始まりに向かって

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1世紀前半のユダヤ教会堂跡、日本の調査団発見・・イスラエル・テル・ヘレシュ遺跡

2017-01-31 | 古代キリスト教

              ・・・・・

「1世紀前半のシナゴーグ跡、日本調査団が発見・・イスラエル・テル・ヘレシュ遺跡」
                      読売新聞2016・10・19

イスラエル北部ガリラヤ地方のテル・ヘレシュ遺跡を発掘調査している日本の調査団が今夏、紀元後1世紀前半に建てられたシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)跡を発見した。

これまで初期のシナゴーグは発見例が少なく、貴重な成果となる。

調査団は、天理教や立教大などの研究者が参加し、2006年から同遺跡を発掘。

発見されたシナゴーグ跡は、未発掘部分も含め、南北9メートル、東西8メートルになるとみられる。

壁の内側には、古い時代のシナゴーグの特徴である石のベンチが設けられていた。

出土した土器やコインの型式から、1世紀前半~2世紀前半に使われたと判断した。

シナゴーグは、後70年にローマ帝国がユダヤ教の中心地だったエルサレム神殿を破壊した後、ユダヤ教の信仰の場として重要な役を担うようになったとされる。

テル・ヘレシュは人口80~100人の集落だったと考えられ、今回の調査によって、小規模集落にも早い時期からシナゴーグがあったことが確認された。

ガリラヤ地方は、イエス・キリストが宣教を開始した地域として知られる。

新約聖書の「マタイによる福音書」には、「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教えた」ことが記され、長谷川修一・立教大准教授(聖書考古学)は、

「テレ・ヘレシュは、イエスが暮らしていたナザレから16キロしか離れていない。この会堂でもイエスが教えたかもしれない」と話す。

調査団は来年以降、未発掘の東側部分を発掘し、シナゴーグの全容を明らかにする方針だ。


           ・・・・・


         
この記事を読み、この遺跡の発掘にも関わり、記事でも見解を述べている長谷川修一氏の「聖書考古学」という本を読んでみました。

時代背景などをざっと補足しておきたいと思ったからです。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

           *****

         (引用ここから)

パレスチナはヘレニズム時代初期、エジプトのプトレマイオス朝の勢力下にあった。

その後、紀元前200年ごろ、シリアのセレウコス朝がプトレマイオス朝から同地域を奪取する。

ヘレニズム時代後期には、ユダヤ人が「ハスモン朝」と呼ばれる独立王国を一時的にユダヤに打ち立てた時代もあった。



このセレウコス朝下で、ユダヤ人は反乱を起こし、ハスモン家がユダヤ人の王国を再び樹立することに成功したきっかけは、紀元前167年、時の王が神殿を汚したことにあった。

セレウコス朝との闘いに勝ち、「異邦人」の手から神殿を奪還したユダヤ人たちは、神殿をきよめる儀式をおこなった。

この義域には、ろうそくを8日灯さなければならなかったが、神殿には1日分の油しか残っていなかった。

ところが、この1日分の油で、8日間ろうそくが灯るという奇跡が起こったとされる。

ユダヤ人は「神殿のきよめ」と、「この時起こった奇跡」を記念し、「ハヌッカー」という祭を今日までお祝いしている。


もしこの闘いに負けていたら、「ユダヤ教」は今日のような形で残っていなかったかもしれない。

そしてユダヤ教を母体として成立した「キリスト教」も、今日なかったかもしれない。


ユダヤ人の王朝であるハスモン朝の下で、ユダヤ教は繁栄した。

とくに神殿のあったエルサレムは、政治と宗教の中心地として大いに栄えた。

紀元前2世紀後半、エレウコス朝の弱体化に伴って、ハスモン朝は勢力を強め、次第にエルサレム周辺よりもさらに北方の地域をも制服していった。

ハスモン朝は、征服した地域の住民に、ユダヤ教に改宗するか?と力で改宗を迫ったという。

人々が出て行った後の土地は、ユダヤ人を入植させた。

言わば、パレスチナの「ユダヤ化」がすすんだ時代であった。

後にイエスが育ったガリラヤ地方が「ユダヤ化」されたのも、この時代である。

しかし西の方では、ローマが勢力を強め、やがてセレウコス朝を破った。

そしてローマは弱体化したハスモン朝をよそに、最終的にはパレスチナの実質上の支配者となっていくのである。


「マタイによる福音書2章1節」には、「イエスが生まれたのはヘロデ王の時代であった」と書かれている。

イエスの誕生に関連してその名をよく聞かれるこの大王の生涯を概観してみよう。

ヘロデが生まれたのは、紀元前74年頃のことと言われる。

彼は「異邦人」、つまり「非ユダヤ人」であった父の下に生まれた。

彼の父親はユダヤ教に改宗し、ハスモン朝に仕えていたが、ローマがパレスチナまで勢力を強めると、ローマ軍の軍事行動を積極的に支持し、ローマのユリウス・カエサルの信任を得ている。

カエサルの死後、ヘロデはマルクス・アントニウス(カエサルの養子)の支持に回った。

つねにローマの勢力を後ろ盾にしながら、たくみに同盟相手を乗り換えることによって、ヘロデは着実にパレスチナでの権力を強固なものにしていった。

彼がユダヤ教に改宗したことや、ハスモン朝の王女を妻に迎えたことは、自分の統治していたユダヤ人に受け入れられやすいようにするための方策だったと言われている。

ヘロデは紀元前37年に、ローマからユダヤ国王として認められると、自分に反乱を起こしそうなハスモン朝の末裔たちを次々に殺害していった。

自分の妻や息子さえも殺した。


ヘロデが死んだのは、紀元前4年である。

「福音書」の記述に従えば、イエスはそれよりも前に誕生していたことになる。


ヘロデはその生涯中に行った様々な建設活動で、ローマ世界に名をとどろかせている。

とりわけ特筆すべきは、エルサレムの神殿の修復と拡張である。

当時のエルサレムの神殿は、ペルシア時代に建てられた「第2神殿」であった。

律法のこまかい指示に則って建てられた神殿の構造、装飾を変更することを避け、

ヘロデは神殿を取り囲む部分の拡張と装飾に集中した。

後世のユダヤの賢人は、完成した神殿域のあまりの美しさに、「ヘロデ王の建てた建物を見るまでは、美しい建物を見たとは言えない」という言葉を残しているほどである。

この工事の際、ヘロデはユダヤ人の信仰の拠り所である、神聖な神殿に、ヘレニズム=ローマの建築様式を取り入れた。

ヘロデは他の面でも巧みに振る舞い、ユダヤ人からもローマ人からも敬われた。

ヘロデの後継者たちは、誰一人として彼のようにユダヤ人とローマ人の双方からの敬意を勝ち取ることはできなかった。

かれらは逆に、一神教を奉じるユダヤ人と多神教のローマ人の間の緊張関係を高めてしまう。

その結果、紀元後66年、ユダヤ人はローマに対する大規模な反乱を開始した。

そして紀元後70年になると、エルサレムはローマ軍によって破壊され、その住民は奴隷となり、ヘロデが大拡張した美しい神殿もまた破壊されてしまったのである。


紀元132~135年に、ユダヤ人は再びローマに対して反乱した(第2ユダヤ戦争)

