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ドルイド・エジプトと、マリア・・「黒い聖母と悪魔の謎」馬杉宗夫氏著(2) 再掲

2025-04-22 | 古代キリスト教
2018-03-21 | 古代キリスト教


上の像は、わたしが買った、12世紀からスペインの「モンセラ」という町で祀られている「黒い聖母子像」の写しです。

毎日見ていると、お地蔵様みたいな気もしてきますが、いわゆる「西洋的マリア」とはずいぶん異なったものだと、つくづく思ってしまいます。

引き続き、「黒い聖母と悪魔の謎」馬杉宗夫氏著のご紹介をさせていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。



            *****

          (引用ここから)


「ル・ピュイ」の「黒い聖母」は、伝説によれば、1254年に、聖ルイ王(ルイ9世)がエジプトから持ち帰り、「ル・ピュイ」に寄進したものとされている。

この像はもともと古代エジプト時代の「イシス神」であり、それを「聖母像」に作り替えたものと記されている。


しかし、この像の制作場所や年代は定かではない。

確かなのは、1096年以前に、「ル・ピュイ」の地にすでに「聖像」があったことである。

と言うのは、十字軍に出かける前に「自分が生きている限り、祭壇の尊敬すべき聖母像の前に、絶えることなくろうそくの火をともしておくこと」を要求した人の記録が残されているからである。


「ル・ピュイ大聖堂」の祭室外壁には、「ドルイド教」時代の浮き彫りと、それに面して「聖なる泉(井戸)」が置かれている。

この地が、いかに「巨石崇拝」や、「聖なる水の崇拝」の伝統の強い所であったのかが分かるのである。

「巨石(聖石)崇拝」と結びついた他の地は、ロカマドール、スペインのカタルーニャ地方のモンセラ、サンジェルヴァジィの台地などで、「巨石」が今なお存在している。


ボーズ平原に奇跡のごとく建つ「シャルトル大聖堂」にも、古くから崇拝されていた「黒い聖母」があった。

それは「地下祭室」に安置され、「地下の聖母」と呼ばれている像である。

像の下に「出産を前にした聖母」と記されている。

すなわち、伝説によれば、この像はキリストが生まれる以前に制作され、「ドルイド教徒」達が崇拝していたと言われている。


いわゆる「地下の聖母」は、「ドルイド教」時代に遡る最も古いもので、彼らの「大地の女神崇拝」と結びついていたものと思われている。

「シャルトル大聖堂」の「地下の祭室」には、4世紀頃の「井戸」があるように、そこは「ドルイド教徒」たちの「聖なる水」の信仰と結びついていたのである。

この「地下の聖母」の制作年代は定かでない。

「黒い聖母像」がある所は、古いドルイド教の伝統と、新しいキリスト教が同化した場所であることがわかるのである。


しかし、これらの「聖母」はなぜ「黒い」のであろうか?

その象徴的意味は何だったのであろうか?

この奇異に思える「黒い色」の意味を、あえて「聖書」の中に探してみるならば、「旧約聖書」の中に、それらしきものが見られる。


エルサレムの娘たちよ

わたしは黒いけれども 美しい

ケダルの天幕のように

ソロモンのとばりのように

「旧約聖書・雅歌 1章5節」


異教的とも思えるこの「雅歌」の文句については、中世以来、多くの解釈がなされている。

しかし「黒い聖母」がこの文章を典拠にしているという証拠は何もない。


キリスト教以外の宗教を見れば、“死の象徴”とも言うべき「黒」は、必ずしも悪い色としてとらえられていない。

古代神話における「大地の女神」は、しばしば「黒く」表現されている。

たとえば古代エジプト神話における「地母神イシス(死者の守護神であり、豊穣神でもあり、太陽神ホルスの母)」は、「黒く」表現された。


「幼児ホルス神」を抱いて座るこの「イシス像」の中に、キリスト教の「聖母子像」の原型を見る論者もいる。

「イシス信仰」は、地中海世界に広く伝播していったと考えられている。


ギリシャ神話の「大地の豊穣神・デメテール」と、「イシス神」を同一視する人もいる。

また「世界7不思議」の一つと言われた小アジアの「エフェソスのアルテミス(ダイアナ)の神殿」には、「太陽神アポロンの双子の妹にあたるアルテミス(古くは先住民族の「地母神」)の、「黒い像」が描かれていたと伝えられている。


「シャルトル大聖堂」の「地下祭室」にあった「黒い聖母」も、「ドルイド教の大地の女神、豊穣なる大地、その母なる女神・デメテール」の信仰を受け継いだものでなかったか?


「黒い色」は、すべて「大地の女神」に結び付いているのである。

大地は、「暗黒の闇」から「生命」を生み出す根源なのである。


また、各地に存在する「黒い石崇拝」も、これと無縁ではない。

イスラム教の聖都・「メッカ」のモスクにも、「黒い石」が「聖石」として飾られている。

興味深い現象である。


「黒い石」は、錬金術的な意味も持っていた。

錬金術師たちの最初の重要な仕事は、万有還元能力があるとされた「仙石」を作りだすことであった。

そのためには、まずその第一の原料を集める必要があった。

この原料は重く、割れやすく、その上砕けやすい、石に似た「黒い物質」であり、簡単に手に入るものとされていた。

錬金術師たちは、この最初の原料を探すためには「地下に」、「金属を含有する鉱床」に行かねばならない。

ゴール地方の錬金術師たちは、「ドルイド教」の神官を兼ねていた。

彼らは、「見者」「識者」「魔法を使う博士」であった。

彼らの儀式や仕事のためには、しばしば「地下」や「洞窟」が選ばれた。

このことも、「黒い聖母」がシャルトル、クレルモン、ロカマドール、モンセラなどのように、「地下」
や「洞窟」がある場所に見出されるという事実と一致して面白い。


「黒い聖母」は、「物質界」から「精神界」へと、我々を導く役割が担わされていた。

「黒い聖母」は大地からあらゆるエネルギーを吸収し、それを「天上界」の力と結びつける。


「緑色」は、大地から生まれてくる植物の色であり、物質と精神という異なった両者に調和をもたらす色である。

その緑色が、「聖母」の衣の色として与えられる。(後に青となったという)

他方「赤」は、太陽の色であり、愛やエネルギーを生み出す。

それは救世主キリストの衣の色となる。

すなわち「黒い聖母」は、物質界の「黒」=「現世」と、精神界の「赤」=救世主キリストとを結びつける仲介者としての役割をもっていた、とされる。


アルルの公会議(452年)、ナントの公会議(658年)、トレドの公会議(681年)、さらにカール大帝によって公布された法令(789年)などは、繰り返し、「樹木・石・泉・井戸を崇拝すること」を禁じている。

この事実は、ゴール(フランス)の地がキリスト教化された以降も、根強く「ドルイド教」の信仰が残っていたことを物語っている。

これら土着の民間信仰との衝突をさけるため、これらの地の「聖母マリア」は、「土着の地母神」との一致が求められ、あえて黒く塗られたのではなかろうか?


12世紀ロマネスク美術において、なぜこのように多くの「聖母像」が表現されるようになったのか?

そしてそれは、すでに存在していた「聖母表現」のどのタイプに従ったのか?
という問題が残っている。

「神の母」としての「聖母マリア」の「神性」が認められたのは、431年、「エフェソスの宗教会議」においてであった。

それ以来、東ヨーロッパのビザンチン世界では、「聖母マリア」表現が増えていったが、その大部分は「幼児キリストを抱いた聖母子像」としてであった。


西欧における最初の「聖母子像」は、800年頃、「アイルランド写本」の中に現れている。

その後、12世紀ロマネスク美術と共に、独立した「木製聖母子像」が現れ、またたく間に西欧中に伝播していくのである。

12世紀に西欧に現れた「聖母像」のタイプは、「玉座のマドンナ」であった。

「黒い聖母像」も、このタイプに従っている。

それはまさにヨーロッパに「聖母マリア崇拝」が高まり、「聖母マリア(ノートルダム=フランス語で「我らの貴婦人」)」に捧げられた大聖堂が建てられ始めた時と対応しているのである。

そして「聖母の衣」を保持するシャルトル大聖堂自身も、ヨーロッパにおける「マリア崇拝」の中心地になっていったのである。

            (引用ここまで)

             *****

わたしは、このテーマの本を何冊も読んだのですが、ここにも書かれているように、あのカトリックのシンボルともされる「シャルトル大聖堂」においても、「黒い聖母子像」が崇拝の対象となっているということに、非常に驚き、間違いではないかと、何度も確かめました。

wikipedia「シャルトル大聖堂」


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「古代キリスト教」カテゴリー全般


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「黒い聖母と悪魔の謎」馬杉宗夫氏著(1)・・マリアはいつから聖なる存在となったのか?

2025-04-12 | 古代キリスト教



キリスト教の世界に何人も登場する「マリア」についての考えの続きです。

なんと、聖母マリアの像の中には、「黒いマリア像」というものがたくさんあるということです。

上の写真は、わたしが購入した「黒い聖母像」です。

スペインの「モンセラ」という町で、12世紀に造られた「黒い聖母像」の写しです。

「黒い聖母」について書かれた本を何冊も読みましたが、非常に複雑で難解でした。

その中で、「黒い聖母と悪魔の謎」馬杉宗夫氏著をご紹介しようと思います。リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。



             *****

            (引用ここから)

フランス中央高原に、ロカマドールという町がある。

ロカマドールは、変わった洞窟や荒々しい岩肌を露出する絶壁など、驚くべき自然現象を示している所である。

突出した岩や断崖に囲まれ、そこに中世の街が、なお存続している。

それがロカマドールの町である。

岩山を背にした道幅は狭い。

その岩山から張り出して重なり合う家並みや、左右の土産物商店に興をそそられながら進むと、やがて高地に至る石段が続いている。

石段を登りつめた所に、7つの聖堂が建つ広場があり、まさに宗教都市という面影がある。


これらの聖堂の中で、人々の信仰を集めているのが、「奇跡の礼拝堂」と呼ばれている「ノートルダム聖堂」である。

岩山をうがって造られたこの小さな礼拝堂こそが、この地に住み着いた聖者・アマドールが聖所にした場所と言われている。

この聖堂の前の岩肌には、ロマネスク時代の壁画がなお残されている。

この礼拝堂の祭壇に「奇跡の聖母」と呼ばれている木造彫刻がある。

これがなんと「黒い聖母」像なのである。


薄暗い聖堂の中で、ろうそくの光に照らし出されている1メートル足らずの聖母像。

それが我々の注目を引くのは、その怪異な外観である。

やせ細った胴体や腕。

それと対比をなすかのような、ふくよかな腹部と胸部。

こうした外観に、一層の異様さを与えているのは、体全体を覆う「黒い色彩」である。

聖母は、頭から足に至るまで、全身が「黒い色彩」で覆われているのである。

「聖母マリア」には「不吉な黒色」は似つかわしくない、と思いながらも、その異教的な、謎に満ちた姿は、我々を捉えて放さない。

逆に「黒色」だからこそ、神秘的な力を持って迫って来るのかもしれない。

小さな「聖母像」に迫力を与えているのは、確かに全身を覆う「黒色」である。

「黒」は不思議な力を持っているのである。


「奇跡の黒い聖母」を祀るロカマドールの地は、スペインの聖地サンチャゴ・デス・コンポステラに向かう巡礼路の一つに当たり、12世紀以来、多くの信者を集めてきた。

英国王ヘンリー2世やフランス王ルイ9世を始め、フランスの歴代の王は、この「聖母」に贈り物を捧げるためにやって来た。

「黒い聖母像」は、水夫や囚人の守護神として、また多産や幼児の「守護神」として崇拝され、キリスト教国で最も崇拝を集めた「聖母像」の一つになっていたのである。



我々は、特にフランスの中央高地を車で回る時、あちこちでこのように黒く塗られた「聖母像」に遭遇する。

1メートル足らずの「聖母マリア」は、座像として幼児キリストを膝の上に抱いている。

通常、「聖母マリア」は「黒く」表現されることはない。

しかし、「黒く」塗られたいわゆる「黒い聖母」は、特に中央高地を中心に多く存在しており、1972年「アトランティス」という考古学雑誌に掲載されたリストによると、フランスだけでも200体以上に及んでいたことが明らかにされている。

これらの像の多くは12世紀、いわゆるロマネスク時代に制作された。

12世紀を中心に、同時的に出現している「黒い聖母」は、それらが偶然の要因で「黒く」なったのではなく、なんらかの理由で、当初からにしろ、または後の時代にしろ、意図的に「黒く」塗られたことは確かなのである。


キリスト教がゴール(現在のフランス)の地に浸透するまで、ゴールの地は、ケルトの国々を支配していた「ドルイド教」で覆われていた。

この宗教はある種のアニミズム(霊魂崇拝)であり、「聖なるものは自然の中に宿る」とされた。

彼らが崇拝していたのは、自然の中に存在する聖なる樹・・樫、ぶな、宿り木。

聖水・・泉、源泉、川。

聖石・・メンヒル・ドルメンなどであった。

そして注目すべき点は「黒い聖母像」が在り、またその崇拝のあった地は、「ドルイド教」時代にそれらの崇拝が行われていた場所と一致していることである。

ロカマドールでは、岩山を穿って作られた聖堂の内に「黒い聖母像」が祀られている。

このように「黒い聖母像」は、「巨石」と結びついた場所にしばしば見出される。

中央高地の中でも、小高い丘の並ぶ「ル・ピュイ」の地は、キリスト教化される以前から「ドルイド教徒」達の間では、最も重要な場所の一つであった。

「ル・ピュイ」の街はフランスでは珍しい火山地帯で、鋭い角度を持つ巨大な丘が3つもそびえ、一種異様な景観を誇っている。

「ノートルダム大聖堂」が君臨する丘も、その岩山の一つである。

「大聖堂」の西正面はイスラム風の装飾やアーチで飾られているが、この西正面の入口を入ったところに「熱病の石」と呼ばれる「平らな巨石」が置かれている。

この「巨石」は「奇跡を呼ぶ石」として、古くから崇拝されていた。

伝説によれば、「聖母マリア」が、熱病にかかった女性を憐れみ、この「石」の上に寝るよう、指示したという。

そして「黒い聖母」が置かれていたのは、この「巨石」の前だったのである。

「ル・ピュイ」の「黒い聖母」は、伝説によれば、1254年に、聖ルイ王(ルイ9世)がエジプトから持ち帰り、「ル・ピュイ」に寄進したものとされている。

この像はもともと古代エジプト時代の「イシス神」であり、それを「聖母像」に作り替えたものと記されている。

しかし、この像の制作場所や年代は定かではない。

確かなのは、1096年以前に、「ル・ピュイ」の地にすでに「聖像」があったことである。

と言うのは、十字軍に出かける前に「自分が生きている限り、祭壇の尊敬すべき聖母像の前に、絶えることなくろうそくの火をともしておくこと」を要求した人の記録が残されているからである。

