小さな旅、大きな旅の写真物語(Virtual trips/travels)

京都や東京を本拠地として、自然の中や町を歩きながら、撮った写真をどんどん掲載します。いっしょに歩いているように。

自然教育園日記 その139  645中判カメラFujifilm GFX50Sの意義 その2

2019-08-27 19:05:42 | 日記
自然教育園日記 その139  645中判カメラFujifilm GFX50Sの意義 その2

連日の暑さ、これにもめげずに自然教育園にいっても殆ど撮影対象が無い。遠出をすればいいのだが、近々海外に出かけるので、国内旅行はしばらくお預け。海外ではいつもいい写真が撮れないので、当分気に入った写真を掲載することは難しい。海外旅行から無事帰れれば、
Fujifilm GFX50Sをもって、水の表情を中心に本格的に攻めたい。海の表情と湖面の表情です。
それでもFujifilm GFX50SにFujifilmの純正レンズを付けたので、コツコツ調子を見ています。現状Fujifilm GF120mm macroは特に問題ない。まだ特に感心もしていない。Fujifilm GF45mmはベストマッチングと思っている。重さがちょうどよく、色々な場面で活躍できる。問題なのはFujifilm GF23mmで、いまのところ不審な点がある。1)最後のテスト写真のように実質18mmのはずだが、あまり広角的印象が得られない。2)色にじみがあるように思えてならない。暗い木の葉からの木漏れ日の色が気に入らない。3)重たい。Fujifilm GFX50Sに付けて手で持って長く歩けない。こいつだけちょっと古い中古であることが不信を生じさせているのかな?

Fujifilm GFX50S + Fujifilm GF120mm macroではなかなか撮る相手がみつからないので、
Sony alpha7RIII + Sony FE 70-300mmを持ち出した。しかし、結局遠くの虫を撮ってはトリミング拡大しているに過ぎない。こうやって両者を並べて載せてみると、両者の性格の違いが解ってくる。いい対象がない中でもFujifilm GFX50Sは絵を作ろうというアガキが見られる。Sony alpha7RIIIはシャッターチャンスで勝負しようという魂胆しか見えてこない。機材が撮り方を誘導してしまうのです。

だんだんFujifilm GFX50Sを理解してきました。このカメラは撮り手の意図をしっかりとじっくりと受け止めるカメラです。きっと、気に入った世界に誘導してくれるでしょう。

海外にはFujifilm GFX50S+Fujilim GF45mmと23mm、セカンドカメラとして、FujifilmX-T3+Zeiss touit 32mmと12mmの2本立てです。ご期待ください。

2019-8-6~11 Fujifilm GFX50S + Fujifilm GF120mm macro




ツリガネニンジン

ハチが後から飛び込んだのでピンボケ。



クモの巣のにじみを利用しようとした。







カイツブリはやっと2匹になって、巣をつくり卵まで産んだそうだが、大雨で巣が流されて、2匹とも姿を消してしまったようである。



ガマの茎の作るリズム。こういう絵になると喜んで何枚も載せてしまう。





2019-8-23
Sony alpha7RIII + Sony FE 70-300mm







2019-8-25 Fujifilm GFX50S + Fujifilm GF120mm macro又はGF23mm



トノサマバッタの親子が日陰で休憩している図。


GF23mmの試写


GF23mmの試写


GF23mmの試写
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Newアート考察その3 立体による平面(ブリュック)と平面による立体(ザッキン)

2019-08-21 16:59:12 | 日記
Newアート考察その3 立体による平面(ブリュック)と平面による立体(ザッキン)

ルート・ブリュック(スウェーデン生まれ、フィンランド国籍1916-1999)は陶板作家としてスタートし、晩年は細かい陶器のパーツ(タイル)を集合させた立体と平面のクロスオーバー作品を展開した。一般的には、彼女の蝶の陶板が人気です。


参考資料1 ルート・ブリュック


参考資料2 ルート・ブリュック 蝶


参考資料2 ルート・ブリュック 蝶たち

初期には絵画を陶板に描くことから始まり、次第に独自の陶板アートを作り上げてゆきました。蝶はお父さんが蝶の学者であったために、お父さんの残した蝶の資料を忠実に陶板に反映させていった結果です。よって、全て羽を広げた真上からの蝶の姿になっています。
当方の蝶の陶板は、架空の蝶ですが、飛び姿は高速連写の写真から起こしています。現代の写真技術で、過去の蝶の概念を覆そうとしているわけです。


筆者クロスオーバー展より


参考資料3 ルート・ブリュック 静物


参考資料3 ルート・ブリュック 魚の皿


参考資料3 ルート・ブリュック ノアの方舟


参考資料3 ルート・ブリュック ライオンに化けたロバ


参考資料3 ルート・ブリュック 鳥

さて、当方が今回話題にしようとしているのは、ブリュックの良く知られた陶板アートではなく、その後、晩年に向けて変化していった幾何学的陶板手法です。細かい陶器の立体パーツを集合させて、平面と立体の中間的造形を作っていったのです。このパーツはレゴ(LEGOプラスチック製の組み立てブロック玩具)の考え方に近い。ブリュックのパーツはLEGOのように単一ではなく、もっと種類も多く、色もさまざまである、しかし同じようなデザインを使い回している。当方の言っている、作家の晩年の理想である、原図形への集約に相当する。
ブリュックがこのようなパーツ作品に移行した理由の一つとして、セラミックの本質的問題がある。セラミックで大きな作品を作るのは困難が伴う。焼く前のセラミックの強度が自重に耐えられないからである。どうしてもパーツに分けて、組み立ててゆくことになる(ブロンズの原型も粘土であるが、芯棒をいれて補強して作る)。ブリュックの方法だと、自在に立体と平面をクロスオーバーでき、色も自在に付けられる。大きな作品も自由に作れる。 立体と平面、色を自由にクロスオーバーさせることが出来ると、作品は無限の可能性を持つ。 形ある物の存在感と、形ないものの表現を両立できる。