紀元1世紀のエルサレムの家屋から、しっくいの壁に刻まれた装飾がみつかった。

そこに描かれている〝枝付き燭台″は「メノーラ」とよばれるものだが、ヘロデ時代の神殿の聖域に建てられて燭台を描写したものではないかと考える研究者もいる。

当時のユダヤ人がいかに神殿を誇りに思っていたかを、このような資料からもうかがうことができるであろう。

紀元30年代、イエスがエルサレムとその神殿を訪問した頃、神殿の一部はまだ建設中であった。

ヘロデが着手した建築計画は、彼の死後も続けられ、ほぼ100年たってようやく完了したのである。

紀元70年、エルサレムに侵攻したローマの将軍(後のローマ皇帝)は、神殿のあまりのみごとさに打たれ、自ら全軍に破壊命令を下さなければならないことを嘆いたと言われている。

           (引用ここまで)

             *****

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「柱について(1)・・イスラエルの最古の立柱遺構」

「出エジプトを祝う年中行事・・ユダヤ人の祈りの生活(2)」

「「ユダの福音書」(1)・・ユダから見たキリスト」(2)あり

「キリストはなにを食べていたのか?(1)・・ユダヤ教徒としてのイエス」(5)まであり

「「日ユ同祖論」の検証(1)・・キリスト教・ユダヤ教・景教」(7)まであり

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断じて負けまい・・「神と人のはざまに生きる」(4)

2017-01-28 | 日本の不思議(現代)


現代を生きた稲荷巫女の三井シゲノさんの聞き書きをしたアンナ・ブッシーさんの本「神と人のはざまに生きる」のご紹介を続けさせていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

          *****

          (引用ここから)

ところがついに、ああした氾濫を止められることがわかったのです。

私が火護摩や鳴護摩を始めると、「神さん」は「そろそろ降りようか」とでもいうふうで、たいていお祓いの文句を唱え終わる頃、こなたではどっすんどっすん、かなたではからからから、と、一斉に騒がしくなって、飛び上がりだすのでした。

私自身も、そのときにはもう震えだしています。

けれどもそこで意思の力でこの状態から抜け出て、全身全霊で「えいっ!」と気合を入れて、九字を切りながら、また同時に心の底で

「白高(しらたか)さん、そうなさいますな、しばしお待ちを。でないとせっかくのお勤めがちりぢりになってしまいます」とお願いすると、

「ふん」とうべなうお声あり、たちまち皆、5人であれ100人であれ、ぴたりと震えがやむのでした。


こうして、人を鎮めるにも、揺るがすにも、「動かせる心」を握るのは唯一私の唱える九字なのだ、と気づいたようなわけであります。

勝つ見込みがあるのなら、断じて負けやしまい。

今も変わらず、こんな調子です。

そのためなら、死ぬのも恐れません。

誰かと対立することがあっても、自分が正しくまっとうなことをしていると確信しているのだから、その時は「神さん」に私たちを裁いてもらい、どちらが正しく、どちらが正しくないかを、私か相手かの死をもって示してくださるようお頼みするのです。

私のかたくなな意思は、何かしら空恐ろしいものです。

いいえ、私の、と言っては間違いです。

「白高(しらたか)さん」のものなのですから。


まさにこうしたぎりぎりの緊張状態にあって、昭和9年、私は「お滝」にお参りをした時、一人の方が「玉姫さん」の御名を初めて話した「夢のお告げ」の言葉を書き取ってくれました。

自分一人の決断で村を離れることを決めかねていた私にとって、その「お告げ」こそ、大阪へ行く道を開いてくれたものだったのです。

翌日、私は発ちました。



             ・・・

私(著者)はシゲノの気持ちを思いながら、伏見稲荷大社を訪ねてみた。

普通の人々は、このお宮が、実はこのように開かれた境内とは離れた世界へ通じる明るい門に他ならないことに思い至らないであろう。

しかし注意深く目をやれば、この伏見稲荷大社の背後には、杉におおわれた山がその果ても頂きも見えない程の大きな姿で屹立しているのが見て取れる。

またビニール袋やかごを手に、あるいはリュックを背にお参りする老若相伴う者たちの人数にも驚くことだろう。

かれら参詣者は、本殿の前で礼拝した後、境内の奥の石段の方へ向かうと、そこから深い森の中へ姿を消す。

ここに「稲荷のオダイ」の世界が始まるのである。

明治の末から大正にかけて、幼いシゲノは大叔母に付いてこの山をよじのぼった。

そして昭和4年、「白高(しらたか)神」が初めて降りてから2年後に、彼女は自らこの山を再び歩み始めたのである。

この点で彼女は、ひとたび自身の「守護神」が「稲荷さん」とわかるや、憑依をものにし生業とするに至った者たちの多くと同じ道を歩んだといえる。

彼らにとって、京都の南東にある「伏見稲荷山」は、ゆかりの地やよりどころになり、彼ら自身も「稲荷さん」、また「オダイ」、すなわち神と人間にとっての〝お台″、あるいは神の寄り付く〝お代″という名で呼ばれるようになる。

信仰の場としての他のあまたの山においてと同様、繁盛をもたらす山の神や土地の人々の祖霊が神として崇拝されてきたこの「伏見稲荷山」で、とりわけ「稲作の神」と「オダイ」の信仰が中心的に形をなしていったことには、民間信仰のゆたかな土壌の上に、仏教や神道との習合など、歴史上の複雑な事情とさまざまな条件があい重なっている。

ともあれ、山を修行と神霊との交流の場とする「オダイ」が、とりわけこの「伏見稲荷山」に多く足を踏み入れるのは事実である。

ここでは「キツネ」が、信仰形成において、きわめて重要な役を演じたようである。

キツネは、「山の神」の権化とか、乗り物とか、神使いと言われ、また日々の糧を恵み与え、田んぼを守るもの、さらに「オダイ」に憑く神ともみなされているが、40年ばかり前には、この山中を群れをなして走っていたらしい。

キツネばかりではない。

ヘビ、イノシシ、カラスといった、山にいっそう縁故ある動物もまた、この異界との媒介者の類に属するのである。

今日、「稲荷山」へ定期的に参詣する「オダイ」の数は、ざっと2000に及ぶと言われている。

京都、大阪といった近辺から来る者が多いが、全国各地から、時折でも参りに来る人々の総数は、恐らくこれをはるかに上回ることだろう。

「稲荷山」は2つの世界、「石の界」と、「水の界」を秘めている。

「オダイ」は、山を巡るだけでなく、山を彼らの神が降臨する目に見える印で満たそうと、山の頂上や水の流れる渓谷に、「お塚」という石碑を林立させた。

           ・・・

        (引用ここまで)

           *****


「勝つ見込みがあるなら、だんじて負けまい」、、わたしはこのフレーズが気に入っています。



「山折哲雄が歩く・伏見稲荷・・千本に込められた思い」
                      朝日新聞2017・01・07

という小さな記事が、先日ありました。

シゲノさんの記録を読むと、こういう随筆は学者の文章だなあと改めて思わされました。

           ・・・・・

        (引用ここから)


京都南都の伏見稲荷は大明神とあがめられ、正月ともなれば一二を争う初詣でにぎわう。

神前の拝礼を終えてから、雀の串刺し焼き鳥を食べた時のことが忘れられない。

全国稲荷社の総本宮である伏見稲荷は、やはりあの華やかな朱の千本鳥居で知られる。

参拝者はその林立する赤のトンネルをくぐって、背後につづく稲荷山に登る。

手前のふもとにつくられている立派な社殿はたんなる「拝殿」であって、「本殿」は稲荷山そのものである。

山すなわち神、という神体山信仰である。

それにしても、そこになぜ千本鳥居の名がついているのか?

