始まりに向かって

ホピ・インディアンの思想を中心に、宗教・心理・超心理・民俗・精神世界あれこれ探索しています。ご訪問ありがとうございます。

光あらわすカラス神・・熊野のヤタガラス(その2)

2010-01-27 | 日本の不思議(古代)
前回紹介した、熊野とヤタガラスと太陽信仰の三題話である萩原法子さんの本について続きを書きます。
ヤタガラスがあちらこちらに現れる、なかなか興味深い本です。

以下、「熊野の太陽信仰と三本脚の烏」より抜粋して引用します。

リンクを張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


           *****

(引用ここから)

中国では古くから、太陽の中に住む、足が三本ある烏のことを金鵜(きんう)と言っており、日本でもその影響をうけていたことが、「伊勢国風土記」に見える。

すでに7世紀の法隆寺の玉虫厨子・台座絵背後の須弥山図の右上に月(中にうさぎとカエル)、左上に真っ赤な太陽が描かれ、中に三本脚の烏が羽を広げている。

「延喜式」にも「三足烏 日の精なり 白うさぎ 月の精なり」とあることから、10世紀のころには中国にならい、三本脚のカラスは太陽のシンボルで、うさぎは月のシンボルとされていたことが知れる。


熊野那智大社では新年を迎えた早々の午前二時、ヤタガラス帽をかぶった権宮司が那智の滝本にある秘所で秘事作法のあと、カラス文字の護符、牛王宝印(ごおうほういん)をするのに使う清水を汲み上げる。

同じく那智大社の扇祭(おおぎまつり)でも、ヤタガラス帽の権宮司が祭りを取り仕切る。


熊野那智大社では、毎年7月14日、「扇祭」がおこなわれる。

12基の「扇神輿(おおぎみこし)」が、那智大社から滝本まで御渡りする祭りであるが、滝本へ降りる石段で迎えの松明(たいまつ)と出会い、その折の勇壮な火の競演が見どころとされ、今では「那智の火祭り」として有名になっている。

扇神輿は高さ6メートルもある杉の枠木にどんすを張り、その上に日の丸扇や鏡をつける。

それぞれの扇の最上部には神鏡を中心に六面の日の丸扇を円形につけ、六枚の板を放射状に配する。

その板は放射光を示すと言われ、「光」とよばれる。

扇神輿は神輿(みこし)と言っても特殊な形で、むしろ鉾のようである。


この祭りのキーワードとなるのは、ヤタガラス帽をかぶった権宮司が「打松」で神鏡を打つことであろう。

光が峰の遥拝を終わった権宮司は、松明を持って「扇褒め」の位置につくと、鏡を打って「扇ほめ」をする。


この「打松で打つ」というのは、どういう意味があるのだろうか。


「打つ」という行為は、牛王宝印の製作時の神事にも見られるが、神事や祭りに非常に多く見られる。


小正月に村村を訪れる神を「訪れ神」と言い、鳥取県稲葉地方ではホトホト、岡山県南部から広島の一部にかけてはコトコトなど、戸をたたく音から連想された呼び名もある。

姿形が見えない神の出現を知るためには、音が必要不可欠であり、「訪れ神」の“おとづれ”は“音連れ”という意味からである。

歌舞伎のドロドロは、太鼓を打つことで幽霊や神出現を誘うのである。


「打松」のマツは、木の名であると同時に「火」を意味した。

“松明”と書いて“たいまつ”と読むが、タイは元来は手に取る火のことであった。


扇神輿を担ぐのは、「扇指し」と呼ばれる56人の若者である。

「扇指し」は那智山の麓、市野乃地区に住む人々にかぎられている。

ヘビの柄の着物を着て、巴紋のついた白い手ぬぐいを鉢巻きにし、草履ばきで神輿を担ぐ。

市野乃に住む人々は「神武天皇を先導したヤタガラスの子孫である。」と称している。


那智大社元宮司から聞いた、として次のような話がある。

「那智の一番大きな行事は、元旦の夜明けに、神主が光が峰山、太陽の山に上がるのです。

大みそかの夜装束をして、そして押し日をつけて、太陽が太平洋を昇る瞬間に押し日をぱっと開く。

日の神を包みこむのは押し日なんです。

そして一目散にお宮さんに持って帰るというのが、那智の重要な儀式なんです。」


那智大社に伝わる神楽歌の一曲の中に、次のような「光峰の歌」がある。

ミチノヤ シルヘト ヒカリガミネニ ヒカリアラワス カラスカミ カラスカミ

ひかりをあらわす、というのは陽光を発するということであり、カラスが太陽の神として歌われている。

権宮司がヤタガラス帽をかぶって行う「扇ほめ」と、「光が峰遥拝」は、那智信仰の大元になっている太陽崇拝を、太陽の神、ヤタガラスに成り変って執り行うのであろう。

(引用ここまで・続く)


               *****




扇祭りではありませんが、2月6日に行われる熊野新宮の火祭りの準備が行われているという記事がありました。

http://mainichi.jp/area/wakayama/news/20100117ddlk30040287000c.html
たいまつ作り:火祭り近づき、ピーク--新宮 /和歌山

 新宮市の神倉神社で2月6日にある勇壮な火祭り「お灯まつり」が近づき、参道沿いの同市千穂、上道益大さん(78)宅作業場で、たいまつ作りが追い込みに入った。

 上道さんは、この道約40年のベテラン。
「たいまつの姿、形がいい」と評判を呼び、県内外から注文が来る。

祭りの前日までに500本以上を仕上げる。

熊野材のヒノキを加工、板状にした5枚を持ちやすいように5角すい形に組む。上部にヒノキの板を削った薄い房(別名、花)を取り付けていく。

 たいまつは、祭りの主役の「上り子」と呼ばれる男たちが持ち、房に点火。

かざしながら神倉山の石段を駆け下りる。

長さ約85センチの大きいものから小型の約30センチまで7種類。

上道さんは「外材のたいまつもありますが、私は熊野産にこだわっています。朝早くから午前0時ごろまで作業をしています」と話した。


       *****


写真 「別冊太陽・熊野」より


wikipedia「扇祭」より

神事としての扇祭は、かつて夫須美(ふすみ)大神を「花の窟」から勧請した故事にまつわるものであるとされ、かつては寄り木となる木を立てて大神を迎えた後、その木を倒して大神が帰らぬようにする神事があったという。

