Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

不動心(2)

2023年12月31日 06時30分00秒 | Weblog
 私の事務所は、「仕事納め」を一応12月28日としている(実際はだいたい30日まで仕事をしている)。
 この日は、不動明王の縁日でもある。
 以前所属していた事務所では、毎年12月28日に「納め不動」にお参りする習わしがあったので、私もこれを真似して、事務所の近くにある不動尊にお参りすることにしている。
 私は真言宗の信者ではなく、不動明王を信仰しているわけでもないのだが、何か1年の区切りをつける「儀式」のようなものはあった方が助かる。
 なので、例えばこの日に近くの教会で何か信者以外でも参加できる行事があれば、それに参加するかもしれない。
 さて、「納め不動」の護摩焚きが終わって、恒例の住職のお言葉が始まった。
 今年のお言葉のポイントは、「自分を褒めてみる」ことの効用である。
 これによって、他人に対して優しい心を持つことが出来るようになるし、物事に動じない精神、すなわち「不動心」を確立出来るというのである。
 なんと、ホラティウスの「不動心」と殆ど同じではないか!
 ところで、不動明王の起源については、インド発祥である点は間違いなく、ヒンドゥ教のシヴァ神と同一であるという有力説があるものの、決着は見ていないそうである。

 「生まれ故郷のインドでは、不動明王は2種類の姿があったという。それが「アチャラ(動かざるものという意味)」と「チャンダマハーローシャナ(恐ろしく大いに怒れるもの)」の2つである。日本の不動明王はアチャラに属しており、チベット密教の不動明王はちゃんダマハーローシャナ系統だという。その2つの違いとは何だろうか。
 歴史としては6世紀頃にアチャラが出現し、やや遅れてチャンダマハーローシャナが出現した。アチャラの姿勢としては堂々と座っているのが特徴で、チャンダマハーローシャナは右の足を曲げ、左の足を伸ばす「展左」のポーズが特徴的だという。しかしポーズが明らかにチャンダマハーローシャナなのにアチャラと呼ばれている例も多数あり、あまり厳密ではないとされている。
 不動明王は最初「不動使者」と訳され、大日如来の使い走りのような役割だった。チャンダマハーローシャナのポーズはまさに走っているような印象で、使い走りだった頃の不動明王を彷彿とさせる。現在の日本では、不動明王は大日如来の化身として、使い走りではない高い地位を得ていると考えられる。

 チベットの「お不動さん」=チャンダマハーローシャナとの比較に基づけば、日本のお不動さん=「アチャラ」の意味するところは「他人の『使い走り』(パシリ)になるな!」ということなのかもしれない。
 そう、他人の「手段」になってしまってはいけないのである(加害者の人権と人間の「手段」化)。
 何と、お不動さんは、ホラティウスの同志であっただけではなく、実はカント先生の同志でもあったのだ。
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真珠湾攻撃と暗黒国家

2023年12月30日 06時30分00秒 | Weblog
What Declassified Government Documents Reveals About America's Dark Secrets(機密解除された政府文書が明らかにするアメリカの暗い秘密)
 「暗黒国家は、政府情報の機密体系を課した最初の大統領であり、CIAに発展した戦略諜報局を設立したルーズベルトに始まるようだ。
 あなたの調査はまた、彼の政権と真珠湾への「奇襲」攻撃をめぐる秘密主義について、いくつかの不安な暴露につながりました。
(マシュー・コネリー)
 真珠湾の話は知っているつもりだった。しかし近年、歴史家たちはこの記録をさかのぼり、アメリカだけでなく日本の公文書館で働いている。そして、すべてのピースを組み立て始めると、非常に明白なのは、ルーズベルトは彼の政権が不意打ちを食らったと主張したが、彼と彼の最も親しい顧問たちは、攻撃が来ることを何週間も前から知っていたということだ。実際、彼らはそれを挑発したのだ。ただ、攻撃がどこにあるのかわからなかったのです。なぜ彼らはこのようなことをするのでしょうか?ルーズベルトは何ヶ月も前からアメリカを第二次世界大戦に引きずり込もうとしていたからだ。大西洋での彼の戦略については多くのことが書かれており、そこではアメリカの艦船がドイツの潜水艦を追いかけ、事件がドイツとの戦争に発展することを期待していました。しかし、何もうまくいきませんでした。最後に、ルーズベルトは、議会を戦争に同調させる唯一の方法は、日本を攻撃させることだと信じるようになった。アメリカは戦争の帰趨に死活的な関心を持っていたし、1941年にもっと早く関与すべきだったと私は信じている。しかし、アメリカ人の大多数は、自分たちが選んだ別の戦争だと考えるものに反対した。
 私が行かないのは、陰謀論がそうであるのは、ルーズベルトが真珠湾攻撃を標的にした攻撃を知っていたと信じていることだ。その証拠はなく、意味がありません。なぜ彼は、2,400人のアメリカ人の命を犠牲にして、アメリカ軍が不意打ちを食らうのを許すのだろうか?彼に必要なのは攻撃だけだった。彼には虐殺は必要なかった。
 真珠湾は闇国家の元凶である。ルーズベルトが国を戦争に引きずり込んだやり方は、その後の非常に多くの秘密の舞台となった。」(自動翻訳:日本語としておかしな部分もあるがご容赦下さい。)

