始まりに向かって

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東アジアの平和共同体作りを・・ 韓国元外交官・長崎県立大学名誉教授の徐賢燮さん

2016-03-17 | アジア



ずいぶん前の新聞記事ですが、読み返すと味があり、やはり投稿したくなりました。


              ・・・・・


「隣国を見直す・・ 韓国元外交官・長崎県立大学名誉教授の徐賢燮さん」
                                 朝日新聞2015・04・08


17世紀に活躍した日本人を「外交の先達」と仰ぐ韓国の元外交官。

徐賢燮さんはそんな人だ。

日本側からすれば、時に感情的に見え、理解することが難しい韓国の日本への対応。その底にある社会心理や歴史に根ざす感情をざっくばらんに聞いた。

徐さんは「韓国を見る目に曇りはないですか」と、日本にも問いかける。


○現役外交官だった約20年前、「日本に学ぶべき点はたくさんある」と訴える本をあなたは書きましたね?

●「もう日本に学ぶことなどない」と断じた本が韓国で爆発的に売れた時代でしたが。

 ベストセラーになった日本批判本は感情的、短絡的でした。

日本の一部を全体のように分析して、些末なことを重大事のように書いていた。

韓国の日本専門家が反論を書くだろうと思っていたが、動きがない。

私は大使の拝命を待つ身だったのですが、誤った日本観をたださねばならないと考えて書き始めたのです。

「頼むからやめて」と妻に泣きつかれましたが。。


○ボコボコになりましたか?

●外交官が親日的な本を書くことで強い批判が巻き起こるだろうと、クビを覚悟していましたが、保守系メディアも意外に好意的に取り上げ、財閥のサムスンは講演を要請してきました。

韓国に厳しいことも言ったけれど、根拠がしっかりしていたからでしょう。


○日本人の探求心やきちょうめんさを冷静な筆致でまとめた、という印象でしたね?

外交官としては約10年、日本に滞在しましたが、そもそも日本に関心をもったきっかけは?

●私は韓国の田舎生まれです。

父は朝鮮戦争で戦死し、極貧の中で育ちました。

何とか入った中学に日本の明治大学で学んだ先生がいて、こう言いました。

「東京の神保町には古本屋が何百も軒を連ね、ありとあらゆる本が手に入る」。

いつか神保町に行きたい、と夢見るようになったのです。

苦学の末、外交官になり、東京勤務を命じられたことには運命的なものを感じます。

東京で仕事をしながら、日本の本を最も多く持っている韓国外交官になろう、と決心して、週末には神保町に足を運びました。

毎月給料の4分の1を書籍代にあてたから、妻はしかめっ面をしていましたけれど。

そんな日々の中で、江戸時代の中期、対馬藩に仕えた儒学者、雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)のことを知ったのです。


○対馬藩は、当時の朝鮮との交流の窓口でしたね?

●芳洲は秀吉の朝鮮侵略を批判し、朝鮮からの外交使節団だった通信使の受け入れに力を尽くしました。

朝鮮語の方言も話せ、対朝鮮外交の実務を担った。

そして唱えたのが「互いに欺かず、争わず、真実をもって交わる」という「誠信の交わり」。

これこそが隣国同士の日韓外交の基本にあるべきで、それは20世紀の今も変わらない。

私はそう考えました。
    

○日韓関係の現状は「誠信」どころじゃない感じですが?

●隣国をありのままに見ようとしなくなってきたという意味で、数年前からは日韓双方で「日本は韓国化してきた」との指摘が出ています。

「韓国を見下して自国を立派だと礼賛する空気が目立つ日本をみると、「韓国化している」と私も思います。

もっと言うと、明らかな劣化ですね。

かつての韓国のあれだけの逆風の中で私が評価した、あの日本と同じ国なのかと、がっかりすることがあります。

韓国での不祥事や一部の反日的な言動などをとらまえて、さも韓国全体の問題と批判している。

日韓双方とも、こんなに近い距離なのに、互いに相手のことをまだまだ理解していないことが最大の問題です。


○なぜでしょうか?

