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海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

ヤンバルの花、森、歴史

2010-07-04 00:08:37 | 沖縄戦/アジア・太平洋戦争

 ヤンバルの野山は野ボタンの花も終わりに近づいた。写真の花は慰霊の日にナングスクで撮ったもの。
 6月23日の沖縄戦慰霊の日は、牛島満第32軍司令官が自決し、組織的戦闘が終わった日とされている。ヤンバルでは宇土部隊が敗走したあとも、第3遊撃隊、第4遊撃隊が秘密遊撃戦や情報収集活動などを行っていた。



 和魂の碑の傍らにはハイビスカスが咲いていた。
 宇土部隊や中南部の戦場から脱出してきた兵隊たちが敗残兵となって山中に潜み、米軍が掃討戦を行う一方で、住民は飢えやマラリア、肉体と精神に負った戦傷に苦しみながら、山中や収容所、シマ()で必死に生をつないでいた。そういう中で、友軍と呼んでいた日本軍による住民虐殺も起こっている。ヤンバルの森にも戦争の歴史がある。
 私が子どもの頃……というのは1960年代半ばのことだが、ぺーかた(漢字をあてると南方。私の祖父は沖縄島の中南部をそう呼んでいた)から祖父母にお礼をしに訪ねてくる人がいたのを憶えている。戦時中にお世話になったということだった。「県内疎開」という形で中南部からヤンバルに来た避難民は、食糧確保に苦労し飢餓に苦しんだ。そのときに祖父母が食料を分け与えたということで、沖縄戦から20年以上経っていてもお礼に来ていた。
 沖縄戦から65年も経つと当時の状況を知る人も少なくなり、あたかも日本軍や政府が沖縄県民の命を救おうと「疎開」に熱心に取り組んだかのように言う人もいる。しかし、その実態は、戦場で足手まといになる老幼婦女子を非戦闘地域に移し、食料や医薬品などを軍が確保するのが主たる目的だった。
 夫や兄弟、息子は防衛隊や学徒隊として中・南部の戦場にかり出され、老いた親と子どもを連れて避難した女性も多かった。ヤンバルでは住民に避難民の住居や食糧確保が割り当てられ、ある程度の準備はなされていたが、畑地の少ないヤンバルでは限界があるのは明らかだった。日米両軍の戦闘に巻き込まれたり、長引く山中での避難生活に耐えられず犠牲となる人も多かった。ヤンバルの森も戦場だったのだ。







 話は変わるが、名護のジャスコに行ったら「なご昔なつかし写真展/さくらの女王歴代写真展」というのをやっていた。名護の町や各地域の風景、行事などを写した写真パネルが展示されている。こういうヤンバルの歴史を見つめ直す企画は、公共施設以外でもどんどんやってほしい。戦争を迎える前にヤンバルの人たちはどのように暮らしていたのか。何が失われ、何が新たに作り出されて、ヤンバルはどのように変化していったのか。そのことを考える上で写真の持つ力は大きいし、木造瓦葺きの商店が並ぶ戦前の名護の通りの写真を見ながら、若かった祖父母や三中の学生の父が歩いている姿を想像すると、いろいろな物語が生まれてくる。11日まで開催。


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