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天の岩船に乗ってやってきたニギハヤヒ(スサノオの息子)が日本の太陽神・・関裕二氏「謎の出雲と伽耶王朝」(3)

2017-07-15 | アジア


関裕二氏の「謎の出雲と伽耶王朝」を読んでみました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

非常にわかりづらいのですが、非常にたくさんのことが書いてありまして、それを部分的にご紹介しているので、ますます話が飛んでおりますが、わたしは思考力がある本だと思います。

            *****

          (引用ここから)

今から二千数百年前、日本先住民・縄文人の楽園に、一つの変化が現れる。

狩猟採集と雑穀の栽培のみで生きてきた彼らの社会に、稲作の技術が入ってきたのである。

それからまもなく大陸や半島から次々と、稲作民族、いわゆる弥生人が上陸してきた。


高い文化文明を持ちながら、組織力の差で追い詰められた縄文人。

その一方で彼らは、日本人の基層を形づくり、今日の日本に多大な影響を及ぼしたのである。

このような縄文人の姿を、歴史的事実として捉え直すことは可能であろうか?


一つのヒントがある。

それは「古事記」や「日本書紀」が、日本の誕生を弥生時代から描いていることである。

そして「天孫族=弥生人」の登場と同時に主導権を失う「国津神=出雲王朝」の存在が、縄文人の在り方を象徴しているように思われる。

天皇家は日本の誕生と共に姿を消した出雲神たちを、異常なまでに長い時間恐れ続け、祀り続けている。

天皇家誕生の地「ヤマト」で最も神聖な場所は、三輪山と大神(おおみわ)神社であり、ここには出雲系の大物主神が祀られている。

これに対して、初代天皇・神武を祀る神社は、明治に至るまで存在しなかった。

また、皇祖神・アマテラスを祀る神社と言えば、三輪山のふもとの片隅にひっそりと、社も無い粗末な祭場があるのみであった。


邪馬台国が九州北部に存在したことは、ほぼ間違い無いだろうとされている。

そしてこの邪馬台国が東遷して「大和」になった=いわゆる「邪馬台国東遷論」は定説と言われている。

その最大の根拠は、卑弥呼と皇祖神・アマテラスが同一人物と目される点にある。

なぜなら、「日本書紀」が示す天照大神の別名=「おおひるめのむち」の、「め」は、「巫女」の意味で、「おおひるめ」を分解すると、「大日巫女」となる。

すなわち「天照」は「日の巫女」であり、「卑弥呼」=「日の巫女」と同一人物ということになる。

卑弥呼とアマテラスが同一人物であったのなら、神話の中で、アマテラスと同時に活躍していたスサノオでさえも、卑弥呼の同時代人として捉え直すことは不可能ではないし、

こう考えることによって、謎に満ちた「出雲王朝」の実像は次第に浮かび上がってくる。


しかし重要なことは、天皇家の祖伸が、「日本書紀」の主張する「天照大神」という女神ではなく、「ニギハヤヒ」という男性神であったことにある。

さらに言うならば、大和朝廷の本来の「太陽神」が、この「ニギハヤヒ」だったことなのである。

ニギハヤヒの正式な諡号は、「天照国照彦火明櫛玉饒速日命(アマテルクニテルヒコホノアカリクシダマニギハヤヒノミコト)。

すなわち、彼こそが、天界を照らし、国中を照らす太陽だった。


ところが「日本書紀」を編纂した7世紀の朝廷は、この「出雲王朝」を滅ぼした。

後に出来た王朝であったために、ニギハヤヒという太陽神を抹殺した上で、太陽神をいつきまつる巫女=日巫女にすぎなかった天皇家の祖・卑弥呼を無理やり、太陽神に仕立て上げてしまったのである。