「ル・ピュイ大聖堂」の祭室外壁には、「ドルイド教」時代の浮き彫りと、それに面して「聖なる泉(井戸)」が置かれている。

この地が、いかに「巨石崇拝」や、「聖なる水の崇拝」の伝統の強い所であったのかが分かるのである。

「巨石(聖石)崇拝」と結びついた他の地は、ロカマドール、スペインのカタルーニャ地方のモンセラ、サンジェルヴァジィの台地などで、「巨石」が今なお存在している。

             (引用ここまで)

               *****

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「ストーンヘンジの夏至祭り・・神官ドルイドの復活(1)」(4)まであり

「葛野浩氏著「サンタクロースの大旅行」(1)・・サンタはブタに乗ってやってきた」

「クリスマスの、異神たちの影・・葛野浩昭氏「サンタクロースの大旅行」(2)

「サンタクロースが配っているのはあの世からのプレゼント・・葛野浩昭氏・・「サンタクロースの大旅行」(3)

「ゲルマンvsローマ、そして、、多様性が文化である・・植田重雄氏「ヨーロッパの祭りと伝承」」

「エハン・デラヴィの、十字架の研究(1)」

「バスク十字」と「カギ十字(卍)」・ヨーロッパ先住民族の十字マーク」

「1世紀前半のユダヤ教会堂跡、日本の調査団発見・・イスラエル・テル・ヘレシュ遺跡・「聖書考古学」」

「キリストはなにを食べていたのか?(1)・・ユダヤ教徒としてのイエス」(5)まであり

「「ユングは知っていた・UFO・宇宙人・シンクロニシティの真相」コンノケンイチ氏(1)・・無意識と宇宙」


「洗礼者ヨハネとグノーシス主義・・「ユングは知っていた・UFO・宇宙人・シンクロニシティの真相」コンノケンイチ氏(2)」


「ユダの福音書(1)・・ユダから見たキリスト」(2)あり

「クリスマス・イエスのお祝いに訪れた〝東方の三博士″は、誰だったのか?・・マギ・星の証言(1)」(4)まであり

「クリスマスはミトラ教の祭りの日・誰が誰を祝うのか?・・「マギ・星の証言」(2)」(4)まであり


「マグダラのマリアによる福音書(1)・・マリアはイエスの高弟だったのか?」(2)あり

「2012年(1)・・時を数えているのは誰なのか?」(6)まであり


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ドルイド・エジプトと、マリア・・「黒い聖母と悪魔の謎」馬杉宗夫氏著(2)

2018-03-21 | 古代キリスト教


上の像は、わたしが買った、12世紀からスペインの「モンセラ」という町で祀られている「黒い聖母子像」の写しです。

毎日見ていると、お地蔵様みたいな気もしてきますが、いわゆる「西洋的マリア」とはずいぶん異なったものだと、つくづく思ってしまいます。

引き続き、「黒い聖母と悪魔の謎」馬杉宗夫氏著のご紹介をさせていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。



            *****

          (引用ここから)


「ル・ピュイ」の「黒い聖母」は、伝説によれば、1254年に、聖ルイ王(ルイ9世)がエジプトから持ち帰り、「ル・ピュイ」に寄進したものとされている。

この像はもともと古代エジプト時代の「イシス神」であり、それを「聖母像」に作り替えたものと記されている。


しかし、この像の制作場所や年代は定かではない。

確かなのは、1096年以前に、「ル・ピュイ」の地にすでに「聖像」があったことである。

と言うのは、十字軍に出かける前に「自分が生きている限り、祭壇の尊敬すべき聖母像の前に、絶えることなくろうそくの火をともしておくこと」を要求した人の記録が残されているからである。


「ル・ピュイ大聖堂」の祭室外壁には、「ドルイド教」時代の浮き彫りと、それに面して「聖なる泉(井戸)」が置かれている。

この地が、いかに「巨石崇拝」や、「聖なる水の崇拝」の伝統の強い所であったのかが分かるのである。

「巨石(聖石)崇拝」と結びついた他の地は、ロカマドール、スペインのカタルーニャ地方のモンセラ、サンジェルヴァジィの台地などで、「巨石」が今なお存在している。


ボーズ平原に奇跡のごとく建つ「シャルトル大聖堂」にも、古くから崇拝されていた「黒い聖母」があった。

それは「地下祭室」に安置され、「地下の聖母」と呼ばれている像である。

像の下に「出産を前にした聖母」と記されている。

すなわち、伝説によれば、この像はキリストが生まれる以前に制作され、「ドルイド教徒」達が崇拝していたと言われている。


いわゆる「地下の聖母」は、「ドルイド教」時代に遡る最も古いもので、彼らの「大地の女神崇拝」と結びついていたものと思われている。

「シャルトル大聖堂」の「地下の祭室」には、4世紀頃の「井戸」があるように、そこは「ドルイド教徒」たちの「聖なる水」の信仰と結びついていたのである。

この「地下の聖母」の制作年代は定かでない。

「黒い聖母像」がある所は、古いドルイド教の伝統と、新しいキリスト教が同化した場所であることがわかるのである。


しかし、これらの「聖母」はなぜ「黒い」のであろうか?

その象徴的意味は何だったのであろうか?

この奇異に思える「黒い色」の意味を、あえて「聖書」の中に探してみるならば、「旧約聖書」の中に、それらしきものが見られる。


エルサレムの娘たちよ

わたしは黒いけれども 美しい

ケダルの天幕のように

ソロモンのとばりのように

「旧約聖書・雅歌 1章5節」


異教的とも思えるこの「雅歌」の文句については、中世以来、多くの解釈がなされている。

しかし「黒い聖母」がこの文章を典拠にしているという証拠は何もない。


キリスト教以外の宗教を見れば、“死の象徴”とも言うべき「黒」は、必ずしも悪い色としてとらえられていない。

古代神話における「大地の女神」は、しばしば「黒く」表現されている。

たとえば古代エジプト神話における「地母神イシス(死者の守護神であり、豊穣神でもあり、太陽神ホルスの母)」は、「黒く」表現された。


「幼児ホルス神」を抱いて座るこの「イシス像」の中に、キリスト教の「聖母子像」の原型を見る論者もいる。

「イシス信仰」は、地中海世界に広く伝播していったと考えられている。


ギリシャ神話の「大地の豊穣神・デメテール」と、「イシス神」を同一視する人もいる。

また「世界7不思議」の一つと言われた小アジアの「エフェソスのアルテミス(ダイアナ)の神殿」には、「太陽神アポロンの双子の妹にあたるアルテミス(古くは先住民族の「地母神」)の、「黒い像」が描かれていたと伝えられている。


「シャルトル大聖堂」の「地下祭室」にあった「黒い聖母」も、「ドルイド教の大地の女神、豊穣なる大地、その母なる女神・デメテール」の信仰を受け継いだものでなかったか?


「黒い色」は、すべて「大地の女神」に結び付いているのである。

大地は、「暗黒の闇」から「生命」を生み出す根源なのである。


また、各地に存在する「黒い石崇拝」も、これと無縁ではない。

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興味深い現象である。


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錬金術師たちの最初の重要な仕事は、万有還元能力があるとされた「仙石」を作りだすことであった。

そのためには、まずその第一の原料を集める必要があった。

この原料は重く、割れやすく、その上砕けやすい、石に似た「黒い物質」であり、簡単に手に入るものとされていた。

錬金術師たちは、この最初の原料を探すためには「地下に」、「金属を含有する鉱床」に行かねばならない。

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彼らは、「見者」「識者」「魔法を使う博士」であった。

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このことも、「黒い聖母」がシャルトル、クレルモン、ロカマドール、モンセラなどのように、「地下」
や「洞窟」がある場所に見出されるという事実と一致して面白い。


「黒い聖母」は、「物質界」から「精神界」へと、我々を導く役割が担わされていた。

「黒い聖母」は大地からあらゆるエネルギーを吸収し、それを「天上界」の力と結びつける。


「緑色」は、大地から生まれてくる植物の色であり、物質と精神という異なった両者に調和をもたらす色である。

その緑色が、「聖母」の衣の色として与えられる。(後に青となったという)

他方「赤」は、太陽の色であり、愛やエネルギーを生み出す。

それは救世主キリストの衣の色となる。

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「黒い聖母と悪魔の謎」馬杉宗夫氏著(1)・・マリアはいつから聖なる存在となったのか?

2018-03-16 | 古代キリスト教



キリスト教の世界に何人も登場する「マリア」についての考えの続きです。

なんと、聖母マリアの像の中には、「黒いマリア像」というものがたくさんあるということです。

上の写真は、わたしが購入した「黒い聖母像」です。

スペインの「モンセラ」という町で、12世紀に造られた「黒い聖母像」の写しです。

「黒い聖母」について書かれた本を何冊も読みましたが、非常に複雑で難解でした。

その中で、「黒い聖母と悪魔の謎」馬杉宗夫氏著をご紹介しようと思います。リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。



             *****

            (引用ここから)

フランス中央高原に、ロカマドールという町がある。

ロカマドールは、変わった洞窟や荒々しい岩肌を露出する絶壁など、驚くべき自然現象を示している所である。

突出した岩や断崖に囲まれ、そこに中世の街が、なお存続している。

それがロカマドールの町である。

岩山を背にした道幅は狭い。

その岩山から張り出して重なり合う家並みや、左右の土産物商店に興をそそられながら進むと、やがて高地に至る石段が続いている。

石段を登りつめた所に、7つの聖堂が建つ広場があり、まさに宗教都市という面影がある。


これらの聖堂の中で、人々の信仰を集めているのが、「奇跡の礼拝堂」と呼ばれている「ノートルダム聖堂」である。

岩山をうがって造られたこの小さな礼拝堂こそが、この地に住み着いた聖者・アマドールが聖所にした場所と言われている。

この聖堂の前の岩肌には、ロマネスク時代の壁画がなお残されている。

この礼拝堂の祭壇に「奇跡の聖母」と呼ばれている木造彫刻がある。

これがなんと「黒い聖母」像なのである。


薄暗い聖堂の中で、ろうそくの光に照らし出されている1メートル足らずの聖母像。

それが我々の注目を引くのは、その怪異な外観である。

やせ細った胴体や腕。

それと対比をなすかのような、ふくよかな腹部と胸部。

こうした外観に、一層の異様さを与えているのは、体全体を覆う「黒い色彩」である。

聖母は、頭から足に至るまで、全身が「黒い色彩」で覆われているのである。

「聖母マリア」には「不吉な黒色」は似つかわしくない、と思いながらも、その異教的な、謎に満ちた姿は、我々を捉えて放さない。

逆に「黒色」だからこそ、神秘的な力を持って迫って来るのかもしれない。

小さな「聖母像」に迫力を与えているのは、確かに全身を覆う「黒色」である。

「黒」は不思議な力を持っているのである。


「奇跡の黒い聖母」を祀るロカマドールの地は、スペインの聖地サンチャゴ・デス・コンポステラに向かう巡礼路の一つに当たり、12世紀以来、多くの信者を集めてきた。

英国王ヘンリー2世やフランス王ルイ9世を始め、フランスの歴代の王は、この「聖母」に贈り物を捧げるためにやって来た。

「黒い聖母像」は、水夫や囚人の守護神として、また多産や幼児の「守護神」として崇拝され、キリスト教国で最も崇拝を集めた「聖母像」の一つになっていたのである。



我々は、特にフランスの中央高地を車で回る時、あちこちでこのように黒く塗られた「聖母像」に遭遇する。

1メートル足らずの「聖母マリア」は、座像として幼児キリストを膝の上に抱いている。

通常、「聖母マリア」は「黒く」表現されることはない。

しかし、「黒く」塗られたいわゆる「黒い聖母」は、特に中央高地を中心に多く存在しており、1972年「アトランティス」という考古学雑誌に掲載されたリストによると、フランスだけでも200体以上に及んでいたことが明らかにされている。

これらの像の多くは12世紀、いわゆるロマネスク時代に制作された。

12世紀を中心に、同時的に出現している「黒い聖母」は、それらが偶然の要因で「黒く」なったのではなく、なんらかの理由で、当初からにしろ、または後の時代にしろ、意図的に「黒く」塗られたことは確かなのである。


キリスト教がゴール(現在のフランス)の地に浸透するまで、ゴールの地は、ケルトの国々を支配していた「ドルイド教」で覆われていた。

この宗教はある種のアニミズム(霊魂崇拝)であり、「聖なるものは自然の中に宿る」とされた。

彼らが崇拝していたのは、自然の中に存在する聖なる樹・・樫、ぶな、宿り木。

聖水・・泉、源泉、川。

聖石・・メンヒル・ドルメンなどであった。

そして注目すべき点は「黒い聖母像」が在り、またその崇拝のあった地は、「ドルイド教」時代にそれらの崇拝が行われていた場所と一致していることである。

ロカマドールでは、岩山を穿って作られた聖堂の内に「黒い聖母像」が祀られている。

このように「黒い聖母像」は、「巨石」と結びついた場所にしばしば見出される。

中央高地の中でも、小高い丘の並ぶ「ル・ピュイ」の地は、キリスト教化される以前から「ドルイド教徒」達の間では、最も重要な場所の一つであった。

「ル・ピュイ」の街はフランスでは珍しい火山地帯で、鋭い角度を持つ巨大な丘が3つもそびえ、一種異様な景観を誇っている。

「ノートルダム大聖堂」が君臨する丘も、その岩山の一つである。

「大聖堂」の西正面はイスラム風の装飾やアーチで飾られているが、この西正面の入口を入ったところに「熱病の石」と呼ばれる「平らな巨石」が置かれている。

この「巨石」は「奇跡を呼ぶ石」として、古くから崇拝されていた。

伝説によれば、「聖母マリア」が、熱病にかかった女性を憐れみ、この「石」の上に寝るよう、指示したという。

そして「黒い聖母」が置かれていたのは、この「巨石」の前だったのである。

「ル・ピュイ」の「黒い聖母」は、伝説によれば、1254年に、聖ルイ王(ルイ9世)がエジプトから持ち帰り、「ル・ピュイ」に寄進したものとされている。

この像はもともと古代エジプト時代の「イシス神」であり、それを「聖母像」に作り替えたものと記されている。

しかし、この像の制作場所や年代は定かではない。

確かなのは、1096年以前に、「ル・ピュイ」の地にすでに「聖像」があったことである。

と言うのは、十字軍に出かける前に「自分が生きている限り、祭壇の尊敬すべき聖母像の前に、絶えることなくろうそくの火をともしておくこと」を要求した人の記録が残されているからである。