●韓国側について言えば、根深い歴史的な感情をまだ払拭できないことが目を曇らせています。

朴槿恵(パククネ)大統領は「加害者と被害者という立場は千年たっても変わらない」と語っています。

あれは言い過ぎですが、たとえば西欧列強は、同じ文化圏の隣国を植民地にはしなかった。


○なるほど。。

●まして韓国人は、「日本に文化を伝えたのは我々の先祖」と考えているだけに、今も非常に悔しい思いをしています。

だから日本の実力を評価したがらない。

好きか嫌いかではなく、必要かどうかで見るべきなのに、それができない。

隣国同士とは往々にしてそんなものですが、韓国のその傾向は世界でも際立って高いでしょう。

かつては日本のことを〝野蛮″とか〝小さい″という意味で「倭(ウェ)」だと言った。

実際の日本は野蛮でも小さくもない。

韓国の学校の教科書には今も、鎖国時代の日本文化の大半は「朝鮮通信使」が持ち込んだというような記述があります。

実際は、長崎の出島で西欧の文化や情報を得ていましたね?


○むしろ近い国同士の方が、歴史の事実や実像を見つめることは難しいかもしれませんね?

●メディアの責任も大きいでしょう。

自国が絡む紛争については、冷静さを呼びかけるのが役割のはずのメディアが、プレーヤーになっています。

日本も余裕がなくなりつつありますが、韓国メディアにはもっと多様さや余裕を認める度量がほしい。

たとえば独島(竹島)の領有権について、日本では国立大学の教授でも、政府の主張を堂々と批判する人がいましたね。

でも韓国で政府批判をしたら大変なことになる。

「互いを無視すること」、「疑うこと」、さらに「嫌うこと」。

これらの3要素を除去することが、韓日関係におけるメディアの役割のはずなのに、現状は、逆に憎悪を駆り立ててしまっています。

昨年春まで長崎県立大学で教えていて、毎年学生を韓国に連れて行きました。

多くの親や学生から「あの国は怖いのではないか?」という声が出ましたが、毎回、みんな韓国を好きになり、最後は日韓双方の若者同士、涙なみだのお別れとなった。

こんな交流がある実情を、「反日」「嫌韓」をあおる双方のメディアは、どう説明するのでしょうか?
    

○政治について聞きましょう。

日韓の政治の関係は深い泥沼に落ちてしまったようですね?

●異常です。

トップの考え方が最大の要因でしょう。

朴大統領の父は朴正熙(パクチョンヒ)元大統領。

安倍晋三首相の祖父は岸信介元首相。

いずれも日韓国交正常化に貢献した政治家ですが、それぞれ国内で良かった点とそうでなかった点が指摘されている。

現在の両首脳が本当に国のことを考えるなら、父や祖父の呪縛から解かれるべき時です。


○どんな呪縛ですか?

●朴正熙氏は著書で、日本の明治維新が韓国立て直しの大きな参考になると記しました。

骨の髄まで日本をうらやんでいた、などと言われることが、韓国では売国奴を意味する「親日派」批判に転じかねず、「その娘だから」と言われないよう、言動には慎重にならざるをえない。

一方の安倍首相は国家主義者の様相が濃かった岸氏を非常に尊敬しているようですが、父方の祖父、安倍寛氏の考えもぜひ取り入れてほしい。

戦時中、軍部に反抗した気骨ある政治家でした。
    

○具体的にはリーダーにどんな行動を期待しますか?

●中曽根康弘氏と全斗煥(チョンドゥファン)氏、金大中(キムデジュン)氏と小渕恵三氏といった先人の知恵に学ぶべきです。

お互いに信頼をどうやって構築していったのか?

日本では10年ほど前、韓流で『ヨン様』ブームが起きましたね?

