くろねこさんの話によれば

くろねこが思ったこと、考えたことを記すだけの日記なのだと思う。たぶん。

9月18日

2017年09月18日 23時57分20秒 | 記憶編
裸で抱き合うその密着感を、僕は「ゼロ距離」と呼んだんだっけ、それとも「ゼロミリメートル」と呼んだんだっけ。いずれにせよ、僕たちはぴたりとくっついたまま何時間もそうやって過ごした。疲れてくると彼女が上になったり、僕が上になったりした。時おり言葉を交わして、それからキスをした。あたかもそれがごく自然なことのように、僕たちは穏やかに抱き合った。いわゆるセックスとは少し違う、なんだか優しい時間だった。

心地よい風が草原に吹いて、さわさわと丈の短い植物を揺らした。柔らかな日差しが降り注ぎ、世界が満ち足りていた。「幸せな体勢」と僕は言った。互いの体温を感じながら、心にも触れているようだった。時々彼女が熱い息を吐いた。セックスとは違うのだけれど、僕たちは確かに交わっていた。そして、僕はその穏やかな時間がとても好きだった。

「村上春樹は好きですか」

確か、それが僕の最初の言葉だ。理由は彼女が村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」が好きだったからであり、お世辞が苦手だったからだ。そういうところに僕はとても親近感を覚えた。つまり、僕も村上春樹が好きで、お世辞が苦手だったのだ。うまく表現できないけれど「そういう感じ」はよく分かる。直感があった。だから、心の距離が近くなるのに時間はかからなかった。

それから僕は毎晩、彼女とのやり取りを心待ちにするようになった。言葉を交わすたびに彼女に惹かれていった。景色が色づき、鮮やかさを増していった。彼女に恋をした。

僕はそのころ一人暮らしを始めたばかりで、だからというわけではないけれど、当時の記憶は鮮明に残っている。部屋の間取り、シャツにアイロンをかけながら彼女からの連絡を待つ時間、紅茶の香り。当時聴いていた音楽はYUKIのアルバム「嬉しくって抱き合うよ」だった。一曲目は「朝がくる」で、タイトルや歌詞はどこか暗示的に思えた。もう一つはサカナクションのアルバム「DocumentaLy」。その中の一曲「エンドレス」を聴きながら、よくアイロンがけをした。テレビを消して、部屋を少し暗くして、それから彼女のことを考えた。そのイントロは未だに甘く切ない響きに聞こえる。ラブソングではないのだけれど、その時の思いが記憶として溶け合っているのだと思う。連絡を取り合うまでの時間を、音楽が豊かに彩ってくれた。

乾いた地面に水が染み込むように、僕の心は彼女で満たされていった。

言うなれば、僕はずっと生きることに対して自信がなかったのだ。当時は今の仕事を始めて2年ほどになっていたけれど、その前の仕事やら何やらで心が弱っていた。ただ、挫折と言えるほど大層なものじゃない。いまならそう言えるのに、なにせ当時は真剣だった。「肩の力を抜こうよ」とアドバイスしたいけれど、どうにも性格なので仕方がなかった。社会で生きていけないとすら思っていた。過去の嫌な記憶とか思いとかがオセロのように、楽しく美しいものすらも裏返し、僕は見えない壁に道を塞がれているように思っていた。なんのことはない、塞いでいたのは他ならぬ自分だったのに。

それでも(といまでも思う)彼女は僕を愛してくれた。それは僕にとって本当に驚きで、飛び上がりそうなほど嬉しいことだった。仕事で辛いことがあっても、疲れていても、彼女の存在が僕を支えてくれた。励ましてくれた。僕はとても幸せで、ますます彼女を愛した。降り注ぐ柔らかな雨に満たされていった。

例えば彼女の愛情の深さ、アルコールに弱いところ、肌の白さ、(もちろん)お世辞が苦手な性格なんかも僕は好きだった。ある時、幼いころに母親が言った「見返りを求めない」という言葉(だったと思う)を覚えていることも教えてくれて、そんなところにも好感を持った。
例えば月が好きなところもそう。皆既月食が起きた時だったろうか、僕たちは一緒に空を見上げた。あいにくの曇り空に隠れていて、見えたとか見えないとかそんなことを話した。寒い夜で(季節は冬だったろうか?)、彼女が先にギブアップした。それも思い出の一つだ。同じ月を見ているとういことが僕たちの絆になった。