 「ルーズベルト(FDR)大統領は真珠湾攻撃を事前に知っていた」という説は、日本の一部の識者の間では古くから主張されていたものだが、機密解除されたアメリカ政府の公文書は、そのことを部分的に裏付けたということが出来る。
 「部分的に」というのは、攻撃の標的が真珠湾であることまでFDRが知っていたという証拠はなさそうだからである。
 そのことより重要なのは、「アメリカを戦争に引きずり込むためならば、2,400人のアメリカ人の命が犠牲になっても構わない」という思考の恐ろしさと、そのことを許容してしまう「暗黒国家」のシステムである。
 このシステムを解体しない限り、アメリカを真の民主国家と呼ぶことは出来ないだろう。
 対して、日本ではいまだかつて「国家」が成立したことがなく(「私」による「公」の僭奪(1))、一部の私的権力が「秘密」を独占することが常態化しており、そのために国民に多大な被害が生じる事態が頻発している。
 最近の例で言うと、森友公文書改ざん事件がそうである。

 「14日、大阪地裁は、「文書の存否が明らかになることで、捜査事項や捜査機関の関心事項が推知され、将来の事件に影響がある恐れがある」として、国の決定を適法だとし、雅子さん側の訴えを退けました。

 裁判所は、刑訴法47条「訴訟に関する書類は、公判の開廷前には、これを公にしてはならない。但し、公益上の必要その他の事由があって、相当と認められる場合は、この限りでない。」の但書の適用を認めなかったということだろう。
 だが、公文書改ざんの経緯が国民の目に明らかにならない国は、どう考えても「暗黒国家」である。
 いや、それ以前に、ここにはそもそも「国家」が成立していないのだった!
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貧困トラウマ体験

2023年12月29日 06時30分00秒 | Weblog
 「話は10年前、1968年に遡る。当時大映の看板俳優だった田宮だが、ワンマン社長だった永田雅一と決裂し、映画界を追われた。幼少期に両親を亡くし、「貧乏」に異様に敏感だったという田宮は、幸子夫人の「お金のことは気にせず、あなたは自分の人生を守って」という言葉にも耳を貸さず妻子を養うためキャバレーのどさ回りをして生活を支えたという。
 そんな田宮だが、69年には『タイムショック』(現テレビ朝日系)の初代司会者となり、73年からはドラマ「白いシリーズ」など活躍の場をテレビに見出していく。しかし個人事務所「田宮企画」代表でもあった幸子夫人は別の見方をしていた。
「(白いシリーズは)『お金に転んだような仕事』としか思えない。シリーズが終わるたびに、もう、これっきりにしてほしいと言いました」
 ドラマ内容は似通った御都合主義のメロドラマばかりで、田宮が精神をすり減らすのは明らかだったからだ。