日韓がお互いの大衆文化を楽しむ、あの流れをつくったのは金大中氏でした。

98年、韓国国内の強い反対を押し切って日本の大衆文化を開放したのです。

「戦後政治の総決算」を掲げた中曽根さんだって、首相就任後間もなく韓国に来て、わざわざ韓国語の歌をうたって全斗煥氏と信頼関係を築いた。

あっぱれな姿だと、外交官として私は感じ入ったものでした。

要は、政治家として勇気を出せるかどうかなのです。

まずは双方で「慰安婦問題」を決着させることが必要です。

ハーバード大学のマイケル・サンデル教授が、日本は戦争中の残虐行為への謝罪に及び腰だと書いていますが、それが国際社会の視点です。

これは歴史的に積み残された女性の人権問題と考えるべきで、その解決を先送りすればするほど不利になるのは日本ですよ。

そして、中国を加えた東アジアの平和共同体づくりを、私たちはあきらめてはいけないと思います。

世界第2、第3の経済大国がある東アジアで、こんなに大きな政治的緊張が生じている矛盾を、少しでも解決するためにどうするか?

それは政治家だけではなく、いまを生きる両国の国民一人ひとりが考えねばならない課題でしょう。
    
               ・・・

ソヒョンソプ 1944年生まれ。日本勤務のほか駐ローマ法王庁大使などを務め、2004年に外交通商省を退官。
日本語による著書に「日韓曇りのち晴れ」など。

取材を終えて

「×韓」「△日」といったひとつの型にはめようとする見方は、必ずしも現実を反映していない。
私のこんな見方に徐さんも同感のようだ。
徐さんは、1万円札に「脱亜論」の福沢諭吉ではなく、「誠信外交」の雨森芳洲が掲げられる日を夢見る。
私はやや懐疑的だが、徐さんが魅力に挙げた、日本の懐の深さが復活することを願う。


              ・・・・・

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「日本書紀」に記されている北海道の民は擦文文化の人々だった・・アイヌと日本(6)

2016-03-12 | アイヌ



佐々木馨氏の「アイヌと「日本」」を読んでみました。

語彙がたくさんあるので、ウィキペディアで整理をしています。

次はwikipedia「擦文文化」です。

 
              *****

           (引用ここから)


「擦文時代」より

擦文時代(さつもんじだい)とは、7世紀ごろから13世紀(飛鳥時代から鎌倉時代後半)にかけて北海道を中心とする地域で擦文文化が栄えた時期である。

本州の土師器の影響を受けた擦文式土器を特徴とする。

後に土器は衰退し、煮炊きにも鉄器を用いるアイヌ文化にとってかわられた。(詳細は「蝦夷#えみし」の項を参照)

この時代、9世紀(平安時代前期)までは擦文文化と並行してこれとは異質なオホーツク文化が北海道北部から東部のオホーツク海沿岸に広がっており、その後13世紀(鎌倉時代後期)まではその系譜を継ぐトビニタイ文化が北海道東部にあって、擦文文化と隣り合っていた。

トビニタイ文化はオホーツク文化に擦文文化が取り入れられたものだが、後期には擦文文化との違いが小さくなった。そこで、トビニタイ文化を擦文文化に含める考えがある。


時代と分布

擦文式土器の使用の始まりは6世紀後葉から7世紀はじめ(飛鳥時代に相当)にあり、ここから擦文時代が始まる。

前代の続縄文時代には、土器に縄目の模様が付けられたが、擦文時代には表面に刷毛目が付けられた。

これは土器の表面を整えるため木のへらで擦ってつけたものと考えられており、これが擦文の名の由来である。

この土器の表面調整技法は同時期の本州の土師器にも使用されており、この点にも土師器からの強い影響が窺える。

土器型式では北大II式までは続縄文土器であり北大III式から擦文土器に含まれる。

擦文土器は、

前代の続縄文土器の影響が残る時期のもの(6 - 7世紀、飛鳥時代)
土師器の影響を最も強く受け東北地方の土師器に酷似する時期のもの(7世紀後半 - 8世紀、奈良時代ころ)
擦文文化独特の土器に刻目状の文様が付けられる時期(9世紀、平安時代前期以降)