参考資料2 ルート・ブリュック 都市


参考資料2 ルート・ブリュック 黄金の深淵


参考資料2 ルート・ブリュック スイスタモ


参考資料2 ルート・ブリュック 流氷  フィンランド大統領私邸に飾られる最後の作品


参考資料3 ルート・ブリュック


参考資料3 ルート・ブリュック


参考資料4 ルート・ブリュック ジャイブル


参考資料4 ルート・ブリュック


参考資料1 ルート・ブリュック レリーフ


参考資料1 ルート・ブリュック ドバルダン

このパーツ化によるセラミック立体はブリュックに始まったわけではなく、フィンランドの先輩陶芸家であるビルゲル・カイピアイネン(フィンランド 1915ー 1988)は陶器のビーズを針金で連ねて立体を作るという手法で、平板から立体に飛び立っている。彼らはいずれもフィンランドの陶器所アラビア所属のアーティストでした。


参考資料5 ビルゲル・カイピアイネン

カイピアイネンは初期の作品にみられる、立体的平板からパーツ集合による完全な立体へ飛び出した。


参考資料5 ビルゲル・カイピアイネン


参考資料5 ビルゲル・カイピアイネン 

平面、立体、色の自由な表現は人の頭脳の極限への挑戦であり、そう簡単に終点に到達できるはずはない。彼らがもっと長生きしたら、どのような展開が待っていたのだろうか。

こんな時に、ひょんなことで、彫刻家オシップ・ザッキン(ロシア、1890 - 1967)に出くわした。


参考資料6 オシップ・ザッキン

皆さんもご存じとおもいますが、なんでも鑑定団にこの2点のザッキンの絵が登場し、400万円の値が付けられました。フリーマーケットでおまけにただでもらった絵が400万円だったという話もショッキングですが、それ以上にザッキンの絵に仰天したのです。

いままで彼を知らなかったことは大きなショックでした。彼は2つの意味で当方に大きな衝撃を与えた。まず、かれが絵画のキュビズムの連中との交流から生まれた、キュビズムの匂いのある彫刻の強烈な印象である。キュビズムは立体を平面に分解して再構成することにより、二次元の絵画に3次元を取り込んだ。これは単に2次元の作家が3次元にあこがれてやったことではなく、実体から受ける印象をいくつのパーツにして、その再構成のなかで、印象を強く、あるいは多様性を与えることにより、全体を高次元に持ち込込むことが目的だった。ザッキンは彫刻において同じ目的で、3次元を2次元パーツに分解し、それを再構成することで、より高次元の空間を作り上げたと思うのだ。
2次元の絵画は3次元である立体の強さに引け目を感じるが、感情とか幻想とか目に見えないものを表すに彫刻より有利である。逆に彫刻は実体に近い立体を使う強みと共に、実体にないもの表現するに、かえって実体がブレーキをかけてしまう。それぞれに強みと弱みがある。ザッキン、ブリュック、カイピアイネンはそれぞれ違った方法で、絵画と彫刻の弱みを克服して、より高次なものを作ろうとしたと思われる。


参考資料7 オシップ・ザッキン 破壊された都市のマケット


参考資料7 オシップ・ザッキン 放蕩息子の帰還


参考資料7 オシップ・ザッキン 住処


参考資料7 オシップ・ザッキン 建築のために、あるいは柱廊


参考資料7 オシップ・ザッキン 母性

もう一つの衝撃は、彫刻家ザッキンの絵のうまさである。彼の絵はピカソと同様の衝撃を与える。さらにザッキンの絵をネットで探すうちに、彫刻家ヘンリー・ムーア(イギリス1898- 1986)の絵に出くわした。これまた魅力的である。彫刻家は実体の要素をすでに捉えていて容易に2次元に表すことが出来るに違いない。平面と立体を自由に行き来できるのだ。これはピカソでもできなかったことだ。ザッキンの絵の色使いも魅力的であり、彫刻家が決して色が使えないわけではないことを示している。しかし、ザッキンの彫刻に色は無い。
オシップ・ザッキン、ヘンリー・ムーア、ニキ・ド・サンファル、ルート・ブリュック、ビルゲル・カイピアイネンかれらがそれぞれ、立体と平面と色の狭間で何を考えていたのか? より高次な表現を探し求めていたことは間違いない。かれらが、2倍の寿命をあたえられたなら、どんな展開が待っていたのか?