 トラウマ(とりわけ幼少期のトラウマ)というものは恐いもので、年をとってからもその影響が出る場合がある。
(ちなみに、私が知る限りの最強のトラウマは、映画「野いちご」の主人公のトラウマである(ベルイマン流トラウマ対処法(5))。)
 私が仕事上経験したものでは、戦間期に育ったため幼少期に極度の飢えを経験した方が、十分な資産があるにもかかわらず、スーパーに行くと安い食料品を万引きしてしまうという事件があった。
 この方は、精神科医によって、「幼少期のトラウマ体験が原因と思われるクレプトマニア」と診断されたのだが、症状が出始めたのは、70歳くらいの頃だった。
 トラウマは50年以上生き続けていたのだろう。
 故田宮二郎氏も、奥さんの見立てでは、やはり幼少期の貧困体験が(うつ病の発症を経由した)自殺の最初の引き金になっていたように思われる。
 「貧困トラウマ体験」は、それほど恐いものなのだ。
 この点、自分自身を省みるに、幸いなことにトラウマとなるほどの貧困体験はないようである。
 だが、「お金がないために辛い思いをする」という経験は、私も人並みにしている。
 いまだに痛い経験だったと感じているのは、中学時代、音楽の先生とマーラーの交響曲のコンサートに行く約束をしていたのに、直前に父から止められた”事件”である(英才教育)。
 「クラシックのコンサートなんぞに1万円もの大金を出す余裕はない! 」と私を叱りつけた父も、実は、家が裕福でないために大学進学を諦めたという「貧困トラウマ体験」の持ち主であった。
 ・・・こんな風に考えながら、コンサート会場で配布されたビラを見ていたら、何やら見覚えのある指揮者の顔に出くわした。
 何と、36年前、フランクフルト放送交響楽団を率いて九州の片田舎までやってきて、マーラーの交響曲を指揮したあの人物である。
 というわけで、早速チケットを買った。
 これで私の疑似「貧困トラウマ体験」も癒やされるのではないかと、ひそかに期待するのであった。
 
 
 
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定番コース

2023年12月28日 06時30分00秒 | Weblog
 「大蔵美人で切れ者の朝長。27歳のときに見合い結婚をする。大蔵省OBの政治家、近藤鉄雄が紹介したのは、東京大学助教授だった舛添要一である。しかし、3年あまりで離婚する。その後、マルマン創業者の長男、片山龍太郎と再婚した。やがて、財務省をやめて、自民党国会議員となる。
そう、朝長さつきとは、片山さつきのことである。

 「舛添:いま名前が出た女性議員は一緒に仕事をしたのでよく知っています。とくに片山さつきはね(苦笑)。あえて片山の立場に立って話すとすればこうなるのではないでしょうか。片山は上に媚びるのが苦手なタイプです。でも、隣には取り入るのがやたらとうまい稲田や小池がいる。さらに自分以外の女性議員はどんどん出世して大臣になる。
 片山は焦るわけです。自分は元大蔵官僚で、しかもミス東大なのになぜ出世できないのか。稲田が安倍さんに重用されるのは右派だからだ。それなら私も右に行けば出世できるのではないか──結果、在特会のデモに参加してしまう。

 「「12月8日に行われた“架空パーティー”の模様を『週刊文春』が報じると、ネットを中心に大炎上。“キックバックに続いてパワーワードきた”“(パー券疑惑が騒がれている)この最中にやる?”などと、西村氏に対する批判の声が多数上がりました」(社会部デスク)  
 無論、架空パーティーが事実だとすれば、政治資金規正法上問題になる可能性もある。ところが当のご本人はネットでの批判も法的な問題の指摘も、どこ吹く風だったようで……。12月21日(木)の12時から、永田町にほど近いビルの会議室でまたしても“架空パーティー”を執り行うという情報がもたらされたのである。

 東大法学部の学生やOBに”没知性的”な人たちが多いことは今に始まったことではない。
 おそらく多くの教官たちがウンザリしてきたと思う(知的信用)。
 このタイプの人たちは、政・官・財のいずれにも多く分布しているのだが、分かりやすいのは官僚出身の政治家である。
 東大法学部→官僚→政治家、というのが、このタイプの人たちが目指す「定番コース」の一つだからである。
 その代表選手を2人挙げてみた。
 共通点として浮かび上がってくるのは、金銭への強い執着、金銭的利益に基づく”集団(形成)志向”、地位と権力を得るためには手段を選ばない”実行力”などではないだろうか?
 「頭の良さ」の使い方がどう見てもおかしい。
 また、秘書に怒鳴りながらハサミを投げつけたり、秘書が次々にメンタル失調に陥ったりするというのであれば、パーソナリティにも問題がありそうだ。
 なので、「自己愛性パーソナリティ障害」も共通点に挙げてよさそうだ。
 やはり、博士と大臣には要注意ということなのだろう。
 