その千本にこだわりはじめると、自然に京都の洛中を南北に走る千本通が思い浮かぶ。

平安京時代の朱雀大路にあたるともいわれ、その道筋には通称、千本釈迦堂と千本閻魔堂が建てられている。

そのためかどうか、千本とはじつは「千本卒塔婆」を暗に意味するという伝承を聞いたことがある。

戦乱や飢餓のとき都大路は、死者累々の惨状を呈していたと「方丈記」にもみえる。

千本通がこの世とあの世を結ぶ通り路、と想像の翼がのびたのかもしれない。

死者供養のための千本卒塔婆とすれば、伏見の稲荷山に登って参拝するのも死者への供養のためだったということになるだろう。


その伏見稲荷からさらに南を眺めれば、吉野大峯の山岳が見えてくるはずだ。

春ともなればにぎわう、吉野の千本桜である。

西行をはじめ全国の桜好きを吸引しつづける名所である。

その千本桜が歌舞伎の舞台に移されて名作「義経千本桜」を生んだことはだれでも知っている。

悲運の英雄義経を偲ぶ、判官びいきの作品である。

敗者をとむらう鎮魂の芝居というところからきているのであろう、「義経千本桜」は義経の死を供養する「千本卒塔婆」だというわけである。

「義経千本桜」は、幕があくと舞台の全面に満開の桜が咲き乱れる光景が現れる。

判官びいきの過剰な感情が、そのような魂鎮めの演出を生み出したのだろう。

それにしても「千本」とは不思議なことばだと思わないわけにいかない。

針千本の針供養も、そして戦争中の粉塵のために朱の糸で縫い付けた千人針も。。


        (引用ここまで)

          ・・・・・



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匿名報道は差別、「親の会」会長・久保厚子さん・・やまゆり園殺傷事件から半年

2017-01-26 | 心身障がい
知的障がい者施設やまゆり園の殺傷事件から半年たちました。

まだアップしていない記事がありますので、投稿します。

事件直後に全国組織「全国手をつなぐ育成会連合会」の会長の発言がありました。



「「被害者の匿名報道は障害者への差別」、親の立場から「育成会」の久保会長が指摘」
                            福祉新聞 2016・09・26

              ・・・・・


事件に対する思いや今後の団体としての活動について、障害のある子を持つ親の立場から「全国手をつなぐ育成会連合会」の久保厚子会長に聞いた。


「生きる価値は誰にでも」

●久保

事件翌日、「育成会」が障がいのある人に対して行った呼び掛け(下記に掲載)は反響を呼びました。

事件直後から、外出が怖いと不安を訴える声が多く寄せられたのです。

そこで、「私たちは一人ひとりが大切な存在」「胸を張って生きて」というメッセージを出しました。

意見は、身体や精神に障がいのある方からも寄せられました。

実は今でも毎日届いていて、300件を超えています。

中には「障がい者に税金を使うのは無駄」という誹謗中傷もあります。

しかし話をよく聞くと、その人も生活が苦しそうだったり、家に引きこもっていたりする。

将来への不安からわざわざ連絡するのかもしれません。

社会のゆがみのようなものを感じます。


〇今回の事件は、被害者が匿名だったことも物議を醸しました。

●久保

警察から名前を公表するか問われれば、誰だって匿名を選択するでしょう。保護者を責めることはできません。

しかし神奈川県警が事前に保護者へ匿名にするか聞いたのは、障がい者への差別的意識があるからではないでしょうか?

通常の事件だとわざわざ確認しないでしょう。

「障がい者はかわいそうな存在」という偏見があるからだと思います。

「育成会」は60年以上前、障がいのある子を持つ親の会として設立され「我が子にも人権と幸せを」と訴えてきました。

そうして教育や移動手段、選挙権などの分野で権利を得てきたのです。

だからこそ、障害を理由とした特別な配慮を求めることはできないと思っています。

今後、親も乗り越えなければならない課題です。


〇障害への理解は、どう進めますか?


●久保 

障がい者への差別や偏見は、知らないからこそ起こります。

地域の清掃でもよいのです。各地で障がい者と社会が関わる経験を積み重ねるしかないと思います。

「育成会」としては、会報誌の9月号で、障がいのある本人と家族や仲間が笑顔で写った写真を200点ほど掲載しました。

障がいがあっても充実した人生を送っていることを、発信できればと思っています。


〇容疑者に言いたいことはありますか?

●久保

容疑者の発言は、とてもつらいものでした。

障がいがあっても、親にとってはかけがえのない家族です。

その子がいるからこそ味わえる、楽しい時間もあります。

でも正直なところ、障がいのある子を持つ親の気持ちは、他人に完全には理解してもらえないだろうとも思うんですよね。

誹謗中傷を受けている人はとても多くいますし、家族が抱えるモヤモヤした気持ちは当事者でないと分からない部分もあります。

かといって、周りに何か特別なことをしてほしいわけでもないんですよ。

近所に障がいのある子いるよねと認識し、存在を認めてもらうだけでもいいんです。

そもそも障がいに関係なく、人が生きる価値は、他人が決めるものではない。

誰もがその人なりの人生を精いっぱい生きています。

障がい者の成長や可能性は強調されがちですが、それだと結局どこまでできれば価値があるのかという議論に引っ張られてしまいます。

生きる価値は自分が決める。それを皆が尊重する。

そんな共生社会になればと思っています。


                ・・・・・

「全国手をつなぐ育成会連合会」HP
http://zen-iku.jp/


事件翌日・7月27日に出された同会の「声明文」全文は以下の通り。


             ・・・・・

「「私たち家族は全力で守る 堂々と生きて」育成会が声明」
               朝日新聞2016・07・27


 知的障害のある人と家族らでつくる「全国手をつなぐ育成会連合会」は久保厚子会長名で、障害のある人向けのメッセージを出した。

     
(障害(しょうがい)のあるみなさんへ)

 7月(がつ)26日(にち)に、神奈川県(かながわけん)にある「津久井(つくい)やまゆり園(えん)」という施設(しせつ)で、障害(しょうがい)のある人(ひと)たち19人(にん)が殺(ころ)される事件(じけん)が起(お)きました。

