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「1世紀前半のシナゴーグ跡、日本調査団が発見・・イスラエル・テル・ヘレシュ遺跡」
読売新聞2016・10・19
イスラエル北部ガリラヤ地方のテル・ヘレシュ遺跡を発掘調査している日本の調査団が今夏、紀元後1世紀前半に建てられたシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)跡を発見した。
これまで初期のシナゴーグは発見例が少なく、貴重な成果となる。
調査団は、天理教や立教大などの研究者が参加し、2006年から同遺跡を発掘。
発見されたシナゴーグ跡は、未発掘部分も含め、南北9メートル、東西8メートルになるとみられる。
壁の内側には、古い時代のシナゴーグの特徴である石のベンチが設けられていた。
出土した土器やコインの型式から、1世紀前半~2世紀前半に使われたと判断した。
シナゴーグは、後70年にローマ帝国がユダヤ教の中心地だったエルサレム神殿を破壊した後、ユダヤ教の信仰の場として重要な役を担うようになったとされる。
テル・ヘレシュは人口80~100人の集落だったと考えられ、今回の調査によって、小規模集落にも早い時期からシナゴーグがあったことが確認された。
ガリラヤ地方は、イエス・キリストが宣教を開始した地域として知られる。
新約聖書の「マタイによる福音書」には、「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教えた」ことが記され、長谷川修一・立教大准教授(聖書考古学)は、
「テレ・ヘレシュは、イエスが暮らしていたナザレから16キロしか離れていない。この会堂でもイエスが教えたかもしれない」と話す。
調査団は来年以降、未発掘の東側部分を発掘し、シナゴーグの全容を明らかにする方針だ。
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この記事を読み、この遺跡の発掘にも関わり、記事でも見解を述べている長谷川修一氏の「聖書考古学」という本を読んでみました。
時代背景などをざっと補足しておきたいと思ったからです。
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(引用ここから)
パレスチナはヘレニズム時代初期、エジプトのプトレマイオス朝の勢力下にあった。
その後、紀元前200年ごろ、シリアのセレウコス朝がプトレマイオス朝から同地域を奪取する。
ヘレニズム時代後期には、ユダヤ人が「ハスモン朝」と呼ばれる独立王国を一時的にユダヤに打ち立てた時代もあった。
このセレウコス朝下で、ユダヤ人は反乱を起こし、ハスモン家がユダヤ人の王国を再び樹立することに成功したきっかけは、紀元前167年、時の王が神殿を汚したことにあった。
セレウコス朝との闘いに勝ち、「異邦人」の手から神殿を奪還したユダヤ人たちは、神殿をきよめる儀式をおこなった。
この義域には、ろうそくを8日灯さなければならなかったが、神殿には1日分の油しか残っていなかった。
ところが、この1日分の油で、8日間ろうそくが灯るという奇跡が起こったとされる。
ユダヤ人は「神殿のきよめ」と、「この時起こった奇跡」を記念し、「ハヌッカー」という祭を今日までお祝いしている。
もしこの闘いに負けていたら、「ユダヤ教」は今日のような形で残っていなかったかもしれない。
そしてユダヤ教を母体として成立した「キリスト教」も、今日なかったかもしれない。
ユダヤ人の王朝であるハスモン朝の下で、ユダヤ教は繁栄した。
とくに神殿のあったエルサレムは、政治と宗教の中心地として大いに栄えた。
紀元前2世紀後半、エレウコス朝の弱体化に伴って、ハスモン朝は勢力を強め、次第にエルサレム周辺よりもさらに北方の地域をも制服していった。
ハスモン朝は、征服した地域の住民に、ユダヤ教に改宗するか?と力で改宗を迫ったという。
人々が出て行った後の土地は、ユダヤ人を入植させた。