参考資料7 オシップ・ザッキン 曲芸師


参考資料7 オシップ・ザッキン 眠れる美女


参考資料7 オシップ・ザッキン デモ


参考資料7 オシップ・ザッキン 線による顔


参考資料7 オシップ・ザッキン 演説家


参考資料8 ヘンリー・ムーア銅版画


参考資料8 ヘンリー・ムーア リトグラフ


参考資料8 ヘンリー・ムーア


参考資料8 ヘンリー・ムーア

ザッキンの彫刻と絵をみて、自分があまりにみすぼらしく力が抜けてしまう。今はただ<あきらめるな><あきらめるな>とつぶやきながら色立体を作り続けている。

しかし、気を取り直してみると、
当方のクロスオーバー展のあとに、何かをつかみかけたのに、なんだか先が見えないもやもやした霧の中の手探りであった。しかし、この考察が一条の光を与えたような気がする。セラミックとガラズのクロスオーバーは必然的に作品をパーツに分けてそれぞれの個性をぶつける方向を生み出した。この時にパーツに分けて、合体することは何か新しい表現を生む期待が生じた。


筆者クロスオーバー展より

ブリュックのパーツ手法は以前から知っており、今後の試みの中に入っていたが、ザッキンの登場で、明確に、平面、立体、色の三者のクロスオーバーの方向が見えてきた。<あきらめるな><あきらめるな>と前に進むのだ。さて、何が生まれるか?


参考資料1展覧会公式図録『ルート・ブリュック 蝶の軌跡』東京ステーションギャラリー(2019年春)
参考資料2 ネット情報 ルート・ブリュック(Rut Bryk)の展覧会オフィシャルウェブサイト。東京ステーションギャラリー(2019年春)、
https://rutbryk.jp/
参考資料3 展覧会公式図録『ルート・ブリュック 蝶の軌跡』で筆者撮影
参考資料4 ネット情報 展覧会公式図録『ルート・ブリュック 蝶の軌跡』
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000008.000035843.html
参考資料5 魅惑のビルゲル・カイピアイネン(Birger Kaipiainen)展
https://www.fuku-ya.jp/blog/2013/10/23/1490/ 参考資料6 ネット情報 O・ザッキンの絵 2点|開運!なんでも鑑定団|テレビ東京
https://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/kaiun_db/otakara/20190813/03.html
参考資料7 パリ市立ザッキン美術館展 「ザッキン―彫刻と素描」展 
参考資料8 ネット情報 絵画買取価格査定
https://kakakusatei.com/ossip-zadkine/guillaume.html








コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Newアート考察その2 色立体-2  

2019-08-09 14:03:33 | 日記
Newアート考察その2 色立体-2  

ガラスの森美術館を出て、直接エクシブ(XIV)、箱根離宮に入ります。なにやらとってもバブルチックな会員制ホテル。インテリアは豪華にはみせているが万人向けの地味基調。泊り客はいかにもエクシブと保養所提携している企業に勤めている方が家族づれで訪れているといった雰囲気。しかし、大浴場と食事はさすがにしっかりしていました。


左手、夕食会場に続くイックステリア


美味しい夕食にご満悦の家内


さっそく、この宿で特別に推薦された日本酒を注文


この時飲んだ日本酒、神奈川県足柄、瀬戸酒造の純米吟醸酒<いざ>が超うまかった。とっても心のこもったお酒でした。1866年創業、1980年中断、2018年醸造再開の酒造店。ネットに出てます。今ネットで注文してしまいました。この時の味がまた味わえるか、楽しみ。(届いた<いざ>はやっぱりうまかった。)




次の日、またもや和食の朝食、これまた結構でした。


箱根登山電車で宮ノ下から彫刻の森へ向かいます。我々の旅はいつも一切マイカー無しです。


我が色立体の先生、ニキ・ド・サンファル。立体界の既存概念をいとも簡単にぶっ壊して色立体の世界を作り上げた、フランスのジャンヌダルク。




フェルナン・レジェ 歩く花

何故か、ピカソ館の前にあるフェルナン・レジェの立体。みんなピカソの作と勘違いするのではないかと心配だ。ピカソの大きな色立体がないから、フェルナン・レジェの色立体で間に合わせようと考えたのか? 何か、この美術館のセンスを疑ってしまう。


カルダーのモビール 
彫刻の森にはもっと大きなのを飾りましょうよ。モビールは彫刻ではないとおもっているのかな?




ヘンリー・ムーア


彫刻の森美術館には色立体が殆ど無い。彫刻とはこうあるべきという、なにか超保守的な方が企画した美術館のような気がする。子供たちはアトラクション的立体であそんでいるが、よたよた訪ねてきた高齢の方々はこの広い敷地で本当に楽しんでいるのかな? 色はピカソ館が受け持つからいいとでも思っているのかな?

彫刻の森美術館のピカソ館は7月の終わりごろからリニューアルが終わって開館されるようです。現在は別棟でピカソのセラミックや金属の作品が一部展示されていました。彫刻の森美術館所蔵のピカソ作品のカタログを購入、これをたよりにピカソの広範囲の作品を手法別に考察してみました。
以下の写真は引用として彫刻の森美術館所蔵のピカソ作品のカタログからコピーしました。
(記載の作成年齢はアバウトです。)

ピカソ(1881年10月25日 - 1973年4月8日)は
当然油彩、水彩は晩年までずっと書き続けていますが、銅版による版画、エッチングも若いころから晩年にいたるまで作り続けています。印刷による多量生産の為に必然であったのでしょうか?


