気まぐれ徒然かすみ草ex

京都に生きて短歌と遊ぶ  近藤かすみの短歌日記
あけぼのの鮭缶ひとつある家に帰らむ鮭の顔ひだり向く 

短歌人11月号 11月の扉

2015-10-31 00:25:57 | 短歌人
びわの実のふくらむころの保健室をさなき瞳ひたすらなりき

おほいなる鯨の旅をおもひつつちからいつぱい見ひらくまなこ

(金沢早苗 ランドルト環)

翳む目は右も左も分からずに目を凝らしおり今の日本に

ピント合う瞬時に赤い気球見え国外脱出うながすごとし

(加藤隆枝 遠近両用レンズ)

ただの豆にしか見えない真実は分からなくてもよいではないか

遠方を見ていれば視力は良くなると聞いたが回復した人知らず

(上原康子 限界はまだ)

〇・七がよく見えなくて〇・八が見える不思議を抱へて帰る

眼鏡をば換へずに済んだよろこびは刺身定食を上にさせたり

(中地俊夫 見えて来ました)

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短歌人11月号、11月の扉。題詠*視力検査を詠む


駅程 島田幸典 つづき

2015-10-28 23:36:10 | 歌集
さかしまに麒麟翔けつつ空き缶の鳴子が冬の畠を守る

空のリュック背負(しよ)って古本の市にゆく遠き若葉をまなこに点し

ギロチンは苦痛少なくことをなす人道的の刑具なりにき

京都をば住所とさだめおのずから京都銀行の通帳もてり

暮れてのちほのかに灯る乾電池自販機天使突抜にあり

一分前に発ちたるバスがまだ見えて一分の間を距離にし見しむ

にくたいのあるかぎりそこを歩むなき深(みぞ)泥(ろが)池(いけ)をバスに見放(さ)くも

骨壺を拝(おろが)み声を思うのみ島田君とぞくりかえし言う

下駄履きの僧侶がバスの先頭に立ちてとどまる両替のため

悔しさのあまりに舐めし鍵の味晩夏になれば夕べに思う

(島田幸典 駅程 砂子屋書房)

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一首目は、キリンビールの空き缶を利用した鳴子が、冬の畠に吊るされている光景。上句だけ読むと、頭に?が灯るが下句で回収している。最近、一読してわからない歌が話題になっているが、このように、解決する(腑に落ちる)ことで得られる快感の方をわたしは好む。「さかしまに」の初句五音、並の歌人には出ない。二首目。京都では年に三回、古本まつりというのがあるので、そのことかと思う。下句が美しく、青雲の志という言葉を思った。三首目は怖い歌であるが、三句目「ことをなす」のひらがな書きで、処刑という残酷なことをあっさり言っているのがうまい。ここをくどくど言われると読者はうんざりする。四首目は、ただごと歌の部類の歌かと思うが、これを「をば」「もてり」と大仰に言うところに面白味がある。
五首目も京都の歌。天使突抜は、京都に実際にある地名。乾電池自販機という漢字の多い表記の素っ気ないモノを置いて、叙情が度を越さないように抑制されている。六首目もただごと歌かと思う。「一分とは何?」と尋ねられたとき、こう答えるとよい。なぜか奥村晃作の「次々に走り過ぎ行く自動車の運転する人みな前を向く」を連想してしまった。七首目は京都の心霊スポットと言われる深泥池をうたう。私も十数年前、池の周りを通るバスで通勤していたことがあった。野原のように見えても実はずぶずぶの沼なので、危険で歩くことはできない。そこを歩むのは幽霊か魂か。八首目は、師である石田比呂志の弔問の一連から。「短歌で人生を棒にふった」と石田比呂志は言ったと聞くが、師弟関係の濃さを思うとき、石田短歌はしっかり島田幸典に継承されて生きている。九首目は、嘱目詠。結句で答が出ているが、上句のていねいな描写で様子がよくわかる。十首目は、めずらしく作者の心情の出た歌。ふだん淡淡としている島田さんにもきっと口惜しいことはあったはず。しかし、それは言わない。

こうしてまとめて読みこむと、文語定型の文体を構築した巧い歌にまじって、ただごと歌(発見の歌)がある。ものをよく見ていて小気味よい。何より、短歌の佇まいが美しい。
まだまだ紹介したい歌はたくさんあるが、これくらいにする。これからも京都に根を張って、わたしたちを牽引して行ってほしい。

駅程 島田幸典 

2015-10-28 00:25:35 | 歌集
鉄琴に鉄の匂いし木琴に木の香は立ちぬ教室の秋

朝戸出の右の手に鍵かけながら鎖(とざ)されいるはわれかもしれぬ

電灯を落としつつゆく廊下あり寝室(ねや)の明かりに妻とおち合う

聖堂をもとおる蔦のくれないは無数の舌のひらめくごとし

初なつの空に刺さりて抜き戻す所作ありしごと落つるボールは

柔(にこ)草(くさ)の辺に棄てられて横向きの浴槽(ゆぶね)さぶしもその白妙も

秋空はきれぎれに見ゆ慣性によりて転(くる)めく換気扇より

街路樹の広葉に窓をおしつけてバスは義足のひとを降ろせり

梅雨暗(つゆぐれ)の和室に冷えてアイロンの先に余剰の尖りは立てり

いつぽんの管は伸び来て自動車に吸いつくごとき給油をなせり

(島田幸典 駅程 砂子屋書房)