「ル・ピュイ大聖堂」の祭室外壁には、「ドルイド教」時代の浮き彫りと、それに面して「聖なる泉(井戸)」が置かれている。

この地が、いかに「巨石崇拝」や、「聖なる水の崇拝」の伝統の強い所であったのかが分かるのである。

「巨石(聖石)崇拝」と結びついた他の地は、ロカマドール、スペインのカタルーニャ地方のモンセラ、サンジェルヴァジィの台地などで、「巨石」が今なお存在している。

             (引用ここまで)

               *****

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イエスの神秘主義は古代宗教に源をもつ・・エドガー・ケイシーの「キリストの秘密」(3)

2018-01-24 | 古代キリスト教


引き続き、リチャード・ヘンリー・ドラモンド著「エドガー・ケイシーの、キリストの秘密」のご紹介を続けます。リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

          *****

        (引用ここから)

この種の「イニシエーション」は、すべての魂がその成長過程で通過しなくてはならないものである。

すべての実体(すべての魂)は、イニシエートとして、自己を解放し、神の随伴者となるという目標を達成するために、同じような墓、つまりピラミッドを通過しなければならないということである。

この教えは、イエスが弟子に語られた言葉、

「自分の十字架を負って私にしたがいなさい」、

「命を見出すために、命をすてなさい」、

という言葉に一致するのである。


しかしながら、ケイシーのリーディングは、イエスのこの「イニシエーション」には、預言の成就という意味合いがあったことを強調している。

つまりイエスの「イニシエーション」は、イエスが磔刑の後、三日三晩、墓の中にいるようになることを予示したものであり、

このイニシエーションによって、イエスは墓の力、すなわち死をも打ち破ることができるようになったのである。


多くのリーディングが、イエスを偉大な奥義体得者であると述べている。

イエスは、さきがけのヨハネと共に、今日、ギザと呼ばれているピラミッドの中で、同胞団の最終階位を授かったのである。

イエスは偉大な奥義体得者、人の子、天父に受け入れられし者だった。

リーディングは、キリスト教発祥以前の、いわゆる全盛期の神秘宗教と、イエスキリストの生涯が、次の点において連続したものであると述べている。


その点とは、

イエス自身が神秘宗教の伝統的儀式に参加したということ、

それと同時に、イエスが神秘宗教の最終目標を体現し、

それによって神秘宗教は少数の者に留まらず、全人類に対して深淵な意義を有するようになった、という点である。


ある意味で、イエスの公生涯は、いとこのヨハネの手によってヨルダン川で洗礼を受けたことと、

その後に続く悪魔の誘惑をもって始まったと言える。


ケイシーのリーディングは、ヨハネについて多くを語っている。

人々から恐れをもって語られていた親戚。

母親は、エッセネ派の祭祀たちに選ばれた。

ヨハネは、ユダヤ人の位の高い祭祀の直系であった。

更に、神殿で仕えるという祭祀の地位を捨て去り、流浪者となり、荒野の教師となったというリーディングは、ヨハネの父・ザカリアを聖所と祭壇の間で殺されたあのザカリアと同一人物であるとした。

そえゆえ、ヨハネが祭司の職を放棄したのもきわめて当然のことであったと思われる。


イエスにとって、このヨハネの手による洗礼によって、公生涯を始めたということは、イエスの目指す方向を象徴的に示した事象として、特に重要である。

その場所柄と時代背景を考えれば、イエスの行為は、既存の宗教組織から見れば、分派、さらには異端宗教を意図しているとしか解釈のしようがなかったであろう。


しかしながら、リーディングは、イエスの教えは、生活様式が完全にヨハネのそれに一致していたと主張しているわけではない。

体を浄化する方法として、ヨハネが教え、かつ実践していた極端な禁欲とは対照的に、イエスは疑念を抱かれるほど、それらのことがらに寛容であった。

またヨハネは、イエスよりもエッセネ派的であった。

というのも、イエスは律法の精神をくんだが、ヨハネは律法を字義通りに取ったからである。


リーディングの描写する洗礼は、明らかに「浸礼」であった。

というのも、イエスは川の中に立ったのでも、水を注がれたのでもないと分かるからだ。


これは、教会の教義と関係なく、一つの興味深い情報である。

しかし、その形式より、その出来事の意義が重要である。


洗礼は、イエスの「イニシエーション」の成就であった。

イエスはそこから荒野におもむき、いわゆる「荒野の試練」を通過するのである。

この「荒野の試練」の目的は、イエスが最初にしたことを再修正するためであったとされている。


つまり〝最初のアダム″としての誘惑を、今度は、〝第二のアダム″として、完全なる勝利をもって反復する必要のあったことを述べているのだ。

リーディングの述べるところによると、イエスは「荒野の試練」の後、ヨハネと会った後に、戻って来ることになる。


戻ってきた場所は、カぺナウムといわれる。

イエスのユダヤ会堂(シナゴーグ)での説教は、イザヤやエレミヤの預言と小預言者らの教えについて、そして彼らが当時の生活にどのようにそれを適応したかについて、であった。

ケイシーは、「イエスの教えと実践の中心的要素は、真理を人生に適用することにあった」と,一貫して強調している。

イエスの最初の説教に関する前述の言葉は、それに完全に一致している。


ケイシーのリーディングによると、イエスがはじめて奇跡を示したのは、ペテロの義理の母を癒した時であるが、記録に残る最初の奇跡は、エルサレムの近くと言われるガリラヤのカナで見せた、「水を葡萄酒に変えた奇跡」であるという。

このことは、ケイシー資料が、「福音書」の中でも「ヨハネの福音書」に記録されている歴史的事象を評価している例の一つである。

リーディングは、この出来事にしてもまた、他の病気治癒にしても、これらを奇跡と呼ぶことにいささかの躊躇もない。


カナでのこの奇跡は、主がヨルダン川から戻られてまもなく、ガリラヤ湖の近くに滞在しておられた頃のことである。

カナでは結婚式があった。

リーディングは、水を葡萄酒に変えたこの奇跡を、遠地より戻って来て、伝道を始めた息子に戸惑うイエスの母親の目を通して語っている。


マリアは、イエスが誕生したときの出来事、

天使・ガブリエルの告知、

いとこのエリザベツを訪れた時の不思議な体験、

更にエジプトでのことや、パレスチナ帰還途上での、尋常ならざる出来事などについて、思い巡らせていた。


「これは最初の試練かもしれない。

だってあの子はたった10日前にサタンを退け、天使から使命をいただいたばかりですもの」。

マリアはイエスがサタンを退けたことについては、既に人から聞いていたのだが、イエスにはまだ会っていなかった。

イエスのカナ行きの目的も、母と話すことであった。

なぜならマリアは、母親としての愛情から、

「この子はいろんな点で人とは違っているけれど、今度は40日間荒野で修行し、そうして、卑しい漁師の所に戻ることで、神の召命を成就することにしたのかしら。

わたしにはまだ分からないわ」と思っていたからである。


この結婚式の花嫁は、リーディングによると、エリザベツの妹の娘であった。

したがって、マリアにとってはいとこの娘である。

彼女の名前もマリアであった。


そして後日、彼女は「もう一人のマリア」と呼ばれるようになる。

彼女はイエスと弟子たちが説教を続けられるよう、物資を提供した人たちの一人であったとされる。

事実、イエスがパレスチナで伝道を行っている時に、聖なる婦人たちがそれに随行したことを示す記述が多数ある。


ともあれイエスの母マリアは、この結婚式の宴を準備するため、大切な役を受け持っていた。

そしてイエスが従者らと共にそこに現れると、イエスと弟子たちはその祝宴に招かれることになった。

花婿は、「後にイエスの従者となるヤコブとヨハネ」の兄で、ゼベダイの息子の一人であったと言われる。


リーディングによると、「ヨハネの福音書」も「ヨハネの手紙」も、正真正銘ヨハネが著したものである。

ケイシーのリーディングは、ゼベダイの息子たちは今日の言葉で言えば、上流階級の人々であって、貧しい人々ではなかった。

ヤコブとヨハネの二人が後日、イエスの伝道に加わったことに関して、別のリーディングは次のように述べている。

ゼベダイの息子たちは、マタイを除く他の使徒たちがそうであったように、今日的に表現すれば、経済的に裕福であり、そのために仕事を捨て、家を出ることができたのであるという。


またゼベタイの家では、イエスをたびたびもてなした。

またイエスが十字架につけられた後、イエスの母親の世話はゼベタイの息子ヨハネに委ねられたという。


葡萄酒が底をついたために、イエスが水を葡萄酒に変える前の様子を、リーディングは次のように描写している。

           ・・・

宴が催されるのがしきたりであった。

モーゼの律法、モーゼの慣習、モーゼの規則を守ってきた人々の習慣と伝統に従って、

特別な方法で準備されたパン。

香料をつけ、丸焼きにされた子羊などが出された。

葡萄酒をたくさん出すことも、しきたりであった。

その日は、汝らの言うところの6月3日である。

そこには野の草花がたくさんあった。

その日は日中もよく晴れていた。

夕方になっても空は晴れていた。

満月が出ていた。

かくして、葡萄酒の飲料は、いや増しに増えていった。

人々ははしゃぎ、輪を作ってダンスにうちこうじた。

これもまた、当時の慣習であった。

           ・・・

別のリーディングは、この出来事を次のように叙述している。

           ・・・

水が、主を認めた瞬間、水は赤く染まり、葡萄酒になったのだ。

覚えておくがよい。

水は、注がれることによって、葡萄酒になったのだ。

水がじっとしていたなら、いかなる葡萄酒も、この「実体(=人物)」の友人に訪れようとしていた困惑を解消することはできなかっただろう。

             ・・・

ここに登場する「実体」とは、ヤコブとヨハネの妹で、花嫁の知り合いであった。

しかし、カナでの出来事の本当の意義は、「結婚式のうたげに主の来臨を賜るという祝福」であった、と別のリーディングは述べている。

このリーディングは、心と精神と肉体との合一であるとされる人間の結婚がどれほど神聖にして意義深いものであるかについて論じている。

心と体が互いに引き合うとき、これは無目的なものではなく、目的にあふれるもの。さよう、神の栄光があらわれんがためのものである。そのことを肝に銘じよ。」と。

             (引用ここまで)

               *****

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ピラミッドの中でイニシエーションを受ける・・エドガー・ケイシーの「キリストの秘密」(2)

2018-01-19 | 古代キリスト教



引き続き、リチャード・ヘンリー・ドラモンド著「エドガー・ケイシーの、キリストの秘密」という本のご紹介をさせていただきます。

ケイシーがリーディングしたイエスの生活が描かれています。リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

            *****

          (引用ここから)

リーディングによると、イエスは12才になるまで両親と共に暮らしたといわれるが、エジプトから帰ってからはカぺナウムに滞在したようだ。

しかし12才以降は、カルメル山で母親・夫と一緒に暮らしていたジュディの家で学んだと言われる。

この時の勉強は12才から15~16才の間に、時折行われた。


ケイシーのリーディングは、この傑出したジュディという女性についてかなりの情報を与えている。

彼女がエッセネ派の一グループで指導者の地位についていたということからも、エッセネ派内で女性がどのような役割を果たしていたかが推察される。

彼女の指導したエッセネ派のグループは、霊聴や夢、前兆といった霊界通信的な宗教体験を尊重したという点で、他のエッセネ派グループとは異なっていた。

リーディングは、エッセネ派の両親と聖霊によるジュディの訓練は、単に書物によるものだけでなく、エッセネ派が古来より最大の目的としてきたものと一致していたという。

「不可視の領域、未知の領域からの訪問を受けた者、すなわち人間の諸活動の中に現れる神の霊として崇拝されるものの訪問を受けた者たちの伝承された体験記録を研究すること」も含まれていた。

ここにおいて我々は、ユダヤ教に一貫して流れる深い霊性を見る。


エッセネ派の人々は、はっきりと言葉として話されたものを大切にするだけでなく、夢や幻、霊聴などの、通常の体験を超えた超自然的なものの訪問を人が受けていた時代の記録をも保管していたのだ。

またエッセネ派の慣例にしたがって、ジュディ自身、エジプトの行法、インドの行法、ペルシャおよびペルシャ周辺諸国の戒律・行法を勉強させられた。

成人してからも、彼女はこれらの研究を続けた。

というのもエッセネ派共同体での彼女の重要な役割が、共同体のために記録をつけ、それらを保管することであったからだ。


その仕事を遂行する中で、彼女はメディア人、ペルシャ人、インド人の権威者らと接触するようになる。

そして彼女自身がこれらの国の行法の優劣を見定めた結果、彼女は新しい理解に達したのである。

ケイシーのリーディングは、彼女こそ12才から16才の間のイエスに影響を与えた人物であると述べている。


彼女はヘブライ語聖書と、エッセネ派聖典の両方にあった、あらゆる預言を教えることを主眼としたが、とりわけ救世主の生涯に関する預言に焦点をあてていた。

そしてイエスの学習と修行を完成させるために、諸外国にイエスを送り出したのも、主にはジュディの働きである。

ジュディ自身、何度も天使の出現を経験したといわれるが、そのような高度な霊的体験を持つ一方で、彼女の日常生活は、物質的な事柄に対しては全く世俗的なものであった。

イエスはきちんとした教育を受けられなかったと、長い間信じられてきたが、これとは全く逆に、13才から16才の間、イエスはまずインドで、次にペルシャとエジプトで教育を受けたのである。