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部族社会と軍事化と精神分析

2023年12月27日 06時30分00秒 | Weblog
 「その社会構造に枝分節の性質を含む社会が単純にテリトリー区分の制度を作った場合のその組織を部族(tribus:tr)と呼ぶ。その単位は、既に述べたように、必ずジェネアロジクな観点からして複合的である。」(p94)

 現在、ある”部族”(E-tribe)が、芸能界の一角(あるいは中目黒周辺)をテリトリーとして活躍している。
 この”部族”は、「HIROさん」を頂点とする枝分節集団であり、そのメンバー(特にヴォーカリスト)になるためには、原則として Battle を勝ち抜かなければならないものとされている。
 このたび、この”部族”に属するあるグループの楽曲が問題となった。
 
 「問題となっているのは、LDH所属の16人組グループ「THE RAMPAGE」が12月にデジタル配信した新曲「SOLDIER LOVE」。同曲の歌詞には「上書きする地図」「Far eastの地から 神風(しんぷう)吹き荒れたなら」といった表現があり、「軍国主義的だ」「太平洋戦争の旧日本軍の方針を想起させる」などと批判が上がっていた。

 社会人類学者の分析によれば、部族社会の原理には、もともと「軍事化」の契機が含まれている(ビルト・インされている)。
 なので、何らかの刺激を受けたとき、「軍事化」が発動することは珍しくない(但し、軍事化は、”部族横断的に”発現するそうである。)。
 歴史的に見ると、外部からの経済的な圧力を受けたときにこの種の「軍事化」が発現しやすいことが指摘されており、例えば、19世紀のドイツやイタリアはその典型例である。
 さて、今回のある”部族”の問題について、私は、日本社会の暗渠を流れる抑圧された「軍事化」の契機が、意外なところで「発話」(パロール)を試みて思わず顔を出してしまったという印象を受けるとともに、これを日本人の多くがすぐに「意識化」出来てしまうところに、戦後教育の効果を見たように感じた。
 例えば、今回の件を韓国と比べてみるとよい。
 「防弾少年団 」や「ARMY」という言葉は明らかに軍事の語彙に属しているけれど、韓国でこれが問題視されているという話は聞かれず、そもそも「意識化」されないようである。 
 ところが、日本でこの種の呼称を使おうものなら、すぐに「軍国主義化」という批判を浴びると思われるのだ。
 もっとも、日本のごく一般的(に見える)人たちの精神の奥底に「軍事化」的な志向、つまり集団的な暴力衝動が潜んでいるらしいこと、また、これが長らく「抑圧」(repression)されてきていることは、おそらく否定出来ないだろう。
 そのことは、特に年末になるとよく分かる。
 格闘技あるいは集団的戦闘型スポーツに熱狂する人の何と多いことか!(カタリーナ、スケープゴート、フィロクテーテース(6)
 有り余る衝動が、この種のスポーツに対する熱狂へと「昇華」(sublimation)されているのではないだろうか?
 ・・・などと、素人ながら精神分析を試みてみるのであった。
 
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敵性音楽

2023年12月26日 06時30分00秒 | Weblog
 「ロシアによるウクライナ侵攻後は、ロシアの作曲家であるチャイコフスキーの音楽演奏を控えることになったため、初演時とは音楽構成を変えて、新たにシュトラウスやマスネを使って再構成したそうです。私はこの新しい音楽による版は観ていないので、来日公演で観られることを楽しみにしています。

 ウクライナ戦争が起こる前、旧キエフバレエ来日公演の年末の演目は、当然ながら「くるみ割り人形」一色だった。
 だが、戦争が始まってからというもの、ウクライナの文化庁の要請で、ウクライナ国立バレエは、チャイコフスキーを筆頭とするロシア人作曲家の楽曲の使用を控えることとなった。
 チャイコフスキーは、いわば「敵性音楽」に指定されたのである。
 「雪の女王」(2016年初演)もその後大幅な音楽の差し替えがなされ、チャイコフスキーの音楽はカットされ、J.ストラウス、J.マスネ、H.ベルリオーズ、E.ワイトトイフェル、A.ポンキエッリ、P.マスカーニ、E.グリーグ、J.オッフェンバックなどの音楽が使用されている。
 だが、私見では、やはりチャイコフスキーには(ドストエフスキーにも)罪はなく、こうした「敵性音楽」扱いは、基本的に間違ってると思う。 
 そもそも、チャイもドスも人類共通の財産だからである。
 これ以外にも理由はある。
 戦争の原因の捉え方いかんによっては、文化的要素が無関係となる場合があるからだ(最後の棒倒し(1))。