 容疑者(ようぎしゃ)として逮捕(たいほ)されたのは、施設(しせつ)で働(はたら)いていた男性(だんせい)でした。

 亡(な)くなった方々(かたがた)のご冥福(めいふく)をお祈(いの)りするとともに、そのご家族(かぞく)にはお悔(く)やみ申(もう)しあげます。

 また、けがをされた方々(かたがた)が一日(いちにち)でも早(はや)く回復(かいふく)されることを願(ねが)っています。

 容疑者(ようぎしゃ)は、自分(じぶん)で助(たす)けを呼(よ)べない人(ひと)たちを次々(つぎつぎ)におそい、傷(きず)つけ、命(いのち)をうばいました。

 とても残酷(ざんこく)で、決(けっ)して許(ゆる)せません。

 亡(な)くなった人(ひと)たちのことを思(おも)うと、とても悲(かな)しく、悔(くや)しい思(おも)いです。

 容疑者(ようぎしゃ)は「障害者(しょうがいしゃ)はいなくなればいい」と話(はな)していたそうです。

 みなさんの中(なか)には、そのことで不安(ふあん)に感(かん)じる人(ひと)もたくさんいると思(おも)います。

 そんなときは、身近(みぢか)な人(ひと)に不安(ふあん)な気持(きも)ちを話(はな)しましょう。

 みなさんの家族(かぞく)や友達(ともだち)、仕事(しごと)の仲間(なかま)、支援者(しえんしゃ)は、きっと話(はなし)を聞(き)いてくれます。

 そして、いつもと同(おな)じように毎日(まいにち)を過(す)ごしましょう。

 不安(ふあん)だからといって、生活(せいかつ)のしかたを変(か)える必要(ひつよう)はありません。

 障害(しょうがい)のある人(ひと)もない人(ひと)も、私(わたし)たちは一人(ひとり)ひとりが大切(たいせつ)な存在(そんざい)です。

 障害(しょうがい)があるからといって誰(だれ)かに傷(きず)つけられたりすることは、あってはなりません。

 もし誰(だれ)かが「障害者(しょうがいしゃ)はいなくなればいい」なんて言(い)っても、私(わたし)たち家族(かぞく)は全力(ぜんりょく)でみなさんのことを守(まも)ります。

 ですから、安心(あんしん)して、堂々(どうどう)と生(い)きてください。

平成(へいせい)28年(ねん)7月(がつ)27日(にち)

 全国(ぜんこく)手(て)をつなぐ育成会連合会(いくせいかいれんごうかい)

会長(かいちょう) 久保厚子(くぼあつこ)


          
             ・・・・・


障がいのある方々が、この事件に、とても恐怖を感じておられると、はっきりと書かれています。

「ひどい事件だねえ」「恐ろしい世の中だ」という気持ちは強くても
その恐怖感は、社会一般には、なかなか伝わらないものではないでしょうか?


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荒俣宏氏「南アメリカと南太平洋」(1)・・住みにくい土地、死角としての太平洋

2017-01-21 | アフリカ・オセアニア



南アメリカの文明の起源を考えようと思い、「南海文明・グランドクルーズ・・南太平洋は古代史の謎を秘める」という荒俣宏氏・篠遠喜彦氏共著の本を読んでみました。

2001年に南アメリカの西部沿岸から東太平洋を横切るツアーで、インカ帝国、ガラパゴス諸島、イースター島を含む100日間の船旅に同乗されたお二人が乗客相手に講演会をした時の記録です。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

荒俣氏のお話の部分をご紹介します。


             *****


           (引用ここから)


太平洋と、南米の太平洋側についての、時間線を非常に遠くへと引いたお話になるかと思います。


南米大陸の太平洋側には非常に大きい山脈が3本、川の字のように縦に連なっていて、1番大きい山脈は、アンデス山脈です。

これは、ものすごく長く続いておりまして、先の方はさらに北アメリカの方までずうっと続き、非常に大きなアメリカ両大陸を繋ぐ「南北の背骨」のようなものです。


太平洋側は、平地が非常に狭くて、すぐに山になり、「背骨山脈」がいわば、西と東を分けているんです。

これが南米大陸の非常に大きな特徴です。



ブラジルの方は、非常に大きなアマゾン河があってジャングルになっておりますが、太平洋側は全く違う。

3つの大きな山脈はいずれも非常に標高が高く、6000メートル級、その一部は南半球で一番高い山々です。

しかも、ほとんど火山帯ですから、いつ火山の爆発が起きるかわからない。

現に噴火している火山もたくさんあります。

ということは、地震がやたらに多い。昔からたくさんの地震がありました。


どうしてこんなに火山があるのか?


まず、大西洋の地理的特徴は、この大きな海洋に、島がほとんどないことです。

太平洋には、ポリネシアとかミクロネシアとか、さまざまな島がありますが、大西洋にはほとんど島がない。

大西洋は、ちょうど真ん中がぱっくり二つに割れて、ものすごく深い海溝があるからです。

それが今現在も、どんどん割れている。非常に大きな力が加わっていって、割れている。

そして、その両側に向かって非常に大きなプレートが動いています。

それが、南米大陸を、東側・アマゾン河の方からどんどん押しているんですね。


押されるので、南米大陸は西側にずうっとしわ寄せができて、一番太平洋側に行くと山のようにふくれあがってしまうんです。


また、「地上絵」で有名なナスカ沖合の海底には、ひび割れのように、プレートが合わさったような部分があります。

私たちの日本は、太平洋の西側のプレートの上に乗っています。

ナスカ沖の海底は、アメリカのプレート、南太平洋の方のプレート、それから南極の方のプレートが全部つながって接し会っているのです。


それが東の方からずうっと押されると、どうなるか?

海中にある非常に大きな岩盤が、南米大陸の下に入り込みます。

上からどんどん押されますので、ぎゅーっという感じで中に入ります。

大きな力がまた、南米大陸に働いて、両方で押しくらまんじゅうをしている状態だと思えば間違いありません。


これがアンデス山脈ができた原因です。

南米大陸の太平洋側は、どんどんどんどん、毎日陸地が上昇しています。


アンデス山脈は、大きく分けると3つの線で分かれるんですが、一番太平洋側は「黒いコルデエラ」と言います。

「黒アンデス」、、黒い色をしている。

これはナスカの「地上絵」ができあがるメカニズムとも共通しているのですが、なにしろ太陽がギラギラ反射していますので、陸上の砂が化学反応をおこして、ほとんど黒くなっています。


アマゾン川にある山塊は、「白いコルデエラ」と言っています。

こんな赤道の真下なのに、非常に高い山がそびえて、雪が積もって、たくさんの氷河があります。だから「白」なんです。



真ん中にはたくさんの湖があります。

クスコ近くのチチカカ湖は、非常に有名ですね。

たくさんの湖の多くは、塩水なのです。

もともと海だったのが、200万年~300万年の間に隆起して、塩を含んだ湖となりました。

山と山の間ですから、水が入る余地がありません。

したがって太陽に照らされて干上がって、塩水の濃いものが出来上がりました。

岩塩など、さまざまな塩がとれる不思議な場所になっています。

リマの周辺あたりも、ちょっと山の方に行きますと、地面を掘れば海の中にいたはずの貝の化石が山のように出てきます。


また、こういう造山活動や地殻変動の非常に激しい場所ですから、鉱物がたくさん採れます。

火山性の場所で採れるのは、金であります。

金はだいたい銀といっしょに採れることが多いので、銀が非常に豊富な理由もこういう自然の力によるのですね。


太平洋側の海は、赤道の真下の熱帯であるにも関わらず、「フンボルト海流」という寒流が流れています。

太陽がギラギラ照っているにも関わらず、寒流が流れているので、海の中はものすごく冷たい。

海水温は、場合によっては10度くらいです。

下から上がってきた寒流と、空中の暖かい空気が接すると、海岸のあたりでは、そのなごりとしてたくさんの霧が発生しますが、内陸に入ると、もう霧もなく、完全に乾いた空気が陸上をずっと覆ってしまう。