油彩 83才

ガラス片を重ね合わせるステンドグラスの一手法、ジェマイユや版画の一手法と石版画リトグラフを手掛けています。64才ころからリトグラフ刷り師フェルナンド・ムルローの工房に入り浸っていたそうです。これ等の作品は70才ころまでぽつぽつとあるようですが実際の作成時期に関する詳しい情報が見当たらなく、よく分かりません。


ジェマイユ 42才(原画)


リトグラフ 72才

セラミックに関しては65~80才あたりまで比較的長期手掛けています。ちょうど当方と同じ年齢の時に興味を持っていたということになります。




67才


67才


68才


71才


74才

ベネチアのアートディレクター、エディジオ・コンスタンティーノのプロジェクトに参加して、ガラスの色立体を作っていたのも73~79才の丁度この時期です。
金属(ブロンズ、金など)も69-87才あたり晩年近くまで作っています。壊れないものへの執着があったのかもしれません。


86才

ピカソのセラミックに関しては、比較的気に入ったものだけを載せました。しかし、正直、ピカソはセラミックより油彩の方がずっといい。セラミックの立体を生かしきっていない、キャンバスが陶器になっただけ、その上、色彩に関して、油彩のように自由に彩色が出来ないだけに放埓さが半減している。後半には子供の絵のように書くことを目指して到達したと言っているが、それがヒトを楽しませているかどうかは疑問である。ピカソだからなんでも素晴らしいと思い込む必要は無い。(あくまで、このカタログに載っている作品からの印象です。)

そうなんだ、セラミックの色付けは油彩と違うのです。セラミックは一発勝負であり、書いた時と焼きあがった時は色も雰囲気もちがってしまうのです。油彩のように書きながら変化させてゆくことが出来ないのです。
ピカソ自体が、自分の絵は書いているうちに色と形が互いに触発しながらダイナミックに変化してゆくのだといっています。当方も昔のブログでピカソの絵は色と形がどちらが先にきまるとは言えない、双方が互いを作って成長してゆくと書いたことがあります。セラミックではこのダイナミックスが大きく阻害されてしまうのです。

このように技術的問題が、油彩と色立体の間には存在しています。これが、当方が、色立体と陶板の2本立てにならざるを得ない理由なのです。この障害は越えられないものなのか? 
そんなことはないと思います。セラミックには自由な立体形成と、焼成による偶然の美がある。この偶然も予測しながら作ることが出来るようになるのです。いかにピカソといえどもたかだか15年くらいのセラミック歴ではこれらを手に入れることは出来なかったのです。セラミックでも上絵具やアクリルや当方のようにガラスまで使って種々の彩色手段を組み合わせれば、次々に色を変化させることが出来ます。無論油彩のように自由には出来ないが、もっと自由度を上げる方法を見つけることが出来ると思っています。色立体と陶板の2本立てはいつか一本化できると思っています。自由な立体と自由な彩色を組み合わせることが出来るに違いない。

ちなみに、ニキ・ド・サンファルはセラミック、ガラス、金属ありとあらゆる材料を使っていますが、主軸はプラスチック系で立体を作って、ラッカー系で彩色してますから、出来上がりを見ながら作成できるし、変化させることも出来るにちがいない。色の制限もほとんど無い。油彩と色立体の間の技術的問題を一挙に解決してしまったわけです。
その気になれば、技術的問題はとび越えられるのだ、既存概念だけが障害なのだ。

それにしても、彫刻の森にある彫刻における色彩の無さはいったい何なんだ!ニキ・ド・サンファルとフェルナン・レジェ以外は当方にとってどうでもいい。なにやら小難しい理屈を書き並べるのが、彫刻なのか? もっと楽しく、生き生きとした生命力は出せないのか。頭で作っているとしか思えない。彫刻界の色彩否定の潮流などクソクラエだ。

シャガールのガラスはよかった。シャガールの絵の神髄がガラスでも貫かれている。画家が立体に入り込むことが出来ている。
シャガールの色立体を見て、当方の色立体への挑戦に希望が見える。

最後に、ピカソ展会場に書いてあったピカソの言葉で心にのこった3つを書きます。この正確な記述がほしくて、ピカソのカタログを買ったのですが、書いてありませんでした。
1、ピカソは≪自分の絵の原点は自然で、現実である。これ無しには何も描けない。>と言っています。
当方も<自然を原点とするのだ>と同じことを何度もブログに書いています。当方の作品にたいして、その技術の無さを非難する意見は皆受け入れます。しかし、当方のなかの自然を、自然をよく見ない人から非難されてもなんとも感じません。言葉を変えれば、当方の中にある自然に対する愛情を見てくれない方の言葉は意味がない。同じ位置に立って、自然を見つめて、もっと見つめよという言葉ならとても励ましになります。

2、ピカソは自分では抽象画を描いているつもりは全くないと主張しています。ピカソの上の言葉とリンクしています。
抽象と具象のクロスオーバーをクロスオーバー展で書きました。現実では抽象と具象はクロスオーバーしているのです。批評家がかってに抽象画とか具象画とかいっているのだと思います。
当方は、自然を原点とした色や形が尾ひれがそぎ落とされて、エッセンスとなり、その人固有の原風景(原図形)となることが目標であると思っています。ジョルジュ・ブラックのメタモルフォーゼ展のときに彼の原図形がいろいろな工芸とリンクしてゆくメタモルフォーゼのさまを書きました。晩年のマティスの切り紙画のようなエッセンス原図形が目標です。

3、ピカソは偉大な画家xxxのようなデッサンを書くことはとうに達成できた。子供の描く絵が描けるようになるまで長い年月を必要とした。と書いています。ピカソにとって、エッセンス原図形は子供の絵だったのかもしれません。当方はピカソの子供の絵風の作品を子供の絵より魅力的とは思えません。残念ながら今のところは、自分のエッセンス原図形の目標を子供の絵にする気はありません。