 「2014年以来はっきりしてきた彼らの正体は、資源産業に特有の暴力組織化を異常肥大させた危険な集団である(これがロシアのウクライナ侵攻を説明しうる唯一の「原因」である)。「西側」の経済構造に深く寄生してきた(結局こんなものを生み出した「西側」の経済構造及び囃し立てたエコノミストには大きな責任がある)。」(p56)

 このように、ウクライナ戦争の「原因」は「資源産業の軍事化」にある捉えれば、チャイやドスなどの文化的要素は戦争とは無関係ということになるだろう。
 但し、ちょっと厄介なのは、独裁者個人あるいは民衆レベルでの「信仰」(死生観)の問題である。
 独裁者個人あるいは民衆レベルでの「信仰」(死生)は、何らかの形で戦争に寄与しているかもしれない(永遠に無垢な・・・)。
 例えば、チャイやドスの作品が、「無垢なロシア」の成果物として祭り上げられ、戦争に利用されているかもしれない。
 そうであるとすれば、ウクライナ文化庁の方針にも、一定の合理性が認められるということになるのかもしれない。
 ・・・うーむ、難しい問題である。
 
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「がに股」の復権

2023年12月25日 06時30分00秒 | Weblog
 「2022年初夏、10年目の記念すべき鼓童浅草公演として初演し好評いただいた「翔走」。今冬、満を持して全国主要都市にてお届けします。鼓童の歴史ある演目から、今の鼓童を象徴する曲までを網羅した濃密な舞台。今年を締めくくるに相応しいエネルギー溢れる舞台をお楽しみください。

 「主人公のマーシャは大好きな人形達(ピエロ、コロンビーヌ、ウッデンドール)と離れることなく一緒に冒険するんですが、そこは他にはない演出ですね。あと2幕、お菓子の国の場面直前では、クリスマスツリーから飛び出すように各国のキャラクターが出てくる演出になっています。新しい衣裳はとても可愛らしく、この作品にピッタリですし、素敵な装置も幕が開いた瞬間に心が浮き立つことでしょう

 日本の伝統芸能である「太鼓」とヨーロッパの伝統芸術である「バレエ」とでは、余りにも違う。
 だが、意外なところに共通点があるようにも思える。
 まず、違いの点について言うと、音楽に対する感覚がまるで違う。
 日本的な感覚では、太鼓(と笛)があれば十分に芸術作品が成立することは、「能」も示すとおりである。
 対して、ヨーロッパ的な感覚では、メロディーのない・太鼓の音だけの芸能・芸術など成立しないと考えるのが普通なのではないかと思う。
 オーケストラにおけるティンパニはわき役だし「ボレロ」にしてみても、「メロディ」が不可欠の要素を成している。
 次に、共通点について言うと、「スタンス」が似ているように思う(専門家ではないので間違っているかもしれないが・・・)。
 どういうことかと言うと、太鼓を演奏する人の基本的な姿勢は「がに股」であるのに対し、バレエの基本姿勢の「アン・デオール(en dehors)」も、(誤解を恐れずに言えば)やはり「がに股」なのである。
 実は、「がに股」は、解剖学的には非常に合理的な姿勢なのである。
 どうしてこの点に思い至ったのかというと、「くるみ割り人形」のウッデンドールを見ていたときに、「あっ、これはさっきの鼓童の姿勢だ!」と気付いたのである。

 「四足動物でも時と場合により後ろ足だけで立つことがあります。イヌやネコを飼っている方は分かると思いますが、立ったときの後ろ足はがに股になっていますよね。それは股関節が外側に開いた構造をしているからなのです。
 人間でも赤ちゃんはみんながに股ですよね。がに股でよたよたと歩いている姿は本当に微笑ましいものですが、実はこれはある意味理想の歩き方ともいえるのです。
 人間の股関節も四足動物同様、やや外側に開いた形でついています。赤ちゃんはその構造のまま自然の姿で歩いているわけなのです。筋力がありませんから大きな頭を支えるために重心はあるがままの位置に落ち着いている、垂直にすっと一本の線が通った形です。これが最も体への負担がない姿勢なのです。」(p23)