しかし扇祭は、例大祭当日の祭礼に見られるように火と水の祭りであり、今日では祭の意義は、例えば農事繁栄のような生命力の再生と繁栄として解されている。

水は那智における古くからの崇拝の対象である滝の本体であって、生命の源と解され、一方で火は、万物の活力の源を表す。

そして、滝本から本社への還御の儀式に見られるように、扇祭の祭礼は神霊の再生復活と、それによる生命すなわち五穀豊穣を祈念する祭りなのである。

祭礼の名や扇神輿に見られる「扇」もまた、農業神事としての性格にまつわるものである。

扇に備わる徳により、扇の起こす風は、彼方に向けて吹くときには災厄を除き、此方に向けて吹くときには福を招く、そうした霊力を発揮するとされ、扇自体にも『古語拾遺』によれば虫害を斥け、穀物の豊穣に関係する故事があるといわれている。

また、扇祭の様式には神仏分離以前の修験の祭りとしての要素も指摘することが出来る。

祭りの核心をなす「扇褒め神事」を執り行うのは、17世紀初頭の史料によれば、青岸渡寺の僧房のひとつ尊勝院を拠点とする修験者たちの役目であり、彼らは八咫烏帽をシンボルとした。

神仏分離後に、扇褒め神事が那智大社の権宮司に委ねられるようになってからも、権宮司は八咫烏帽をかぶった姿で神事に臨むだけでなく、松明の火を媒介・操作することにより神霊を導き、扇神輿に招くという点で、火の操作者としての修験者の像を読み取ることが出来る。


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ヤタガラスと太陽信仰・・太陽を射る(その1)

2010-01-23 | 日本の不思議(古代)
先日「熊野の太陽信仰と三本脚の烏」(萩原法子著)という本を見つけ、なんと面白そうな題名だろうか、と嬉しくなりました。

題名にあるとおり、この本は熊野、太陽信仰、ヤタガラス、の三題話の本です。

民俗学の研究者が自分で全国を歩いて調べ、資料を集め、仮説を立てて書いたものです。

熊野のみならず、島根(出雲)、三重(伊勢)、茨城、千葉などで見られる習俗を熊野に見られる習俗と比較すると、どのように類似しているか、それはなぜか、といったことを調べており、大変興味深いものとなっています。

熊野も太陽信仰もとても大きなテーマですが、古代の太陽信仰は、地域の行事の中に今も息づいている、という著者の意見には、なるほどと思いました。

最初に、著者が同書の前書きにまとめている要点を引用して転載します。
それからもう少し、紹介してみたいと思います。

リンクを張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

           *****

           (引用ここから)


古代の日本に太陽信仰があったことは誰しも認めるところである。

ところが、この「天石屋(あまのいわや)」の神話の太陽信仰をめぐって、その解釈については決定的なものがなく、一般的には夏至の太陽あるいは日蝕の太陽のよみがえりと説明されている。

しかしこの解釈にはわたしは納得できない。

太陽が岩屋に“こもる”、すなわち「隠れる」ということは“太陽の死”を意味する。

この神話は“太陽の死と再生”のドラマであり、岩屋で一旦死んで新年に再生する、新年の太陽のよみがえりであろう。

新生した太陽が日々順調に巡ることで、作物の豊穣が約束されるのである。


一方、“死と再生”の論理は、熊野の語源説にも一端が表れている。

“くまの”は“こもりく”(陰国)、つまり“死者が隠れこもる所”であるというのである。

(略)

本書は熊野の新年の太陽のよみがえりをうたったものであり、本書後半の他地域に見られる「おびしゃ」(奉射)についての論考で、「おびしゃ」も熊野の持つ古代信仰と同じく、新年の太陽のよみがえりだと結論した。


熊野といえばヤタガラスの伝承が知られ、「日本書紀」には“神武天皇の東征の時、一行が熊野から大和へ入る折にヤタガラスが先導した”、とされている。

古代には烏に限らず、鳥は予知能力をもち、天空の神々と地上の世界を結ぶ神の遣わしめ(神使)としての役割を担っていた。

常世の長鳴鳥(とこよのながなきどり)が、太陽としての天照大神の呼び出しに成功したのも、鳥がさえずると同時に日が昇る日常の反映であり、古代中国では太陽の中に住む烏が太陽を運んでいるのだ、としたことも無関係ではない。

古代、カラスは尊い霊鳥として崇拝されていたが、中世になると稲田に害を及ぼす「鳥追い」の対象となり、霊鳥信仰は一般的に衰弱化の傾向を見せる。

しかし熊野のように古代信仰の色濃い地域や各地の神事の中には、現代にいたるまでカラスや鳥に対する信仰は継続され続けたのである。

             (引用ここまで・続く)

     *****


著者は、「いざなみ神話は“太陽の死と再生”のドラマであり、岩屋で一旦死んで新年に再生する、新年の太陽のよみがえりであろう。」と述べていますが、 著者が本書の中で主に調べているのは、各地の新年の行事や祭りです。

「新年・正月」が、特別な時として扱われているのは、循環する冬至や夏至と比べて「正月」は、古いものを新しいものにすっきりと切り替える時であり、その感覚が日本人の心性を特徴つける要素だ、と考えられているからではないかと思います。