でも当時、僕は夜中に突然目を覚ますことがあった。気がつくと涙を流していた。体の芯が痛んで、自分の嗚咽で目を覚ました。それは不吉な予兆だった。どこかの渓谷に住む魔女がかけた呪いのように、体を覆っていた。彼女は僕よりも10歳ほど年上で、そのような差はどんなに意識の外に置こうと務めても、ハードルになっていた。

「いつかはあなたと別れる日が来ると思う。でも、私はいまが幸せ」

当然のように彼女が別れに触れるたび、僕は言いようのない悲しみに襲われた。どうしようもないことなのだろうか、それは避け難い未来なのだろうか。幸せが大きいほどに悲しみが募った。それは体の芯を絞り上げ、僕を真夜中に叩き起こした。

「あなたを思う気持ちが、雪みたいに消えてなくなればいいのに」と彼女は言った。

3月のある夜、僕たちは雪が降る中を腕を組んで歩いた。彼女はたくさんキスをしたがり、僕は照れて、少し困って、でもそんな彼女を愛おしく思った。辺りには雪が残っていた。そんな日が、ある意味では彼女との別れの日だった。

抱き合った後で、「結婚して」と彼女が言った。僕は何も言えず、しばらくしてから「いまは誰とも結ばれない」と答えた。

◇◇◇◇◇

2011年の9月はとても暑かったことを覚えている。とても汗をかいて、喉が渇いて、僕はせっせと麦茶を作った。一人暮らしを始めたばかりで、26歳だった。6年前のことだ。もちろん未だにそうなのだけれど、仕事は一人前というには程遠く、生活基盤も弱かった。部屋は少し雑然としていて、僕は休日になるとよく家具やら必要なものやらを買いに出かけた。毎晩アパート近くの線路沿いを走り、本を読んだ。志のようなものはあったけれど、夜は寂しく、心もとなく、漠然としていた。何もない草原に一人で立っているような気がした。厚い雲が太陽を覆い、強い風が吹くと、僕は身構えて辺りを見回した。決してそんなことはなかったのに地面が揺れているような気がした。

彼女に出会ったのはそんな時だ。日付ははっきりと覚えている。2011年9月18日。東北の太平洋沿岸を壊滅させた震災から半年が過ぎたころで、いまからちょうど6年前のことだ。

あれから僕はどうやって歩いてきたのだろう。6年、なかなかの時間だ。僕は30代になった。もう若いとは言えない歳だ。周囲はもう結婚して子供がいる。家庭を築いている。家を建てた者もいる。スコット・フィッツジェラルドの小説「グレートギャツビー」で主人公ニック・キャラウェイが「年齢」を意識した年代だし、村上春樹の小説「ねじまき鳥クロニクル」では主人公「僕」が肉体的な変化に気づいた歳でもある。そういう時期なのだ。それなのに僕は、相変わらずでいる。

◇◇◇◇◇

知り合った当時、彼女は35歳だった。「(僕が)早く歳を取れればいいのに」と僕は言った。

◇◇◇◇◇

2015年3月、僕は墓標を立てに東京へ向かった。

もう少しで30歳になるところで、20代との別れが迫っていた。新幹線で東京駅に着くと、中央線に乗って八王子駅を目指し、ふと思いついて途中の三鷹駅で降りた。東北ではまだまだ雪が残っているというのに、東京にはなく、すでに春の雰囲気が満ちていた。穏やかな街並みを眺めながら、僕はぶらぶらと歩き出した。ジブリ美術館があるというので一路そこを目指し、道がわからなくなり自転車屋のお兄さんに訪ねた。「俺も知らないんだよね」と言って、ネットで調べてくれた。教わったとおりに住宅街を通っていると、サクラが満開になった庭があった。早咲きの品種だと思うけれど、名前は分からなかった。ピンクの色が濃くて、とても綺麗で、写真に収めてまた歩きだした。