ペルシャでは、イエスはその国の伝統的主義に従って、肉体・精神・霊の「諸力の統一」に焦点をおいて修行を積んだということである。

イエスは、これらを教師によって試されたのだ。

これらの試験によって、志願者は神秘家たちに受け入れられるか否か、試されたのである。

これは、他国のさまざまなグループや学派でも同様であった。

このことから、イエスの教育体験はかなり広範なものであったことがうかがわれる。


それは「イニシエーション」とよばれる人格の変容過程において頂点に達したのである。

事実、この言葉は、イエスの教育課程のクライマックスに関係する用語として、ケイシーのリーディングで用いられている。


イエスは、エジプトに行く前にパレスチナに戻った。

イエスが帰郷した最大の理由は、父ヨセフの死である。

リーディングは、イエスはヨセフが死んだために、ペルシャから呼び戻され、そして「教師としての準備を完成するために、エジプトに向かった」と述べている。

この時点で、イエスの教育と、イエスのいとこである、後の洗礼者ヨハネの教育が係わるようになった。


エジプトでの訓練期間中、イエスは洗礼者ヨハネと共にいた。

ヨハネがエジプトに行き、イエスはヨハネとそこで一緒になった。

二人はエジプトの神殿、つまりピラミッドの中で、秘儀伝授者(イニシエート)となった。

ところで、リーディングによると、「聖なる婦人」の一人であったエッセネ派のソーファという女性は、彼女がヨハネを養育した一年間、幼いイエスに、ヨハネの生活ぶりや、訓練、人柄について教えることに、時間の大半を費やしたということである。

ここで言う「聖なる婦人」とは、エッセネ派内の様々な行事で会葬者として働いた者を指す。

これらの婦人の大半は結婚しなかったが、別に独身を誓ったわけではなかった。

イエスとヨハネが独身を貫いたのは、独身が高い霊性に必要であったためではなく、彼らの特殊な任務を遂行する上で、独身の方が活動しやすかったということが最大の理由であった。


このリーディングから、ヨハネはエッセネ派内においても、メシアの活動に対して、特別な役割を授かっていると見なされていたことがうかがわれるし、またイエスは幼少期より、このことを聞かされていたと考えられる。

この経路によってしばしば示されたように、エジプトにおいて多くの国々の教えが統合された。

というのも、エジプトは地球の放射活動の中心地であったからだ。

また、リーディングが、イエスがギリシャで、ギリシャ哲学者の下で勉強したという話や、あるいはユダ
ヤ人がイエスを追放した時にギリシャ人がイエスのもとにやって来て、イエスにギリシャに来てくれるように頼んだという話を否定していることも、興味深いことである。


リーディングは、エジプトでのイエスの秘儀体得(イニシエーション)は、ピラミッドの中にある墓、というか小室を、文字通り通過することが含まれていたと主張する。

この小室は、魂の墓を象徴し、翻ってこれは、「理想に対して自らを磔にし、それによって神によって成就すべきとされたものを遂行する能力を高めた」ことを示している。

つまり自己をむなしくし、父なる神とその御意志に対し、余すところなく自己を捧げること。

ケイシーによると、これこそイエスの父なる神に対する関係の本質であると同時に、イエスの全生涯と使
命の基礎であるという。

そのことが深い意味で、このイニシエーションに如実に現れているのだ。


しかしなら、このイニシエーションは、イエスのそれ以前の訓練から遊離したものではないし、またその後のイエスの修行と奉仕から分離したものでもない。

リーディングの示すところによると、ヨルダン川でイエスがヨハネの洗礼を受けたのは、「イニシエーションの通過」を成就させるものであったという。

ケイシーのリーディングと、イエスの教育・訓練や霊的修行は、父なる神に仕えるために自己を完成するためだけでなく、イエス自身が人間として必要なことを成就する上で、必要であったようだ。

つまりアダムとして下降した者が、イエスを通して上昇したことを現す最終的仕上げであったのだ。


今日のキリスト教会では、聖職にある者の間でも、また一般信徒の間でも、この「イニシエーション」という言葉に対して持つイメージにかなりの隔たりがある。

このような隔たりが生じた元々の原因はなにかというと、それは伝統的に「イニシエーション」というものを重視し、また「イニシエーション」に対し、壮大な儀式をつくりだしたフリーメーソン、薔薇十字会といったさまざまの非キリスト教を、キリスト教聖職者たちが否定してきたためであった。

敵対した一つの理由は、神学的なものであり、神人協力説、つまり救いという神の御業に、人間が協力するという説を意味する言葉を否定するためだった。

しかしもっと一般的には、これらの非キリスト教系の宗教の世俗化傾向を批判したのであり、

またイニシエーションの儀式を取り扱うことの意義を皮相的に理解したためか、あるいはその意義を疑ったために、そのような非難をしたものと思われる。

しかし堅信礼や成人の洗礼などのキリスト教の儀式の中にも、それとまったく同じ批判をまぬがれないものはかなりある、と言わざるを得ない。


いずれにしてもケイシーのリーディングは、生けるキリストの生涯と御業の中で、その「イニシエーション」がきわめて重大な出来事であったことを主張している。

この「イニシエーション」を得た時、イエスは16才であった。


         (引用ここまで)

          *****

ここでは、エッセネ派というユダヤ教の一派が、とても独立した思想団体として活動していたとされています。

また、イエスが青年時代に諸外国で古代宗教の奥義を学んでいたという話も、よく聞きます。

どちらも大変興味深い話で、もっと真相を知りたいと思わされます。

全体として、わたしはこのケイシーのリーディングに語られていることには信頼を寄せています。

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エドガー・ケイシーの「キリストの秘密」(1)・・エッセネ派の宇宙的役割

2018-01-14 | 古代キリスト教


「エドガー・ケイシーの、キリストの秘密」というリチャード・ヘンリー・ドラモンド氏の本を読んでみました。

これは、エドガー・ケイシーの、キリストに関するリーディングをまとめたものです。

著者は日本の国際基督教大学、東京神学大学、明治学院大学などでも、長きにわたってキリスト教学と比較宗教学の教鞭をとっていたということです。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

                     *****

                 (引用ここから)

最後の晩餐が見える。

ここに主がおられる。

晩餐に彼らが食しているのは、煮魚とライス、それにニラと葡萄酒とパンだ。

ここで使われている水差しの一つは壊れている。

取っ手のところが壊れている。

それに、口のところもそうだ。

主の衣は白ではない。

真珠の灰色で、一つに縫い上げられている。

12人の中で、一番の美男子は、やはりユダだ。

一番若いのはヨハネだ。

卵型の顔に黒い髪。

すべすべした顔だ。

ヨハネだけが髪を短くしている。

ペテロは荒っぽくて気が短い。

ごわごわした短いひげをたくわえている。

アンデレはそれと正反対だ。

やや薄いひげを、顔の両側とあごの下の方に長く伸ばしている。

唇の上のひげも、かなり長い。

着ている物は灰色か、黒っぽいものである。

腰布は、縞模様になっている。

ピリポとバルトロマイの腰布は、赤と茶だ。


主の髪はほとんど赤で、一部巻髪になっている。

しかし女性的な感じはない。

力強い目は、青色、もしくは銅のような灰色で、見通すようなまなざしである。

主の体重は、少なくとも77キロはあるだろう。

長く先細の指爪は、きれいに揃っている。

この試練の時にあっても、陽気でいらっしゃる。

裏切られようとしている瞬間にあっても、冗談を飛ばされる。


袋が空になったユダが、離れて行き、最後の葡萄酒とパンが配られる。

葡萄酒とパンを手に取って、主はすべての弟子にとって、大事な象徴をお与えになる。


主は一枚の布でできたご自分の衣を横に置かれ、腰布に青いタオルを巻かれ、畳んだものを丸めた。

まず、ヨハネの前に、その次にヤコブの前にひざまずかれた。

ペテロの前にひざまずかれたが、ペテロは、ペテロは、それを拒んでいる。

ここで主は、〝最も偉大なる者は、すべての者に仕える″ということについて話されたのだ。

その洗い桶は木製で、取っ手の無いものだった。

水はひょうたんから取ったもので、そのひょうたんの水は、広口の水差しに入れてある。

その水差しは、ヨハネの父のゼベタイの家の中に置いてあったものだ。

ついに、「すべて終わった」という、あの場面が来た。

一同は、「詩編91番」を歌っている。

          ・・・

いと高きものの隠れ家に住む者は、全能者の陰に宿る。

私は主に言う。

主はわが避け所。

わがとりで。

我が神。

私は主を信頼する。

          ・・・

主は、音楽家でもいらっしゃる。

ハープをお弾きになるのだから。

一同は、その後、あの園へと出発する。


1932年6月14日のこのリーディングは、後日、エドガー・ケイシーや彼の周囲の人々は、最も美しいリーディングの一つとして数えあげるようになりました。


ケイシーのリーディングによると、アダムとして、そして最後にイエスとして受肉した魂は、「聖書」に登場する人物以外としても受肉している。

そのイエスの過去世の名前がすべて語られたわけではないが、「聖書」以外の人物として特に重要なの
は、ペルシャの予言者ゾロアスターの父としての過去世である。

その時の名を、ゼンドといった。


またイエスとなった魂が最初に受肉したのは、アトランティス時代のことで、その時の名はアミリウスである。

リーディングによると、アミリウスとしての受肉は、アダムとしての受肉以前のことである。

しかし現代的な意味での、肉体を最初にまとったのは、アダムである。


あるリーディングは、イエスが全部で30回の受肉を経験したと述べている。

ちなみに「ヨブ記」は、イエスがメルキゼデクとして受肉している時に書いたものであると述べている。

イエスの業と影響力について、ケイシーのリーディングは、さらにもっと重要な点を指摘している。


「この実体(イエスを指す)は、「神は一つである」ということを教えるあらゆる哲学、宗教思想に、直接的、もしくは間接的に影響した。

〝天父はただ一人である″、ということを根本原理としていた時代、主は、人間と共に歩まれた。

つまりキリストの霊と合一して、主は人間と共に歩まれた」。


これはイエスの過去世における役割について問うた質問に対する答えとして与えられたものである。


ナザレのイエスとなる魂は、受肉と受肉の間、霊界にいる時でも影響力を及ぼし、特にキリストと合一を成就した後は、その力が一層強くなったということである。

霊界から直接働きかける場合、地上の歴史的活動や運動を指導する者の深層意識に働きかけたのである。


リーディングによると、このように地上の出来事にたいして、高次の霊界が働きかけるということは、ユダヤ・キリスト教に限ったことではない。

もともと、ユダヤ教にたくさんの要素が後から付け加えられたように、儒教、仏教、プラトン主義、イス
ラム教にも、イエスが与えたものと同じものが多く付け加えられたのである。

「それゆえ、これらの宗教にはすべて同じ精神が流れている」。


「聖書」に登場するヘブライの最後の予言者からイエスが誕生するまでの400年間、イスラエルにはこれといった大きな歴史的出来事はなかったと言われるが、リーディングはこのような意見に異議をとなえる。

リーディングの主張によると、イエスとして知られる、かの大いなる意識が地上に入る際に、エッセネ派というグループがあり、

その宗派の人々は、彼らに与えられた、いにしえの約束を探求することに、その約束のため、自らの人生を捧げ、身も心も捧げたのである。


彼らの目的は、メシアの誕生の経路となるにふさわしい人物を育てることであった。

かれらエッセネ派の人々は、エリアの設立した預言者の学校の直系の霊統を継ぐ者たちであったということである。

またこの学校は、ある意味でサムエルが始めたものであり、またサムエル自身はメルキゼデクの教えを継承するものであった。

おどろいたことに、リーディングによると、エッセネ派はユダヤ人であろうと非ユダヤ人であろうと、平等にメンバーとして受け入れたのである。

エッセネ派の人々は、大きな国際的団体を持っていたといわれ、その当時の律法学者たちからは、異端視された。


ケイシーのリーディングによれば、エッセネ派の集会は、すべて秘密裡に行われた。

またエッセネ派は、多くの人々、特にパリサイ派のグループからは、反逆者とか過激分子のようにみなされたという記述もある。


ケイシーのリーディングは、マリアもヨセフも、またマリアのいとこであるエリザベツも、エッセネ派であり、彼らの子供もエッセネ派として育てられたと述べている。

リーディングは、エリザベツの夫であるザカリア(エルサレムの神殿の正統派の祭祀であった)は、最初
は、エッセネ派ではなかったが、晩年には神殿で見た幻がきっかけとなり、エッセネ派の支持者になった
と述べている。

また洗礼者ヨハネの父であるザカリアと、神殿と祭壇の間で殺されたザカリアとは、同一人物であるとした。

また、ザカリアが殺された理由は、彼が神殿で見た幻を公言したためであり、またおそらくそのような公言がエッセネ派への傾倒を示したためであろうと思われる。


リーディングは、キリストの誕生がいかに準備されたかを克明に描写している。

そしてマリアが選ばれ、養育される様子と、イエス誕生の様子に至って、描写はクライマックスを迎える。

リーディングは、イエスの処女降誕を断言する。

のみならず、古代東方の伝承にすら無いことも、主張する。

すなわちマリア自身も処女降誕した。

つまりマリアの母、アンも、人間の男性を知らずして、マリアを産んだというリーディングは、終始一貫
してマリアを高く評価している。

マリアは処女懐胎によって母体に宿っただけでなく、非常に神秘的・不可思議な概念であるが、「地球に
関するかぎり、主が地上に入られた際に、マリアとイエスは双子の魂(ツインソウル)であった」と述べられている。

              (引用ここまで)

               *****

キリスト教を、秘教的に語るには、エドガー・ケイシーの言葉遣いは、まことにふさわしく、また、もはやキリスト教的であることをやめて、異教的であるということもできるかと思います。



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女神たちと、黒い水(2)・・「キリストと黒いマリアの謎」清川理一郎氏(3)

2017-12-29 | 古代キリスト教


引き続き、清川理一郎氏の同書のご紹介を続けます。

まだ、 「黒いマリア」の解明にまでは至りませんが、古代バビロニアの女神たちが席巻する世界については、資料が少ないので、貴重だと思います。

それにしても、何度も読み返すと、恐ろしい気分になってきます。

              *****

             (引用ここから)

「旧約聖書」の「列王記2」には、アラム王=バビロニア王が持病を治すためにヨルダン川に身を浸したことが記されている。

その時代は紀元前9,8世紀頃と考えられる。


また「マンダ教」の聖典「ギンザー」に登場する「黒い女神・ルーアッハ」は、「マンダ教」の闇の世界の女王である。

「ルーアッハ」は「黒い女神・リリト」と同一視される。

「リリト」の語源の一つに「暗黒」がある。

「マンダ教」に現れる「ルーアッハ」は、「リリト」と同じように、紀元前をはるかに遡る古い時代のバビロニアの大地母神だったと考えられる。


「列王記」の時代、バビロニアでは川に何度も身を浸して、不浄なものを取り去り、心身を再生するという、「原・マンダ教」の宗教儀礼が存在し、それが「列王記」の記述として示されている。

