海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

石内都写真展ほか

2010-08-07 20:52:44 | 生活・文化
 6日は午後から宜野湾市の佐喜眞美術館に行き、石内都「ひろしま in OKINAWA」展を見てきた。広島平和祈念資料館に収蔵されている服飾品を写した写真展で、65年前に広島で爆風や熱線、放射能、火焔にさらされた女性たちの衣服、メガネ、櫛などの品物が、それらを身につけていた人の姿を幻視させる写真となって並んでいた。
 一つ一つが亡き人を偲ばせる形見の品として、肉親が大切に保管してきた物だろう。来歴が伝えられず、物としての手触りや生々しさが写真として抽象化されることで、65年前に「ひろしま」にいた一人の女性のイメージは、見る人に自由にゆだねられる。そうやって石内氏の写真を通し、傷ついたワンピースや手袋が、亡き人の姿形を見せるものとして、多くの人の新たな形見となっていくように思えた。
 一瞬にして絶たれた戦時下の日常、人々の暮らしを思いながら、井上光晴の小説『明日・1945年8月8日・長崎』を読み返したくなった。

 夜はNHKスペシャル『封印された原爆報告書』を見てから、朝日新聞社編『原爆・五〇〇人の証言』(朝日文庫)を読んだ。1967年に朝日新聞社が世論調査の手法を使い、20数万人という被爆者の中から階層や年齢に偏りがないよう配慮して500人を無作為抽出し、追跡調査した記録である。40項目にわたる質問の統計とその分析のほか、敗戦から22年後の日本社会を生きる個々の被爆者の様子も載っている。

〈Dさん(長崎県・男・六十一歳・無職・長崎市の爆心から二キロで被爆)
 当時師範学校の事務職員だった。学校で被爆した。校舎は燃え、外で傷ついた生徒があとからあとから学校にきました。自宅は爆心から一キロ足らず。妻と長女(五歳)、次女(三歳)、生まれたばかりの三女はつぶれた家の下敷きになり、通りかかった中学生に掘り出されたそうです。だが、長女はガラスの破片で大けが。妻や子を大村市の海軍病院で見つけ出したのは被爆後三日目でした。妻と、長女と三女は死にました。
 残った次女は、弟夫婦が郷里の熊本に引き取ってくれたが、髪は抜け、顔色も悪く近所の子どもから「青ナス、ピカ子、ハゲ」とはやしたてられても泣けないほど弱い体でした。高校を卒業したあと、洋裁技術を学んでデザイナーになり、東京で上級の洋裁技術を学ぶかたわら、仕事をするため上京しました。結婚相手が見つかった、と手紙で知らせてきましたが、間もなく「被爆者だということがわかって相手の両親が反対している、あきらめる」という手紙が来ました。勝ち気な娘だけに、どんな気持でいることか、忘れていた原爆の恐ろしさをあらためて思い知らされました。だが、じっと我慢する以外に道もなさそうです〉(56ページ)
 
 500人の被爆者の生活状況や意識は多様である。原爆症や差別に苦しんできた人がいる一方で、元気に生活し、差別を受けたことはない、という人もいる。しかし、そういう人たちでも、いつか被爆の影響が出て健康を害されることや、子どもや孫に影響が出ないかと不安を抱いたり、被爆者であることを隠して暮らしたりしていた。
 43年前に行われた被爆者の調査記録と証言を伝える貴重な一冊である。

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