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息子たちが求めてやまない母性―感想:母親はなぜ生きづらいか

2010年11月14日 20時41分31秒 | 本と雑誌
母親はなぜ生きづらいか (講談社現代新書)母親はなぜ生きづらいか (講談社現代新書)
価格:¥ 756(税込)
発売日:2010-03-18


日本で、子育てが母親の責任とされてしまっていることによる社会の歪みと、そうなった歴史的変遷を指摘した新書である。

広く知られているとは言い難いが、江戸期に子育てを担っていたのは父親だった。小泉吉永氏の『「江戸の子育て」読本』などを元に、本書では説明している。
「イエ」の存続が大切とされた時代、武家では養子、商家では婿養子が頻繁だった。

明治期になり、近代国家の新たなスタイルとして武家を規範とし、欧米の制度を加えた家制度を作り上げた。そこで、父親が外で働き、母親が家で育児をする、性別分業の形が作られた。そして、その際に利用されたのが「良妻賢母」や「母性愛」という新しい概念の創出だった。

これらは決して日本の伝統的な考え方ではない。
時の政府やメディアが作り出し、押し広めた。一方で、女性たちも積極的にその波に乗りかかった。社会的地位や自己実現の場がなかった女性(特に母親)たちにとって、育児こそが自己の能力を発揮する場として公認されたからだ。

明治が近世の古い殻を打ち破って誕生したせいで、明治期に重要視された概念は新しいもの、欧米のものであった。育児も欧米の新しい概念が次々と導入された。明治から大正期に誕生した都市部の中流家庭を中心に、母親たちはこれらの新しい教育スタイルを競い合うように求めた。

母親にとって子供が自分の分身となる。この時期以降「母子心中」が急増することにそれが強く表れている。
子育てへののめり込みは、女性に強いプレッシャーを与えた。「イエ」ではなく「血」が重視されるようになり、子供を生まなくてはならないという周囲の重圧も強くなった。子育ての情報(というより科学的研究に基づかない数々の「神話」)に振り回されるようにも。
専業主婦、ワーキングマザー、子供を生まない生き方、どれをとっても「女業界」では自分の選択に確信を持てない状況だという。


一方、育児から切り離された男たちはどうなったか?
実質母親のみに育てられ、グレート・マザーのイメージに引きずられて、母性への幻想を強く抱くこととなった。こうあるべしという母親像を、自身の母親に重ねるだけではなく、妻や女性全体へと敷衍した。

男性の多くがマザ・コンであり、恋愛対象にも母性を求めるのは以前から指摘されていることだが、フィクションの世界で近年それが露骨に現れていると思う。
「ヘタレ」な自分を隠す矜持がなくなり、当ブログで再三指摘している「ゼロ年代男性主人公」たちは変化や成長を望まなくなった。そして、それを許す母性を象徴するヒロインが存在している。「ヘタレ」なままでもママのエプロンの下で常に守られている。

”文学少女”シリーズや”化物語”シリーズはそれが顕著に現れているが、それが支持されているのが現状である。作り手側が意図して作り出した構図というよりも、作り手にとっても当たり前すぎるものとなっているのかもしれない。
前回の記事である「世紀末オカルト学院」の感想で述べた違和感の正体がまさにこれだと言えるだろう。最近の「メイド」人気も全てを受け入れてくれる母性への欲求が原因と思われる。

現実では、母性的であることに満足する女性もいるだろうが、ごく少数派であることは間違いない。女性が男性に求めるパートナーとしての関係は、男性が女性に求める母性とは大きな隔たりがあり、女性の求める関係を築く自信のない男性にとって母性的なキャラクターに包まれた世界が逃げ場となっているのは確かだろう。もはや「ヘタレ」であることを隠すこともせず、それでも受け入れてくれる都合のいい女性だけを求めている、そんな姿が浮かび上がってくる。

エンターテイメントに御都合主義があるのは仕方ない。でも、そこまでやるかという思いは募る。そうした作品を繰り返し批判しているが、それはこれからも変わらないだろう。


本書で最も興味深く感じたのは、著者の経験から得られたという、「親子関係」の本質は「自分と自分の親との関係」だという点だ。
著者同様子供を持っているわけではないので、それがどこまで正しいかは分からないが、この視点はこれからも忘れずにいたいと思った。
子供のことを考えていると言っても、そのほとんどは子供を通した自分自身の問題に過ぎない。そして、自身の親との関係がその問題の鍵となっていたりする。

最後に7つのつぶやきとして提言がなされている。その中に、子育てを母親一人で背負わずにもっと周りの人に預けたりしてはどうかというものがある。
昔は、コミュニティがあって、親以外の大人が子供たちの面倒を見たり、叱ったりするのが当たり前だった。そうしたコミュニティが崩壊し、親族や公的施設など限られた場所に預けるくらいしか出来なくなっている。
戦前であれば、ある程度以上のクラスの家庭では女中を雇うことが一般的だったし、特に子育ての支援としてその時期だけ雇うこともあった。海外では今もそう珍しいものではない。ベビーシッターの文化は洋の東西を問わずに存在している。
戦後の日本ではなぜか廃れてしまったが、コミュニティの再生は不可能でもベビーシッター文化の再建くらいならと思わずにはいられないがどうだろう。


本書の序盤は他の本の引用が多く、ちょっと上滑りな印象を受けた。内田樹氏が指摘するように人気のある書き手が新書を連発する状況そのままの本かと感じた。しかし、序盤の歴史的経緯を踏まえて中盤以降は著者自身の体験を元に分かりやすく本質を描いており、優れた内容になっている。
江戸期や明治期などの家族関係などは元より興味があっていろいろと読んでいたりするので、目新しい事実は多くはなかったが、歴史的変遷は非常にうまくまとめられていると感じた。
また、そうした歴史に詳しくない人にとってはかなり斬新な切り口だったのではないだろうか。

子供の有無に関わらず、誰もが誰かの子供であると思えば、誰にとっても無関係ではない内容と言えよう。