つまりその時代に、「マンダ教」はたしかに存在したのだ。

その後時代が下がり、今の「マンダ教」の葬送儀礼へと形を変えて受け継がれたのである。

            (引用ここまで)

             *****

ここで、「黒い女神」と呼ばれる「マンダ教」の女神「ルーアッハ」と同質の〝古代の女神″とされる「リリト」について、「wikipedia」を見てみたいと思います。

               ・・・

「Wikipwdia「リリス(リリト)」より

リリス(リリト)は、ユダヤの伝承において男児を害すると信じられていた女性の悪霊である。


通俗語源説では「夜」を意味するヘブライ語のライラー(Lailah)と結びつけられるが、古代バビロニアのリリトゥが語源とも言われる。

「旧約聖書」では『イザヤ書』34:14に言及があるのみで、そこではリリスは、夜の妖怪か動物の一種であった。

古代メソポタミアの女性の悪霊リリトゥが、その祖型であるとも考えられている。

ユダヤ教の宗教文書「タルムード」および「ミドラーシュ」においては、リリスは夜の妖怪である。

しばしば「この世の最初の女」とされるが、この伝説は中世に誕生した。

アダムの最初の妻とされ、アダムとリリスの交わりから悪霊たちが生まれたと言われる。

アダムと別れてからも、リリスは無数の悪霊たちを生み出したとされ、13世紀のカバラ文献では悪霊の君主であるサマエルの伴侶とされた。

サタンの妻になったという俗説もある。


紀元前9世紀ごろのバビロニア悪魔学では、リルと呼ばれる吸血鬼のような精霊が知られている。

こうした妖怪は闇の時間帯にさまよい歩き、新生児や妊婦を狩り、殺す。


おそらくこれらの存在は嵐の精霊であり(シュメール語のリル 、「大気」「風」に由来する)、「夜」との関連はセム語の民間語源説なのだろう。

初期シュメールの神話には、アダパが、南風の翼を破壊したという物語があるが、それ以来彼女(南風)は人類に敵意を抱くようになったらしい。

              ・・・

「リリト」という女神も、大変力のある古い女神で、悪霊とみなされていた、ということだと思います。

引き続き、同書のご紹介を続けます。

             *****

          (引用ここから)


「マンダ教」の教典「ギンザー」には、「闇の世界」の描写がある。

「闇の世界」は「光の世界」と対立するものではなく、原初から「光の世界」とは別々に独立して存在した。

「闇の世界」の「女王」は「黒い女神ルーアッハ」で、「黒い女神リリト」と同一視される。

「闇の世界の母体」は「黒い水」である。

そして「ルーアッハ」・「リリト」が「黒い水」を支配した。

「リリト」には、

「深い水底から生まれたアダムの前妻で、闇の世界の女王」という伝えがある。

また「リリト」の語源の一つは「暗黒」である。

「旧約聖書」の「創世記」1・12には、

               ・・・

はじめに神が 天と地を創造した

地は形がなく なにもなかった。

闇が 大いなる水 の上にあり

神の霊は 水の上を 動いていた

               ・・・

とある。

この「旧約聖書」の記述は、シュメール・バビロニア系資料によるものだ。

聖句の内容と、「マンダ教」の聖典「ギンザー」の「闇の世界」を比べてみると、聖句が言う「闇におおわれた水」は、「ギンザー」の「闇の世界」の「黒い水」にあたる。

また聖句の「神」は、「ギンザー」の両性具有の神「ルーアッハ」・「リリト」なのである。

つまり聖句と「ギンザー」の「闇の世界」の描写は、その本質において極めて似ているのである。


「ギンザー」の「闇の世界」の「黒い水」は、人間をつくることができるという。

「ギンザー」の一節に、こう書かれている。

           ・・・
彼はそこで

自分の顔を

黒い水の中に

映してみる

すると その黒い水の中から

彼の像が生み出されて

彼の息子となる

            ・・・


「ギンザー」の「黒い水」は、「光の世界」と対等に存在し、闇の世界の王や人間を作ることができる。

「闇の世界の神聖な神の水」を意味するのだ。

それは古代にさかのぼるシュメール・バビロニア系のおだやかな二元論に基づく聖なるコンセプトであり、

「グノーシス派」の、女性原理を象徴する子宮と一体化した〝邪悪な水″のコンセプトとは全く違うのである。

「マンダ教」の「黒い水」のコンセプトが生まれた時代は、「グノーシス派」の暗黒の水よりも、はるかに古いバビロニア時代にまで遡るものである。

           (引用ここまで)

            *****

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女神たちと黒い水・・「キリストと黒いマリアの謎」清川理一郎氏(2)

2017-12-26 | 古代キリスト教



クリスマスです。

去年の今頃は、古代のサンタクロースについて調べていたのでした。

今年は、古代の「聖母マリア」について考えてみたいと思います。

引き続き、「キリストと黒いマリアの謎」清川理一郎氏著のご紹介を続けさせていただきます。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

           *****

         (引用ここから)

「初期キリスト教」関係の古文献として知られる「死海文書」が発見されたのは、1947年、太平洋戦争が終結してまもなくのことである。

死海の西岸を流れるクムラン川の流域を「クムラン」と呼ぶ。

「死海文書」とは、このクムランにある11の洞窟群とその周辺から出土した870巻もの古文書と、数万点にもおよぶ文書類の断片を総称する。

「死海文書」は、キリスト教のルーツと思われるユダヤ教の一派と密接な関係がある。

「死海文書」の構成を述べると、まず「旧約聖書」の写本が全体の3分の1を占める。

自分たちを「ヤハド共同体」と呼ぶ、謎の共同体の、教義や預言が3分の1。

残りの3分の1を、ユダヤ関係の文書や、出所不明の文書などが占める。


ちなみに「死海文書」の発見によって、古来、聖書学者が頭を悩ませてきた「イサク伝承」の謎が解けた。

「イサク伝承」とは、神ヤハヴェが、アブラハムに、一人子のイサクを神に捧げるため、焚き木に火をつけるよう説いた。

そして、火をつけたその瞬間にストップをかけた。

神ヤハヴェは、アブラハムが、一人子イサクを犠牲にしてもよいほど、ヤハヴェに対して絶対的信仰を持つかどうかを試したのだ。


この話について、古来なぜそのような恐ろしい試練を課したのかが、謎とされてきた。

発見された「死海文書」によると、神ヤハヴェが悪魔から挑まれて、アブラハムの信仰の強さを試さざるを得なかった、と書かれていた。

つまりそれは、神ヤハヴェに対する悪魔の挑戦が原因だった。

この時代の悪魔は、神と同じ位の勢力を持っていたのである。


さて、「死海文書」の3分の1を占める「ヤハド共同体」の記述に、「義の教師」「偽りの人」「悪の祭司」と呼ばれる、3人の、共同体の有力者が登場する。

この3人を誰に比定するか、いくつかの説が試みられている。

その中には、イエスが「義の教師」であり、ヨハネが「偽りの人」であり、2人は2つの派に分かれ、ヨハネは追放された、とする説もある。

以下は、その仮説を追うものである。



共同体「ヤハド」を追放され、荒野の修行者となった洗礼のヨハネは、「ヨハネ教」を携え、アナトリアのエフェソスに辿り着いた。

そしてその地の人たちに「ヨハネ教によるバプテスマ」を施した。

ヨハネの後にやって来たのは、キリスト教を宣教するためのパウロだ。

この時パウロが、この地で見たことは、「新約聖書」の「使徒行伝」に記されている。

したがって、エフェソスには、パウロが到来した西暦50年代まで、ヨハネが洗礼を施す「バプテスマ教会」が存在したことは間違いない。


当時のエフェソスは、アルテミス信仰=女神信仰が、大変盛んだった。

このような女神信仰が強いエフェソスの宗教風土の下で、「ヨハネ教」はどうなったのか?

「ヨハネ教」は、エフェソスで女神信仰との習合を余儀なくされ、かつての律法中心の「ユダヤ教」を捨て、女神色が濃い「ヨハネ教」に変貌したと考える。

その後、変貌した「ヨハネ教団」は、西暦50年頃にはエフェソスから脱出し、「原・マンダ教」の地、メソポタミアに向かったのだ。



「原・マンダ教」とは、わたしの造語であり、バビロニアに既に存在した「マンダ教」の前身を指す。

「マンダ教」は、メソポタミアの、「バプテスマ」を中心儀礼とする古代宗教であり、今でもメソポタミアのチグリス・ユーフラテス川流域、イラン南部の湿地帯に分布している。

ヨルダン川で行われた、「ヨハネ教」のヨハネによる「バプテスマ」は、エフェソスのアルテミスの女神信仰や、「原・マンダ教」のバビロニアの地母神信仰の影響を大きく受け、女神色の濃い宗教に変貌した。

                (引用ここまで)

写真(下)は、イアン・ベック著「黒い聖母崇拝の博物誌」より。エフェソスのアルテミス女神像。

                  *****


ここで、洗礼のヨハネおよびパウロが滞在した、古代の小アジアの商業都市「エフェソスの都」で盛んであったという「アルテミス信仰」について、「wikipedia」の説明を見てみます。

            ・・・

Wikipedia「アルテミス」より・抜粋


古くは山野の女神で、野獣(特に熊)と関わりの深い神であった。

アテーナイには、アルテミスのために、少女たちが黄色の衣を着て、熊を真似て踊る祭があった。

また女神に従っていた少女カリストーは、男性(実はアルテミスの父ゼウス)との交わりによって処女性を失ったことでアルテミスの怒りを買い、そのため牝熊に変えられた。

地母神であったと考えられ、子供の守護神ともされた。

また、人身御供を要求する神でもあった。

その痕跡はギリシアの各地に残されていた。


〇エペソスのアルテミス崇拝


小アジアの古代の商業都市エペソスは、アルテミス女神崇拝の一大中心地。

この地にあったアルテミス神殿は、その壮麗さで古代においては著名であった。

神殿は、現在遺跡が残るのみであるが、近くの市庁舎に祀られていた女神の神像は現存している。

エペソスの女神像は、胸部に多数の卵形の装飾を付けた外衣をまとっており、あたかも「多数の乳房を持つ」ように見え、「豊穣の神」とされる。

しかし異説として、女神への生け贄とされた「牡牛」の睾丸をつけられている、ともされる。

小アジアにおける「キュベレー」などの大地母神信仰と混交して、独特なアルテミス崇拝が存在していたと想定されている。


キリスト教の使徒・パウロは、『エペソス人への書簡』を通して、エペソスの人々にキリスト教徒のあり方を語っているが、パウロはアルテミス信仰に正面から戦いを挑んでいたとも考えられる。

『使徒行伝』は、エペソスにおける女神信仰の様を、「偶像崇拝」と記している。

女神の壮麗な神殿は、キリスト教の地中海世界への伝播とともに信仰の場ではなくなり、やがてゴート族の侵攻で灰燼に帰した。

              ・・・

エフェソスのアルテミス。。


エフェソスは、「新約聖書」に登場するヨハネが洗礼をほどこし、パウロが宣教をした町でもあるということです。

女神アルテミスは、大変古い時代の女神であり、当時の人々も、その女神を熱烈に崇拝していたということです。


キリスト教のことを考える時には、古代の女神については、あまり考えないですが、歴史の中では、あれもこれも混在し、人々は、毎日を、各々の思いの中で過ごしてきたのでしょう。

日本に仏教が伝来した時に、神道や道教や民間信仰があったのと同じことで、簡単に頭で割り切ることができない事実があるのだと思います。

著者の述べている「ヨハネ教」の変節については、一概に賛成もできませんが、ヨハネにしてもパウロにしてもタジタジとなるような、圧倒的な女神信仰が実在したのは確かなのだと思います。

「マンダ教」がこの世のものを生み出すとする「黒い水」を、太古の女神と結び付けるのは、世界史の説明としては、理解できます。

引き続き、太古の女神たちについて、見てゆきたいと思います。
          

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「水」による洗礼と、「聖霊」による洗礼・・「キリストと黒いマリアの謎」清川理一郎氏著(1)

2017-12-15 | 古代キリスト教



「マンダ教」について書かれた「グノーシス」の本をご紹介しましたが、マンダ教は「洗礼のヨハネを祖とする宗教」であるということから、ヨハネと原始キリスト教について、考えた本を読んでみました。

「キリストと黒いマリアの謎」清川理一郎氏著という本から、「洗礼者ヨハネとマンダ教の謎」という箇所をご紹介させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

             *****

           (引用ここから)

「イエスはヨハネから洗礼を受けなかった」と言ったら、読者はおそらく、そんなことはありえないとお思いであろう。

なぜなら、「新約聖書」の「マルコによる福音書」1・9に「その頃、イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川でヨハネからバプテスマ(洗礼)をお受けになった」と明記されている。

また、「マタイによる福音書」3・15も、はっきりと、キリストがヨハネから受洗したことを記しているからである。


しかしながら、「ルカによる福音書」と「使徒行伝」には、ヨハネによるキリストの受洗について、ヨハネあるいはキリスト、各片方しか、記されていない。

つまり、ヨハネが誰に洗礼をしたのか、またキリストが誰から洗礼を受けたのか、明確でないのである。


さらに、「ヨハネによる福音書」には、ヨハネによるキリストの受洗のことはまったく述べられていない。

「ヨハネによる福音書」には、洗礼者ヨハネ独特の事績を伝える記述が見えるが、〝ヨハネがキリストに洗礼を行った″という、最も重要なことは述べられていないのだ。


つまり、イエスがヨハネから洗礼を受けたという根拠は、「マルコによる福音書」と「マタイによる福音書」だけだということがわかる。


「ヨハネによる福音書」が書かれたのは、西暦100年頃で、「マルコ」「ルカ」「マタイ」の3つの共観福音書よりも新しい。

書いた人物は洗礼者ヨハネではなく、長老ヨハネと考えられる。

「ヨハネによる福音書」は、他の福音書と比べて、イエスと同時代の人々の伝承や、他の3福音書の著者が利用できなかった資料を使っているという特徴がある。


たとえば、「共観福音書」では、北部ガリラヤ地区でのイエスの活動に主な焦点が当てられており、南部のエルサレムの出来事は、メシアの受難も含めて、副次的にしか扱われていない。

これに対して「ヨハネによる福音書」は、ガリラヤについてはほとんど何も伝えておらず、イエスが生涯を終えたユダヤとエルサレムの出来事に集中している。


「ヨハネの福音書」のみに描かれている逸話がある。

それは「カナの婚礼」、「ニコデモの物語」、「ラザロの蘇り」などだ。

また逆に「ヨハネによる福音書」に書かれていない逸話は、前述の「洗礼者ヨハネによるキリストの受洗」である。


クリスファー・ナイトとロバート・ロマス共著の「封印のイエス」の中で、両著者は、

「「新約聖書」において、ヨハネがイエスに洗礼を施したというが、

それは、ギリシア世界の人々の心を捉えようとして、後の福音書の書記たちが、この出来事をより魔術的な意味を持つものに仕立て上げるために、意図的に強調したものである。

すなわち、ヨハネがイエスを洗礼したとか、ヨハネ一人だけがイエスを真の師と認めたという話は、マルコ達がねつ造した考えだ」と述べている。


「バプテスマ(洗礼)」の起源は定かでないが、おそらくメソポタミア古来の、川の流れや水による民俗宗教の「清めの儀式」が、そのルーツと思われる。

「マンダ教」は、「バプテスマ」を中心儀礼とする宗教で、現在もイラク南部に存在する。

「ユダヤ教」及び、紀元後すぐの「初期キリスト教」時代の「バプテスマ」はどのようなものだったのだろうか?


