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海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

花は咲き 鳥は鳴き

2009-04-12 23:53:00 | 生活・文化
 沖縄はいま相思樹の花が盛りだ。黄色い小さな花は派手さはないが、森の緑や青空を背景にすると穏やかな黄色が深みを増して惹きつけられる。民家の庭先や道路脇に置かれたプランターなどには、アマリリスの花がよく咲いている。今帰仁の家にも父の植えたアマリリスがあるのだが、それは少し開花が遅れている。そのアマリリスから種が散って自然に増えたアマリリスが裏庭のあちこちにあり、そちらの方が先に花を咲かせている。アマリリスやテッポウユリは球根で増やすことが多いが、種でもけっこう増えていく。
 数日前に庭木の剪定をしていたとき、メジロの巣が落ちているのを見つけた。ススキの穂の繊維できれいに作った巣の外側は、白いビニールの紐を細く割いて包むように覆ってあった。ゆーちくてーさー(よく作ったな)と感心したのだが、まだきれいな状態だったので、産卵前に落ちてしまったのかもしれない。今帰仁でも名護でも早朝からソーミナー(メジロ)の高ぶき(さえずり)があちこちから聞こえてくる。今は鳥類にとって繁殖期だが、庭の木でもソーミナーやポートゥ(山鳩)が時々巣を作って子育てをしている。
 小学校の5年生頃から中学生頃まで、ソーミナーを捕って飼っていた。父の手ほどきを受け、竹を切ってきて自分でクー(鳥籠)を作ったりもした。当時の小中学生はそれくらいは当たり前のようにやっていた。今帰仁では捕獲用の鳥籠をパッタイグーと呼んでいたが、木に仕掛けておいたパッタイグーにソーミナーが入っていると嬉しかったものだ。囮の籠にヤンムチャ(鳥もち)を付けた竹を指し、それに留まらせて捕まえるのもよくやった。上級生達は釣り竿の先にヤンムチャを付けて、木に留まっているソーミナーをビリヤードのように突いて捕っていたが、今考えるとずいぶん器用だったものだ。
 父は生き物を飼うのが好きだったので、ソーミナーもよく飼っていた。庭の黒木や軒下に籠(クー)を提げて、よく高ぶきさせていた。少し離れた所に住んでいた祖父もメジロを何羽も飼っていて、庭にソーミナー専用の鳥小屋を造り、愛鳥園と板壁にペンキで書いていた。野鳥を大量に飼うのは違法行為なのだが、当時はそれほど取締も厳しくなかったのだ。
 鳥といえばこういうこともあった。庭の池の鯉が芝生の上で死んでいることが何度かあり、数も減っていくので、父と母は学校帰りの小学生が悪戯をしているのかもしれない、と疑っていたらしい。後で分かった犯人は白鷺や青鷺だった。両親が留守の間に池に飛んできて鯉を食べ、食べきれない大きなものは芝生の植えに捨てていたのだった。以前、池が深かったときはそういうことはなかったのだが、近所の子どもが落ちたら危ないと、池に砂を入れて浅くしたのが原因だった。今は池には魚はいなくて蛙が繁殖しているが、最近は蛙を食べに来ているらしい。
 その白鷺たちは夜になると、祖父の家の近くの木に数十羽が留まって眠っていた。夜の暗がりに白くぼんやりと白鷺の姿が浮かんで、何か妖しい花でも咲いているようだった。今帰仁の仲宗根ではいま大掛かりな道路工事が進められていて、かつて祖父が住んでいた家も道路の拡張のために取り壊された。その家をモデルに「ブラジルおじーの酒」という小説を書いたのだが、周囲の景観も大きく変わった。今でも白鷺たちはあの木に留まって夜を過ごしているだろうか。新しい道路では外灯が明るすぎて、場所を変えなければならないかもしれない。
 身近な所にある自然を大切にしたいものだ。子どもは放っておいても、そこから無限の知識を得る。そして、一生の宝となる豊かな原風景を得る。

