6月9日付琉球新報の別紙には、沖縄戦に動員された学徒たちの学校名・戦後の通称と犠牲者数の一覧表が載っている。出展は「ひめゆり平和祈念資料館資料集4 沖縄戦の全学徒隊」(ひめゆり平和祈念資料館)より。
男子学徒が動員されたのは以下の12校とされる。( )内は現在の校名。
1 沖縄県師範学校男子部 2 県立第一中学校(首里高校) 3 県立第二中学校(那覇高校) 4 県立 . . . 本文を読む
渡辺氏の著作が重要なのは、日本兵の側から見た住民虐殺の実例が示されていることだ。同書には、スパイ容疑で射殺された学生のことも記されている。
〈本部壕ではその夜、伝令の古川が中隊長に呼ばれ、米須に待機中の機関銃隊を呼び戻すよう命令された。大度と米須はわずか二キロ足らず。命令を受けた古川は深夜ひとり出発したが、米須に着いたときには夜が明けはじめていた。命令を伝えられた機関銃隊の芝山は、「よし、日 . . . 本文を読む
2週間後の6月23日は沖縄戦慰霊の日である。69年前、6月中旬の2週間に沖縄の住民と兵士たちは、島の南端に追いつめられ、米軍の攻撃によって生き地獄を味わっていた。住民にとって敵は米軍だけではなかった。日本兵による住民虐殺、壕追い出し、食糧強奪も相次いだ。
渡辺憲央著『逃げる兵 高射砲は見ていた』(文芸社)には、戦友から聴き取った6月の摩文仁の状況が記されている。「軍隊は住民を守らない」と . . . 本文を読む
本書は沖縄戦から40年目に当たる1985年に、福地氏が元防衛隊員に聴き取りを行い、まとめた証言集である。福地氏の出身地である沖縄島北部大宜味村をはじめとして北部各地域、中南部、宮古、八重山と福地氏は足を運び、計59人の元防衛隊員から証言を集めている。ひめゆり学徒隊や鉄血勤皇隊に比べて、防衛隊は話題になることが少ない。しかし、その動員数、死亡者数、動員された人たちの年代の幅など、防衛隊の方が沖縄戦 . . . 本文を読む
『鉄血勤皇隊』(ひるぎ社)の著者大田昌秀氏は、今さら言うまでもなく元沖縄県知事であり、参議院議員も一期務めた。1990年代の沖縄の政治状況を論じる上で最も重要な人物であり、これから先も多様な角度からその行動と思想は論じられるであろう。その大田氏はまた、琉球大学教授として、沖縄戦や沖縄のメディア、思想、政治など多方面にわたる研究を行い、精力的に執筆・発言を行ってきた。
私が学生時代、西原キャンパ . . . 本文を読む
本書を編集している安田武氏の解説の中にも、日本兵による日本人住民の虐殺が、米従軍記者が書いた従軍記からの紹介という形で記されている。
〈従軍記者として、サイパン島に上陸したロバート・シャーロッドは、その従軍記のかなりの頁を割いて、日本人非戦闘員の集団的な自決の模様を書いているが、なかに、つぎのようなまことに驚くべき事実の報告が含まれている。--洞窟に立てこもった日本軍の狙撃兵がいた。彼の狙撃 . . . 本文を読む
本書に収められた平塚柾氏の「グアム島玉砕記」には、日本軍によるグアム島民への虐殺も記録されている。1944年の7月から8月にかけて、米軍に追いつめられた日本軍は、もはや戦闘集団ではなく、自分の命を守るために仲間の兵に銃を向けるまでになっていたという。そういう状況下で、グアム島の現地住民に対する大量虐殺事件も発生したという。
〈師団戦車隊付きの歩兵であった水上正さんは、その目撃者の一人である。 . . . 本文を読む
安田武・福島鑄郎編『記録 自決と玉砕 ーー皇国に殉じた人々』(新人物往来社・1974年刊行)は、題名の通りにアジア・太平洋戦争における日本軍人と民間人の「自決と玉砕」についての記録である。1943(昭和18)年5月のアッツ島の玉砕から始まり、ニューギニア、サイパン、グアム、ペリリューなど太平洋の島々や硫黄島、沖縄の玉砕、さらに満蒙ソ連国境における「集団自殺」や敗戦を機に起こった軍人や右翼団体員の . . . 本文を読む
宮里松正『三中学徒隊』(三中学徒之会)より、宇土部隊の敗残兵が行った住民虐殺について、宮里氏が触れている部分を紹介したい。具体的な事例は挙げていないが、当時の状況と宮里氏の見解が記されている。
宮里氏は1927(昭和2)年に本部町山川に生まれた。1942(昭和17)年に県立第三中学(現名護高校)に入学し、三中学徒隊として沖縄戦に参加している。のちに弁護士となり、沖縄の施政権返還を前後して、琉球 . . . 本文を読む
「風流無談」第8回 琉球新報2008年1月5日付朝刊掲載
ルー:はいさい、いちゃりばブラザー、皆さん明けましてニューイヤー、今年もよろしくございます、ルー大城です。
カメ:あきさみよーなー、くぬ男や、正月なーから異風な物言いして。
ルー:そういうあなたは、フー・アー・ユー?