ですから山の上もカラカラで、太平洋側もカラカラです。


ペルーという国は、半分は湿度90パーセントの熱帯であるにも関わらず、後の半分は湿度のほとんどないカラカラの状態になっているのです。

リマとかナスカあたりは、2年間に雨は10分から20分間降るだけ。

もう、降らない、と言ってもいいと思います。

こんな状態なんですが、不思議なことにナスカには水が出て、洪水になることもあります。

なぜならばアンデス山脈の上の方に降った雪が溶けるシーズンになると、水がどっと下へ流れてくるということです。


           (引用ここまで)

             *****


雪月花、山紫水明、白砂青松、春夏秋冬、目にわかば 山ホトトギス 初鰹。。

こういったしっとりとした日本の風土とはかけ離れた、峻厳過酷な南アメリカの風土の条件に、改めて畏怖の気持ちを感じます。

この、人をはばむ自然の中で営まれてきた、永劫とも言える人間の精神史がはらむ秘密の世界に、おののきを感じます。


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安積遊歩(あさかゆうほ)さんの、やまゆり園事件へのコメント・・怖い思いをしている、と伝えよう

2017-01-19 | 心身障がい


久しぶりになりますが、今日の夕刊に相模原やまゆり園事件の記事をみつけました。

          ・・・・・

「ひと」・奈良崎真弓さん 相模原事件を語る会を主宰する知的障害者」
                          朝日新聞2017・01・19

「私いま壊れそう」。

昨年7月に相模原市の施設で知的障害のある19人が刺殺された翌日、知人にそうメールを送った。

そして考えた。

「こんな事件が起こるのは、知的障害者は何もできないと思われているから。事件への思いを障害者本人の言葉で伝えたい」

4カ月後、9人の知的障害者らと語る会を開催。

封印していた悲しみや怒りがあふれ出た。

この活動を全国に、と計画する。

小学5年の時、算数の計算や漢字の勉強についていけなくなり、友だちからいじめを受けた。

孤独を忘れさせてくれたのは、次兄の勇さんと過ごす時間。

知的障害のある勇さんは、言葉の代わりに豊かな表情で語りかけてくれたが、4年後の秋、20歳で急逝した。

25歳の時、知的障害者の活動家ロバート・マーティンさんから

「障害者自身が声を上げ、物事を決めることが大事。真弓ならやれるよ」と言われた。

周囲から「明るさと行動力は天性のもの」と評される。

数カ月かけて地元の横浜市内に障害者らが集う「本人会」を立ち上げた。

花屋で働く傍ら、障害者自らの発信にこだわる。

「自分でやりたいことを選べて、困った時は『助けて』と言える社会はだれもが幸せなはず。障害のあるなしに関係なくお互いを知り、感じ合おうよ」。

将来は知的障害者への支援拠点「マミちゃんセンター」を作るのが夢だ。

             ・・・・・


次は、かつて見つけたあるブログの安積遊歩さんの「相談コーナー」の質疑応答を掲載させていただきます。

サイト名が分からなくなりましたので、あとで追記させていただきます。



安積遊歩さんは以前当ブログでもご紹介した、骨形成不全症で、障がい者問題に取り組む方です。

安積歩遊(あさかゆうほ)著「癒しのセクシートリップ・わたしは車いすの私が好き」
 
              ・・・・・

          (転載ここから)

●相談者の質問

相模原事件のあと、車いすを使っている自分のことを、「みんなも実は厄介者と見ているんじゃないか?」という疑念がとれなくなりました。

外出は好きなほうでしたが、街に出るのもこわくなりました。

これまでそんなふうに感じたことがなかったので、どうすればよいのかわかりません。

アドバイスがあればお願いします。(かもめ・22歳・学生)


この投稿に対して、安積遊歩さんは、以下のように答えています。

            ・・・

〇「こわい気持ちを人に伝えていきましょう」


私もまったく同じ気持ちになりました。

数日間ではありましたが、恐怖におそわれて過ごしました。


遺族への配慮を理由に被害者の名前が報道されなかったことも、非常な差別でした。

親は、考えに考えて子どもに名前を付けます。

名前とは、その人が何者であるかをもっともシンプルに伝えるものです。

名前を発表しないことによって、犠牲者ひとりひとりの大切ないのち、存在そのものに、思いをはせることができなくなります。

家族への配慮が理由として挙げられましたが、家族にとっても、「障がいを持つ家族」という存在が負担とされる社会だからです。

社会の大多数の人々が、障がい者には名前すら必要でない、という意見に賛同しているんだと私には受け取れます。


私たちの社会は、障がいを持つ仲間たちが、番号をふられてガス室に送られた、ナチス時代と同じようなものかもしれません。

当時のドイツでは、人種主義を背景に、優生学が権威を持つようになりました。

障がい者(こどもやユダヤ人も同様でした)の強制収容運動が広がり、ヒトラーの命令のもと、医者たちによって障がいを持つ人々が移送され、殺されました。

この犯罪がホロコースト(ユダヤ人の大量虐殺)につながるのは、多くの歴史書が語る通りです。

その背景には、「生きる価値のない人には安楽死という慈悲を」という、とても身勝手で傲慢な思想がありました。

報道される相模原事件の容疑者の言葉が事実なら、容疑者は、ヒトラーの、ひいてはナチス時代のドイツで受容されていた思想を模倣していると感じざるを得ません。


すぐに効く答えにたどりつくことは、できません。

ただ一つ言えるのは、〝私たちは驚愕し、大きな恐怖におそわれている″ことに、私たち自身が向き合い、可能な限り表現すること。

そして聞いてくれる人を見つけて、伝えていくこと。

私たちの恐怖心を、社会へ発信することが、必要だということです。

どんなに想像力があっても、当事者の話を聞くこと以上に、当事者の気持ちを共有することはできないものです。


まずは、「どんなにこわい思いをしているか」という自分の思いを言葉にしてください。

そして伝えられる限りの人に、繰り返し伝えていきましょう。

語り伝えることを重ねていれば、私たちはだれもが、自分の日々の暮らし、その積み重ねである人生を、かけがえのない勇気と使えるだけの情報を駆使して懸命に生きているという現実を、忘れないで過ごしていくことができます。