「旧約聖書」には、「バプテスマ」の記述は少ないが、「列王記2」5・14に、「アラム王がヨルダン川に、持病のライ病を治すために、身を浸した」と記されている。

一方、「新約聖書」には、ユダヤ教の流れを汲む洗礼者ヨハネの、「水によるバプテスマ」の記述がある。

それは「ヨハネはヨルダン川で洗礼を行った」というものだ(「マルコによる福音書」15・9)。

また「初期キリスト教」の時代には、「キリストの聖霊によるバプテスマ」がある。

洗礼のヨハネが「バプテスマ」を授けた時期と、キリストが「バプテスマ」を授けた時期は、ほぼ同時代とされている。


ヨハネの「水によるバプテスマ」は、自己の罪を悔い改め、罪などの不浄なものを水に流すことである。

他方キリストの「聖霊によるバプテスマ」について、「新約聖書」の「ローマ人への手紙」には、

            ・・・

それとも、あなた方は知らないのか?

キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けた私たちは、

彼の死にあずかるバプテスマを 

受けたのである。

すなわち私たちは、その死にあずかるバプテスマによって、

彼と共に葬られたのである。

それはキリストが 父の栄光によって 

死人の中から蘇えられたように、

私たちもまた、新しいいのちを生きるためである。

            ・・・

「コリント人への手紙」は、

            ・・・

なぜなら私たちは皆、

一つの霊によって、

一つの体となるように

バプテスマを受けた

            ・・・

と述べている。

上の二つの聖句から分かることは、キリストの十字架上の死とその後の復活にあずかるために受ける「洗礼」は、「キリストの聖霊によるバプテスマ」であり、それは聖霊によってキリストと一体化する、ということである。


このコンセプトは、後世に、ローマ・キリスト教の指導的教理となったアタナシウス派の「三位一体」思想が普及する以前の、「初期キリスト教」時代のものであり、この思想が後に「三位一体」思想に発展するのである。


ヨハネの洗礼とキリストの洗礼を見ると、それぞれのコンセプトの違いは、2つの異なる宗教の存在を示唆する。

つまり「初期キリスト教」の時代、「バプテスマ」をめぐる思想の違いから「ヨハネ教」と「キリスト教」という2つの異なった宗教が存在したのである。


わたしは「バプテスマ」のルーツは、「マンダ教」が生まれたシュメール・バビロニア系の宗教風土に求められると考える。

その理由は、「旧約聖書」には「バプテスマ」の記述が少なく、「キリストの聖霊によるバプテスマ」は、「バプテスマ」本来の「水によって行われる「洗礼のヨハネ」のもの」と、そのコンセプトが根本的に相違するからである。


洗礼者ヨハネは、確かに存在した。

しかしそれは、「初期キリスト教」とは全く違った宗教だった。

したがって、ヨハネはキリストの露払いなど行わなかった。

ヨハネは自分の「ヨハネ教」の布教をして、「水による洗礼」をしていたのである。

このように考えると、今まで信じられ、描かれてきたヨハネのプロフィールのかなりの内容に、大きな疑義が生じることは避けられない。


疑義の最大のものは、ヨハネとキリストとの超親密な関係だ。

これも後世のキリスト信奉者によるねつ造の可能性が極めて高い。


         (引用ここまで)


            *****


ちょっと分かりにくい文章なのですが、要点は以下のところだと思います。

             ・・・

>つまり「初期キリスト教」の時代、「バプテスマ」をめぐる思想の違いから「ヨハネ教」と「キリスト教」という2つの異なった宗教が存在したのである。


わたしは「バプテスマ」のルーツは、「マンダ教」が生まれたシュメール・バビロニア系の宗教風土に求められると考える。

その理由は、「旧約聖書」には「バプテスマ」の記述が少なく、「キリストの聖霊によるバプテスマ」は、「バプテスマ」本来の「水によって行われる「洗礼のヨハネ」のもの」と、そのコンセプトが根本的に相違するからである。

                ・・・

普通、ヨルダン川の洗礼のヨハネは、イエスに洗礼を授けた人で、かつ、イエスの前にへりくだった態度で、自分のことを「主の道を整える者」と言っている人だと考えますが、

また、「外典福音書」を見ると、初期キリスト教は、濃厚にグノーシス的な背景を持ち、ヨハネ教団の影響が考えられる、と考えますが、

また、「聖霊によるバプテスマ」は、「水によるバプテスマ」からの比喩であろう、と考えますが、

著者・清川氏は、異説を唱えておられます。


本のタイトルは「キリストと黒いマリアの謎」で、「黒いマリア」の「黒」と、「マンダ教」がるると述べる「この世の闇と黒い水」の「黒」が、キーワードとなって、話が進められます。

奇譚かと思うと、そうでもなく、これはたいへん壮大なテーマであり、非常に興味深いものがあります。


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洗礼者ヨハネを継ぐ者・・「グノーシスの神話・マンダ教」(2)大貫隆氏著

2017-12-07 | 古代キリスト教



引き続き、「グノーシスの神話」大貫隆氏著から、マンダ教についての記述を見てみたいと思います。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

           *****

         (引用ここから)

マンダ教は、今日もなおメソポタミア、なかでも主にイラク領のチグリス・ユーフラテス川流域に分布する宗教である。

その信徒数は、1977年の報告では15000人、1991年の報告では、2000人と言われる。

長い歴史の中、周辺の多数派であるイスラム教徒、さらにそれ以前にはゾロアスター教による迫害を受け続け、次第に南部の湿地帯に入り込むようにして暮らしてきた。


「マンダ」とは、マンダ語で「知識・認識」を意味する。

マンダ教の教義において、彼らの「魂」は、「光の世界」に起源を持ち、肉体は反対に、「闇の世界」に起源を持つ。

天界の世界の「光の水」は、地上では「活ける水」、すなわち「流水」となって流れている。

そこで、その「流水」による「洗礼」をはじめ、様々な儀礼を遵守し、教えを守って生きれば、死後その「魂」は「光の世界」に帰ることができるという。

「マンダ教徒」たちが、自分たちを「洗礼者ヨハネの弟子」と名乗っていることは注目される。

彼らは、「新約聖書」にも言及される「洗礼者ヨハネ」(マルコによる福音書1・4~1・8)の伝統を引き継ぐ者たちとみなされている。

           (引用ここまで)

             *****

ヨルダン川で洗礼をほどこしていたというヨハネは、わたしは見たことはありませんが、どことなくイエスの相貌を彷彿とさせます。

「洗礼者ヨハネ」とイエスがいとこだったという話も聞いたことがあります。

砂漠の中の水が、どれほど貴重で清らかで命を満々とたたえたものであるかは、想像できます。

そして、砂漠の中で、常に水で身を清める必要を説く宗教がいかに過酷な、命にとってのパラドックスそのものであるかも、想像ができます。


今も存在し続けている「マンダ教徒」は、その「洗礼者ヨハネ」の直系の子孫であるというのです。

ヨハネとイエスの関わりを描いている、「新約聖書」の中の「マルコによる福音書」を見てみたいと思います。

              ・・・・・

           (引用ここから)

1・1  神の子イエス・キリストの福音のはじめ。

1・2  預言者イザヤの書に、「見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの道を整えさせる
であろう。

1・3  荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」と書いてあるように、

1・4  バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えていた。

1・5  そこで、ユダヤ全土とエルサレムの全住民とが、彼のもとにぞくぞくと出て行って、自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた。

1・6  このヨハネは、らくだの毛ごろもを身にまとい、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた。

1・7  彼は宣べ伝えて言った、「わたしよりも力のあるかたが、あとからおいでになる。わたしはかがんで、そのくつのひもを解く値うちもない。

1・8  わたしは水におまえたちの身を沈めたが、そのかたは、聖霊に身を沈めてくださる」。

1・9  そのころ、イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。

1・10  そして、水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて、聖霊がはとのように自分に下って来るのを、ごらんになった。

1・11  すると天から声があった、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。


                 (引用ここまで)

                  ・・・・・

ここで「新約聖書」に描かれている、若きイエスにヨルダン川で洗礼を授けている人が、「洗礼者ヨハネ」です。

流れる川での洗礼が、いかなる意味を持つものなのか、同書の「マンダ教」の教典の解説を見てみました。

非常にわかりにくいのですが、この世の「ヨルダン川」は、天上界とつながっている、と信じる信仰があることがわかります。

           *****

         (引用ここから)

「ギンザー(財宝)」の神話

「光の世界」の頂点には、「光の世界」の主というべき「至高存在」が、原初から立っている。

「至高存在」の呼び名は、古い時代には、「いのち」。

比較的新しい時代では、「大いなることの主」、「光の王」、「大いなる「マーナー」と呼ばれる。

「マーナー」とは、元来「器」の意味であるが、

教典「ギンザー」では、「光の世界」に端を発する「霊的存在としての人間の魂」を指す。

「マーナー」に「大いなる」などの形容詞が付くと、「至高神」をはじめ、「光の世界」の特定の存在を指す。

この「至高の存在」「いのち」から、「光の世界」に住む「霊的な存在」である「神々」たちと、「光の世界を流れる川ヨルダン」が生じてくる。

                 ・・・

すべての世界が生じる以前、

この「大いなる実」があった。

「大いなる実」が「大いなる実」の中にあった時、

「栄光の大いなる光の王」が生じた。

「栄光の大いなる光の王」から、

大いなる輝きの大気が生じた。

大いなる輝きの大気から、

活ける火が生じた。

活ける火から、

光が生じた。


「光の王」の力によって、

「いのち」と「大いなる実」が生じた。

大いなる実の中にヨルダンが生じた。

大いなるヨルダンが生じ、

活ける水が生じた。

輝く、まばゆい水が生じ、

その活ける水から私、「いのち」が生じた。

私、「いのち」に続いて

すべての神々が生じた。

              ・・・

光の世界では、至高の第一の存在から、順次その下位の存在が生じていく。

これを「創造論」と対峙する「流出論」という。



多数登場する神々は、光の世界と至高神に逆らって世界を創造したいと願う。

「マンダ・ダイエー(命の認識)」は、「光の世界」から地上世界の「マンダ教徒」に教えを説きに行く使者の代表格である。

別名「光の使者」とも呼ばれ、至高神の「いのち」に命じられて、地上に下り、「マンダ教徒」を教え導く。

人々が肉体に囚われて、本当の自分を忘れたり、すべてのものが移ろい腐敗してゆく世界に安住することがないように導く。

時には「闇の勢力」と戦う特定の個人の体の中に、「マーナー(魂)」を投げ入れたり、死後その「魂」が辿る、光の世界への旅路に同行する。


「アノシェ(エノシュ)」も、やはり「光の世界」からの使者として、「マンダ教徒」を教えるために到来する。

口頭伝承では、洗礼者ヨハネに、アルファベットを教えてもいる。


やがて「闇の世界」の女性の悪霊ルーハー(ヘブル語で「息、あるいは風」)が建てる地上のエルサレムで、ユダヤ人が自分の弟子を迫害し、殺すのを見て憤慨する。

彼らは、天上界における「旧約聖書」のアダムとエバの「原型」の子孫たちである。



「光の世界」と「闇の世界」は、ゾロアスター教の場合ほど互いに鋭く対立し、戦うものとしては捉えられていない。

伝承の最古層では、神話の焦点は、「光の世界」に由来する創造主が、「闇の世界」の勢力と共に地上世界を作り、現実の人間を作ることにある。

「闇の世界」にも、「光の世界」と同じように、いろいろな存在がいる。

その頭は、「闇の王・ウル」と呼ばれる。

この名前は、おそらく「光」を意味するヘブル語「オール」の転用と思われる。

つまり「旧約聖書」では、積極的な意味で神に関係づけられている単語が、「マンダ教」では悪の原理とされているのである。

同じことは、「闇の世界」で最も影響力が強い女性的存在「ルーハー」についても言える。

このように、「旧約聖書」における価値を逆転させる用語法は、「マンダ教」がもともとユダヤ教から派生しながら、同時に「ユダヤ教」から激しい迫害を受けてきたことに起因するのだろう。



死後の旅路の安全を守るための「マンダ教」の葬送儀礼は、様々な段取りを踏んで行われる。

臨終を迎えた信徒に、祭司は教典「ギンザー」を朗唱する。

信徒が息を引き取った後の45日間、「ギンザー」の朗誦に加えて、遺族を中心にした食事の儀礼が行われる。

その理由は、死後の天上界への「魂」の旅が45日間続くと考えられているからである。

特にそのうちの最初の3日間は、旅立ち前の「魂」がまだ不安定な状態で、地上をさ迷っているとされる。

死後3日目に「第一の見張り所」、7日目に「第二の見張り所」というように、通過して行き、45日目に、魂は「計りに掛けられる」と考えられている。

その節目ごとに、朗唱と食事が行われるのである。


地上世界、可視的宇宙そのものの運命はどうなると考えられているのだろうか?

