海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

2013年「沖縄戦慰霊の日」に 3

2013-06-25 13:02:51 | 沖縄戦/アジア・太平洋戦争

 23日は八重岳を下りてから本部町立博物館に行き、「沖縄戦資料展」を見た。清末隊の壕から出た銃剣や十四年式拳銃、銃弾、地雷、野戦病院跡から出た薬ビンなどのほか、沖縄戦の写真パネル、新聞資料、書籍などが展示され、閲覧できるようになっていた。

 また、壁の一面には本部町内の小・中・高校の生徒たちによる平和メッセージが貼られていて、部活動のあとらしい中学生たちがやって来ると、木の葉の形をした紙に書かれたメッセージを読んでいた。

 歴史、民俗、自然などのコーナーでは、本部町関連の資料を中心にしながら、昆虫、鳥類などの標本が数多く展示されている。ノグチゲラの巣の断面も見られる。

 同館では『本部町史』が購入できる。『資料編』1・2には、国頭支隊関係資料として、「指揮下部隊作命綴(国頭支隊)」、「秘密戦ニ関スル書類」「陣中日誌」、米第六海兵師団の「Battle for Yaedake」の訳文など、沖縄戦に関する貴重な資料が収録されている。また、『通史編』には戦争体験記が収録され、護郷隊、学徒隊に関する記述も多い。別巻として『町民の戦争体験記』も発刊されている。

 本部町から名護市に戻り、午後2時から県立名護高校内の「南燈慰霊之塔」前広場で開かれた慰霊祭に参加した。南燈同窓会副会長・松田憲和氏の開式の辞のあと1分間の黙祷、道福寺の稲福真海住職の読経が行われ、追悼の辞を南燈同窓会会長・玉城勲氏、名護高等学校長・宮城仁氏、生徒会長・上地駿介氏の三名が述べた。その後、遺族による献花、三中校歌・三高女校歌・名護高校校歌が斉唱され、焼香が行われた。

 午前中、八重岳で開かれた慰霊祭に続けて参加した元三中学徒の皆さんもいたが、元三高女学徒の皆さんを含めても空席が目についた。名護高校の生徒は毎年代表して何クラスかが参加しているようだが、元学徒の皆さんの話を聴く機会はあるのだろうか。

 ひめゆり平和祈念資料館が「館外講話」への証言員派遣を、今年9月いっぱいで終了するという。 

 http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-207332-storytopic-145.html

 元学徒の皆さんも80代半ば以上の高齢となっているのだから、やむを得ないことだ。これからは県内外の学校が、自らひめゆり平和祈念資料館に足を運び、体験を聴く機会をどれだけ設けるかが問われる。真剣に耳を傾ければ、つらい体験を語ってくれるお年寄りが、沖縄には身近にいる。無理を強いることなく、丁寧に話を聴く機会を、できるだけ持ちたいものだ。

 午後3時からは名護小学校内にある「少年護郷隊之碑」で行われた慰霊祭に参加した。先に挙げた『本部町史 通史編下』で、仲田善明氏は護郷隊について次のように記している。

 〈 学徒隊と同じように、沖縄戦で若い命を散らしたものに「護郷隊」がある。戦雲急を告げる昭和十九年末、国頭・中頭郡内の青年学校生徒(昭二~四年生)約七〇〇人が、兵役法によらずに召集され少年護郷隊として編成、郷土防衛の使命に青春の血を燃やして北部戦線に参加し、一六四人の貴い命を落としたことも忘れてはならないことである 〉(576ページ)。

 〈 「護郷隊」とは、防衛召集により徴兵され、沖縄守備軍が玉砕した後も、敵の後方攪乱によって抗戦するというゲリラ・スパイの特殊な任務を与えられ、勅命によって編成されたもので、徴兵適令前の男子青年をもって組織された。隊員は青年学校の生徒で、第三十二軍直轄部隊である〉(576ページ)。

 〈陸軍中野学校でゲリラ戦術とスパイ戦術の特殊教育を受けた村上、岩波両大尉に、油井、菅江、木下、竹中の四少尉は、始め第三十二軍々司令部の情報部に属して、部隊編成と陣地選定の準備にかかった 〉(577ページ)。

 〈 当時三十二軍は既に主決戦場を中・南部地区に求めていたので、遊撃隊は北部国頭郡内の原始山岳密林地帯に策動するよう兵力を部署するという編成方針で、国家総力戦の指導要領に基き、戦力化できる十七歳以上(数え年)徴兵適令期以前の青年を防衛召集して、部隊編成することになった 〉(577ページ)。

 〈 このようにして編成された四個中隊から成る第三遊撃隊は、村上大尉の指揮で羽地村多野岳に布陣、第四遊撃隊(三個中隊)は岩波大尉の指揮で、本陣を当初は名護岳に後、恩納村の恩納岳においた。第三遊撃隊は兵力約六〇〇名、第四遊撃隊は約五〇〇名だった 〉(578ページ)。

 〈 防諜の意味から、これら二つの遊撃隊は、護郷隊と名づけられた。「自分の郷土は自分の手で護れ。」というのが軍の沖縄人に与えた大義名分であり、義勇隊に志願した青年達は、村上大尉の指導と相俟って、この使命に生き、青春の若い血を無謀にも燃やしていった 〉(578ページ )

 全体で30名ほどの参加であったが、それでも例年よりずっと多いと元護郷隊員のひとりは喜んでいた。道福寺・稲福真海住職の読経と参加者の焼香の後、供えられたお菓子をウサンデーした。強い日差しのなか、住職や元護郷隊員の皆さんが、碑に酒やお茶をかけて霊を慰めていた。

 この日は第一護郷隊(第三遊撃隊)の村上治夫隊長の家族も参加しており、4時から名護博物館で村上隊長の軍刀の贈呈式が行われるとのことで、博物館に移動した。

 25日付琉球新報に、寄贈式の様子が載っている。

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-208525-storytopic-5.html

 護郷隊(遊撃隊)や離島残地諜者、義烈空挺隊など沖縄戦には、陸軍中野学校出身者がかなり参加していた。その実態解明は沖縄戦研究の重要な課題の一つである。護郷隊や沖縄戦と陸軍中野学校出身者のかかわりについて、名護市による調査、研究の進展に期待したい。

 本部町立博物館の「沖縄戦資料展」は23日で終わったが、名護博物館では6月30日まで「名護・やんばるの戦争展-収容所から-」が開催されている。ぜひ足を運んでほしい。ちなみに、私の父方の祖父は、田井等のカンパン(compound)に収容され、元もと散髪屋だったので米兵や住民の散髪をしていた、と話していた。 

 


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