のものに大別される。

独特の刻目状の文様の土器を狭義の擦文土器とする研究者も存在する。


擦文文化からアイヌ文化への移行についてははっきりしたことがわかっていない。

これは、確認された遺跡の数の少なさのせいでもあるが、土器が消滅して編年が困難になったせいでもある。

11世紀から13世紀(平安時代後期から鎌倉時代後半)に終末を迎えたようである。

分布は現在の北海道を中心とする地域であるが、10世紀から11世紀にかけて(平安時代中期)青森県地方を中心とする北緯40度以北に擦文文化圏が広がったとする見解が複数の研究者から指摘されている。



生活

擦文時代の集落は、狩猟や採集(狩猟採集社会)に適した住居を構え方をしていた。

たとえば、秋から冬にかけてサケ、マスなどの獲物をとる時期には、常呂川や天塩川などの河口の丘陵上に竪穴住居の大集落、つまり本村を構え、他の時期には、狩猟などを営む分村を川の中流より奥に集落を作ったと考えられている。

擦文文化の人々は、河川での漁労を主に、狩猟と麦、粟、キビ、ソバ、ヒエ、緑豆などの栽培植物の雑穀農耕から食料を得ていた。

わずかだが米も検出されており、本州との交易によって得ていたと考えられる。

擦文時代には鉄器が普及して、しだいに石器が作られなくなった。

普及した鉄器は刀子(ナイフ)で、木器などを作る加工の道具として用いられたと考えられている。

他に斧、刀、装身具、鏃、釣り針、裁縫用の針など様々な鉄製品が用いられた。

銅の鏡や中国の銅銭も見つかっている。


これら金属器は主に本州との交易で入手したが、北方経由で大陸から入ってきたものもあった。

製鉄は行わなかったと見られるが、鉄の加工(鍛冶)の跡が検出されている。

また青森県五所川原窯で作られた須恵器が、北海道各地から出土している。

擦文文化の人々は方形の竪穴式住居に住み、川のそばに大小の集落を作って暮らしていた。

前代の続縄文時代後半の住居は検出された例が極めて少なく、実態は不明である。

擦文文化から本州の人々と同じくカマドが据えられるようになった。


伸展葬の土坑墓が一般的な埋葬形態である。

8世紀後半から9世紀(奈良時代から平安時代前期)には、北海道式古墳と呼ばれる小型の墳丘墓が石狩低地帯(石狩平野西部と勇払平野)に作られた。

東北地方北部の終末期古墳と類似しており、東北地方北部との多様な交流関係が窺える。

一方で10世紀半ばから12世紀はじめ(平安時代中期から平安時代後期)にかけて、北東北地方から樺太にかけて環濠集落・高地性集落が多数見られることから、

これを防御性集落とし、「蝦夷(えみし)」から「蝦夷(えぞ)」への転換時期とする見解が出されている。


文献史料

北海道の擦文時代は、道外の飛鳥時代から鎌倉時代後期にかけての時期に相当する。

『日本書紀』にある7世紀後半(飛鳥時代)の阿倍比羅夫の航海をはじめとして、六国史には渡島(わたりしま)の蝦夷(えみし)との交渉記事が多数ある。

渡島の所在をめぐってはこれまで諸説あったが、近年では北海道とみなしてよいとする意見が多い。

もしその通りだとすると、渡島蝦夷は擦文文化の人々ということになる。


          (引用ここまで)

     
            (写真(下)はわたしがイベントで作った鹿笛です)


         *****


前に、東北地方のマタギの狩猟について調べていた時に、マタギの熊狩りは、アイヌよりも古い伝統をもつ
、と書かれていたことに驚いたことを思い出します。

「先住民族アイヌ」ということばも、軽々には使えない、ということだけは、たしかだと思います。

それは、わたしたち一人ひとりの中には、自分が思っているよりはるかに深い、古代の血が息づいているのではないか、という思いにもつながります。



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アイヌの葬式・火の神に旅立ちを依頼する・・アイヌと「日本」(5)

2016-03-06 | アイヌ


佐々木響氏著「アイヌと「日本」」のご紹介を続けます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


               *****

             (引用ここから)


アイヌ民族の、和人とは決定的に違う「死霊」観を伝える文献資料がある。

アイヌ民族は、長い現代までの歴史の中で、言語や教育の領域で屈辱的にも和人としての立場を余儀なくされてきた。

だがこと宗教観だけは、キリスト教のアイヌ民族への伝道・布教などが近代の中であったにも関わらず、辛うじて民族的伝統を保持し続けてきた唯一の領域である。

例えば板倉源次郎の元文4年(1739)の「北方随筆」は、アイヌの死霊観をこう伝えている。

            ・・・

医業なきゆへ、疱瘡、麻疹、時疫病にて死亡の者多きゆへ、病を恐れ、死を忌事はなはだしく、病死あれば、父子兄弟といえども、捨て置いて、山中へ入り、死して後帰る。

死者の取り置きは、新しきアツシを着せ、新しきムシロに包み、山中へ送り、秘蔵せし物ども不残、ともに埋めて、家は焼き捨て、また改めて作りて居せり。ゆえに、壮年なれども死の用意はあらかじめ心がけおき、となり。

死者の妻はかぶりものをして、面を表わさざる事3年。

また再び嫁せず、もって女の心真実にして、嫉妬の念なく、夫に従う道、はなはだもって慎みあり。

                 ・・・


「アイヌ」民族は、極端に病気を恐れ、死を極度に忌み嫌った。

肉親といえども病を得れば山中に運び、死して後も山中に送る。

死者の出た家は、家屋を焼き捨て、改めて作り替えるという。




このアイヌに固有な生死・葬送観がいつの時点で成立したかは不明であるが、民族の発生する擦文期(8世紀~13世紀)まで、その原型は遡上されるに相違ない。

このアイヌの伝統的な生死・葬送観の原型が、日本的なそれとの文化接触を通して、徐々に独自の民族の
心、民族の霊魂観として体系化されていったのではあるまいか?


「アイヌ」の暮らしと心を再現しながら克明に綴られた、萱野茂氏の「アイヌ歳時記」を引いてみたい。

              ・・・

アイヌは今ここで死んだとしても、神の国、つまりこの大地の裏側に、こことまったく同じ土地があり、そこには先に死んでいった先祖たちが待っていると信じていた。

したがって「引導渡し」の時、たくさんのおみやげをもって神の国で待っている先祖たちのところへ行くようにすれば、先祖たちがあなたを快く迎えてくれるだろう、という意味の言葉がある。

神の国への先導役は送りの墓標で、その墓標の先端には、火の神様の分身とされている「消し炭」が塗られている。

「消し炭」は光を発すると考えられていて、死者は墓標の先の光で足元が照らされ、迷うことなく先祖の待っている神の国へ到着する。

すると神の国の者たちは、墓標の先に巻いてある四つ編みの紐を見て、身内であるか否かを識別して迎えるのである。

          ・・・

アイヌの葬送は、どのように行われたのだろうか?

萱野氏は昭和10年代の実例を回想されながら、次のように復元されている。

          ・・・

「引導渡し」

アイヌの葬式を主催するのは、「引導渡し」という近所の男性である。

葬式に必要な墓標を責任持って作った導師は、死体を前に、火の神への報告を兼ねて、自らの導師としての認知を求めて、静かな口調で次のように言う。


墓標を家の中へ 火の神のそばで

国土を司る神 

涙を持つ神 尊い御心に 遠慮をしようと  わたしは思って いるけれど

今日のこの日 先祖の風習 涙のしぐさで あるがゆえに いたらぬわたしだが お互いを大切にする 

それゆえに 祖父が作った墓標 

と言いましても 外の祭壇 祭壇のところに鎮座した神 樹木の神 神の勇者 霊力のある神を 私どもは
頼み 

樹木の神 その神々が 霊峰に  山懐に 大勢いるが 

その中でも  雄弁と 度胸と 薫りとともに 信頼され 授けられた神 えんじゅの木の神 神の勇者を

私どもは 信頼して これこのように 

先祖の墓標と 申しましても わたしどもアイヌ 人間自身が つくったものは 一つもない 

これこのものは アイヌの先祖 オキクルミ神が教えてくれた 

その手の跡を まったく同じに つくった墓標が この墓標だ 

墓標の上端に 火の神様 その印を 塗ってあり 墓標の下端に 祖母の印を 巻きつけた

それと一緒に 墓標の表面 名前も合わせて 書いてある 

立派な墓標 この墓標は 頼んだ神と まったく同じに 鎮座させた 

これこのものは 言うまでもないが ニスクレククルに 授けたのだ 

ここまでは わたしどもの 仕事であったが 

これから先は 火の神様が 墓標の神に 言い聞かされ 

それといっしょに 亡くなった 私の兄にも いってほしい とわたしは思い

遠慮とともに 尊い御心に 私の希望を 申し述べた

              ・・・
 
こう報告した後、今度は、

「墓標を作った当日、亡くなった本人に、立派な送りの神、墓標を作った報告」をする。

そしていよいよ葬式の当日、「火の神へ、死者が無事に先祖のところへ行かれるように、教えてやってほしい」と言う。

と同時に、死者に対して、火の神の言う話をよく聞き、先祖のところへ行くよう、導きつつ

この火の神への報告や依頼、そして死者への諭しは、実にていねいで細やかなものである。

最後の死者への諭しであり、送別の言葉として、こう語られるという。

              ・・・

今日のこの日が 

よい日として 選び恵まれ 

これこの通りに あなたの出発 

神の国へ 先祖の国へ 

行かれることに なっているが 

良い土産を 土産をたくさん お持ちになり 

さあ早く 先に行った あなたの妻 あなたの子供 

そこへ行くぞと そればかりを念頭に置かれ 

自分自身の 心を落ち着け 

あってはならないこと 化けて出るとかという話だ 

そこでわたしの兄上よ 

いつものことだが 首領であったあなたゆえに 

火の神さまの言う言葉に 耳を傾け 

送りの神 送りの墓標や もろもろの神とともに 

たくさんの人たちが あなたの出発を 見送るために ここへきて 見守っているよ。

                 ・・・

菅野氏は、紋別村山紋別の叔父が昭和6年に亡くなった時の記憶として、次のように回想されている。

                 ・・・

当時の二風谷村の棺桶は、板で作った寝棺であったのに、山紋別ではアイヌ風の葬式で、ござで包んだ遺体の二か所に縄を付けて、棒を通し、二人で担ぐ。

担がれた遺体の、前の方は揺れないが、足のほうは何となくぶらんぶらんと揺れるのを見て、その揺れ方が恐ろしくて忘れられない。

本物を見たのは、最初で最後であった。

ござで包んだ遺体を恐ろしいと思ったもう一つの理由は、昔話の中で、死んだ妻がござに包まれた遺体のままで、生きている夫のところへ来た話を聞いていたからである。

この葬式のことを「山へ掃き出す」と言って、アイヌは埋葬した場所には亡骸だけが残り、魂そのものは、先祖の国へ行っているものと信じていた。

従って、墓参という風習は日本人が来て、日本風の葬式をするようになってからのことである。



        (引用ここまで)

 ☆写真(下)は、過日東京で行われたカムイノミの準備の途中の情景を私が撮影したものです。本文とは関係ありません。


          *****


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和人との接触は、アイヌの独自性の一要素・・アイヌと「日本」(4)

2016-03-03 | アイヌ



「アイヌと「日本」」というテーマを追った記事の投稿が10月から滞っていました。

まだ、続きがあります。。


佐々木馨氏著「アイヌと「日本」――民族と宗教の北方史」という本のご紹介を続けます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

筆者は、アイヌ独自の文化が形成されるにあたり、和人の文化がある程度、相対的に関与していたのではないか?という問いを立てて考察しています。


           *****

        (引用ここから)


           ・・・

●器物の多きをみやびなりと、日本の器、たらい、湯桶、盃台のたぐい、すべて金蒔絵を付きたるをよろこぶなり「蝦夷草子」

●宝物とて、それぞれ秘蔵のものあり。

その物は、本邦の古き器もの、つば、目貫、小柄の類なり。

蒔絵物は古きもの、とりわけ秘蔵せり「北海随筆」


            ・・・

というように、和人との交換・交易でもたらされた刀剣類や漆器類を、宝物として珍重していた。

それと同時に、そうした本州からの移入品を、
 
            ・・・

●土人と土人との交易は、太刀および小道具、矢筒の類をもって交易すなり(蝦夷草紙) 


             ・・・


と、アイヌの人たち同士の交換手段、代価商品としても活用していたのである。

このことは、「擦文文化」時期においては漁労・採集経済の段階にあった「擦文人」が、鎌倉期以降の中世に入り、本州社会との交易に全面的に依存するまでに変質していったことを示している。

「擦文文化」から「アイヌ文化」への移行において、アイヌ民族は自ら充分な生産力や社会的結合をとげないまま、本州の商品交換経済の中に踏み込んでいったのである。


               (引用ここまで)


                *****


土器を用いていた「擦文文化」と、交易により入手した鉄器が中心になる「アイヌ文化」は異なるものである、という考古学的な判断があり、「アイヌ文化」は、「擦文文化」の後に現れたものであると述べられています。

「アイヌ文化が成立するのは13世紀である」、ということが定石になっているようです。

ウィキペディアの関係項目をまとめたいと思います。(続きは次回の投稿になります)


                 ・・・・・

wikipedia「蝦夷=えぞ」より

中世以後の蝦夷(えぞ)は、アイヌを指すとの意見が主流である。

(ただし中世の蝦夷はアイヌのみならず後に和人とされる渡党も含む。)

鎌倉時代後期(13世紀から14世紀)頃には、現在アイヌと呼ばれる人々と同一とみられる「蝦夷」が存在していたことが文献史料上から確認される。

アイヌの大部分が居住していた北海道は、蝦夷が島、蝦夷地などと呼ばれ、欧米でも「Yezo」 の名で呼ばれた。

アイヌ文化は、前代の擦文文化を継承しつつ、オホーツク文化(担い手はシベリア大陸系民族の一つであるニヴフといわれる)と融合し、本州の文化を摂取して生まれたと考えられている。

その成立時期は上記「えぞ」の初見と近い鎌倉時代後半(13世紀)と見られており、

また擦文文化とアイヌ文化の生活体系の最も大きな違いは、本州や大陸など道外からの移入品(特に鉄製品)の量的増大にあり、アイヌ文化は交易に大きく依存していたことから、アイヌ文化を生んだ契機に和人との交渉の増大があると考えられている。

具体的には奥州藤原氏政権の盛衰との関係が指摘されている。



鎌倉時代後期(14世紀)には、「渡党」(北海道渡島半島。近世の松前藩の前身)、「日の本」(北海道太平洋側と千島。近世の東蝦夷)、「唐子」(北海道日本海側と樺太。近世の西蝦夷)に分かれ、

渡党は和人と言葉が通じ、本州との交易に従事したという文献(『諏訪大明神絵詞』)が残っている。

また、鎌倉時代には陸奥国の豪族である安東氏が、幕府の執権北条氏より蝦夷管領(または蝦夷代官)に任ぜられ、これら3種の蝦夷を統括していたとする記録もある。

室町時代(15世紀から16世紀にかけて)、渡党を統一することで渡島半島南部の領主に成長していった蠣崎氏は豊臣秀吉・徳川家康から蝦夷地の支配権、交易権を公認され、名実共に安東氏から独立し、

江戸時代になると蠣崎氏は松前氏と改名して大名に列し、渡党は明確に和人とされた。


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