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Newアート考察その2 色立体-1  

2019-08-08 13:09:10 | 日記
Newアート考察その2 色立体-1  
2019-7-24~25日 箱根

以下の写真は全てFujifilm GFX50S+Fujifilm GF45mmです。たまにGF23mmがはいっているかもしれません。重さといい、画質といいFujifilmGFX50SにはFujilim GF45mmが使い勝手ではベストと思います。
クロスオーバー展を終わって、次なる展開を模索している時に、エクシブ(XIV)、箱根離宮の宿泊券をプレゼントされたので、骨休みに出かけました。ホテル・マッタリがメインで、それ以外は1日目はガラスの森美術館、2日目は彫刻の森美術館しか行かない。
こう書くと単なる骨休めに見えますが、この旅は当方にとって、とても重要な意味があったのです。
クロスオーバー展は当方になにをもたらしたか。この個展ではこれまで行ってきた色々な試みを全部オープンにしました。外にさらした結果、その中で見えてきた本当にやりたいこととは何か? 結論は自由な色立体と絵画的陶板の2点です。
なぜ、一点に絞れないか、それはわかりません。絞れないときは無理に絞る必要もない、いずれはどこかに収れんするだろう。今本当にやりたいことをやればいい。

実はこのブログを書き終えたときに、なぜ、目的が自由な色立体と絵画的陶板の2点に
分散して1点に絞れないかの答えが見えてきたのです。これはとっても重要なことでした。最後に書きます。


ガラスの森美術館では特別展、ピカソ・シャガールたちのヴェネチアン グラス彫刻展をやっています。ピカソ・シャガールたちの色立体とは?
彫刻の森美術館にはそれこそ立体の王道である彫刻が並んでいます。これを見て当方は何を思うのか?

まずはガラスの森美術館の入り口にある撮影スポットでベネチアにスリップします。



ピカソ・シャガールたちのヴェネチアン グラス彫刻展の中心なすのは、ベネチアのアートディレクター、エディジオ・コンスタンティーノです。彼のプロジェクトに多くの著名なアーティストが参加し、共同でガラス彫刻を作った。ピカソ、シャガールもその輪のなかにいたのです。培われたベネチアングス技術の魅力をバックにエディジオ・コンスタンティーノが驚くべき求心力でこのプロジェクトを推進したのです。


Toro(闘牛) 
作成:P. ピカソ/E. コンスタンティーノ
工房:フチーナ・デリ・アンジェリ 
手法:宙吹き(ちゅうぶき)/熔着装飾


ニンフ 
作成:P. ピカソ/E. コンスタンティーノ
工房:フチーナ・デリ・アンジェリ 
手法:ホットワーク/熔着装飾


春 
作成:ピカソ/E. コンスタンティーノ
工房:フチーナ・デリ・アンジェリ 
手法:宙吹き(ちゅうぶき)/熔着装飾/ラスター彩


牧神と山羊
作成:ピカソ/E. コンスタンティーノ
工房:フチーナ・デリ・アンジェリ 
手法:宙吹き(ちゅうぶき)/熔着装飾


アンフォラ
作成:ピカソ/E. コンスタンティーノ
工房:フチーナ・デリ・アンジェリ 
手法:宙吹き(ちゅうぶき)/熔着装飾


作成:ピカソ/E. コンスタンティーノ
工房:フチーナ・デリ・アンジェリ 


幻想的なアンフォラと馬
作成:M. シャガール/E. コンスタンティーノ
工房:フチーナ・デリ・アンジェリ 
手法:宙吹き(ちゅうぶき)/異色溶かし込み/熔着装飾

この素晴らしい作品を飾るに、後ろに鏡を立てるという手段を使ったのは無神経でまことに残念です。幻想の世界に入り込む邪魔をしています。ブラックな背景にして、全体をゆっくり回転させることがベストの気がします。




















農夫
作成:M. シャガール/E. コンスタンティーノ
工房:フチーナ・デリ・アンジェリ 
手法:キャスティング/異色溶かし込み



作成:J.コクトー/E. コンスタンティーノ
工房:フチーナ・デリ・アンジェリ 
手法:キャスティング/異色溶かし込み


作成:J.コクトー/E. コンスタンティーノ
工房:フチーナ・デリ・アンジェリ 


天使の窯(フチーナ・デリ・アンジェリ)のエンブレム
作成:J.アルプ/E. コンスタンティーノ
工房:フチーナ・デリ・アンジェリ 
手法:キャスティング


闘牛士
作成:J.アルプ/E. コンスタンティーノ
工房:フチーナ・デリ・アンジェリ 
手法:キャスティング


コンポジション
作成:J.アルプ/E. コンスタンティーノ
工房:フチーナ・デリ・アンジェリ 
手法:宙吹き(ちゅうぶき)/熔着装飾


クラテル
作成:E. コンスタンティーノ
工房:フチーナ・デリ・アンジェリ
手法:宙吹き(ちゅうぶき)/熔着装飾

この特別展では、圧倒的にシャガールがすばらしい。今通っているガラス工房はパート・ド・ベールという手法で、このベネチア工房は宙吹きを中心とするホットワーク(融解炉
で溶かしたガラスを吹く)です。パート・ド・ベールはキルンワーク(石膏型と窯を使う)といって根本的に異なります。宙吹きの方が基本的に透明に仕上がるのです。当方、実はパート・ド・ベールのスタティックな方向にイライラしています。このシャガールがダイナミックなホットワークへの転換をうながすことになるのか?

