山本馬骨:たそがれジジイの呟きブログ

タイトルを変更して、これからは自分勝手なジジイの独り言を書くことにしました。

令和という時代

2019-05-02 04:33:18 | 宵宵妄話

 令和という時代が始まって二日目を迎えている。新しい時代という気分を味わいたいと浮かれている向きもあるようで、TVなどを見ていると、何だかめでたい気分になってしまう。これは、やはり平成という時代を乗り越えて来られた上皇となられた方の、人間性の素晴らしさと、それを受け継がれた新天皇への期待の大きさがそう思わせて下さるからなのかもしれない。新天皇も又優れた人間性の保持者であり、この国のシンボルとして神代から続く日本国をしっかり守って下さるに違いない。世界唯一の天皇制という不思議なこの国の求心力は、不動のものであることを改めて実感した二日間だった。

 さて、この令和という時代は一体どんな時代となるのだろうか。天皇家の動向はさておき、昭和、平成と生きて来た自分にとっては、昭和の激動の時代を経て平成は一見平和に包まれていように見えるけど、まるで人間たちの横暴に立ち向かうかのように大自然の凄まじい威力を見せ付けられた時代だったように思える。その威力のもたらした結果は、横暴などとは無縁だった人々に向けられていることが哀しい。この大自然の不気味なパワーは、平成時代はもしかしたらほんの先触れにしか過ぎなかったのかもしれない。

 自分的には、昭和の終わり頃から世の中は激変して来ていると感じている。その核となっているのは情報ツールの止まりの無い変革だ。この文明の利器とも思えるツールは、人間の本来持っている力以上のものを引き出してしまって、世の中をある種のカオスに向かわせている感じがしてならない。人間の持つ賢さや謙虚さや慎みといった道徳的部分を破壊し始めているのではないか。人間は世界中が情報に溺れ出しているかのようだ。この混乱の行く先は、大自然の不気味な悪意以上に不気味でならない。人間は利便なツールを安易に使いながら、情報のもたらすカオスの中で、真綿で首を絞めるかのように少しずつ我を忘れようとしているかのように見えるのである。

 令和時代がこの危険性をどのタイミングで修正に向かうのか見当もつかないけど、どう考えてみてもこの時代は多難な時代となるに違いない。地震や大規模風水害など大自然の爆発的な破壊力の発露がいつ起こるのか真に不気味だし、又利便性が利便性を追求し続ける世の中の脆さが何時崩れるのか、これもまた不気味である。これらの結末が令和の時代に直ぐにやって来るとは思えないけど、平成時代よりもより厳しいものとなるのは避けられないのではないか。そういう意味において、令和時代は、多難なのではないかと思えて仕方がない。

 ま、何時の時代も生きている人間の現実は、不安と安堵の綯い交ざりの繰り返しなのだから、悲観的に見ても楽観的に見ても結局は成るようにしかならないのであろう。深刻ぶって多難を予想するよりは、当面の楽観を楽しむ方が賢いということなのかもしれない。

 ところで、自分にとってこの時代に唯一自信を持って予断できる事件がある。それは自分がこの時代にこの世を去るということ。仮にこの時代が30年続いたとしても、それを超えて自分がこの世に生きていることはない。あの世への旅立ちは直ぐそこに迫って来ているのかもしれない。もはやその旅立ちの準備の最中なのだ。「死計は老計の中にあり」を実践中だと思っている。この世からのおさらばは、PPK(ピン・ピン・コロリ)だと長いこと思っていたのだが、少し前にこれではダメなのだと気づいた。それは故大杉漣さんの突然の訃報で知ったことだった。今はPPYだと思っている。PPは同じだが、Yは予言ということである。予め何時死ぬかをしっかり悟って、周囲にそれを告げ、その通りにあの世に旅立つのが死計の極みだと思っている。その体現者は少ない。大往生をされた日野原重明先生のような死に方をしたいと思っている。そしてその実現のタイミングはこの令和の時代の中に潜んでいるのは確実なことだ。新しいこの令和の時代で、唯一そのことだけは断言できることだ。しかし、この実践は容易なことではない。その意味でもこれからの自分には、やっぱり令和は多難な時代だと言えるのである。