著者は、熊野の扇祭(那智の火祭りとも言われる)と、地方の新年の伝統行事として、3本足のカラスを的にして矢を射る行事「おびしゃ」(奉射)を比較して、日本人の古い意識の中の“太陽”を捕らえようとしています。

一つの仮説として、大変パワフルな思考であると感じました。


ヤタガラスはうさぎとペアで“日の精と月の精”として中国、朝鮮から伝わったものと思われます。

古代の日本人は、その思想をどのようにして咀嚼し、みずからのものとしていったのでしょうか。

あるいはそれともヤタガラスは、日本に元からある、日本人の心性が創り出したものなのでしょうか。

日本人の“本来の面目”を感じたいという思いにかられました。



wikipedia「天岩戸(あまのいわと)」より

日本書紀

『日本書紀』でも大きな話の流れは同じであるが、細部に若干の違いがある。

特に、アメノウズメは「巧に俳優行(わざおぎ)す」とあるのみで、ストリップ風のしぐさや、神々が笑ったという描写はない。

本文では、スサノオが機屋に馬を投げた際、アマテラス自身が驚いて梭で傷ついたとある。第一の一書では稚日女尊(ワカヒルメ)が梭で傷ついて死んだとなっている。

ワカヒルメはオオヒルメすなわちアマテラスの分身であり、

スサノオの行為によってアマテラスが死んだというのが元々の伝承ではないかと考えられる。

第二の一書では、アマテラスが怒って岩屋に隠れたのは、スサノオが神殿に糞をし、アマテラスが気付かずにそれに座ってしまったためとしている。


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「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は」・・パンとワインの味わい

2010-01-19 | 古代キリスト教
昔のことになりますが、町のカトリックの教会のミサに何回か参加させていただいたことがあります。

カトリックのミサでは、神父さんがホスチアという白いおせんべいのようなものを一人づつ並んだ信者たちの口に入れていく儀式がありました。

これはイエスが弟子たちに“パン”を与えたことを模した儀式と思われますが、
わたしは後ろの方の席でこれを見学して、思わず陶然となってしまいました。

この変わった儀式が伝えているものは、人間の立場をとても正確に現わしている、と思いました。

人間のたましいはいつも飢え、乾いている。
その飢えと乾きを満たすものは神聖さそのものである、という儀式の意味が気に入ったのです。

そしてその人間の魂の餓えを満たす神聖さは、白い、丸いおせんべいのようなものとして目の前にあり、いつでも常に、すでに神によって人に与えられているから、飢えも乾きも幻想にすぎないと、ミサを見ていると体をとおして実感できたからです。

宗教オタクのわたしですから、受洗することはありませんけれど、、カトリックの神秘性は十分魅力的な文化だと思いました。

人間を罪深い者と考える、というスタンスを、わたしは多分生きているかぎり持ち続けるだろうと思っています。


臼井隆一郎さんという方が書いている「パンとワインを巡り神話が巡る」という本を読んでみました。抜粋して少し引用します。

血と肉をめぐるキリスト教、ユダヤ教、ギリシア文明、シリア文明の歴史が書かれていました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。



       *****

         (引用ここから)

イエスは「神の子」である。

この時代に「神の子」を主張するということは当然、別の「神の子たち」との競争関係に入ることを意味するであろう。

「わたしが命のパンである」と言うイエスは、今まで見てきた食の英雄ヘラクレスやワインの神ディオニュソスとどのような位置関係にあるのであろう。(略)


イエスが神の子であるならば、はっきりと名前そのものが「神の子」(=ディオヌソ)と意識されるディオニュソスとの関係が問題になる。

イエスは12月25日に生まれたことにされた。
ディオニュソスの誕生日を踏襲したのである。


厩(うまや)に生まれたイエスのゆりかごは飼い葉おけであった。

飼い葉おけで眠る赤ん坊は他にもいる。

ギリシアのアテネからエレウシスに向かう儀式の行列の先頭には乳母に変装した男やディオニュソスの赤ちゃん時代のおもちゃを座布団に乗せて運ぶ人々がいた。
ディオニュソスのゆりかごであった飼い葉おけを運ぶ人もいた。

厩(うまや)で動物を従えて生まれ、飼い葉おけに遊ぶ幼子イエスは、エレウシス復活信仰の象徴というべき幼子ディオニュシスに酷似しているのである。


ディオニュソスは奇跡をおこなった。

イエスもワインの奇跡をおこなった。
4,5斗も入った水がめの水をワインに変えるのである。


イエスもディオニュソスと同じく奇跡を起こすことが出来るのである。

しかしディオニュソスをディオニュソスたらしめているのは、ディオニュソスみずからの受苦を介して、ワインそのものとなり、人に飲まれ吸収され、人と合体することによって、神とも人とも区別のつかない“バッコスの境地”を作り出すところにあった。


イエスがディオニュソスに匹敵し、それを凌駕する神の子の実を示すためには、イエス自らがワインと化すことである。

イエスが犠牲のワインそのものとなってわれわれの前に立ち現われてくるのは、イエスが地上の最後の夜をすごすゲッセマネの夜である。

翌日は逮捕、処刑されるという最後の夜、イエスは苦しげに言う。

「父よ、あなたはなんでもお出来になります。この杯をわたしから取り除けて下さい。」

イエスは自分を、生贄としてのワインを入れる献酒杯に注がれるワインに見立てている。

実際イエスは、踏みしめられ絞りぬかれるブドウそのものである。

場所はオリーブ山の麓のゲッセマネ。
ゲッセマネとは油搾り器のことである。


イエスは言う。

「わたしは命のパンである。」

「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はいつでもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」