たとえば私は、この事件の数日後、バスに乗ろうとしました。

バスの車掌は「リフトがついていないので乗せられない」と言いました。

もし、事件の影響を受けて私の中の恐怖心が勝っていたなら、「もういいか」と、引き下がっていたかもしれません。

でも気づくと、「バスにリフトがついたのは、私たちがリフトのない時代から乗車を望み、交渉の努力をし、まわりの人の手を借りて乗り続けたから。

あなたが言ったような言葉に私たちがあきらめていたら、いま、路線バスの一台にもリフトはついていなかった。だからリフトのないバスにこそ、私は人の助けを得ながら乗る必要があるのです」と、交渉していました。

運転手に訴える自分の言葉を、半ば冷静に、でも充実感を持って聞きながら、やはり私はあきらめていないんだと気づきました。

周りの冷ややかな人のまなざしも感じました。

それでも、「次はリフトのあるバスにも予約がなければ乗せない」という車掌の言葉にさらに発憤して、その差別性を問いただしました。


状況は、たしかに過酷です。

過酷さは、20年前よりもある意味先鋭化しているかもしれません。

若い人たちが互いに分断され、孤立しているようすには、胸がいたみます。

でもそれと同時に、こうして呼びかける私たちの世代がいることも、事実です。


20年前は、同じような障がいを持っていてさえ、「人に迷惑をかけない生き方を選びなさい」と、年上の先輩たちから説教された時代でした。

障がいを持っていてもがまんしない生き方を選んだなら、同じ感性の仲間とつながることが重要です。

今は、私たちの世代にも自立運動を続けてきた仲間がいますし、若い仲間たちもたくさんいます。

そして、障がいを持たない若い人たちもまた、心のどこかで、仲間として呼びかけてもらうことを、待っているように私には見えます。


決してあきらめないで。

こわい、こわいと言いながらでいいから、外に出かけていきましょう。

〝こわいから外出しない″、という選択を終わりにしない限り、事件の容疑者のような考えに凝り固まっている人たちには、私たちの〝人間性″が見えないままになるでしょう。


分け隔てられることは、互いへの理解をはばむことです。

私たちは、障がいのある人と障がいのない人が、分けられ、隔離されることを止めようと運動してきました。

しかしその運動が充分に行き渡らないうちに、今回のような事件が起きたのは、本当に本当に残念です。

あきらめることなく、努力し続けていきましょう。

わがままだとか、手がかかるから付き合いたくないと言い合いができるくらいの、対等な関係を求め続けていきましょう。(遊歩)


           (引用ここまで)

         
            ・・・・・


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皆の上に神が降りて来る・・「神と人のはざまに生きる」(3)

2017-01-17 | 日本の不思議(現代)


現代の稲荷巫女・三井シゲノさんの聞き書き書、アンヌ・ブッシィさんの「神と人のはざまに生きる」の続きをご紹介させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


           *****

          (引用ここから)


シゲノに自分の後を継いでほしいという大叔母の期待は、しごくもっともなものであった。

というのも、シゲノには巫女の素質があると思われていたのに加えて、村にはあるしきたりがあり、それによれば、ある家に神がかりする者が出た場合、その血筋を引く者がその例にならってそうなるのが望ましいとされていたのである。

しかもたいていこの機能は一世代おいて、すなわち祖母から孫娘へと受け継がれるものなのである。

「稲荷のオダイ」の場合には、必ずいつか稲荷に憑かれる人が出ると信じられる決まりがあるゆえ、常に稲荷信仰は絶えることがない。

シゲノは「稲荷の神」や「白高(しらたか)」、その他の神々について、またそれらの神々の関係について語ってくれたが、稲荷信仰が農村にあまねく行き渡っており、その土壌からおびただしい数に上る「オダイの神々」が現れたのだ、ということがわかった。

             ・・・

シゲノは語った。


             ・・・

村人たちは続々と「お滝」にやって来ました。

皆さん「見えた」「見えた」と口々におっしゃりながら、その日も夜通し、あくる日も丸一日、村人たちは、私と一緒に残って、その間私はずっと「神さん」にお祈りと感謝の言葉を捧げておりました。

かつては神事というのは、夜に行うのが通例でありまして、午後10時か11時頃から皆さんばっさばっさとお出でになりました。

はじめて「神さん」がわが身に降りられるようになって以来、私は夫の元に帰らず、「お滝」の仮住まいに残っておりました。

しばらくたつと、昼間お暇な方々から、畑仕事で忙しい方々まで、皆さんいらっしゃって、私と一緒に「神さん」に祈りをあげるようになりました。

翌年「お滝」に住まうようになってから10か月ぶりに、私は家に帰りました。



夫が亡くなってからは、日々の仕事をし続けながら、「神さん」によりいっそうこの身を捧げるようになりました。

晩になって子供が寝付くと、家の中に設けた神殿の前へ行って何時間も過ごしておりましたし、暇さえあれば「お滝」へ行っておりました。


私は気がおかしくなった、との噂が流れました。

私が「神さん」にお祈りを捧げるときに、家に来る人たちがありましたが、私の言うことは決まって意味不明で誰にも分らず、またこの私もなに一つ覚えていないものだから、説明のしようもないのでした。

けれども皆が皆、噂を丸のみにしていたわけではありません。

どのようにして私が再び光を見出すようになったか、その経緯を目のあたりにした人たちの中には、変わらず私に会いに来る者がありました。

彼らのおかげで、私は「神さん」へお祈りしようとするたびに陥るあの状態が、何の役に立つのか分かったのです。

彼らは、私の口から出る言葉から、自分たちが一番知ろうとすること、彼らにとって死活に関わる問題を聞き取るのでした。

またこの手で撫でてやると、彼らの苦しみは和らぎ、彼らの病は癒えるのでした。

重病の場合には、どんな手当をすべきか、「神さん」が教えてくれました。

子供も大人も助かりました。


ところが、雲行きはあやしいものでした

と言いますのは、私が「白高(しらたか)さん」に祈り始めるや、私のみならず、私の周りにいるすべての人にも「神さん」が降りてくるのです。

当初はとりわけそのようなことがよく起こりましたが、ここ大阪へ移ってからも幾度もありました。

「白高(しらたか)さん」は、誰彼なしに降りてくるのでした。

ここにいる人が皆おかしくなるぐらい、地震のようなことを起こして、言葉には出ないけれど、一人残らず踊らせるのです。

いつもその場にいた40~50人のうち4、5人は、かっかと震えて踊り始めるのでした。

私もまた震えてじっとしておられず、家中グラグラ柱まで揺れて、茶碗なんかはどれもひっくり返る始末でした。


妙見さんを祀っている大和郡山のある老女を私は知っておりましたが、この方も「神さん」が降りると、手には御幣を持って、しゃがみこんだまま飛び上がることができました。

20才の頃私は、彼女が部屋中を飛び跳ねるのを、この目でしかと見たのです。

その場に居合わせた人々も飛び上がっていましたが、彼らも皆同時に「神さん」に乗り移られていたのでしょう。


ある日のこと、突然父がどならんばかりに「そんなことばかりして、おまえ、気でもふれたのか?

「神さん」とやらが誰かに降りるというなら、その誰かをはっきりしてもらい、そして言うべき教えは何であるかを明瞭にしてくださるよう、その「神さん」にお願いしたらどうだ?