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5 コメント

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頭の上に (まめ)
2009-04-17 07:11:18
2週間ほど前だったか。
夜中でした。
屋外にて私の頭の上に落ちてきたのはソーミナーの雛。
見上げても木々はありませんでしあ。ですので巣からの落下は考えられず。
雛の羽の根元には、いくつか傷があり血が滲みでていました。カラスか何かがくわえていたのを落としたのかなと…?
まだ生きてました。
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庭にある鉄砲ゆりの花がやっと咲きはじめました。
ここは日当たりが悪いのか、周辺地に比べ毎年遅めの開花。
単純ですが…眺めては、ひめゆりの女性たちのことを想う近頃です。
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「みどり」の日が「昭和」の日になったこの感覚。
なんだか恐ろしい気がする私です。
昭和X年は春も宵 (目取真)
2009-04-17 09:49:53
夜中でしたら、落としたのはリュウキュウコノハズクかもしれませんね。
今帰仁ではマヤージコフ、または鳴き声からコーホイと言います。
マヤージコフも生きて子育てするためには、食べなければいけませんからね。
ソーミナーにとっては災難ですが。

昭和天皇が死んで20年余。
沖縄の美術館では、天皇の写真をコラージュした絵画が排除される。
あっそ、ではすまされないですね。
岡部伊都子さんを偲ぶ2つの企画 (京の京太郎)
2009-04-17 13:36:57
昨年の4月29日の早朝に岡部伊都子さんがお亡くなりになって、もうすぐ一年。
 京都で2つの岡部さんを偲んでの企画が持たれる。近郊の方はぜひご参加を!

一つは4月28日から5月31日まで、立命館大学国際平和ミュージアムでの「岡部伊都子回顧展」http://www.ritsumei.ac.jp/

もう一つは、4月29日1時~、京都府解放センター(烏丸通紫明角)での「天皇の戦争責任を問い続ける4.29京都集会」
岡部伊都子さん一周忌追悼企画として、岡部さんが「花明り人」と書いた(伊都子集・岩波書店刊第5巻)知花昌一さんのたたかいを描いたドキュメンタリー映画『知花家の沖縄~「日の丸」焼き捨てと「象のオリ」~』上映他。参加費500円
 
「こんなまちがった戦争で、天皇のためには死にたくない」と彼女に告白した婚約者に「私なら喜んで死ぬけど」と答えて沖縄戦に彼を送り出した過去から、自らを「加害の女」と呼び、平和・差別問題など様々な発言や文筆活動をとおしてその事を原点として貫き通された人生だった…。
 か細いお体の方だったが、85才の4月29日、「昭和の日」まで頑張って癌と闘い続けられたのは、彼女の最後の私たちへのメッセージなのかもしれないと今思う。これからは毎年、4月29日はヒロヒトの戦争責任を考える日(この日だけにしてはいけない!のだが…)であるとともに、岡部伊都子さんの追想の日ともなった。
足音もなくちかずいてこられ、小さな声で「お忙しいのに…いつもありがとう」と声をかけて頂いたが、忙しいばかりでは心をなくしまっせという忠告だったのかもしれない。たくさんの本も頂いた。お酒も…。残された時間でなにがお返しできるのだろうか?あせらず考えていこうと思う。
岡部伊都子さん追想番組放送予定 (京の京太郎)
2009-11-18 13:11:33
岡部伊都子さんの追想放送番組があるようです。変更があるかも分かりませんが、番組表でご確認下さい。

~NHK教育テレビ「知る楽 こだわり人物伝『岡部伊都子 弱き者へのまなざし』」~

2009年12月、毎週水曜日NHK教育テレビ 午後10時25分~10時50分
再放送:翌週水曜日 午前5時35分~6時00分
●第一回「私は“加害の女”」(12月2日放送予定)
●第二回「美を慈しんだ強き人」(12月9日放送予定)
●第三回「戦地 沖縄に立つ」(12月16日放送予定)
●第四回「孤独を友に刻々と」(12月23日放送予定)
制作担当:NHK京都放送局

お礼 (目取真)
2009-11-18 18:17:18
情報提供ありがとうございます。
ぜひ見たいと思います。

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