「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もまたわたしによって生きる。」


こうしたあきらかに食人を思わせる言い回しは、やはり驚くべきことである。

動物の血を飲むことはユダヤ人には禁じられている。
ましてや人間の血を飲むなどもっての他である。


パンを裂き、ワインを飲むことで暗示される、肉を引き裂き、血をすするという事態を含む神話の圏域はディオニュソスの圏域であろう。

それは巨人や信女に八つ裂きにされ、食いつくされるディオニュソスの再現以外の何ものでもない。


イエスにはパンの供養(エレウシス)、ワインの生贄(ディオニュソス)、小羊の屠り(ユダヤ)のそれぞれが等しく見られるにも関わらず、一つ類を絶した構造がある。

倶犠には、倶犠に献げられる聖なる犠牲獣と、共同体を代表して倶犠を献げる聖なる祭司が不可欠であるが、

その両方を、イエスと言う一人の人間が担っていることである。


イエスはみずから圧搾され飲まれるワイン、引き裂かれ分配されるパン、そしてほふられる小羊の三重の生贄であると同時に、

その生贄儀式が聖書に書かれた通り成就するために、式の進行を完全に取りしきる祭司である。

そしてイエスは、動物倶犠の手順を踏んでいるのである。

          (引用ここまで)


       *****


生贄には人類の意識のドラマが隠されていると、著者は考えています。

生贄とは、人間が差し出すものと神からやってくるものの交換の儀式であり、

イエスが言った「これはわたしの肉、これはわたしの血である」という言葉は、キリスト教のテーゼであるとともに、

はるか古代から、食べるために動物を殺し、宗教儀式として人や動物を生贄に捧げ続けてきた人類の意識の根幹の感覚を呼び覚ます言葉なのだ、と著者は述べています。


        *****


        (引用ここから)


人間は殺す存在である。

ならば殺してもよいのか、いや人間は殺すべきではない。

では殺すすべは習わなくてもよいのか。

それでは生活は成り立たない。

矛盾をとりいれた秩序として、たえず平衡をくずす危険にさらされながら、しかし発展性を宿した秩序として、生の運動平衡感覚とでもいうべきものが人間文化の基礎的伝統のなかに刷り込まれたのである。

新石器時代革命もまた革命であった。

農耕革命は暴力革命であった。

大地を耕作するとは、母なる大地をその武器で傷つけることに他ならない。

牧畜革命も同様である。

農業と牧畜という牧歌的な光景はけっして心底、平和と思える風景としては把握されない。

それはいわば、大地は鋤に痛めつけられ、ブドウの枝は鎌に切り払われ、牛はくびきにあえいでいる光景でもある。

しかしまさにそうであるからこそ、人間に“殺す人”の自覚を強いる太古の動物供犠は、農耕革命と牧畜革命の後もはるかに長い余命を保ち、

その優に5万年をさかのぼるとされる起源を、農耕牧畜社会の諸々の祭祀に残すことになるのである。

       (引用ここまで・同書より)


          *****


食べるという行為は、まことに大いなる神秘をはらんでいると思わずにいられません。



Wikipedia「エレウシスの密儀」より

デメテルの祭儀はエレウシスの祭儀、またはエレウシスの秘儀と呼ばれ、古典古代時代最もよく知られた秘儀のひとつである。

エレウシスの秘儀は紀元前1700年頃ミケーネ文明の時代に始まったと言われている。

マーティン・P・ニールソンはこの秘儀が「人を現世を超えて神性へと到らせ、業の贖いを保証し、その人を神と成し、その人の不死を確かなものとなす」事を意図されていたと述べている。

その内容を語ることは許されなかったため、断片的な情報のみが伝えられている。

参加者の出身地を問わないこと(アリストパネスの断片による)、娘ペルセポネーを探すデメテルの放浪およびペルセポネーの黄泉からの帰還の演劇的再現が一連の秘儀の中核をなしていたであろうことが推定されている。

秘儀への参加者には事前に身を浄めることが要求され、その秘儀は神の永遠なる浄福を直接見ることといわれた。

キリスト教が広まり、ローマ皇帝テオドシウス1世により多神教的異教の祭儀が禁止されると、エレウシスの祭儀も絶えた。


Wikipedia「ディオニュソス」より

本来は、集団的狂乱と陶酔を伴う東方の宗教の主神で、特に熱狂的な女性信者を獲得していた。

この信仰は その熱狂性から、秩序を重んじる体制ににらまれていたが、民衆から徐々に受け入れられ、最終的にはディオニューソスをギリシアの神々の列に加える事となった。

この史実が、東方を彷徨いながら信者を獲得していった神話に反映されている。

またザグレウスなど本来異なる神格が添え名とされることにもディオニューソス信仰の形成過程をうかがわせる。

とはいうものの、実際にはミケーネ文明の文書からゼウスやポセイドーンと同様にディウォヌソヨ(Διϝνυσοιο)という名前が見られ、その信仰はかなり古い時代までさかのぼる。

ギリシア人にとっては「古くて新しい」という矛盾した性格を持つ神格だったようである。

アテーナイを初めとするギリシア都市ではディオニューソスの祭りのため悲劇の競作が行われた。

ローマ神話ではバックス(バッカス)と呼ばれ、また豊穣神リーベルと同一視されている。

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“東方”なるもの・・イエスを祝ったのは誰だったのか(その4)

2010-01-15 | 古代キリスト教
イエスの誕生を祝いにやってきた「東方の三博士」とはどんな人たちだったのか、についての続きです。

引き続きエイドリアン・ギルバート著「マギ・星の証言」から、抜粋して引用します。


            *****

    (引用ここから)


8世紀、イスラム勢力はスペイン、北アフリカ、パレスチナ、メソポタミア、ペルシアから北インドまで広がっていた。

キリスト教世界はこの時、ヨーロッパとトルコだけに縮小してしまった。

しかしだからといって新しいアラブ人の帝国にキリスト教徒が全くいなかったわけではないし、これらの土地の住民のすべてがイスラム教徒にならなくてはならなかったわけでもない。

