海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

「国民抗戦必携」と油山事件

2010-06-07 23:57:08 | 沖縄戦/アジア・太平洋戦争
 5月13日付沖縄タイムスに、大本営陸軍部が1945年4月25日に刊行した冊子「国民抗戦必携」を林博史関東学院大学教授が米国立公文書館で確認した、という記事が載っている。

http://www.okinawatimes.co.jp/article/2010-05-13_6437/

http://www.okinawatimes.co.jp/article/2010-05-13_6450/

 紙上には「国民抗戦必携」の写真も載っていて、手榴弾爆雷、火炎瓶、刺突爆雷の使用法や、刀、槍、鎌、ナタ、玄翁、出刃包丁、鳶口、格闘などによる攻撃法が図入りで説明されている。写真を見ると、格闘には次のような説明がなされている。

 〈水落ヲ突ク 睾丸ヲ蹴ル 其ノ他柔道、唐手ノ手ヲ用フル〉

 武器の生産、配備が追いつかないときは農具や大工道具なども使わせ、果ては竹槍や素手で住民を米軍に立ち向かわせる。このような大本営陸軍部の無謀かつでたらめな戦闘方針が、沖縄戦では先取りして実行され、住民の犠牲を増やした。国体護持のためには住民、下級兵士の命など取るに足らないものとして扱われ、特攻、肉弾戦によって玉砕(全滅)が強いられたのである。それは沖縄戦の前にサイパンやテニアンなど南洋群島の戦闘ですでに行われていたことでもある。
 このような無謀な方針を立てた日本軍上層部の思想、行動原理、戦略・戦術などの問題は、その責任も含めて、これからも検証、追及されていかなければならない。林教授によって確認された「国民抗戦必携」は、そのための貴重な資料となるだろう。
 〈水落ヲ突ク……唐手ノ手ヲ用フル〉という記述を見ると、今では笑ってしまうかもしれない。だが、次のような事件を見ると、笑ってはいられなくなる。



 斎藤充功著『諜報員たちの戦後 陸軍中野学校の真実』(角川書店)に油山事件についての記述があり、同事件の貴重な証言が紹介されている。
 同書によれば、油山事件とは1945年8月10日に福岡市内の油山において、米兵捕虜八名を西部軍上層部の指示で処刑した事件である。捕虜のうち五名は日本刀により斬首されたが、〈残りの三名のうち二名については、当時士官が訓練をしていた空手の効果を試すために、まず空手による処刑が実施された。しかしそれはうまくいかず、結局日本刀で斬首された。この空手の訓練というのは、米軍が本土に上陸してきたときに、一般市民を装って米軍を襲い、後方をかく乱する目的で行われているものだった〉(『横浜弁護士会BC級戦犯裁判調査』)という。
 同書には空手による処刑を実行したS氏(本では実名)の証言も載っている。S氏は陸軍中野学校の卒業生で、当時西部軍管区司令部に配属されていた。当日(S氏の証言では9日)、S氏は捕虜と一緒に軍用トラックの荷台に乗って油山に向かった。捕虜八人は全員白人で、処刑場に着いたとき、現場にはすでに穴が掘られており、処刑は〈午前中から始まり昼近くまでかかった〉という。

 〈空手と弓矢は威力を試すためでしたが、実戦には役に立ちませんでした。穴の前に座った捕虜は後ろ手に縛られて、目隠しはしていませんでした。
 彼らは覚悟していたんでしょう。抗うこともせずに静かにしていました。私が処刑した捕虜は将校でしたが、処刑の寸前に私の顔をじっと見つめたんです。その顔はいまでも忘れません。空手でやったんですが相手はなかなか死にませんでした。最初の一撃で目をつぶってしまいました。私は焦りました。二撃、三撃を捕虜の胸に叩きつけたんです。それでも駄目だったので、捕虜を穴の中に蹴落として喉を軍刀で刺しました。その時は無我夢中で、とどめの作法などまったく考えずに、処刑を早く終わりたい一心でした〉(『諜報員たちの戦後』100~101ページ)。

 素手で殴り殺す、という方法で処刑が行われた例はそうはないだろう。結果は失敗に終わっているが、その目的は、素手で人を殺せるか、空手の訓練の効果を試すことにあった。それは処刑法としてもことさらに苦しみを与え、一種の生体実験と言ってもいい残虐な方法である。
 本土決戦となれば、沖縄戦で護郷隊(遊撃隊)が作られたように、中野学校を出たS氏は住民を組織して遊撃戦(ゲリラ戦)を展開する主力となったであろう。その際、後方かく乱のために米兵を空手で攻撃することも想定されていたわけだが、これは今回確認された「国民抗戦必携」の〈唐手ノ手ヲ用フル〉にも通じるものだ。それにしても、捕虜の米兵を使って実際に空手で殺せるかどうかを確かめていたとは。
 処刑についての感想を、S氏は次のように語っている。

 〈中野時代、ゲリラ戦の図上演習や訓練は受けていましたが、直接的な殺人は教育されませんでした。それが命令とはいえ、処刑という殺人をしたのです。現場に立ったときは正直、足が震え、持った軍刀の柄が脂汗でヌルヌルして滑りました。額にも脂汗が吹き出ていました〉(101ページ)

 〈処刑のときの精神状態は、まるで命令に忠実なロボットでした。そして、とどめを刺したときは、捕虜を人間と思わずモノと見ていました。ところが、首から吹き出した鮮血を見たとき、目の前が真っ白になりました。私は一人、殺(や)りました。その手応えはいまでも両手に残っているんです〉(102ページ)

 S氏は復員していた郷里の実家で1947年12月に逮捕された。巣鴨プリズンに送られ、横浜のBC級裁判法廷で死刑を宣告されたが、その後、終身刑、有期刑に減刑され、1955年8月に釈放されている。
 裁判では、かつての〈将官クラスや高級将校たちは『命令を出した覚えがない』『知らなかった』と言い逃ればかりして醜い姿をさらしていました。米軍の裁判官も、責任逃れをする、かつての指揮官連中を嫌悪していました〉(106ページ)とS氏は語っている。慶良間諸島における「集団自決」(強制集団死)での元隊長たちの言動を思い出すが、このような指揮官たちの命令によってS氏は戦犯として七年余の獄中生活を送り、心に深い傷を抱えて戦後を生きることとなった。
 油山事件が起こったのは広島・長崎に原子爆弾が落とされた直後である。米国が科学の粋を集めて最悪の破壊兵器を開発し、大量殺戮を行っている時に、日本では「国民抗戦必携」が出され、農具や大工道具さえ武器にし、空手で米兵を殺せるかを試す事件が起こっていた。米国と日本でやっていることは両極端のようだが、戦争の残虐さ、愚劣さ、狂気を実行していることでは同じである。

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