それならおまえだて、「神さん」を呼び寄せる者たる資格もあろうが、おまえときたらどうだ?

まるきり「神さん」に乗っ取られて、他人まで巻き込んでいるじゃないか?

あの人たちに降りてきた「神さん」をいつでも落とせるとでも思っているのか?」と言うのです。


夫を亡くした私は、改めて父に従う身となっておりました。

父の怒りをかったのは、私が自分でも抑えきれない、ど外れた業に身をやつしていたことでした。

自分自身、「白高(しらたか)さん」のああして出てくる時の荒々しさを前にして、一度ならず恐れを抱いたものですが、もし父の怒りに際して、事の重大さを自覚していなかったら、きっと取返しのつかないことが起こるまであのまま続けていたことでしょう。


         (引用ここまで・写真(中)は三井シゲノ氏・本書より)

          *****

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たくさんあるのですが、風邪のため、後日リンクを付けます。

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ヒルコを祀る・・七福神の由来(1)

2017-01-11 | 日本の不思議(現代)
テレビを見ていましたら、神戸の西宮神社の「十日えびす」という行事が行われて、多くの人たちが競ってえびす神の祀られている神社内を走り、今年の一位の若者が選ばれた、という放送をしていました。

           ・・・

「福男へ5千人ダッシュ、一番福は大学生 兵庫・西宮神社」朝日新聞 2017年1月10日

 全国のえびす神社の総本社にあたる西宮神社(兵庫県西宮市)で10日、本殿への参拝一番乗りを目指す「福男選び」があった。十日えびすにあわせた恒例の神事で、午前6時の開門と同時に約5千人の参加者が約230メートルの参道を全力で駆け抜けた。

 序盤から先頭に躍り出て一番福を手にしたのは、岩手県出身で川崎市に住む専修大3年の鈴木隆司さん(21)。

中学時代に経験した東日本大震災を振り返り、「この福を親友たちがいる被災地に分けてあげたい」と話した。

 二番福は兵庫県三田市の消防士、渡部涼さん(24)。

祖母が西宮市で営むたこ焼き店の繁盛を願い、「ばあちゃん、これから忙しくなるで」と笑顔で一言。

三番福は県立西宮南高校1年の小野陽之さん(16)=西宮市。

一緒に訪れた陸上部の友達は事前のくじ引きではるか後方からのスタートとなったが、仲間の思いも背負って走り、好結果をもぎとった。

               ・・・

関西では、たいへん熱気を持って行われるというこの「えびす講」の行事に、心を奪われました。

えびす信仰の中心となるのは、神戸の西宮神社であるということです。

そこでは、イザナギ・イザナミが海に流した最初のこども「ヒルコ」が第一の祭神となっているということです。

              ・・・

「西宮神社」より

西宮神社(にしのみやじんじゃ)は、兵庫県西宮市にある神社である。

日本に約3500社ある、えびす神社の総本社(名称:「えびす宮総本社」)である。

地元では「西宮のえべっさん」と呼ばれる。

なお、戎信仰については、えびすを蛭子と同一視する説の他にもいくつかの説が存在する。

えびす大神(西宮大神・蛭児命) - 第一殿・主祭神。

天照大御神 - 第二殿

大国主大神 - 第二殿

須佐之男大神 - 第三殿


祭神の蛭児命は伊弉諾岐命と伊弉諾美命との間に生まれた最初の子である。

しかし不具であったため葦の舟に入れて流され、子の数には数えられなかった。

ここまでは記紀神話に書かれている内容であり、その後の蛭児命がどうなったかは書かれていない。

当社の社伝では、蛭児命は西宮に漂着し、「夷三郎殿」と称されて海を司る神として祀られたという。

           ・・・

wikipedia「えびす講・十日えびす」

西宮神社(西宮市)

鎌倉時代の正元年間(1259年-1260年)にはすでに十日えびす祭の潔斎として忌籠祭(いごもりさい)がこの神社で行われていた。

忌籠祭とは戸締まりし静寂を守り灯火も消し、籠もって夜明けを待つ神事。

室町時代の『重編応仁記』によれば、中世の西宮市中の家々でも1月9日の夕方から忌籠祭がおこなわれていた。

門松でえびす神が怪我をしないようにと、戦前まで「逆さ門松」の風習が残っていた。

現在では禁忌の明けた10日午前6時に正門が開けられ、最初の参拝を競って約200メートルの参道を競走する開門神事福男選びが行われる。

また、招福マグロを奉納するのが恒例となっている。

                 ・・・




昨年末は、障がい者は福の神でもある、という日本の思想をご紹介していましたが、その「七福神」について詳しく述べてある岩井宏實氏著「妖怪と絵馬と七福神」という本を読んでみました。

今まで当ブログで取り上げてきた、さまざまな日本の思想の中に見え隠れする、渡来文化と日本文化のパラドックスが思い返されました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


        *****


       (引用ここから)

「七福神」の来歴

恵比須、大黒天の出現


恵比須と大黒天は「福の神」の代表的存在であるが、ともに平安時代末期にその信仰が広まった。

「恵比須」の名は、「外国人」を意味する「エビス」の言葉と別のものではなく、本来は、〝郷から来臨して人々に幸福をもたらす″と信じられた神であった。

いわゆる「寄り神」、「客神(まろうどがみ)」の信仰に根差す神である。

この「エビス」が「夷(えびす)神」として摂津西宮に祀られ、それがさかんに世間の信仰を得て、各地の神社に勧請されたのは、平安時代末期のことである。

1163年に奈良・東大寺に「江比寿神(えびすがみ)」が祀られ、1168年に厳島神社にも「江美須神」が祀られている。

1253年には鎌倉鶴岡八幡神社境内に「江美須神」が祀られ、さらに1303年には奈良に市神として「夷神」を祀り、1359年にも大和常楽寺の市に「夷社」を祀っている。


なお、「夷神」が西宮に祀られる際、広田神社の摂社として祀られたが、そこには「三郎殿」と称する不動明王、「百太夫」と称する文殊や、南宮(阿弥陀)、児宮(地蔵)、一竜(普賢)、内王子(観音)、松原(大日)が祀られていて、

それらを合わせて、北方の広田神社に対して、「南社」、「南宮」などと呼ばれていた。


そうした中で、「夷(えびす)社」が、時勢によって中心になり、これを合霊して各地で祀る場合、〝夷と三郎殿″、あるいは〝夷と百太郎″を並べて祀ることが少なくなく、

そうしたところからいつのほどからか、〝夷三郎″殿、また〝夷百太郎″と、一つの神として混同してしまうようになった。


「大黒天」はもともとインドの「魔訶加羅」という天界に住む荒々しい神で、三面六臂の憤怒の形相をした恐ろしい戦闘神であった。

ところがその神が中国に伝えられると、唐代には寺院の食堂を守護する神に変化し、形相も一面二臂(ひ)の柔和な姿になった。

その信仰が我が国にもたらされると、まず比叡山に「大黒天」が祀られ、延暦寺の食堂の守護神とされ、天台宗の広まりとともに各寺院の食堂の神として祀られ、さらに民間に広がって〝台所の神″として信仰されるようになった。