言わば、パレスチナの「ユダヤ化」がすすんだ時代であった。
後にイエスが育ったガリラヤ地方が「ユダヤ化」されたのも、この時代である。
しかし西の方では、ローマが勢力を強め、やがてセレウコス朝を破った。
そしてローマは弱体化したハスモン朝をよそに、最終的にはパレスチナの実質上の支配者となっていくのである。
「マタイによる福音書2章1節」には、「イエスが生まれたのはヘロデ王の時代であった」と書かれている。
イエスの誕生に関連してその名をよく聞かれるこの大王の生涯を概観してみよう。
ヘロデが生まれたのは、紀元前74年頃のことと言われる。
彼は「異邦人」、つまり「非ユダヤ人」であった父の下に生まれた。
彼の父親はユダヤ教に改宗し、ハスモン朝に仕えていたが、ローマがパレスチナまで勢力を強めると、ローマ軍の軍事行動を積極的に支持し、ローマのユリウス・カエサルの信任を得ている。
カエサルの死後、ヘロデはマルクス・アントニウス(カエサルの養子)の支持に回った。
つねにローマの勢力を後ろ盾にしながら、たくみに同盟相手を乗り換えることによって、ヘロデは着実にパレスチナでの権力を強固なものにしていった。
彼がユダヤ教に改宗したことや、ハスモン朝の王女を妻に迎えたことは、自分の統治していたユダヤ人に受け入れられやすいようにするための方策だったと言われている。
ヘロデは紀元前37年に、ローマからユダヤ国王として認められると、自分に反乱を起こしそうなハスモン朝の末裔たちを次々に殺害していった。
自分の妻や息子さえも殺した。
ヘロデが死んだのは、紀元前4年である。
「福音書」の記述に従えば、イエスはそれよりも前に誕生していたことになる。
ヘロデはその生涯中に行った様々な建設活動で、ローマ世界に名をとどろかせている。
とりわけ特筆すべきは、エルサレムの神殿の修復と拡張である。
当時のエルサレムの神殿は、ペルシア時代に建てられた「第2神殿」であった。
律法のこまかい指示に則って建てられた神殿の構造、装飾を変更することを避け、
ヘロデは神殿を取り囲む部分の拡張と装飾に集中した。
後世のユダヤの賢人は、完成した神殿域のあまりの美しさに、「ヘロデ王の建てた建物を見るまでは、美しい建物を見たとは言えない」という言葉を残しているほどである。
この工事の際、ヘロデはユダヤ人の信仰の拠り所である、神聖な神殿に、ヘレニズム=ローマの建築様式を取り入れた。
ヘロデは他の面でも巧みに振る舞い、ユダヤ人からもローマ人からも敬われた。
ヘロデの後継者たちは、誰一人として彼のようにユダヤ人とローマ人の双方からの敬意を勝ち取ることはできなかった。
かれらは逆に、一神教を奉じるユダヤ人と多神教のローマ人の間の緊張関係を高めてしまう。
その結果、紀元後66年、ユダヤ人はローマに対する大規模な反乱を開始した。
そして紀元後70年になると、エルサレムはローマ軍によって破壊され、その住民は奴隷となり、ヘロデが大拡張した美しい神殿もまた破壊されてしまったのである。
紀元132~135年に、ユダヤ人は再びローマに対して反乱した(第2ユダヤ戦争)
紀元1世紀のエルサレムの家屋から、しっくいの壁に刻まれた装飾がみつかった。
そこに描かれている〝枝付き燭台″は「メノーラ」とよばれるものだが、ヘロデ時代の神殿の聖域に建てられて燭台を描写したものではないかと考える研究者もいる。
当時のユダヤ人がいかに神殿を誇りに思っていたかを、このような資料からもうかがうことができるであろう。
紀元30年代、イエスがエルサレムとその神殿を訪問した頃、神殿の一部はまだ建設中であった。
ヘロデが着手した建築計画は、彼の死後も続けられ、ほぼ100年たってようやく完了したのである。
紀元70年、エルサレムに侵攻したローマの将軍(後のローマ皇帝)は、神殿のあまりのみごとさに打たれ、自ら全軍に破壊命令を下さなければならないことを嘆いたと言われている。
(引用ここまで)
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