始まりに向かって

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おおえまさのり、のダライラマ・・〝関係″が〝リアリティー″である

2008-10-02 | メディテーション


「チベットの死者の書」の翻訳者、おおえまさのり氏の話を、昔若い頃、
西荻窪の「ほびっと村」で聞いたことを憶えている。

内容は忘れてしまったけれど、「ほびっと村」の3階の天井をながめながら、
虚空の、そのさらに奥の中空のリアリティーについて、一人語りで語る
おおえ氏を見ていると、そのまなざしの先の虚空と中空、
、かと思われるところが現前しているような、不思議なきもちになった。


それは覚めない夢を見ているようで、すごくチベットらしい気配を感じた。

だから、チベットと、ホビットは、わたしの中ではメビウスの輪のように、
現実の表と裏をつなぎあわせるヒモのように作用するものとして、
同列に並んで記憶されている。

「死者の書」は1974年に、講談社から翻訳本が出ている。

おおえ氏は1988年の「いのちのまつり」の実行委員長でもある。

2002年のメールマガジンに、おおえ氏のダライラマ評をみつけたので、転載する。

環境問題とか、反核、反原発は、スピリチュアル系にとっても、最も古くからある
定番のテーマだったのだと思い返す。

スピリチュアル系の人と、現実改革系の人と、、また、
“昔の人”と、“今の人”が、互いに近づき、活かしあう方法があるといいなと思う。

メールマガジン「 open-jboomerang 」“中道ーージョージ・ブッシュから遠く”
http://www.peace2001.org/gpc/gpc_mn/mn_200202.html#143
“メールマガジン「 open-jboomerang 」“中道・・ジョージ・ブッシュから遠く


          *****

         (引用ここから)

(前略)

 わたしたちはこの中道的アプローチの問題を、ジョージ・ブッシュの一般教書に比
して、考えみる必要がある。

 それはチベットと中国双方の、いや国際社会にとっての、人類と世界の止揚を夢見
るものであり、

その実現へのステップを記すものであるといえよう。

チベットを追わ れて40年、その果てに、憎しみへとではなく、

敵見方の見解を超えたところに至り、

そこからチベットと中国に、人類と世界に語りかけ、人類の自覚に基づく、

真に民主 的な中道の道において、世界を救いとろうと努めている。


 暴力の連鎖の愚かさを見るにつけ、わたしたちは第一次、第二次世界大戦から、何
も学んでこなかったのであろうか。

人類は歴史から学ぶことはできないのだろうか。

核や環境問題から人類は何を学んできたのだろうか。あるいは神から。


 わたしたちは、ジョージ・ブッシュのいう「敵か味方か」という愚かな二元論に陥
らない、

ダライ・ラマの提唱するところの「中道」とういものの見方を、

深く再考察 してみる必要がある。

 それ(中道)は、今日の地球環境の問題が提起してきた、他のものによってわたし
が支えられているという「関係生起(縁起)」性を透徹する。

個は他によって支えら れ(存在を与えられ)、かつそれぞれの個は互いに全世界を宿し合っている、と。

そ して世界(存在)が関係生起であるのは、そうありうるのは、

それぞれの存在が究極 的な「永遠不滅の実体」を持っていないからである、という。

神のところで見たよう に、世界(神やこの存在世界)に永遠不滅の実体はないという見解である。

 それはまた、世界は関係であるからには、世界には究極的な実体なく、

世界はこう であるという「常見」とそうではないとう「断見」を
超えているという見解でもある。

世界はわたしたちがどこに立っているかという、

それぞれの関わっている場によって、 異なる見え方をする。

敵も味方も人がどこに立つかによって、異なってくる。

関わり の中でリアリティは現れてくる他ないからである。


たとえば時間。

時間はその人がど こに立っているかによって、異なったものとして体験される。

極端な話、光速で移動 するものには時間も空間も質量も存在しないものとして体験される。

そのそれぞれの 時間が正しく、時間は有るといっても、無いといっても正しい。

ブッシュのいう「あれかこれか」ではなく、あれでもこれでもあり、あれでもこれでもない。


 ではリアリティ(真実)はなにもないのかというと、そうではない。

リアリティは 関係の中にあるということである。

関係がリアリティであると。

 神もまた関係の中に、ガリレイがいうように、わたしの中にということになる。

わたしなくして、神は存在しない。

わたしとの関係の中で、神は確として存在する。

それぞれのわたしの中に、それぞれの(多様な)神があり、かつそれは「一」なのである。

そしてそれは「一」の故に、非実体的なリアリティのものなのである。

世界もまたそうしたものとして現れている。

関係というリアリティをわたしたちは
生きている。

生きていること自体が関係である。

関係を生きているわたしがいるということである。

その関係を断ち切ろうとうするのが、ブッシュの二元論的立場である。

あれかこれか、敵か味方かであり、

これでないものは殲滅させられる。


中道は関係を生きようとする。

関係が存在に他ならないからだ。

そして関係が世界であることは、哲学や認識論のみならず、環境問題の中から、人
類は多くを学んできたはずである。

関係を断ち切れば、自ら共々、世界は滅びると。


ひとり勝ちはあり得ない。

  
        (引用ここまで)

      
           ***

そう。。一人勝ちは、あり得ない。。


おおえまさのり
http://www.wacca.com/88/07/ooe/ooe.html いちえんそう
ほびっと村HPhttp://www.nabra.co.jp/hobbit/hobbit_mura.htm
いのちのまつり88HP
http://www.geocities.jp/singingstone4/matsuri88.htm

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