カメ:私はヤンバルから来ました仲村渠カメです。だー、久し振りに那覇に来た ら、人がわさないして疲れたさ。ここで少しゆくろう . . . 本文を読む
『忘れられぬ体験 市民の戦時・戦後体験 第一集』(那覇市民の戦時・戦後体験記録委員会)は、1978年に沖縄戦戦没者三十三年忌を迎えたことを機に、那覇市がとりくんだ記念事業の一つとして発刊された。当時の那覇市長の平良良松氏は、〈「全市民の手で」を目標に、一つの市民運動としてこの仕事を推し進めるため、市民代表と学識経験者により「那覇市民の戦時・戦後体験記録委員会」ができ、そこを活動母体とすることにな . . . 本文を読む
④「友軍に虐殺された父」は、これまで繰り返し出てくる謝花喜睦氏の子息、謝花恒義氏の証言である。十・十空襲時の村内の被災状況や日本軍部隊の配置、同世代の少年たちの状況、戦時下の生活、米軍が羽地内海から湧川に上陸してくるときの状況、泣きやまない子どもが壕の中で殺されかけたことなど、幅広い内容の証言がなされている。その中では、殺された父親の敵を討とうと手榴弾を持ち歩いたことなど、日本軍への激しい怒りが . . . 本文を読む
座談会「今帰仁村の戦時状況」には、障害を持った女性が日本軍にスパイの疑いをかけられ、虐待されて死亡したことも語られている。
〈宮里 戦争中に五十代の女の人がね、唖で精神がちょっと異常しとった。友軍がここたずねても、返事できないです。これがスパイだといってね、松にこうして後手にくびって、たいへんやられて、もう半死半生になってね、役所の前からこうして帰っとってね、毎日いじめられとった。あと、役所の . . . 本文を読む
今帰仁村における日本軍の住民虐殺について『沖縄県史 第10巻』から見てみたい。
『沖縄県史 代10巻』(沖縄県教育委員会編・1974年)には、沖縄島中北部や離島地域の戦争体験者の証言がまとめられている。今帰仁村に関しては次のような村民による座談会や証言が載っている。( )内の年齢は沖縄戦当時のものである。
①「今帰仁村の戦時状況」(座談会)
今帰仁村字湧川 糸数昌徳(三六歳)
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岸本金光氏の証言から本部・今帰仁における日本軍の住民虐殺について見たい。
岸本氏は当時44歳。名護町役場で兵事主任を務める一方で、厚養館という旅館も経営していた。「見たこと、聞いたこと、出会ったことー兵事主任としてー」と題し、自らペンを取って記した文章で岸本氏は、昭和十七年に当時の羽地村長が、近畿地方に空襲があったとラジオ放送を聞き間違えて名護や近隣町村で混乱が起こったこと、名護市大兼久区出身 . . . 本文を読む