以下、ショップのベネチアングラス商品です。















これは家内が購入したイタリア製のピカソ・モチーフ、ペンダント6000円。クリムト・モチーフのペンダントとピカソ・モチーフのペンダントを比べて、ピカソの方がエネルギーがあると意見が一致してこちらを選択。冒険ではあるが、この選択は正しかった。
ここのショップのベネチアングラスは一見高いように思えるが、そのクオリティーからいって、とっても割安のような気がしてきた。自分のガラス作品を2,3万円で売ろうと思った後遺症かな?


ガラスの森のカフェ・レストラン。イタリア人のカンツオーネ生演奏があります。バックのシンセサイザーが1台で多様な楽器の音とリズムを出すので今更ながらびっくり。こいつを若い時に買って、これをバックに練習すれば、フルートでジャスが吹けるようになったのに。今からでは、うーむしんどい。



遊歩道のガラス彫刻。

今日はここまで。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クロスオーバー展 2019

2019-08-03 13:45:26 | 日記
クロスオーバー展 2019
2019-7-5~19
初めての当方の個展、クロスオーバー展を開催しました。個展というのは大変なのです。
必要なエネルギーはグループ展の100倍です。

今回の個展の目的は、自分の作家としての評価を知ることではなく、アートビジネスが成立できるか、その可能性を探ることの一点です。

ご来場いただいた方の半分は当方の知り合い、半分はギャラリー・オーナーの力で勧誘された近所の方々です。フリーのお客さんは1割。
大半は知り合いで、価格も通常の1/2ですから、お買い上げいただいても、そのままビジネスになったと考えることはできません。しかし、いくら知り合いでご祝儀購入でも、まったく気に入らないものには1円でも出費する人はいないことも事実です。出展作品の半分以上は売れました。


貝の記憶―1


貝の記憶―2

今回の展示会の目玉作品2点です。クロスオーバー展という由来のセラミック(陶器)とガラスの融合作品です。これは展示会の目玉ですから売り物にはしていません。案内状のこの写真を見て、色がきれいだと言って見に来られた方が何人かいらっしゃいました。

クロスオーバー展に貼った説明文を読む方はとても少なかったので、もったいないから、ここに載せておきます。以下、太字表題の文です。

貝の記憶
貝が生まれて、死んで、さらに貝殻となってからも色々な変遷を経て、海岸に打ち上げられた貝殻。貝殻にはその長い経歴が記憶として刻まれていると思うのです。到底、人の知りえないその記憶に思いを馳せるのです。
この当方の文(詩?)に当方のヤマユリガラスと大皿の組み合わせにさんざん文句を言ったお客さん<何とかコーディネーター>さんは痛く共感していました。


これは売りを意識した作品です。家内が自分で買いたいというので、売り物にはしませんでした。花器では一輪挿しが一番人気で、この方向は売れる感触を得ました。問題はガラスは製造コストがかかるということで、この作品は1万円でもビジネスになりません。製造コストをいかに下げるかが大問題です。

陶芸とガラス工芸
沖縄の陶芸村、やちむんの里では陶芸工房と琉球ガラス工房が隣り合っています。しかし、陶芸とガラス工芸は多くの方がその融合を試みたにもかかわらず、この融合が広まることはいまだありません。それは単に技術的問題なのか、融合してもより魅力的ものが生まれないからなのか?   沖縄にはガラス工芸を軸に陶芸技術を取り入れたアプローチ(稲嶺盛吉氏の土紋宙吹きグラス)と陶芸を軸にガラス工芸を取り入れたアプローチ(金子喜八郎氏の石垣焼)が存在します。融合してより魅力的なものが生まれる証拠かもしれません。しかし陶芸とガラス工芸の距離はまだまだ大きな隔たりがあります。陶芸とガラス工芸を真正面からぶつけ合わせててみました。やってみようではありませんか、やってみなければ何もわからない。



紫のガラス・ヤマユリは作品としてはいいのですが、使い道がわからずにもてあましていましたが、50%引きでお買い上げいただきました。
<何とかコーディネーター>さんがガラス・ヤマユリと大皿との組み合わせにさんざん文句をつけたので、ばらばらにして展示したら、ガラスが売れました。現在大皿は行方不明で、売れたのを忘れているのかもしれません。


大皿+ガラス・ヤマユリにさらにコケ玉作家さんがコケ玉をのっけたので、さすがこれは
だめですよ。

ヤマユリの里
自然教育園の夏をかざるのはヤマユリです。日本特産の純系ユリ。森の中にポット咲くヤマユリは、あまりに奇跡的形と思いませんか。


貝の曲線をモチーフとした貝シリーズは作っている時に一番楽しいかった作品です。エネルギーを感じるとか、楽しいとかおしゃって、大半が売れました。この上の作品をお買い上げになった方は海が好きな方で、いくつか海物をお買い上げになり、後程どのように飾っているかをメールいただきました(以下の写真)。嬉しい限りです。



貝シリーズ
貝殻は奇跡的曲線を包含しています。宇宙の無秩序あるいは宇宙の秩序と生命の秩序の接点のようです。貝殻からその曲線を抽出しようとしています。しかし、まだ一度もうまく抽出できたためしはないのです。魅力を生み出す曲線の本質はどこにあるのでしょうか?