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八雁短歌会の島田幸典第二歌集『駅程』を読む。

作者三十歳代の歌、605首を収めている。歌の量が多いが、飽きることなくすらすらと楽しんで読めた。島田さんとは、神楽岡歌会でご一緒している。十代のときから歌に親しみ、石田比呂志に師事してきた経緯からか、石田さんが亡くなられるまでは新かなで作歌していた。今は旧かなだが、この歌集には新かなの歌が収められている。最近になって島田さんの歌を読むようになったわたしにとっては、新かなであることに少しの違和感はある。しかし、歌の技術の確かさは皆の認めるところ。文語定型でかっちりと構成された歌を読む悦びを満喫できる歌集だ。

一首目は、秋の教室を懐かしむ歌。鉄琴、木琴という具体が読者を子ども時代に戻すツールとして効いている。二首目は、鍵をかける行為は、自らを別の世界に閉ざすのかもしれないというウラの視点を示して面白い。朝戸出という言葉が新鮮。語彙の豊富な作者である。三首目のような妻の歌は、けっこう多く、作者が妻との生活を愉しむ様子がほほえましい。こういう夫婦のうたは、甘くなりがちで、わたしなど甘い夫婦の歌を読むとけっこうムカつくのだが、慎ましく詠まれているので嫌味がない。寝室(ねや)のルビ、「おち合う」の動詞に抑制があるからだ。四首目は比喩がよい。五首目は、投げたボールの落下をうまく表現している。六首目は、棄てられた白い浴槽を詠って、美しい。第一歌集には、便器を美しく詠った歌もあった。「ひとおらぬときしも洩るる朝かげに便器は照るらんかその白たえに」。七首目は、ゆっくりまわる換気扇のファンのすき間から見える青空を詠って詩的。「慣性によりて転めく」は理屈っぽい気もするが、巧く言ったものだと感心させられる。八首目。バスから義足の人が下りた。そのときのバスは繁る街路樹に近づいていたということだが、歌に出て来ない運転手の様子(心情)も想像させて、景が立ち上がる。九首目は、梅雨暗、余剰の尖りがうまい。日常の風景をよく切り取っている。十首目は、給油の場面だが、吸いつくごとき、がいいし、初句の「いつぽんの」のひらがなも効いている。ものを細かくよく見ていてムダがない。


泥つき地蔵 米田靖子 

2015-10-21 00:58:48 | 歌集
ゆふぐれの茅の輪をくぐるいつしゆんを一言主神(ひとことぬし)の風の吹きたり

いろづきし鬼灯に触れわれに触れ風はときどき夫よりやさし

ことばこそ人間の知恵「大丈夫」「それでいいよ」は日向のにほひ

多すぎるひとの言葉に疲れたり一本の茎に笹百合ひとつ

食の字は人に良きなりはつなつのなづきに浄く食の字ひびく

酒粕にしろうり、きうり漬けこめば琥珀色なる 時間のうふふ

二上のふたみね見ゆる御所駅よりとんぼとともに電車に乗りぬ

喫茶店の隅にすわりて安心す杣(そま)棲みわれは尻尾かくして

振るたびに頭上でわづか静止して空に礼(ゐや)せり耕す鍬は

川になり、梯子になりてあやとりは騙されやすきわたしを騙す

(米田靖子 泥つき地蔵 本阿弥書店)

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コスモス短歌会の米田靖子の第三歌集『泥つき地蔵』を読む。

米田(こめだ)さんは、その名の通り農業に携わっていて、農業を中心とした暮らしに歌の題材を選んでいる。町育ちで実家もないわたしにとっては別世界だ。自然と向き合う生活には、厳しさも喜びもあり、近隣の人たちとの温かい触れあいもある。歌は平明で読みやすく、わかりやすい。わたしが一番好きなのは、九首目。耕す鍬の動きをしっかり描写している。「わづか静止して」の的確な表現。四句目の「空に礼せり」から自然への感謝が読みとれる。六首目の結句、「時間のうふふ」のユーモアにも拍手を送りたい。

短歌人10月号 秋のプロムナード

2015-10-19 22:43:54 | 短歌人
優等生であればあるほど不幸なり 子を置いてゆくシオカラトンボ
ふるさとに吾を知る人のまた減りて晩夏の蝶は羽ふるわせる
(鶴田伊津 夜のボート)

夜に遅く駅を下ればほのあかり易する者の行灯がみゆ
父と子と朝を出できてごみ袋それぞれにもつ袋大小
(小野澤繁雄 荷)

「生き方」とふ棚が書店に作られて歩みの遅き人から気付く
南国の鳥の卵を言へば子は信ずるやこのキウイ一籠
(河村奈美江 隊列)

いずれ死地に赴く歌が謳われる We Are The Worldみたいにあかるく
神も仏もいなくなったと思う頃、門の向こうに軍神はいる
(生沼義朗 死地に赴く歌)

木虫かご(きむすこ)といふ出格子は連なれりひがし茶屋街あぶら照りして
全方位緑なりけり名にしおふ兼六園のかぜに吹かるる
(佐々木通代 金沢2015)

散策といふよりむしろ徘徊といふべし天満地蔵前まで
雨の日は鍵かけて部屋に自閉(ひきこも)る湖底の人のごとひきこもる
(長谷川莞爾 遺言セミナーで学んだこと)

弟に初めて会ひし日のことを嘘かまことか記憶にありぬ
ぢいちやんの背負(しよ)ふ籠の中ゆれゆられ夕べの茜雲を見てゐき
(大橋弘志 嘘かまことか 三歳の記憶

雲水の前をあをすぢあげは過ぎまたふたたびを戻りては来ず
朝ごとに明瞭になる一歳半のみどりの言語視野にふりむく
(大森益雄 歌の分際)

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短歌人10月号、秋のプロムナードより。