 ・・・というわけで、年末年始は「がに股」を強く意識して過ごそうと思う。
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統御不能なものへの処し方

2023年12月24日 06時30分00秒 | Weblog
 「「無意識の意識化」にせよ、「無意識の<法>との関係の変化」にせよ、どちらも言っていることはそう変わらないとお思いでしょうか。
 しかし後者の考え方を採用してみると、必ずしも無意識を意識化しなくてもよいということになります。つまり「私はお母さんが妊婦になった思い出を忘れたいと思っていました。でもそれが人夫への恐怖として回帰したのです」という、私たちが上で行ったような説明を分析主体自身が行なえるようになる必要はないのです。
 必要なのは、抑圧されたものの言語化を通じて無意識の<法>に関する主体的な変化があることです。自我とは違った主体というものがふと明らかになるだけで、苦しみは緩和されます。なぜなら、そこで患者は自分に書き込まれた<法>を見出し、<法>との向き合い方を更新できるからです。」(p170~171)

 論説的な本を読む場合に重要なのは、ディアレクティカ、つまり、「議論を可能な限り尖鋭に対立させ、争点を明らかにしつつ、自らはそのどちらにも依拠しない」という姿勢だと思う。
 この観点からすると、この本は、自我心理学の立場から書かれた馬場禮子先生の「改訂 精神分析的人格理論の基礎 心理療法を始める前に」と対比させながら読むべきだろうし、私見では、養老孟司先生の諸著作とも読み比べるのがよいと思う。
 馬場先生は、衝動を「昇華(sublimation)」する(例えば、殺人衝動を営業力に変える:スーツを着た首狩り族)ことまでは出来なくても、せめて「抑圧」が出来ればよしとする見解のようだ(万一間違っていたらゴメンナサイ)。
 要するに、「衝動」とその根底にある「無意識」を、「自我」の力で何とか統御しようという発想なのである。
 なので、抑圧を突き破って浮かび上がろうとするシニフィアンに対しては自身による「意識化」という対処法が出てくるし、統御するために薬を使う必要も出て来る。
 対して、ラカン的な発想では、統御不能なものを統御しようという発想には立たない。
 シニフィアンを「意識化」するかどうかは問題とせず、患者が自ら「発話」(パロール)することをもって治療とみなすわけだ。
 以上に対して、養老先生は、生物学的な観点から「自我」概念を否定するかのようである。
 養老先生は、「田んぼや畑も『わたし』の一部である」とおっしゃっている(出典を調べたがすぐには出てこない)。
 つまり、生命体としての「わたし」は、田んぼや畑をその構成要素として取り込んでいるのであり、周囲の環境から孤立した「わたし」(つまり自我)なるものは存在しないと指摘しているのである。
 う~む。
 この3人でディスカッションしてほしいものだが、残念なことに、馬場先生は今年の9月に亡くなられたとのことである。
 合掌。
 
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「合唱」とトイレ

2023年12月23日 06時30分00秒 | Weblog
指揮=ヤン=ウィレム・デ・フリーント
ソプラノ=森谷真理
メゾ・ソプラノ=山下裕賀
テノール=アルヴァロ・ザンブラーノ
バス=加藤宏隆