「ギンザー」にも、「終わりの日」とか「審判の日」という表現はもちろんある。

「ギンザー18巻」は、「マンダ教」が見た世界史である。

創造主プヒタルが地上の世界と人間を創造してから、終末に至るまでは48000年とされる。

この時間が、7つの惑星と黄道12宮に分配される。


ノアの大洪水、アブラハムのエジプト下り、モーゼに導かれた「出エジプト」、イエスの誕生、古代イランとササン朝ペルシャの王たちの支配、それに続くアラブ人の王たちの悪政が語られた後、

終末についての黙示的予言をもって終わっている。


その黙示的予言によれば、様々な災いが起きた後、怪物が解き放たれる。

そして、7つの惑星、黄道12宮、その他の闇の勢力が、皆、食われてしまう。

第一の「いのち」に否認され、裁判で「罪あり」とされたすべての「魂」も同じ運命を辿る。

その後は、「光の世界」が無限の時間続く。

「第一の「いのち」に対する信仰を告白した優れた者たちの「魂」は、すべて裁きの場で無罪とされ、二度目の死を死ぬことは、もはやない。

彼らの魂は、ここで「いのち」の中に生きる。

ただし、このような黙示文学的な終末論は、「マンダ教」がイスラムの支配下に置かれた7世紀以降のものと考えられる。

「マンダ教」の教義において本質的なのは、儀礼の重要視がよく示すように、個々人の死後の魂の運命、すなわち個人的な「終末論」である。

           (引用ここまで)

           *****

グノーシスの教えは、その後も、広範に広がりを見せて、人類の地下水脈のようでもあると思いますが、引用後半部の、「人が死ぬと、死後45日間、死者のかたわらで、死後の旅路を説き聞かせ、天上界へと導く」という伝統は、「チベットの死者の書」にもあり、ますます興味深く思われます。


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「グノーシスの神話・マンダ教」大貫隆氏著(1)・・「この地を呪うべし」

2017-12-01 | 古代キリスト教



少し前に取り上げた「ユングは知っていた・UFO・宇宙人・シンクロニシティの真相」という本の中に、一神教ではない、異端とされている宗教「マンダ教」の教えが言及されていました。

「グノーシスの神話」大貫隆氏著から、「マンダ教」に関する部分をご紹介させていただきます。

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             *****

           (引用ここから)

グノーシス主義とはなにか?

グノーシス主義者が懸命になってひっくり返そうした世界観と救済観は、

1つは「旧約聖書」の世界、初期ユダヤ教と初期キリスト教に受け継がれた創造信仰である。

もう1つは、ヘレニズム期のギリシア哲学、とりわけストア派の自然観である。


「旧約聖書」の持つ、唯一神ヤハヴェと人間の間の絶対的な関係。また、ストア自然学派の持つ、世界と人間の同心円的な世界観と人間観が、

古代地中海とオリエント世界の一隅で、突如として破綻し、宇宙万物と人間の肉体は、「暗黒の牢獄」と語られることとなった。

そのような教義をもつ宗教の一つが「マンダ教」である。

以下に「マンダ教徒」たちが、今なお葬送儀礼の中で用いている「詩編」の一つを紹介する。


                ・・・・・

「マンダ教 祈祷集94」

幸いなるかな

幸いなるかな

魂よ

汝は今この世を去れり。


汝は立ち去れり

滅びと、

汝が住みし悪臭のからだ、

悪しき者たちの住まい、

もろもろの罪にあふれたこの場所を。


闇の世界、

憎しみと妬みと不和の世界を、

惑星たちの住むこの住まいを。


彼らは苦しみと破壊をもたらす、

彼らは日々試練を引き起こす。


立ち上がれ、立ち上がれ、魂よ。

昇り行け、汝がかつて在りし地へ。

そこから汝がこの地に植えられた地へ。

「神々たち」の間の汝の良き住まいへ。


起き上がれ、汝の栄光の衣を身にまとい、

戴くべし、汝の活けるかんむりを。


座すべし、汝の栄光の玉座に、

いのちが光の地に植えし玉座に。


昇り行きて、住まうべし、

汝の体、「神々たち」の間なる住まいに。


汝が学びしごとく、

汝のいにしえの故郷をさきわい、

汝を養いし、この家の地を呪うべし。


汝がこの地に在りし年々は、

「7人」が、汝の敵なりき。

「12人」が、汝を迫害する者なりき。


しかれども、「いのち」はいと高く、勝利に満つ。

この地から去りしこの者も。

            ・・・・・


最後にいう「7人」とは、古代人が考えた7つの惑星のことである。

「12人」とは、恒星天の黄道12宮のことである。

地球のまわりの星々は、「闇の世界」の勢力として人間を迫害する。

人間は自分が、肉体と「魂」(=「本来の自己」)に分裂していること、

その「本来の自己」が、この世界のどこにも居場所を持たないことを発見する。


この世界に対する絶対的な違和感の中で、「本来の自己」が、それらを無限に超越する価値であると信じる。


これが、グノーシス主義者の世界観である。

肉体の死こそは、「魂」が解放される瞬間に他ならない。


解放された「魂」は、どこへ行くのか?

「魂」のいにしえの故郷である。

その在りかは、惑星を超え、黄道12宮を超え、目に見える宇宙万物を超えた彼方、ストア派の哲人が思いもしなかった「世界ならざるもの」、すなわち「世界の外」でなければならない。


それはまた、創造神をも越えなければならない。

悪の勢力としての宇宙の万物、太陽を含む惑星を創造した神が、真の神であり得るはずはないからである。

その結果、目に見える宇宙・万物、及びその創造神のかなたの領域と、今、現に地上にあって、肉体に閉じ込められている「魂」が、平行関係に立つことになる。

「魂」、すなわち「本来の自己」は、目に見える宇宙万物を超越する。

しかしその「本来の自己」そのものを超えるものは、もはや存在しない。

なぜならグノーシス主義者は、人間の「本来の自己」を、端的に「神である」と宣言するからである。
死者の「魂」は、目に見える宇宙のかなたの「光の地」にいる「神々」と兄弟であり、

「魂」は、彼らにとって至高神である「いのち」によって用意された玉座に座る、と表現される。

「魂」と至高神は、同質とされる。

人間を基準とした場合、グノーシス主義は超越なき世界観である。

世界も超越者もない「人間即神也」という考え方が、グノーシス主義の本質である。

          (引用ここまで)

            *****

祈祷書を読んでいると、気がめいってくるような、この世への呪詛の思いがこもっています。

しかし、彼らはおそらく、暗い気分で、この祈祷書を読み、唱えているのではないことと思います。

彼らには、この世の苦しみをあがなって余りある、天上界の幸福が約束されているからです。

彼らの天上界には、「神々」たちがいて、信徒たちは、その「神々」たちと共に、暮らすことができると書いてあります。

「神々」たちという、複数の神がいることも、人間は、それらの神々と対等にいられるのだ、という教義も、世界史で、キリスト教による世界の統一、ということを学んだ人間にとっては、ほんとうに斬新な、特異なものだと感じられます。

しかし、マンダ教は、古代キリスト教の成立期に同時に存在していた宗教ですので、キリスト教を含む、当時の宗教を理解する上で、とても貴重な資料を提供していると思います。



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1世紀前半のユダヤ教会堂跡、日本の調査団発見・・イスラエル・テル・ヘレシュ遺跡

2017-01-31 | 古代キリスト教

              ・・・・・

「1世紀前半のシナゴーグ跡、日本調査団が発見・・イスラエル・テル・ヘレシュ遺跡」
                      読売新聞2016・10・19

イスラエル北部ガリラヤ地方のテル・ヘレシュ遺跡を発掘調査している日本の調査団が今夏、紀元後1世紀前半に建てられたシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)跡を発見した。

これまで初期のシナゴーグは発見例が少なく、貴重な成果となる。

調査団は、天理教や立教大などの研究者が参加し、2006年から同遺跡を発掘。

発見されたシナゴーグ跡は、未発掘部分も含め、南北9メートル、東西8メートルになるとみられる。

壁の内側には、古い時代のシナゴーグの特徴である石のベンチが設けられていた。

出土した土器やコインの型式から、1世紀前半~2世紀前半に使われたと判断した。

シナゴーグは、後70年にローマ帝国がユダヤ教の中心地だったエルサレム神殿を破壊した後、ユダヤ教の信仰の場として重要な役を担うようになったとされる。

テル・ヘレシュは人口80~100人の集落だったと考えられ、今回の調査によって、小規模集落にも早い時期からシナゴーグがあったことが確認された。

ガリラヤ地方は、イエス・キリストが宣教を開始した地域として知られる。

新約聖書の「マタイによる福音書」には、「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教えた」ことが記され、長谷川修一・立教大准教授(聖書考古学)は、

「テレ・ヘレシュは、イエスが暮らしていたナザレから16キロしか離れていない。この会堂でもイエスが教えたかもしれない」と話す。

調査団は来年以降、未発掘の東側部分を発掘し、シナゴーグの全容を明らかにする方針だ。


           ・・・・・


         
この記事を読み、この遺跡の発掘にも関わり、記事でも見解を述べている長谷川修一氏の「聖書考古学」という本を読んでみました。

時代背景などをざっと補足しておきたいと思ったからです。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

           *****

         (引用ここから)

パレスチナはヘレニズム時代初期、エジプトのプトレマイオス朝の勢力下にあった。

その後、紀元前200年ごろ、シリアのセレウコス朝がプトレマイオス朝から同地域を奪取する。

ヘレニズム時代後期には、ユダヤ人が「ハスモン朝」と呼ばれる独立王国を一時的にユダヤに打ち立てた時代もあった。



このセレウコス朝下で、ユダヤ人は反乱を起こし、ハスモン家がユダヤ人の王国を再び樹立することに成功したきっかけは、紀元前167年、時の王が神殿を汚したことにあった。

セレウコス朝との闘いに勝ち、「異邦人」の手から神殿を奪還したユダヤ人たちは、神殿をきよめる儀式をおこなった。

この義域には、ろうそくを8日灯さなければならなかったが、神殿には1日分の油しか残っていなかった。

ところが、この1日分の油で、8日間ろうそくが灯るという奇跡が起こったとされる。

ユダヤ人は「神殿のきよめ」と、「この時起こった奇跡」を記念し、「ハヌッカー」という祭を今日までお祝いしている。


もしこの闘いに負けていたら、「ユダヤ教」は今日のような形で残っていなかったかもしれない。

そしてユダヤ教を母体として成立した「キリスト教」も、今日なかったかもしれない。


ユダヤ人の王朝であるハスモン朝の下で、ユダヤ教は繁栄した。

とくに神殿のあったエルサレムは、政治と宗教の中心地として大いに栄えた。

紀元前2世紀後半、エレウコス朝の弱体化に伴って、ハスモン朝は勢力を強め、次第にエルサレム周辺よりもさらに北方の地域をも制服していった。

ハスモン朝は、征服した地域の住民に、ユダヤ教に改宗するか?と力で改宗を迫ったという。

人々が出て行った後の土地は、ユダヤ人を入植させた。

言わば、パレスチナの「ユダヤ化」がすすんだ時代であった。

後にイエスが育ったガリラヤ地方が「ユダヤ化」されたのも、この時代である。

しかし西の方では、ローマが勢力を強め、やがてセレウコス朝を破った。

そしてローマは弱体化したハスモン朝をよそに、最終的にはパレスチナの実質上の支配者となっていくのである。


「マタイによる福音書2章1節」には、「イエスが生まれたのはヘロデ王の時代であった」と書かれている。

イエスの誕生に関連してその名をよく聞かれるこの大王の生涯を概観してみよう。

ヘロデが生まれたのは、紀元前74年頃のことと言われる。

彼は「異邦人」、つまり「非ユダヤ人」であった父の下に生まれた。

彼の父親はユダヤ教に改宗し、ハスモン朝に仕えていたが、ローマがパレスチナまで勢力を強めると、ローマ軍の軍事行動を積極的に支持し、ローマのユリウス・カエサルの信任を得ている。

カエサルの死後、ヘロデはマルクス・アントニウス(カエサルの養子)の支持に回った。

つねにローマの勢力を後ろ盾にしながら、たくみに同盟相手を乗り換えることによって、ヘロデは着実にパレスチナでの権力を強固なものにしていった。

彼がユダヤ教に改宗したことや、ハスモン朝の王女を妻に迎えたことは、自分の統治していたユダヤ人に受け入れられやすいようにするための方策だったと言われている。

ヘロデは紀元前37年に、ローマからユダヤ国王として認められると、自分に反乱を起こしそうなハスモン朝の末裔たちを次々に殺害していった。

自分の妻や息子さえも殺した。


ヘロデが死んだのは、紀元前4年である。

「福音書」の記述に従えば、イエスはそれよりも前に誕生していたことになる。


ヘロデはその生涯中に行った様々な建設活動で、ローマ世界に名をとどろかせている。

とりわけ特筆すべきは、エルサレムの神殿の修復と拡張である。

当時のエルサレムの神殿は、ペルシア時代に建てられた「第2神殿」であった。

律法のこまかい指示に則って建てられた神殿の構造、装飾を変更することを避け、

ヘロデは神殿を取り囲む部分の拡張と装飾に集中した。

後世のユダヤの賢人は、完成した神殿域のあまりの美しさに、「ヘロデ王の建てた建物を見るまでは、美しい建物を見たとは言えない」という言葉を残しているほどである。

この工事の際、ヘロデはユダヤ人の信仰の拠り所である、神聖な神殿に、ヘレニズム=ローマの建築様式を取り入れた。

ヘロデは他の面でも巧みに振る舞い、ユダヤ人からもローマ人からも敬われた。

ヘロデの後継者たちは、誰一人として彼のようにユダヤ人とローマ人の双方からの敬意を勝ち取ることはできなかった。

かれらは逆に、一神教を奉じるユダヤ人と多神教のローマ人の間の緊張関係を高めてしまう。

その結果、紀元後66年、ユダヤ人はローマに対する大規模な反乱を開始した。

そして紀元後70年になると、エルサレムはローマ軍によって破壊され、その住民は奴隷となり、ヘロデが大拡張した美しい神殿もまた破壊されてしまったのである。


紀元132~135年に、ユダヤ人は再びローマに対して反乱した(第2ユダヤ戦争)

紀元1世紀のエルサレムの家屋から、しっくいの壁に刻まれた装飾がみつかった。

そこに描かれている〝枝付き燭台″は「メノーラ」とよばれるものだが、ヘロデ時代の神殿の聖域に建てられて燭台を描写したものではないかと考える研究者もいる。

当時のユダヤ人がいかに神殿を誇りに思っていたかを、このような資料からもうかがうことができるであろう。

紀元30年代、イエスがエルサレムとその神殿を訪問した頃、神殿の一部はまだ建設中であった。

ヘロデが着手した建築計画は、彼の死後も続けられ、ほぼ100年たってようやく完了したのである。

紀元70年、エルサレムに侵攻したローマの将軍(後のローマ皇帝)は、神殿のあまりのみごとさに打たれ、自ら全軍に破壊命令を下さなければならないことを嘆いたと言われている。

           (引用ここまで)

             *****

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ゲルマンvsローマ、そして、、多様性が文化である・・植田重雄氏「ヨーロッパの祭りと伝承」

2016-12-30 | 古代キリスト教


クリスマスの季節、植田重雄氏著「ヨーロッパの祭りと伝承」を読んでみました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

        *****

      (引用ここから)


濃緑の「モミの木」の枝ごとに蝋燭の火が輝き、さまざまな飾り物や人形を吊り下げた「クリスマスツリー」は、いつ頃、どのようにして登場するようになったのだろうか?