美術館ではチケットがないと入れないと言われ(コンビニで調べたら何カ月も先まで予約が埋まっていた)、やむなく近くの喫茶店で軽食を食べた。リュックの荷物は少し重くて、僕はなかなかに疲れていた。地元作家の小物やら絵画やらがたくさん飾られている店で、途中、常連客の女性が入ってきてマスターと話し込んだ。

ほら、子供が小さいでしょ。だからベビーシッターを頼んだの。私も働きたいしね。そうそう、大変なの。旦那の両親が近くにいるからたまに任せるんだけど、それも悪いじゃない。子供がいると疲れるって言うし。でもね、ベビーシッターって言っても、色々な人がいるからどうしようかなって思って。うん、仕事は順調。だから子育ても大変なのよ。掃除はね…。

聞き耳を立てていたわけではないけれど、彼女はわりと大きな声で話したので、否が応でもそれは聞こえてきた。僕と彼女しか客がいなかったからだろうか、その声はやけに大きく聞こえた。会話は途切れそうにもなく、僕は仕方なく紅茶(確かダージリンティーだったと思う)を飲み干し、その店を後にした。話を聞かされるのが少し億劫だったのだ。
駅へ向かう途中でまた道が分からなくなり、ベビーカーを押した母親に尋ねて駅へ戻った。なかなか素敵な街だな、と思った。新品のような光が連なる住宅街を照らし、横切る川面を輝かせ、穏やかな雰囲気を描いていた。アスファルトの地面からはかすかに春の匂いがした。

でも正直に言うと、僕はきっと墓標を立てることができなかったのだ。もちろん墓標なんて比喩だし、精神的なものだけれど、だからこそ僕は「それ」を亡きものにして、形式的にであれ弔うなんてできなかった。それは決して失われず、僕の中で脈打っていた。だから僕の東京行きは、ある意味ではほとんど形を伴わなかった。どれもこれも表面的で、あるいは影のように実態を持たなかった。

八王子のホテルにチェックインすると、僕はしばらくベッドに横になって疲れを癒してから、街の中を三鷹以上にぶらぶらと歩いた。3時間近く歩きまわったと思う。日は沈み、夜になり、それでもぐるぐると、足が棒になるほどに。何度か駅ビルを訪れ、通りを抜け、目的をもって歩いて行く人たちの群れを眺めた。会社帰りのサラリーマンもいれば、学生たちもいた。みな笑顔で、なんだか楽しそうだった。僕は独りで、ありもしない墓標を抱えたふりをしていた。ホテルに戻ると買ってきた酒を飲み、彼女に連絡をして、ひとしきり泣いた。「愛してる」と伝えた。なんだか馬鹿みたいだった。そうして20代の終わりを迎えたわけだ。

◇◇◇◇◇

その東京行きで新幹線や電車で移動している間、僕はくるりの「奇跡」を中心に聴き、村上春樹の小説「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を読んだ。「いつまでもそのままで泣いたり笑ったりできるように、曇りがちなその空を一面晴れ間にできるように」とくるりは歌っていた。つくる君はかつての友人たちと再会し、自分の過去と向き合っていった。

八王子のホテルをチェックアウトすると、僕は駅前のデニーズで朝食をとり、通勤ラッシュを避けてから中央線に揺られて帰路についた。座っている人たちの顔をぼんやりと眺め、そこで暮らす人たちの生活に思いを馳せた。

◇◇◇◇◇

あるいはこの記憶は、遠い過去なのだろうか。過ぎ去ってしまったものなのだろうか。確かに時間という側面から見ればそのはずなのに、僕にとってはとても近しいものに感じられる。思いは記憶の中の情景や音と絡まり合い、リアリティを持って浮かび上がってくる。

一連のイメージを僕に与える。

例えば月を見れば、僕は彼女を思う。
例えば音楽を聴けば、僕は彼女を思う。
例えば小説を読めば、僕は彼女を思う。

そういうことだ。

時々、2011年の9月18日に戻りたいと思う。まっさらな気持ちでまた彼女に会いたいと思う。引っ越したばかりで、せっせと麦茶を作り、寂しさを抱えたあの日に。きっと僕は幸せな気持ちになり、それから夜中に叩き起こされる。それでも時々、その日に戻って彼女に会いたいと思ってしまうのだ。

「いつまでもそのままで」なんて奇跡を、願ってしまうのだ。