実際、イスラム教は西洋人が考えているほど異質な宗教ではない。

イスラム教は多くの点でキリスト教の改良版であり、預言者ムハンマドは一種のプロテスタント的な原理主義者であった。

「イエスは神の子である」、というキリスト教徒の信念は馬鹿げたものとして否定しながらも、ムハンマドは預言者としてのイエスに敬意をはらった。


キリスト教徒はイスラム勢力の拡大という新たな政治状況に慣れる必要があった。

キリスト教が生まれた豊かな東方は、つねに西方よりも知性的であった。

初期の多くの教師たちが現われたのは、アンティオキア、アレクサンドリア、エデッサといった東方であり、これらの場所にはモーセの時代にさかのぼるほど長い哲学的伝統がある。

また東方にはネストリウス派やヤコブ派といった多くの小さな異端のグループがあった。

これらはローマ・カトリックが神学を独占していたヨーロッパ社会では全く知られていなかった。

イスラム支配だったからこそ、このような周辺的な教会は権威による干渉を受けることなく伝統を存続することが出来た。

しかしそれは同時に他の教会との和解の機会がなかったということでもあった。


こうしてキリスト教の異教的伝統はイスラム支配のおかげで、保たれた。

その知識と伝統は共同体の内部で世代から世代へと受け継がれ、けっして表に出ることはなかった。

           (引用ここまで)


        *****

“マギ”とは、非キリスト教の知恵者であり、キリスト教は異教と接触しながら生まれ、異教と接触しながら存続した、と言っていいのではないかと思います。

“マギ”の伝統を受け継ぐ者は、カトリックが専制政治を行うことになった後も、非キリスト教圏の文化において常に密かに存在し続けた、と言われています。

非キリスト教的思想は、ルネッサンス以降は、神秘思想として再びヨーロッパに紹介されるものもあり、それらは西洋の神秘思想として今の精神世界にも継承されていると思われます。

そのひとつであるヘルメス学は、15世紀ルネッサンス期にヨーロッパにもたらされましたが、

その文書を研究したイタリアの哲学者ジョルダーノ・ブルーノは、ガリレオより早期にコペルニクスの地動説を認めた人ですが、処刑されてしまいました。

        *****

       (引用ここから・同書より)

ブルーノの罪状の中には、「キリスト教の処罰法である十字架はイエスの磔刑に由来しているのではなく、もっと古いシンボルであるアンサタ十字、すなわちエジプトのアンクからきているという信念をもっている」ことがあった。

フランシス・イエィツはこのことについて、ベネチア宗教裁判に関する文書から引用している。

            ・・・・・

非常に重要なのは、ブルーノが十字架をエジプトの神聖なしるしと考えていた点である。

ブルーノは述べている。

「キリストがはりつけにされた十字架は、もともとはキリスト教の祭壇の形式ではなかった。

じつは女神イシスの胸に彫られたしるしであったものを、キリスト教徒が盗んだのだ。」というのだ。

「わたしはマルシリオ・フィチーノの著作を通して、この十字架の美質と神聖さが、われらの主が受肉した時代よりはるか古代にさかのぼること、それがエジプトの宗教が盛んだったモーセの時代に知られていたこと、このしるしがセラピス神の胸につけられていたことを知った。」と彼は語った。

そして、かれは火あぶりの刑に処された。

       (引用ここまで)

        *****

処刑されても主張し続けるべき真理が書いてあった文書「ヘルメス文書」については、wikipediaに以下のようにあります。

         ***

ヘルメス文書とは、ヘルメス・トリスメギストスが著したと考えられた、神秘主義的な古代思想の文献写本の総称である。

彼はモーゼと同時代の知者とも考えられていた。

文書には紀元前3世紀に成立した占星術などの部分も含まれるが、紀元後3世紀頃までにネオプラトニズム(新プラトン主義)やグノーシス主義などの影響を受けて、エジプトで成立したと考えられている。

ヘルメス選集の中でも、第一文書「ポイマンドレース」は、グノーシス主義的な文献として有名であり、アラビア語に翻訳され、イスラム圏のスーフィーズムでも言及される文書である。

ムスリムにとって、ヘルメスは預言者エノクと同一視されており、クルアーンでは預言者イドリースとされる。

内容は複雑であり、占星術・太陽崇拝・ピュタゴラスなどの要素を取り入れている。

他にも、「一者」からの万物の流出(ネオプラトニズム的)や、神を認識することが救いである(グノーシス主義的)などの思想もみられる。


        ***

ここにまとめられているように、ヘルメスという概念は多岐にわたっていて、キリスト教文化がキリスト教以外の周辺の密教的文化を総称してそう呼んでいるのではないかと思うほどです。

同様に、東方の知恵者という意味での“マギ”とは誰だったのかという問いは、「東方」という言葉が実際には非キリスト教世界すべてを対象としているのではないかと思われます。

雄弁な西洋文明の周りには、いつでもそれ以外の文明が静かに、相補的にあり続けた、ということです。

現在でも、“マギ”の知識の伝授が実際に行われているかどうかは、定かではありませんが、自ずから明らかにされるまでは、僧院や秘密結社やミステリースクールという形をとることもあればとらないこともあるものとして、存続していくのではないかと思います。


写真は、フランク族の墓碑に描かれたイエス・キリスト像・7世紀(創元社「図説世界の歴史3」より

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「エジプト」で15件
「十字」で15件
関連記事があります。



Wikipedia「アンク」より

エジプト十字とも呼ばれる。そもそも Ankh という古代エジプト語自体が生命を意味しており、生命の象徴とされる。

ラテン十字の上部がループ状の楕円となった形状をしており、サンダルのひもをかたどったものと言われる。

また、ヒエログリフにおいて、Ankh ないし Anx 音を表す文字としても用いられ、ツタンカーメンも Tut-ankh-amen の ankh の部分にこの文字が用いられている。

