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田中真紀子大臣は堂々と不認可を主張せよ

2012-11-09 | 政治
田中真紀子文部科学相が、新設3大学の申請を不認可とするという決定を出してから、与野党からの非難囂々と成って、当初言っていた「新しい審査基準を作り、認定をやり直す」という前言をひるがえし、3大学を認可し、さらには、「心からのお詫び」までしてしまった。たしかに、田中文科相のやり方は唐突であったが、彼女が言っていたこと、つまりこれまでの大学認可の審査のあり方に問題があり、大学乱造と質の低下が進んでいるという危機感については、政治家を含め多くの識者が賛成していた。ただ、やり方が唐突だということだった。一方、自民党は、これまでの文部行政を仕切っていたのが自民党だったこともあり、それを見直すのはけしからんと言って、田中文科相の問責決議案まで出すという。まあ、自民党がこれまでのやり方を作って来たのであって、自分たちのやり方を反省していない以上、田中大臣を非難するのは当然かも知れない。

 しかし、私はいったん不認可を言った以上、最後までそれを貫いて欲しかった。大学が認可されないと困るというのは、大学の勝手な事情である。これまでも認可されなかった新設大学計画は山ほどある。ただ、これらは審査に掛かる前に文科省の役人から、おまえのところは認可されないよと言い渡されるわけである。大学としては来年こそは認可されるはずだと、いろいろ文科省の役人のご機嫌を伺い、あるいは接待をし、役人の言うことに従って、欠陥を直す、もしくはごまかす手法を考える。役人がそれを教える。大学設置審議会は、役人と大学側のやりとりが終わって、認可しても良いということになった申請を設置審議会にかける。つまり、設置審議会は、役人が出してきた認可予定大学を承認するだけの組織だ。だから、文科相もこれまでは審議会の結論すなわち役人の結論にはんこを押すだけだった。田中文科相の行動は、そこを根本から見直そうというのだった。

 本当は、自民党から民主党へ政権交代が起こったときに、審議会そのもののあり方も根本的に見直し、このような大学の安易な新設は認めないという方向を出すべきだったのだ。民主党の政権交代が、ここまで国民の期待を裏切ったのは、そのような根本的な改革をやろうとしなかったことから来る必然的な結果だった。小沢一郎がやろうとした諸々の改革を官僚と一緒になって反対してきた野田や前原、岡田、仙石など、結局自民党と何の変わりも無い。田中大臣はどうして引き下がってしまったのだろうか。自民党の問責決議を怖がったのだろうか。何も怖れることはない。徹底的に自民党が作った官僚任せの政治を変えなければいけない。

 維新の会とか、石原新党とか、みんなの党など、官僚政治を打破しようというスローガンを掲げているところは多い。しかし、本当に彼らに官僚政治が変えられるだろうか。とてもそうは思えない。なぜなら、彼らの向かう先には、官僚的独裁者の道しか見えないからだ。自民党も、これら右翼政党も、民主党も同じ穴の狢でしかない。社民党と共産党を除くと「国民の生活が第一」だけが、救いのように思える。野田内閣はもう死に体だ。選挙は近い。

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1 コメント

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Japanese mentality (noga)
2012-11-09 20:10:13

田中真紀子文部科学相は、これまでの大学認可の審査のあり方に問題があり、大学乱造と質の低下が進んでいるという共通認識がある。
この点を問題視して、「新しい審査基準を作り、認定をやり直す」と言い、新設3大学の申請の認可を見合わせるといえばよい。
だが、手順前後があると、政治の混乱が起こる。

田中真紀子文部科学相は、手順前後を認めて、いったん問題を指摘した以上、最後までその現実対応策を立案して遂行して欲しい。田中文科相の行動は、現実を根本から見直そうというものであってほしい。
田中大臣はどうして引き下がってしまったのだろうか。おそらく、筋道の立った現実対応策を用意できなかったのではあるまいか。それでは、「少なくても県外、、、、」と言うようなものである。

社会には口はないのであるから、個人が社会の代弁しなければならない。
個人は、人により意見が違うから、個人選びをして、社会を代弁する個人を選び出さなくてはならない。
選ばれた個人の哲学により社会の意思を決定する。
だから、個人には過不足のない内容が必要である。矛盾は考えから排除しなければならない。

我が国には、個人の意思で組織を取り仕切る考え方がない。
組織の長にも、組織の構成員にも意思表示の方法はない。
だから、組織の長は、床の間の飾り物の様になる。
あるのは、意向といった恣意のような掴みどころのないものである。

文章があれば、矛盾を指摘して取り除くことができる。
小言、片言、独り言では、矛盾は指摘できない。

日本語には時制がない。
だから、日本人の文章には未来時制がなく、未来の内容は、現在・現実からの推測になる。
未来時制の英文 ‘He will go.’は、日本人の文章では(おそらく、彼はそこに行くだろう。‘Probably he goes there.’) となる。
日本語で現在・現実のことを話すときには、実況放送・現実報告の内容になるので問題は少ないが、未来のことを話すときには、’おそらく、、、、だろう’、’おそらく、、、、だろう’、’おそらく、、、、だろう’ の連続になって、確かな考えを示すことができない。だから、それを聞いた聴衆も鬼も笑いだす。
日本語では、未来に関する真面目な話はできない。一寸先は闇で、構想と言う非現実の内容には絶えず不安が付きまとう。

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