今夜は誰にしよう。
記憶の歌人、古人はみな若い日からの友人だ。徒然草に書いてある。「まだ見ぬ世の人を友とせむ」
真実に心の通いあう友人は、現世ではなかなか見つからない。だからいにしへの書物の中に、共鳴や共感を探すと。
共感や共鳴は、イマドキハヤリの「共有」とは似て非なるもの……物理的功利的気配のない心の動きだ。
今夜は源氏物語にしようか。
作者は紫式部だが、彼女の歌は千年来、高い評価がない。しかし源氏物語は、永遠に不滅の傑作だ。そして、紫式部が実人生で詠んだ歌よりも、彼女が物語世界で、登場人物として歌ったものの方がはるかに優れている。
袖ひぢる泥地(こひぢ)とかつは知りながら
降りたつ田子のみづからぞ憂き
これは葵巻で六条御息所が光源氏に送った歌。技巧的に難しいので、簡単に訳すと、「衣装が汚れるー汚名をかぶるー泥沼のようなあなたとの恋路、こひぢ、と始めからわかっているのに、自分から進んでそこに降りてしまう農婦のような私の有様が嘆かわしいのです」
もと皇太子妃という高貴な六条御息所は、七歳年下の光源氏に魅惑され、彼の妻や愛人たちへの嫉妬に苦しむ。美貌と才気、身分、全てに優れた女性である御息所は、若い源氏の心が自分から逸れてゆくのに耐えられない。さりとて、彼との恋から離れる決断もできない。
巷の人びとは、興味しんしんで成り行きを眺めている。そこでひそひそと囁かれる噂は、御息所の誇りを台無しにするような、源氏の冷淡ぶりだ。
挙句、思い詰めた御息所は生霊となって源氏の正妻を憑り殺す事態に至るのだが、この歌は、そうした御息所の理性と煩悩の葛藤、苦悩を歌い、なお優美な余情にあふれる。
私のうろ覚えでは、本居宣長だろうか、この和歌を「源氏物語中第一の秀歌」と賞でている。
私個人としては、源氏物語の中には、他に好きな歌がいろいろあり、これを必ずしも第一とは思わない。だが、美しさと悩ましさ、気品と汚泥、官能の闇を含んでなお、優雅な歌と思う。忘れがたい一首だ。
さて、2月末から3月初め、地元の南総ホールギャラリーで、5人の作家合同の絵画展をいたします。
さわかやな、ほっとする空間を作りたいと思います。
お近くの方はお立ち寄りください。
感謝。