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マギと秘儀とグルジェフ・・・東方の三博士を求めて(その3)

2010-01-11 | 古代キリスト教
「マタイによる福音書」の東方の三博士(マギ)は誰だったのか、ということを、引き続き考えています。

「マギ・星の証言」の著者エイドリアン・ギルバート氏は、その著書の冒頭に、本を書いた意図を記しています。


      *****

     (引用ここから)

キリスト教を一般に広めるにあたり、教会はそれがまったく新しい啓示であるかのような装いを与えた。

世界史の中で地上に突然現わされた雷光・・それがキリスト教であるかのようだった。

だが、それは本当だろうか?。


福音書の物語を客観的に見れば、ユダヤ教の大祭司がイエスを背教者とみなしていたのは明らかだ。

これはたんにイエスがモーセの教えを拡大解釈していたせいばかりではない。

イエスの教えには明らかに、非ユダヤ教起源の部分があったのである。

しかし、そのような非ユダヤ的源泉とは何なのか。

イエスはどのようにして、その源泉と接触することになったのか。

それこそ、わたしの探求のテーマであり、また“マギ”に関心を抱いた理由である。

       (引用ここまで)

     
  *****


著者はこの問いを抱いて、20年以上、“マギ”の伝説の背後に横たわる大きな問題の答えを探し続けました。

そして、彼は続けて書いています。


      *****

 
        (引用ここから)

わたしの考えでは、世界の多くの人々が神の息子として崇拝するようになった救世主イエスは、単独で活動していたわけではない。

イエスは、彼が演ずるべき歴史的な役割(運命)と、秘教的な知識の両面について、かくれた叡智の師匠(マスター)たちの指導を受けていたのではないか。

        (引用ここまで)

             *****


彼の最初の問いは、22歳の時、イスラエルに貧乏旅行をして辿り着き、ベツレヘムのクリスマスを見物したときに芽生えました。


             *****

           (引用ここから)


ベツレヘムの教会前の広場には電飾のプラスチックの星が輝いていた。

よく見ると、プラスチックの星は五亡星だった。

五亡星は伝統的にクリスマスの星とされている。

けれども考えてみると妙だ。

聖書ではベツレヘムは「ダビデの町」と呼ばれている。

だが、ダビデの星はシナゴーグやイスラエル国旗にあるように六亡星だ。

なぜベツレヘムの星が六亡星でなくて五亡星なのか。

電飾の星を見ながら、東方の三博士のことを考えた。

彼らはベツレヘムを訪れた最初の巡礼者だ。

だが彼らは何者なのか。

   (引用ここまで)


              *****



そして彼は、秘教的な知恵の持ち主と接触をもったと名乗っていた思想家グルジェフの孫弟子にあたる人に会うことを決意し、再び旅に出ます。

彼は、知恵あるマスターが弟子たちに世界の真理を伝授する、そのような“秘教的な教団”が今なお存在しているに違いない、という確信を持っており、福音書に現れる“東方のマギ”は、その歴史的な系譜の上にいるのではないかと考えたのです。

そして思想家グルジェフはその歴史的な系譜に与しているのではないかと考えたのです。

       
           *****


        (引用ここから)


ウスペンスキーによれば、グルジェフは「自分の教えは“秘教的キリスト教”だ」と述べたという。

それは多くの教会にはもはや理解できない秘密の伝統に由来する教えだ。

グルジェフは、この秘教的キリスト教の教えは、古代エジプト起源だと述べる。

「キリスト教会、ならびにキリスト教の礼拝の形式は、教会の神父が作ったものではない。

教義は、エジプトですでに完成されていたものを、そのまま採り入れたのだ。

それも我々の知るエジプトからだけではなく、我々の知らないエジプトからもだ。

この未知のエジプトは、今のエジプトと同じ場所にずっと昔に存在した。

歴史の中で生き残ったのは、そのほんのわずかであり、
しかも秘密に守られたので、
われわれはそれがどこに隠されているのかさえ知らないのだ。」

ウスペンスキー著「奇跡を求めて」より


グルジェフが説き、ウスペンスキーが集大成した思想は、従来のキリスト教からかけ離れた刺激的なものである。

その思想には独自の説得力があり、わたしも含めて興味をひかれる者は多い。

しかし彼自身、旅の最中にほんとうに秘密のスクール「サルムング教団」に遭遇したのだろうか。

その教団はどこにあるのだろうか。

その教団の教師は、かつてのマギの系譜を継ぐのではないだろうか。

(引用ここまで)
       
        *****


続きます。。

写真はエジプトのコプト教会(創元社「図説世界の歴史3」より)


wikipedia「グルジェフ」より

ゲオルギイ・イヴァノヴィチ・グルジエフは、ロシアの神秘思想家。

神秘思想家として紹介されることが多いが、著作・音楽・舞踏によっても知られる。

ギリシャ系の父とアルメニア系の母のもとに当時ロシア領であったアルメニアに生まれ、東洋を長く遍歴したのちに西洋で活動した。

20世紀最大の神秘思想家と見なされることもあれば、怪しい人物と見なされることもあるというように、その人物と業績の評価はさまざまに分かれる。

欧米の一部の文学者と芸術家への影響、心理学の特定の分野への影響、いわゆる精神世界や心身統合的セラピーの領域への影響など、後代への間接的な影響は多岐にわたるが、それらとの関係でグルジエフが直接的に語られることは比較的に少ない。

人間の個としての成長との関係での「ワーク」という言葉はグルジエフが最初に使ったものであり、近年ではもっぱら性格分析のツールとして使われている「エニアグラム」はグルジエフが初めて一般に知らしめた。