民間への浸透には、「大国主命」との集合が大きな意味を持った。

これは「大国」と「大黒」の類似もあるが、天台・真言の両密教がそれを推し進めたのであった。

比叡山の大地主神は、大物主神すなわち「大国主命」であるため、この大地主神は「大黒天」の化現した神だ、という考えによるものであった。


「七福神」の成立

室町末期にいたって、「恵比須」、「大黒天」を中心としていわゆる「七福神」が成立する。

その「七福神」とは、恵比須、大黒天、弁財天、毘沙門天、布袋和尚、福禄寿、寿老人である。

だが、はじめから七福神としてまとまったのではなく、ときには六神であったり、八神であったりしたのであるが、

「仁王護国般若波羅蜜教」受持品の、「般若波羅蜜を講じ、読経すれば、七難、すなわち滅し、七福すなわち生じ、万姓は安楽にして、帝王は歓喜す」という、七難七福という仏教の文句から七福にしたのであった。


室町時代には、類を持って集めて、名数的に物を数えることが大流行したが、なかでも七という数はとくに歓迎されていた。

のちにこの「七福」は、天海僧正によって、寿命、有福、人望、清廉、愛敬、威光、大量の七つであるとされている。

恵比須は広田神社の摂社として祀られたのであったが、次第に本社より摂社の恵比須すなわち西宮の方が名高くなり、室町時代には西宮恵比須が、本社たる広田の名を覆い隠してしまうほどにもなった。


こうした「恵比須信仰」の普及には、西宮戒の神人の活躍があった。

彼らは「戒まわし」といって、傀儡(くぐつ)舞の芸能を携えて各地を漂泊し、恵比須の生い立ちをのべて、舞を舞って恵比須信仰を持ち歩いた。

この恵比須舞が日本の操り人形、人形芝居の源流となったのである。

「大黒天」の信仰は「鹿塚物語」によると、1530年~1570年のころ急速に民間に広まったと言われるが、そのときすでに大黒天は温和な、むしろ滑稽な神となり、俵をふまえて打ち出の小づちを持った姿に固定されていた。

そして、「恵比須」とともに台所の戸棚や柱に取り付けた棚の上に祀られ、主婦がそれを司祭するようになった。

僧侶の妻を梵妻と言うが、梵妻を「大黒」と呼ぶようになったのも室町時代のことである。



           (引用ここまで)

         
            *****

イザナギ、イザナミのすぐ横には、アマテラス、スサノオと共に、ヒルコも祀られている、という日本の思想は、非常に興味深く思われます。


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今日はちょっと風邪気味なので、リンクは後日張ります。

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謹賀新年・・眞子さま、パラグアイを訪問・豆腐100万丁の大豆に返礼

2017-01-05 | 心理学と日々の想い



明けまして おめでとうございます。

わたしの住むあたりでは、ここ数日はとても穏やかで、ありがたいことだと思います。

上の写真は、隅田川あたりの梅とカモメの新春風景です。


昨夜、テレビを消そうとしてテレビに近づいたら、NHKで面白い番組をやっていたので、思わず座り込んでメモをとりながら1時間見てしまいました。

「NHK BS1スペシャル「欲望の資本主義 2017・ルールが変わる時」午後9時~110分間

トランプ氏の登場、イギリスのEU離脱、欧米のポピュリズムの台頭、難民問題、世界経済の停滞、人口減少、もろもろの未解決の問題があるが、世界経済の行方は心理学に関わっている、という経済学者の言葉が印象的でした。

トランプ氏のような、あまり政治家らしくない言葉遣いをする人が世界のトップに立つことになることは、これからの世界に、彼が発するような、何とも言えない、非論理的な、人心を逆なでする言葉が行き交うことなるであろうと思われてなりません。

それは、きっとあらゆる人間の心の中の何か、、おそらく心のタガとでも言うようなものが、大規模に外れる事態の引き金になりうるのではないだろうか、と思われてなりません。

いわば、経済という蓑をかぶった心理学的な巨大なエネルギーが、大手をふるってうごめくのではないかと思うのです。

NHKの番組では、そういう問題を歴史学的に遡ろうとしていたように思いましたが、「よくわからない、未曽有の現象だ」と述べるにとどめていました。


番組では、資本主義経済が世界経済の規範となったのが、18世紀のアダム・スミスの「国富論」の登場からであった、と述べていました。

しかし番組では同時に、アダム・スミスは「国富論」を著すよりも前に「人間感情論」という著書を著しており、そこでアダム・スミスは「人間の原理は、個人の利益の追求以前に、他者への共感という特筆すべき性質を有している」と述べている、と解説していたのでした。

わたしはそのことに、たいへん興味をそそられたのでした。


わたしの趣味である新聞切り抜きのストックに、下の記事がありました。

下の記事を見つけた時、わたしは、「利益ではなくて、利益への返礼のリストで世界を見ることができないだろうか?」と思って、切り抜いていたのでした。

たとえば、東日本大震災の時に、世界中で最もたくさんの義援金を送ってくださったのは、台湾でした。

資産の多寡のリストや貿易量の多寡のリストではなくて、むしろそれらとは逆向きのベクトルを持つ、こういうランキングで世界を見ることは、世界の見方を変えるだろうと思うのです。


憎悪からは、憎悪しか生まれないでしょう。

人は、共感し合い、感謝し合う時、心を開き、心を結んでゆくものではないでしょうか?


              ・・・・・



「皇室ダイアリー 「眞子さま 南米一の親日国 訪問」」
             読売新聞2016・10・16


秋篠宮家の長女・眞子さまが先月、11日間の日程で訪問されたパラグアイは、「南米随一の親日国」と言われる。

同国に移住して80年を迎えた日本人やその子孫が、海もなく資源も乏しい小さな国の発展に、大きく貢献したからだ。

日本人移住者は原生林を切り開き、耕作地を広げていった。

やがて大豆の生産技術を確立し、パラグアイを世界有数の大豆輸出国に押し上げた。

野菜の栽培も普及させ、現地の食文化も豊かにした。

眞子さまは、首都アスンシオンで日本人移住80周年の記念式典に臨み、東日本大震災の時、同国から豆腐100万丁分の大豆が届いたことや、同国議会が今年5月、日本人移住80周年の記念式典を開いたことに触れ、謝意を伝えられた。



巡られた移住地では、赤飯や煮物、冷ややっこなどの日本料理でもてなされた。

「お体を大切に」と眞子さまから声をかけられた1世の老人が、涙する場面もあったという。

眞子さまは帰国後に発表した感想で、「困難を乗り越えてきた1世たちが、穏やかな表情でいまの暮らしに感謝している姿が印象的だった」、とつづられた。

パラグアイには、38年前に天皇・皇后両陛下、10年前に秋篠宮さまも訪問されている。

眞子さまが続かれたことで、天皇家3代が訪れた初めての国になった。

           ・・・・・

今年もどうぞよろしくお願いいたします。



wikipedia「アダム・スミス」

wikipedia「アダム・スミス「道徳情操論(道徳感情論)」

wikipedia「ポピュリズム」



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