12月21日・22日は「冬至」で、日が一番短い。

しかしこの日を境に、再び日は長くなる。

冬から春への、転換の日である。

古代から人々は、この「冬至」を、光の誕生として祝ってきた。

森に行って、「モミの枝」を折り、家の戸口や部屋に立てかけた。

それは若々しい生命を、家に運んでくることを意味していた。


すでに古代ローマ時代から、ローマ人は季節の変わり目ごとに「月桂樹の枝」を戸口に飾って祝う風習があった。


「クリスマス」を迎えるにあたり、「モミの木」の枝で、人間の体に軽く触れたり叩いたりする作法がある。

緑の若枝に生命の霊力があり、これによって災いを除き、祝福を願う。

「聖ニコラウス(=サンタクロース)」のお伴のルプレヒトは、「柳の鞭」で躾の悪い子を叩き、怖がらせたが、本来は、叱るよりも子供が育つように生命力を与えるためであった。

「柳」の旺盛な成長力は、「モミの木」と同じように注目されていた。


「クリスマスツリー」が最初に現れたのは、今から大体300年前で、宗教改革後である。

ドイツのアルザス地方の古い小都市の記録によれば、「1605年、「モミの木」を部屋に立て、これにビスケットやリンゴを吊るしていた」とあり、さらに少し遅れて、「ツリーに色紙で作ったものや砂糖の塊、パンなども吊るしていた」と記されている。

これが現在知られている最も古い記録である。

1708年、フランスのオルレアン大公妃は、手紙に次のように書いている。

「さて机を祭壇のように整え、たとえば新調の衣装、銀製品、人形、砂糖菓子、その他いろいろなものを並べて飾ります。

この机の上に、「つげの木」を置き、枝ごとに蝋燭を固定して火を点すと、実にすばらしくなります」。


「クリスマスツリー」が出現する以前、「ピラミーデ」とよばれる特別な燭台があった。

これは木の枝のように、いくつも蝋燭を立てるように、横木が出ている。

「常緑樹の枝」に映える蝋燭の光は、「ピラミーデ」よりはるかに美しく立体的となる。

この「木の装飾」は、バイエルン、ハノーファー、オーストリア、フランスへと広まっていった。

やがて新大陸へ渡り、「モミの木」の「クリスマスツリー」は世界的に伝播し、「クリスマス」の象徴のようになっていった。


「クリスマスツリー」が目覚ましく発展するのは、宗教改革以後の福音派の気風によるところが多い。

カトリックでは、樹木を祀り、ものを吊るすのは、原始的なゲルマンの古い呪術であり、異教的習俗として禁止していた。

ゲルマンには、「イグドラジル」と呼ばれる、地底の世界に深く根を張り、天界にまで届く〝巨大な聖樹″の神話がある。

ゲルマン人は、それぞれが〝聖樹″とあがめる樹木の下に集まって、事を議したり、神々に祈りかつ踊った。

そこは、部族や家族の和合の中心であった。

「樹木」の旺盛な生命力や持続性は、畏敬の念を呼び起こす。

歴史の過程において、「樹木」は聖書の「生命の樹」の観念と結びついてゆき、さらにキリストの「十字架の木」ともつながっていった。

その後、カトリックは「クリスマスツリー」を容認したが、蝋燭や華やかなデコレーションは禁じている。

次の民謡は、「モミの木」に寄せるゲルマン人の心情をよく伝えている。


おお モミの木よ おまえの葉は美しい緑

夏だけ青いのではなく 雪の降る冬も青い

おお モミの木よ おまえの葉は美しい緑

おお モミの木よ おまえは私にとってすばらしいもの

クリスマスには おまえから 尊い喜びが与えられる

おお モミの木よ おまえの姿はいろいろ教えてくれる

希望と忍耐 慰めと力



生命の「緑」と、希望の蝋燭の光が輝く「クリスマスツリー」は、キリスト誕生の奇跡にふさわしい「木」となった。

すべての天の星のごとくまたたく光の中で、メシアの誕生を告知する天使の大きな星が、頂上で一際輝く。

古い習俗を包含しながら、その意味を高めてきた「クリスマスツリー」に、ヨーロッパの祈りと願いが結晶していった。

           (引用ここまで)

             *****

さて、この本の「後書き」で、植田氏は次のような感想を述べておられます。

            *****

          (引用ここから)


モーゼル湖畔の古い町の民族博物館で、古代ゲルマンの壺や皿などの土器の前に佇んだ時、あまりに縄文のそれに似通っているので、何度も行きつ戻りつして観ていたことがある。

私が「日本の古い土器に似ている」と館員に言うと、「歴史を遡り、この時代になると、皆共通してくるのですよ」と、さりげなく言っていた。

インカもアジアもヨーロッパも、皆同じになる。

ゲルマンの大振りな壺を見ていると、ある共通の情感が喚起されてくるのである。


ドイツ各地にはゲルマンの遺物以外に、「ドルイドの石」とよばれる石柱や巨石の遺跡がある。

先住民・ケルト人が残したものである。

彼らには統一王国も無く、ゲルマンの進出と共に大陸から後退していった謎の民族である。

ゲルマンやラテンで説明のつかぬ地名の多くは、ケルト人がつけた名である。


やがてローマ帝国が北方進出を図り、多くのローマ文化が中部ヨーロッパに進出してゆく。

ローマ風の城壁や都市、神殿、浴場、ワインや果樹、新しい品種の穀物、農耕、牧畜の技術が入ってくる。


しかし西暦紀元9年頃から、ゲルマン人のローマに対する反撃が始まる。

その後ローマ帝国に侵入するほどの勢いとなり、西暦476年にはついに西ローマ帝国は滅亡した。

すでに大激動の中で胎動し始めたキリスト教は、次第に信仰・文化の中心を形成し、やがてヨーロッパへの伝道・布教により、キリスト教化がなされ、中世の文化と歴史が形成されてゆく。


しかしヨーロッパは決して単一単調な層から成り立っているのではなく、きわめて複雑で多岐にわたって重層をなしている。

しかも単に年代順に重なっているのではなく、混合したり、意味転換したり、吸収したり、されたり、はみ出すといった様相を呈している。


ヨーロッパの人々が一年間に行う民間習俗の行事や祭りを見てゆくと、この重層性がはっきりしてくる。

ゲルマンの神々の資料は意外に乏しく、原型を辿ることは困難であるが、

奇怪な魔群の表象やデーモン化は、むしろキリスト教以後のもので、決して本来のものではない。

はじめは冬の嵐や夜の闇の中にヴォーダンの神の声を聴く、厳粛な慎み、物忌みを表したものであると、私は思う。


文化は迷路である。

それはどこからどこへと区切ることもできないし、全然つながらないと思っているものが思いがけずつながることもある。

入口や出口はあるにしても、一直線にすることはできない。

そうすれば、それは文化ではなくなる。

多様性が文化である。

多種多様な文化を覆い、産み出している力や根源が何か、ということである。


  (引用ここまで・写真(下)は家にある「聖家族と聖エリザベト、洗礼の聖ヨハネと聖カタリナ」)

           *****


wikipedia「ピラミーデ」(メノーラー=ユダヤ教の7本の燭台のことか?)

wikipedia「ユグドラシル=北欧神話の世界樹」

wikipedia「クネヒト・ユープレヒト(聖ニコラウスのお伴)」



クリスマスツリーの歴史は300年しかないのですね。

しかし、その根元には重層的に幾重にも人類の「樹」への思いが込められているのですね。


「文化は迷路である。多様性が文化である」。。

いい言葉だと思いました。

ハッピーメリークリスマスが過ぎ、もうすぐ嬉しいお正月ですね。


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「ヘブライ語とケルト人・・神官ドルイドはアブラハムを継ぐ者なり、という説」

「〝東方″なるもの・・イエスを祝ったのは誰だったのか?(その4)」(1)~(3)あり

「ああ、エルサレム、エルサレム・・「ノアの大洪水」のパラドックス(3)」(1)~(2)あり

「ストーンヘンジは〝ノアの子孫ドルイドがつくった高貴なモニュメントである、という説」


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サンタクロースが配っているのはあの世からのプレゼント・・葛野浩昭氏著「サンタクロースの大旅行」(3)

2016-12-28 | 古代キリスト教


サンタクロースの服が赤いのは、コカ・コーラのボトルの色のイメージ広告に合わせて作られたという話をご存じでしたか?

怖い異界の老人であり、冬の神々の一人であった「聖ニコラウス」が、気前のいい子ども好きなおじいさんになったのも、このアメリカでのコカ・コーラの広告イメージによって、つい最近のことだということです。




引き続き、クリスマスとは何か、サンタクロースとは誰かを考えるために、葛野浩昭氏著「サンタクロースの大旅行」という本のご紹介を続けさせていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
 
              *****

           (引用ここから)

「オーディン」が死者の国との間を行き来する際、駿馬にまたがります。

駿馬は、この世とあの世をつなぐ乗り物なのですが、この馬は〝8本足″だとされています。

このことを知ると誰もが、「サンタクロース」が8頭立てのトナカイのソリに乗ってやって来ることを思い出すでしょう。

「オーディン」に駿馬がいるように、雷神「トール」には、2頭の雄ヤギがいます。

「トール」は、これら2頭の雄ヤギが引く車に乗る神であり、その車がたてる轟が雷なのです。

フィンランドで「サンタクロース」を「クリスマスの雄ヤギ」と呼び、「サンタクロース」が雄ヤギを連れていることは、「クリスマス」の陰に「ユール祭」があり、「サンタクロース」の陰に雷神「トール」がいることを物語っているのです。


「サンタクロース」の祖形である「オーディン」あるいは「トール」が空を駆け巡る鬼神だとすれば、

彼らが人間の家を訪れる時に、煙突を通って入ってくることは自然なことだ、と言えるでしょう。

空へと立ち昇る煙や水蒸気が通る〝煙出し"は、空と大地、あの世とこの世、神々の世界と人間の世界とをつなぐ通路でもあるのです。


また、この煙突や煙に縁が深いのが、クリスマスの季節になるとケーキ屋さんに並ぶ丸太型のケーキ「ブッシュドノエル」です。

これは「12夜」の間、太陽が再び力強く輝くことを助けるために焚かれた「ユールの丸太」を原型としています。

これが「オーディン」に捧げられたことは、もちろんです。


「クランプス」は大きな角のついた仮面をかぶり、全身に黒いヤギの毛皮をまとっていました。

「シャープ」は麦藁で全身を包んでいました。

「聖ニコラウス祭」ではありませんが、スイスでは、大晦日(ユリウス暦の大晦日=1月13日)の夜、「醜いクロイセ」「野生のクロイセ」「美しいクロイセ」と呼ばれる3種の〝仮面仮装来訪神″が姿を現します。

「醜いクロイセ」は、ブタやウシの歯と毛皮で作った仮面を被り、全身をモミの小枝やシダ、そして麦藁で包まれています。

さらに北欧で「クリスマスの木」に飾られてきた麦藁製の雄ヤギ人形もあり、「クリスマス」の原型である「ユール祭」では、やはり麦藁製の「ユール男人形」も飾られました。

麦藁で全身を包むのは、それらが「穀物神」であることを物語っています。

「クロイセ」は大きな鈴を鳴らしながら、村や畑を歩き回るのですが、それは悪霊を払うと同時に、農地の力を再強化するためだとされています。


ですからこれらの祭は、その年の収穫に感謝し、新しい年の豊作を祈るための祭りでもあり、

来訪する神々は、新しい年の豊作を予祝する者でもあるのです。

神々の仮面・仮装は、豊穣の力を表してもいるのです。

肩からかけた〝背負い袋″は、あの世を想起させて脅す道具でもあり、この世とあの世を繋ぐトンネルのようなものだと考えるべきでしょう。

もし「聖ニコラウス」や「サンタクロース」が〝背負い袋″の中からプレゼントを取り出すのだとしたら、それは、あの世からの祝福だということになります。


17世紀頃まで、ヨーロッパ中部・北部一帯は、ミズナラやブナなどのうっそうとした森に覆われていました。

日本の森は人里離れた所にそびえる「山地林」が大方ですが、ヨーロッパの森は「平地林」がほとんどです。

ですからヨーロッパでは、うっそうとした森が人々の日常生活のすぐそばにまで覆いかぶさり、村と言っても、それは広大な森の所々に飛び地的に切り開かれた空き地のようなものだったのです。

「聖ニコラウス祭」には、ブタが深く結びついていました。

これは村人たちが森の中に放し飼いにしていたブタを「聖ニコラウス祭」の季節に屠畜してきたからで、

ヨーロッパには、森の広さを〝ブタを何頭養える広さ″と表現する伝統さえあります。

このように森はブタを放し飼いにし、またハチミツを採り、薪や材木も調達してくる大切な恵みの場所であり、豊穣のシンボルでした。

しかしこの森は同時に、「赤ずきん」の狼が住む死の世界であり、「白雪姫」の小人たちがすむ妖精の世界でもありました。

そこは闇が支配する世界で、恐ろしい神々も住んでいたのです。


           (引用ここまで)

            *****

北欧神話については、次回から見てみたいと思います。

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