 例年「第九」と「くるみ割人形」を鑑賞するのが年末の恒例行事となっている。
 昨年の第九は尾高忠明先生指揮の東京フィル(合唱とタクト)だったが、今年は久しぶりに読響を選んだ。
 指揮者のデ・フリーントさんは初見だが、タクトを持たず、体を(時にはお笑い芸人の永野のように)激しく動かして、(おそらく)声を出しながら指揮するスタイルのようだ。
 大柄な体格なので、後ろの合唱団の人たちも見やすいだろう。
 感心したのはソロ・パート冒頭のバスが完璧だった点で、これでほぼ「決まり」という印象を抱いた。
 ただ、難点を言うと、第3楽章と第4楽章の間に休止を入れたところは疑問で、ここは「続けて演奏すべし」というのがベートーヴェンの真意ではないかと思う。
 というのも、ピアノ・ソナタの多くがそうであるように、彼はおそらく「緩から急へ」「長調から短調へ」のトランジッションを休むことなく行わせたいと考えているからだ。
 「熱情」の第2楽章から第3楽章へのトランジッションに至っては、サラリーマンであれば一度は目にするであろう、「ふだん温厚な人物が、アルコールが入った途端、別人のようにキレまくる」場面を彷彿とさせるほどであり、寝ていた聴衆もこの瞬間に目を覚ますのではないだろうか?
 さて、今日は「第九」オンリーのプログラムなので、毎度のことながら、「本日の公演は途中休憩がございません」というアナウンスが繰り返し流れる。
 このアナウンスの意味が「開演前にトイレにいって用を済ませて下さい」であることは明らかであり、そのことは、年をとってトイレが近くなるとよく分かる。
 先日の「究極のゴルトベルク」も、ピアノ演奏はノン・ストップで約80分だった(という記憶である)が、トイレを我慢していると思われる高齢の女性が後半しきりに時計を見ているのを目撃した。
 「第九」も、開演から終演までは約70分(上演時間は約65分)なので、似たような状況である。
 そこで気になったのは、「舞台上の人たちのうちで滞在時間が最も長い人は誰だろう?」ということである。
 観察していると、コントラバス奏者のうちの一人が最も滞在時間が長く、推定で80分以上だった。
 だが、この方は楽器のメンテナンスのため自発的に居残っていたようだ。
 そこで、この方を除くと、滞在時間が最も長かったのは、合唱団の最後列(男性)の真ん中の方ということになる。
 そうすると、トイレが近い人が合唱団に参加する場合は要注意ということかもしれない。
 

 
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61歳の「美しい履歴書」

2023年12月22日 06時30分00秒 | Weblog
【Aさん(61歳・男性)の履歴書】
・私立灘高校卒
・東大法学部卒
・通商産業省入省
(メリーランド大学大学院で修士号を取得)
・2003年、衆議院議員に初当選

【Bさん(61歳・男性)の履歴書
・大阪教育大学附属高等学校天王寺校舎卒
・早稲田大学政経学部卒
・NTT入社
(ボストン大学大学院で修士号を取得)
・1998年、参議院議員に初当選

【Cさん(61歳・男性)の履歴書】
・早稲田大学政経学部卒
・日本石油入社
・2022年、ENEOSホールディングス代表取締役社長に就任

 転職活動を経験した人であれば、「美しい履歴書」の重要性のことをよく分かっているはずだ。
 転職市場においては「書面審査」を通らないと話にならないのだが、そのために真っ先に必要となるのが「美しい履歴書」である。
 ここでいう「美しい」というのは、「高学歴」、「一流企業の勤務歴あり」、「学歴・職歴の整合性」、「途中に空白の期間がない」などといった意味である。
 この観点からすると、AさんもBさんもCさんも(いずれも61歳・男性)、人もうらやむような「美しい履歴書」が書ける人物である。
 だが、現実はどうか?

 「政治資金パーティー裏金事件で揺れる自民党最大派閥・安倍派「5人組」の西村康稔前経済産業相、世耕弘成前参院幹事長の両氏が20日、月刊誌の取材で「首相に意欲」を示していたと一部で報道された。強制捜査前のインタビューとは言え、あまりに間の悪いタイミングの話題に、ネット上では「この2人が首相になったら日本が終わる」など怒りやあきれる声が挙がった。

 「同社によると、「懇親の場で斉藤氏が酔った状態で同席していた女性に抱き付く不適切行為があった」との内部通報が11月末にあり、調査の結果、「事実であると判断した」という。

 こういうニュースを見ると、「美しい履歴書」というのは、「ジキルとハイド」でいうところの「ジキル」の側面を表したものであることが分かる。
 「ハイド」の方が、その人の本性かもしれないのに。
 この点、ユダヤの格言に、
 「人間を評価するには3つの基準がある、「金の使い方」、「酒の飲み方」、「忍耐強さである。
というのがあるらしい(出典は不明)。
 政治家や経営者の適性をはかるには、履歴書だけでなく「金の使い方」や「酒の飲み方」もよく観察する必要があるのだろう。
 
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