海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

名護市羽地区平和祈願祭

2011-06-22 23:42:08 | 沖縄戦/アジア・太平洋戦争
 6月23日の沖縄戦慰霊の日に向けて沖縄県内では連日、各地で慰霊祭が行われている。名護市でも21日(火)は名護・屋部・久志、22日(水)は屋我地・羽地の各慰霊塔で午後2時から平和祈願祭が行われた。





 写真は羽地の慰霊塔前で行われた第34回平和祈願祭。戦没者の遺族や市役所・区の代表、羽地区の小中学生の代表など、約60名が参加して行われた。参加者全員による1分間の黙祷のあと、稲嶺進名護市長が式辞を述べた。続いて比嘉祐一市議会議長(代読)の追悼の辞が読み上げられた。



 遺族代表の宮城さんが平和宣言を行った。



 小中学校児童生徒代表による平和の誓い。



 稲嶺市長、市議会議員代表、遺族代表、区長会代表、婦人会代表、老人会代表、生徒会代表、青少協代表が献花を行った。





 参加者全員で焼香し、閉会の辞が述べられて、約40分ほどで平和祈願祭は終了した。





 羽地区の慰霊塔は国道58号線沿い、名護市立羽地中学校の近くにある。慰霊塔の隣には忠魂碑も残っている。
 国道をはさんで南側には多野岳がある。多野岳は第3遊撃隊(第1護郷隊)の本部が置かれ、陸軍中野学校出身の村上治夫隊長指揮のもと10代の少年らがゲリラ戦を展開する拠点となった。その一方で、中部や本部半島での戦闘から敗走してきた兵士らが山中に潜み、避難してきた住民と混在する状態となった。私の父も三中学徒隊員として八重岳・真部山での戦闘のあと多野岳に移動し、日本兵らと一緒にしばらく山中に潜んでいた。



 辺野古から来たという兄妹3人が、戦死した父のためにと慰霊塔に煙草やお茶、花をささげて手を合わせていた。父親は防衛隊として八重岳に動員されたが、そのあと羽地に移動した。辺野古に戻ろうと誘われたが、兵隊の銃を預かっているのでそれを返したい、と羽地に残ったらしい。田んぼの中を歩いているのを見たという人もいるが、おそらく羽地で戦死したのではないかと思い、毎年、羽地の平和祈願祭に参加している。3人はそう語ってくれた。


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1 コメント

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今はきれいな沖縄 (shigeki iot)
2011-08-03 21:08:19
今は、本当に綺麗で楽しい沖縄ですが戦時中は
大変な事が起こったのですね。

沖縄は3度目ですが、宿泊地域それぞれにて戦争の爪痕を見ています。

戦争にて亡くなられた沖縄の方達に追悼の意を捧げます。

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