広島から来たというフリーのお客さんが、<その通りよ!>といって、このフレーズに大いに共感していました、


この貝シリーズは下記の状況で浮かんだ<プロヴァンスの海と陸>のイメージから作りました。夜明けの海です。ということを説明すると、突然買ったといって、ご婦人がお買いあげになりました。プロヴァンスの海はこんな暗くないと異論をいう方もいましたが、この歌は暗いトーンで、夜明けの海のようなのです。

プロヴァンスの海と陸
オペラ椿姫の中で歌われる<プロヴァンスの海と陸>、プロヴァンスの海と、その地を誰がお前に忘れさせたのだ、ふるさとの輝く太陽を何がお前から奪ったのだ、思い出しておくれ、 そこで喜びがお前に輝いていたことを神様が私をここへ導いてくださったのだよ!
名バリトン歌手、レオ・ヌッチの歌を聞いた時のイメージで作りました。朝日が昇る前の海です。




これら2点は今後のベースとするために売り物にはしませんでした。


こんな特殊な形の花器は売れないだろうとおもっていたら、中国系のフリーのお客さんが、気に入ってお買いあげになりました。この方はこれ以外にもいっぱいお求めになり、職場に飾って、みなに喜ばれているというメールをいただきました。嬉しい限りです。

丸と四角
実用品は殆どが丸と四角で出来ています。陶磁器もガラスも丸と四角以外の食器は使いにくいに決まっています。住む部屋も三角ではやはり住みにくい。これは人の宿命です。だからといって陶芸=ろくろ=丸と決めつけるのおかしい。陶芸はもっとも容易に、自由に立体の形を作れるし、色を与えることもできる。しかし、陶芸の作り手も使い手も丸から容易に離れようとしない。まずはシンメトリーを否定することから始めてみました。


今回は出来る限り,器に花やコケ玉を飾りました。この作品と殆ど同様な作品を小笠原流の生け花の先生がご購入になりました。花器と花は対等に互いの魅力を引き出すべきだという考え(下記クロスオーバー⑥をよんでください)に賛同してくれました。

花を生けることに関しては、娘と家内の協力によるものだったので、スマホで家内が撮った器と花のコラボレーションの様子、以下6枚の写真を載せます。
















これら2枚の写真の作品は通常流れることがない上絵具を工夫して流れるようして、複雑な模様をつくったものです。上のお皿や下の牡蠣をモチーフとした器は全て売れてしまいました。この複雑な模様が気に入ったようです。


コケ玉のための器が今回のテーマの一つでした。これはとんでもなく不思議な形なので、売れるはずはないと思っていましたが(頭の赤は売約すみのマークです)、このコケ玉用器が本展示会の一番人気でした。何人もの方が購入を希望しました。コケ玉自体も人気があり(当然です、もともと5000円で買ったものです、一部枯れて小さくなってしまいましたが)、マッチングが良かったせいもあります。近所のレストランで働く若者がこれを見て、いっぺんで気に入ってご購入になりました。植物をインテリアとしている方には波長が合えば、どうしても欲しいと思うようになるようです。植物を器にからませる試みは今後の有望な方向であると思いました。コケ玉作りの方と組んでいましたが、コケ玉+器はみな売れてしまいました。


これは大量販売を目的としたワインカップです。貝をあしらい、上絵具を流して、酔っ払いながら、ぼーっと海を思い出すことを目的に作りました。これではワインの色が見えないと文句を言う方もいましたが、旅行で、海外の器を見なれた方が喜んでご購入され、大半は売れてしまいました。ポルトガルに行かれた方にアズレージョの話をしたら、即、向かって右のカップをお買い上げになりました。





レーザーカッターによるデジタルデザインと陶器のクロスオーバーにより、陶板を作り、ガラス粉を使って、色のきれいなインテリアを作りました。大量生産でありながら、魅力的インテリアを目指しました。大量に作ったので、売れなければどうしようと思っていましたが、展示会の途中から突然売れるようになり、かなりの数が売れました。方向としては使えそうです。単価が安くても多量に売れれば、ビジネスになると思いました。作家が芸術性を追い求めて、高価な作品を販売するばかりがビジネスではないと思うのです。

デジタルデザインと工芸
デザインをデジタル化することで、工芸の手間を簡略化したり、これまでに無いデザインを生んだりすることができます。高価な工芸品や芸術品を飾るにこしたことはありませんが、お金持ちの方しか工芸品や芸術品を楽しめないのは残念です。手ごろな価格の工芸品や芸術品で、全ての人の生活を楽しくするにはどうしたらいいか。今回はレーザーカッターを陶芸と組み合わせました。次なるステップ、3Dプリンターと陶芸/ガラス工芸の組み合わせをトライしたいと準備しています。


これは今回、当方が一番気に入っている作品です。陶板とカラス粉の組み合わせ、さらにキャンバスに貼りつけました。印象派絵画風の作品にしています。展示会ではあまり話題になりませんでしたが、それは、絵を飾る習慣が日本人に乏しい上に、このようにカラフルな絵を飾る空間がないこと、絵画として額にいれると、額代がとっても高価になってしまうこと、ここまでクロスオーバーするとついて行けなくなることが原因でしょう。ここに至るまでに、同様の方向で、3点作り、2点失敗して、6点目の作品です。現在4点がリビングルームに飾られています。額が高いので、額を自前で作らないとビジネスになりません。この方向はもっともやってみたい方向です。陶板作家ルート・ブリュックが先生です。