さらに、ニギハヤヒの存在を「日本書紀」は、認めながら、その実像を必死になって抹殺しようと計らってしまった。

それは各地の神社伝承を見れば、一目瞭然なのだ。

朝廷に近い神社ほど、ニギハヤヒの名は消され、地方の神社には明確に名を残しているのは、神社に対する朝廷の圧力が実在したことを物語っている。

ところがこの圧力は、物理的に地方全域までは行き渡らなかったため、所々にニギハヤヒの名は散見されるのである。


出雲王朝の祖・スサノオは、弥生人の組織力によって追い詰められた縄文人社会を復活させ、さらに結束力を強めるために西国に向けて攻めあがった。

そして、ニギハヤヒをヤマトに向かわせ、瀬戸内海を制圧させた。

ここに「縄文人国家=出雲王朝」は成立したが、スサノオ・ニギハヤヒの死後、九州王朝は独立。

日本は大和の出雲王朝と、卑弥呼の九州王朝(天皇家の祖国)に分裂したということになる。


邪馬台国

卑弥呼の女王国が東遷して、「大和国」が成立し、卑弥呼の末裔が天皇家になった、とする「東遷論」の推理はおおむね正しいと思われる。

卑弥呼の末裔は、7世紀末から8世紀初頭にかけて、天皇家の正当性を訴えるための正史「日本書紀」を編纂している。

ところが邪馬台国と卑弥呼の名を全く無視し、卑弥呼は「オオヒルメノムチ・アマテラスオオミカミ」と名を変えて、神話の世界に閉じ込められてしまったのである。

日本で最初に正式な王朝として認められたのが天皇家であったという証拠を、「日本書紀」はなぜ、むざむざと捨ててしまったのか?

そしてなぜ歴史時代を卑弥呼から始めようとはしなかったのか?


アマテラスを悩ませ続けたスサノオの狼藉。

そのほとんどが、農作業に対する妨害工作である。

これは先に示した縄文人勢力と、弥生人勢力の相克を暗示する。

また、アマテラス=卑弥呼の時代、スサノオの勢力が九州の女王国を苦しめていたとする原田説に符合する。


問題は、「日本書紀」がスサノオとニギハヤヒの親子関係を抹殺してしまったことである。

ニギハヤヒと大物主が、同一人物であったこと。

しかもスサノオの第5子であったことは、神社伝承から見れば、当然の真実なのである。

ところが朝廷は、神社からニギハヤヒの名を消すように圧力をかけ、「日本書紀」ではスサノオとの親子関係を断ち切り、ニギハヤヒは「天孫族=天皇家の親族」と主張しているのである。

偉大な大和朝廷の始祖・ニギハヤヒの存在を、「日本書紀」は全く消し去ることはできなかったし、大和朝廷でも、重要な聖地・三輪山であがめ祀り続けた。

そして「日本書紀」の中で朝敵ニギハヤヒの存在を認めつつも、その実態のわずかな部分しか、世に示すことはできなかった。

ニギハヤヒが、天皇家よりも早い段階で、大和の地に「天孫降臨」していたことは「日本書紀」も認めている。

「東に美しい国があって そのなかに天の岩船に乗って 飛び降りた者がいる。

その名は、ニギハヤヒというらしい」。

さらに「神武の大和入り」に最後まで抵抗した「ナガスネヒコ」は、次のように語る。

「昔、天神の子がいて、天の岩船に乗って、天から降りてまいりました。

名はニギハヤヒと申します。

私の妹を娶り、子を生みました。

私は、ニギハヤヒを君主としてきたのです」。


これは「日本書紀」がニギハヤヒの存在を認めざるを得なかったために、ここに登場させ、その代わりに彼を天孫族の一人として描いた結果である。

次の一説も重要である。

「ニギハヤヒのみこと、天の岩船に乗りて、大空を巡り行きて、このくにをおせりて あまくだりたまうに至りて、彼、よりて名付けて「そら見つ やまと(日本)のくに」という。


ニギハヤヒは、天の岩船に乗ってやって来た時、大空からその地を見て、「そら見つ 日本の国」と名付けた、というのである。

これは邪馬台国を知る上で、実に貴重な証言といえる。

なぜなら天皇家が東遷する以前から、「ヤマト」は「やまと」と呼ばれていた、ということだからである。


「ヤマト)は、初めから「大和」に在った。

「日本書紀」自身が認めたこの事実こそ、邪馬台国問題解決の最大の決め手と言っても過言ではない。


「魏志倭人伝」の記事は、そのほとんどが九州に関する情報で終始している。

当時の人口分布から考えれば、日本の一部でしかないにもかかわらず、「女王国の東 海を渡り、千余り さとまたくにあり、みな「倭種」なり」とあるのみである。

しかし実際には、九州の東方には卑弥呼の女王国を上回る巨大な勢力=出雲王朝が存在していて、その大王・ニギハヤヒは、その地を「ヤマト」と名付けていたのである。


「魏志倭人伝」に登場する「邪馬台」は、本来ニギハヤヒの「ヤマト」を指していたものを、九州王朝の役人が、あたかも自国=「倭国・九州王朝」の都であるかのように装い、所在地をうやむやにしてしまったのである。

九州地方の一王国にすぎなかった九州王国は、魏に朝貢し、存在をアピールすることに成功し、さらに魏の使いがやって来た時を絶好の機会と捉え、これを利用した。

つまり、魏の使者が問いただした「ヤマト」が、自分たちの国家であること、しかも「ヤマト」に行くには南方へ往復三か月近くかかる、と述べて、魏の使者の訪問をあきらめさせる工作を行った。


東国に存在する一大王国「ヤマト」を隠匿することに成功した女王国は、次々と手を打ってゆく。

まず、魏に朝貢し、「親魏倭王」の称号を手に入れると、今度は「出雲王朝」に対し、合併案を持ち込んだ。

九州王朝の巧みな外交戦略と、「出雲王朝」の出遅れが、「大和王朝」成立の最大のきっかけとなった。

そして「天皇家」という奇妙な王権システムが誕生した原因は、日本の国名・「倭」を代表する女王国の末裔、天皇家が、大王家を引き継がざるを得なかったからだと考えられる。

その一方で、実質的な権力をニギハヤヒの末裔・物部氏を中心とする出雲系豪族が持ち続けた理由も、理解できる。

出雲の国譲りによって天孫族に国を明け渡した出雲神たちが、自らの御霊を大和の地に移し、天孫族の末裔である天皇家の守り神になることを誓う祝詞「出雲の国の造の神賀詞」の中に次のような一節がある。


大穴持命の和魂を 八咫鏡にとりつけて

やまとの 大物主 くしみかたまの命と名をたたえて

大御和の 神なびに座せ

己命の御子 あじすき高ひこねの命の御霊を 葛木の鴨の神なびに座せ、

事代主命の御霊を うなてに座せ 

かやなるみの命の御霊を 飛鳥の神なびに座せて

皇孫の 命の近き守神と 奉りおきて

八百丹杵築の宮に 静まりましき


これによると、「大物主の尊」以下、出雲を代表する4人の神々が三輪、葛城、うなて、飛鳥とそれぞれの神なびにあって、皇孫=天皇家の守り神になるというのである。

さて「大物主の尊」「あじすきたかひこね」、「事代主命」。

三人の神々は「日本書紀」「風土記」といった史書に度々登場する出雲神であるが、なぜか「カヤナルミ」だけは他の史書にまったく登場しない。

出雲系を代表する神として、出雲の国の造の神がみの中より選ばれ、しかも天皇家の守り神になったと言われる「カヤナルミ」。

なぜ他の史書に、名を出さないのであろうか?

「カヤナルミ」とは、「伽耶」にいる姫、と直訳でき、もしこの「カヤ」が「伽耶」であるとすれば、出雲系の神々の中に、「伽耶」と関連のある人物が絡んでいたことになる。

そして不思議なことに、その正体は「日本書紀」などの文献からは全く分からないことなのである。


「出雲神」と「伽耶」、この両者の接点をいかに見つけ出せばよいのか?

少なくとも、もし「カヤナルミ」の「カヤ」が本当に「伽耶」であったなら、「出雲王国」成立だけではなく、「大和朝廷」の成立にも、「伽耶」が何かしらの形で関わっていた可能性は高いし、その事実を朝廷が隠匿しようとしてしまったことは、実に重大な意味を持っているはずなのである。

筆者は、卑弥呼と同時代に活躍したもう一人のヒミコ=神功皇后、この女傑こそが「カヤナルミ」の正体だったと考える。

3世紀半ばから後半にかけて誕生した「大和朝廷」は、「九州王朝」の天皇家、出雲王朝の皇后家という原則に則って、7世紀後半まで続く。

しかし最終的に「出雲王朝」を衰弱させることに成功した「九州王朝」は、単独王朝を樹立させ、強大な勢力を持っていた「出雲王朝」の存在を、神話の世界に閉じ込め、万世一系の天皇家という建前を、あたかも歴史的事実であったかのように見せかける工作を行った。

            (引用ここまで)

           *****

スサノオはやっぱり重要人物だなぁ、と思います。

この人がどこから来て、何をして、、と「日本書紀」「古事記」「出雲国風土記」には詳細に書いてあるのです。

文字の記録があって、ほんとうによかったと、再び思わされます。

wikipedia「スサノオ」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%B5%E3%83%8E%E3%82%AA

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