精神的な師としての一般的な概念にはあてはまらないところが多く、弟子が精神的な依存をするのを許容せず、揺さぶり続ける人物であった。


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やっと大きくなって、よかったなぁ・・・家族と心理療法

2010-01-07 | 心理学と日々の想い
お正月は親戚や親や兄弟や、いろいろな人とのかかわりがありました。

わたしの実家はいろいろと厄介なしがらみがある家なので、こどもの時どころか、今に至るまで、実家に関しては、心に針がつきささるような苦しみを覚えずにいられないのですが、

それでも、わたしもいい年になったので、さすがに苦しみの質は少しは変わってきたかもしれないと思いつつ、お正月をすごしました。

若い時はただ苦しみから逃れたくて、家族から自由になることだけを望んでいたのでした。

ついに一人のアパートに脱出した20才のとき、どんなに空が青く見えたことでしょうか!

その頃、エンカウンター系のグループ療法を受ける機会を得、体験してみました。

そのグループ療法というのは、自己啓発セミナーと内容的には類似しているかもしれない心理療法的な部分もあると、わたしは思うのですが、とにかく自由の味を深く味わえたことには心底感激しました。

わたしはわたしの心が血を流して悲しみ、理不尽な人生への怒りに燃えていることを初めて見ることができました。

そして、自分の中をクリアにできた時に初めて、他者のまなざしが自分の内側まで到達することができるのだということが分かりました。

これは大変深い体験でした。


それで何年か、家族から離れて、家族と自分の問題はクリアになったと考えて、生活することができました。

しがらみのない生活は、まるで竜宮城を訪れたような、軽快で純粋な自由の王国の心地よさで、わたしははじめて人生の幸せを手にしたと思いました。

それから、また思うところがあって、もう一度問題の家族のいちばん痛い所に接近してみようと思い立ち、家族という名で与えられたわたしの難題を、もう一度解いてみようと思い立ちました。


そうこうするうちに2、30年たってしまいました。

そんなわたし、お母さんとしての人生をおくる日々。

問題を拡大再生産しているかもしれない自分って、どうなんだ?と、思いつつ、いちおうお正月を仕切っている自分。

気がつけば、命からがら脱出した実家の、年老いた両親のお正月の準備に奔走している自分もいます。


わたしの人生の難問は解決したのかといえば、微妙で、なにせ相手がある話なので、やっぱり大変だったりします。

それでも、幼い時や若い時には、どうしようもなく強く思えた相手が、今ではそうでもなく感じられるのは、自分がある程度の時間生きてきた証であろうかと思います。

問題は解決していると言えば言えるし、むしろ解決しないことの味わいを味わっているのかもしれません。

昔はただ巻き込まれ、被害者だと思い込んでいた自分が、今では描かれている人生模様のあり方を、自分の思いで多少形を変えることができるようになったというのは、やはり感無量です。


お正月の数日の濃密な人間模様は、かつて幼かったわたしが生きた空間がふたたびよみがえったような思いにとらわれ、家族という謎について改めて考える機会となりました。

そしてまた、その家族であることそのものの傷を癒す手法としてかつて受けた、エンカウンター的グループ療法で体験した“時”の濃密さを思い起こす時でもありました。



wikipedia「エンカウンターグループ」より

エンカウンターグループは、カール・ロジャースが開発したカウンセリングの方法。

構成的エンカウンター(予め課題が用意されたもの)と非構成的エンカウンター(予め課題が用意されていないもの)に大別される。


非構成的(ベーシック)エンカウンター

クライエント中心療法の理論を健常者グループに当てはめ発展させたもの。

グループで感じた事を思うままに本音で話し合っていく。

ファシリテーター(グループをまとめる役)によって進行する。

ファシリテーター役はよく訓練された専門家でなければならない。

集団心理療法のひとつとして扱われるが、参加者によってはエンカウンターに参加した経験そのものがトラウマになってしまう場合もある。

構成的(グループ)エンカウンター

リーダー(ファシリテーターに当たる)から与えられた課題をグループで行う「エクササイズ」とエクササイズ後にグループ内でそれぞれ感じたこと、考えたことを互いに言い合う「シェアリング」で構成される。

教育活動として行われることも多い。

たいていの場合、エクササイズに入る前に自己紹介を兼ねたゲームなどが行われる。

グループのメンバー間の緊張をほぐし、その後のエクササイズを円滑に進めるためである。

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マギとゾロアスターとミトラ・・イエスを祝いにやってきた東方の三博士は誰だったのか

2010-01-02 | 古代キリスト教
福音書にある「東方の三博士(マギ)」とは誰なのか、ということを考えています。

引き続きエイドリアン・ギルバート著「マギ・星の証言」という本から、抜粋して紹介します。

リンクを張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。



           *****

            (引用ここから)

エジプトやメソポタミアと同様、ペルシアもきわめて古い国だ。
その宗教の起源はきわめて古く、文明の曙にまでさかのぼる。

ピラミッドが建設される以前、アブラハムがカルデアのウルへの壮大な旅を行うはるか昔の時代、イランにも、インドにもすでにインド=ヨーロッパ語族に属する人々が住んでいた。

今日のペルシア人、ヨーロッパ人の祖先に当たるこれらの人々は、それぞれの王朝で部族ごとに組織されていた。

宗教は祭儀を中心としたもので、その宗教的要素の多くは今もなお当地に見られる。

ゾロアスター教以前の古い宗教を奉じていた祭司たちはすでにマギと呼ばれていたという。

マギに認められることが、新しい預言者にとっては決定的に重要だった。

ベネットは「叡智のマスターたち」の中で書いている。

      ・・・・

マギはゾロアスターの現れる以前から中央アジアに存在した階級集団であった。

2人のマギに、ゾロアスターが真の預言者かどうかを試みる任務を与えられた。

その結果ゾロアスターの授かっていた秘儀は二人の知る範囲を超えたものであることが分かった。
王はマギのすすめに応じて改宗した。  「叡智のマスター」

・・・・・


ゾロアスター教は、救世主が生まれるとされる終末の訪れを待望している。

そのとき 悪魔はついに滅び、悪は追放され、世界は正しくなる。

ほぼ250年の間、ゾロアスター教は人々の宗教心を満たす役割を果たしてきた。

しかし紀元前324年、アレクサンダー大王の侵入によって、ペルシア帝国の情況は激変した。

福音書の「マギ」がイエスの誕生を見るためにベツレヘムに出かける頃にはゾロアスター教はすっかり影の薄い存在になっていた。



紀元前1世紀、メソポタミアのほとんどの地方はパルティア帝国に併合されていた。

だが、ローマが政権を握るまで、トルコ東部やメソポタミアの多くの小国では政治的にも宗教的にもかなりの自由が認められていた。

こうした寛大な状況で、多くの土着の教団がおこった。

中でも最も重要なのが、ミトラ教だ。

ミトラ教はゾロアスター誕生以前、アーリア人が信仰していた神である。

パルティア帝国周辺にミトラ教をはじめ、多くの教団が存在したことから考えると、福音書の「マギ」がやってきたのはペルシアではなく、メソポタミアからだったとも考えられる。


ゾロアスターが動物の犠牲に反対していたのに対し、ミトラ教では雄牛の犠牲が重要な位置をしめていたことでも分かるように、

実はミトラ教がゾロアスター教の後継者であるという、いくたびとなく繰り返された教科書的な見方は間違っているのではないか。

両者は、元は原型となる同じ宗教に由来しているが、
その発展の道筋が異なっていた別の宗教なのである。

両者の原型となったのは、非常に古いアーリア系の宗教であり、
その起 源は最後の氷河期にまでさかのぼるという説もある。

この宗教はゾロアスター教の時代よりはるか昔に、中東や北インドに広まっていた。

しかしながら、このヴェーダ系、あるいはアーリア系の神々について触れている最古の文献が見つかったのは、ペルシアでもインドでもなく、トルコなのだった。


紀元前2200年頃、フルリ人と呼ばれる人々がメソポタミア北部の肥沃な土地へとやってきた。

ペルシア人と同じくアーリア人であったフルリ人は当時の最新の発明品をたずさえていた。

戦車である。

新しい兵器で武装したフルリ人は、たちはだかる者たちを蹴散らし、ミタンニ王国を築いた。
今日、漠然とクルディスタンと呼ばれている地域である。

フルリ人は進撃を続け、紀元前1800年にはペルシア湾に到達した。

そこからシリア、パレスチナへ進み、すでに平定していたその地方のセム系諸部族とまじりあった。


紀元前1400年頃、ミタンニと隣国のヒッタイトとのあいだに条約が結ばれた。

その条文の中にインドラ・“ミトラ”・ヴァルナ・二人のアシュヴィンからなる五柱のアーリア系の神々に触れた個所がある。

ミトラは、紀元前630年頃に生まれたとされるゾロアスターよりずっと前にトルコ東部で知られていたのである。

わたしはミトラ教が初期キリスト教の発展に大きな影響を及ぼしたと考えるようになっていた。

        (引用ここまで)

    *****



ゾロアスター教以前の古い宗教を奉じていた祭司たちはすでに「マギ」と呼ばれていた。

「マギ」に認められることが、新しい預言者にとっては決定的に重要だった。


「マギ」はゾロアスターの現れる以前から中央アジアに存在した階級集団であった。


本書にはこのように書かれていますので、「マギ」という宗教的な職種は、非常に古くからあったのだと考えられます。

イエスの生誕を祝いにやってきたという東方の三博士は、古代的な響きのするゾロアスター教よりさらに古い伝統に属する人々だったということです。

筆者は、ミトラ教はゾロアスター教から派生したという説をしりぞけて、ミトラ教はゾロアスター教以前から存在したと指摘しています。


・・・・・

ゾロアスターが動物の犠牲に反対していたのに対し、ミトラ教では雄牛の犠牲が重要な位置をしめていたことでも分かるように、

実はミトラ教がゾロアスター教の後継者であるという、いくたびとなく繰り返された教科書的な見方は間違っているのではないか。

両者は、元は原型となる同じ宗教に由来しているが、
その発展の道筋が異なっていた別の宗教なのである。

両者の原型となったのは、非常に古いアーリア系の宗教であり、その起源は最後の氷河期にまでさかのぼるという説もある。

この宗教はゾロアスター教の時代よりはるか昔に、中東や北インドに広まっていた。

・・・・・


起源を氷河期にさかのぼることができる宗教があるとすると、それは人類の謎を解く鍵をもっているに違いありません。

“牡牛を犠牲にする宗教”は、どのような起源と広がりを持っているのか、大変興味深く思われます。


キリスト教とミトラ教の関係について、次に続きます。

関連記事
画面右上の「検索スペース」で、ブログ内検索にして「ミトラ」「ゾロアスター」「キリスト」「クロマニヨン」などで関連記事があります。



wikipedia「フルリ人」より

フルリ人(英: Hurrian)は、古代オリエントで活動した人々。
紀元前25世紀頃から記録に登場する。
彼らは北メソポタミア、及びその東西の地域に居住していた。

彼らの故郷は恐らくコーカサス山脈であり、北方から移住してきたと考えられるが、確かではない。
現在知られている彼らの根拠地はスバル(Subar)の地であり、ハブール川流域や後には北メソポタミアと歴史的シリアのいたるところで小国を形成した。

フルリ人達が建てた国の中で最も大きく、有力であったのはミタンニ王国であった。


コメント (4)
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