この展示会には、当方の特殊な写真が展示されています。自然の中に抽象を見つけ、それを立体作品に投影するクロスオーバーが当方のメインテーマだからです。


水の表現が大きな課題です。チョウは合成写真です。











海の波の色々な表情も展示しました。みな、自然の中に抽象を見つけようとする試みの結果です。

水の表現シリーズ
水の形は無限に変化します。海、川、湖、池の水の表現はそれぞれに異なりますし、共通することもあります。偶然に出くわした水の表現が、またいつどこで再会できるかわからない表現もあります。その無限のバリエーションは当方には最高の魅力なのです。



自然の中に人工的に抽象を作る試みは、リアルを越えるシリーズで、現在自然教育園の写真展に展示中です。ここでは、これらの写真を屏風風にして展示しました。

リアルを越すシリーズ
自然教育園に咲いている花そのものに、ある舞台装置をセッティングして、実写しました。本物より魅力的になっただろうか? 撮影後の修飾はいっさい無し。自然の中に積極的に抽象を作ってみました。

自然の中に抽象を見つける
自然教育園の沼の水鏡は秋の一瞬、黄金に輝きます。自然教育園で撮影した、蝶の様々な飛び姿を合成しました。最近の高画素数のカメラは、撮影してから、抽象的魅力のある部分を切り取って拡大することを容易にしました。真実を追求する写真の中にはいつも抽象が包含されているのです。リアルな抽象を見つけることは無上の楽しみです。

飛び姿
最近のカメラは、連写速度が向上し、さらにプレ撮影システム(シャッターを押した瞬間より前の数コマを記録する)を搭載するものもあります。通常の人では見えない鳥や蝶の姿を捉えることができます。これまでの作家さんが好んで描く蝶や鳥の姿を越えて、新しい姿を工芸に表現しようとする試みをしています。






ぐい飲みもほとんど売れました。この画面の作品はみんな売れました。メキシコから来たフリーのお客さんが2点購入されました。

前列中央のぐい飲みは下記のイメージでつくりました。

マリメッコ礼賛
シンプルに自然の本質を表現するマリメッコ・デザインはすばらしい。この方向は当方の理想です。マリメッコのクースカヤスカリbyアイノ=マイヤ・メッツオラをイメージしたぐい飲み。




展示会の途中から参加した大量生産品、一輪挿しと小植木鉢。半分売れました。


以上、ギャラリー白金台の一室は、このようなクロスオーバー作品満載でした。

おかげさまで、来場者数は111名、売り上げはxxx万円で、会場費をオーバーしました。トータルの収支としてはまだまだ赤字ですが、アートビジネスへの足掛かりは十分得ることが出来たと思っています。

中学高校や大学の同級生が訪ねて来てくれました。何十年ぶりの再会の方もいっぱいいました。当方も含め皆さん高齢者ですから、いろいろな病気を経験した方や、現在も問題を抱えている方も少なくありません。アートビジネスが成立できるか、病気で倒れるか時間との戦いです。

最後に、
クロスオーバーの意味をつづった文を貼っておいたのですが、だれも読んでくれなかったので、ここに載せておきます。気が向いたら読んでください。

クロスオーバーその1: 陶芸家、人間国宝、富本憲吉(1886 – 1963)の言葉、<形から形を作ってはいけない>、<人の作品の混ぜ合わせで形を作るのではなく、自然から自分の目で形をつかめ>と解釈する。こつこつ自然教育園を歩き、海辺を歩き、撮った写真や拾った貝や葉っぱから自然をつかみ、そこから形をつかもうとしている。自然と工芸はクロスオーバーする。

クロスオーバーその2: 作品の発想の基は自然の写真や貝や葉っぱ(具象)であるが、自然の中に存在する抽象を発見し、それを作品に具象化する。さらに進んで、自然の中に意図的に抽象を作り撮影(具象化)する。かくして、具象と抽象はクロスオーバーする。

クロスオーバーその3: 工芸技術から作品を発想するのではなく、表現したいものが先にあって、その表現の為に可能な工芸技術の全を使うと考えてもいいではないか。これは、口で言うのは簡単だが、実際はとても難しい。工芸技術は長い間の試行錯誤の末に出来上がったものであり、異なる工芸技術のクロスオーバーには幾多の壁が立ちはだかる。新たな試行錯誤が必要なのだ。しかし、指をくわえていてもしょうがない、やってみなければ何も生まれない。

クロスオーバーその4: なぜか立体作品には色が少ない。色彩の絵画と立体の彫刻を最も容易にクロスオーバーできるのは陶芸であると思う。陶芸を中心軸として、ガラス工芸を加えて、色立体を目指す。

クロスオーバーその5: デジタルとアナログの狭間はつねに揺れ動く。デジタルが席捲する場合と、やはりアナログがいいといって、元に戻る場合がある。ジュエリーの世界にはすでに3Dプリンターが浸透した。ここではレーザーカッターを陶芸とクロスオーバーさせた。3Dプリンターと陶芸/ガラス工芸とのクロスオーバーは次回にお見せできるかもしれない。

クロスオーバーその6: 花を飾るために花器があると考えがちだ。しかし、器を飾るために花があると考えてもいいではないか。花と器は互いに相乗して何かを表現する。花と器はクロスオーバーする。

クロスオーバーその7: 工芸間のクロスオーバーの大きな障壁は<見手>の強固な固定概念だ。しかし、それよりもっと大きな障害は<作り手>が未熟なことだ。新しい試みは繰り返しが足りない。何度も繰り返して成熟させるしかない。<見手>の理解が新しい試みを支援する。<見手>と<作り手>はクロスオーバーする。


長いブログを最後まで読んでいただきありがとうございました。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする