める。これで、ずいぶん、回復。

3月から連載を始める村松武司に関する論考は、メインが植民地問題とらいの問題になる。植民地問題は、帝国と切り離せない。大日本帝国とは何だったのか、という問題を考えることでもある。理論的には、「過去」とは何なのか、という時間論の問題。とくに、過去は人間の制作物であるという大森荘蔵や、言葉の時代による意味の差異、歴史の「断絶」を考察したフーコーの歴史思想(たとえば「朝鮮人」とは時代によってどのような意味の変遷をしているのか)が重要だと考えている。植民地の空間論。空間が植民地主義という思考を規定するはずであるから、植民地問題を問うことは、その社会的・物理的空間を考えることもであるはずである。これらは、当然、言語ゲームとも関連する。また、植民地というのは、「過去形」で語られるものではなく、「現在進行形」であるとぼくは思っている。現代の「植民地」とは何のか。現代の「帝国」とは何なのか。アクチャルな問題として、植民地の問題を考えるとき、一民族一国家という19世紀以来のnation-stateのイデオロギーを問題にすると同時に、nation-stateの21世紀versionである多国籍企業の問題を根本的に考えていく必要があると考えている。つまり、植民地問題は、過去の終った外交問題ではなく、現代のわれわれの問題であるという問題意識を手放さないことが重要だと思う。連載では、朝鮮・中国に比べて、あまり問題化しない「台湾の植民地化」にも触れたいと考えている。なぜ、問題化しないのか、あるいは、問題化しないように見えるだけなのか。ローマ帝国のように、植民地化が文明化という「過去」の作り方もありえる。

らいの問題は、マイノリティの問題と重なる。帝国・植民地・マイノリティは三位一体として考える必要があると考えている。らいの場合には、社会的身体という問題も関わるが、ユダヤ人問題のように、(第三)帝国による排除・殲滅と同時に、マイノリティの弁証法という側面も、考慮する必要があるだろう。弁証法が可能なのは、一部ではあるにしても。



炎天や切れても動く蜥蜴の尾   大正7年

■類想を見たことあるような気がするのは、今では、切れた蜥蜴の尾の動きがよく知られているせいだろう。当時はどうだったのだろうか。芭蕉や蕪村、一茶などを読む限り、この種の俳句はないように思う。炎天の取合せも決まっている。



Sound and Vision













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