ごまめの歯ぎしり・まぐろのおなら

サンナシ小屋&京都から世界の愛する人たちへ

宇都宮けんじと未来の党

2012-11-28 | 政治
嘉田由紀子滋賀県知事が「日本未来の党」を立ちあげて、脱原発の受け皿を作った。「国民の生活が第一」や「みどりの風」「脱原発・・・」などが合流することになった。うれしいことだ。マスゴミたちが第三極だと騒いで、石原や橋下などのゴミ右翼をもてはやしていたが、あいつらはけっして第三極などでもない。民主党が自民党に先祖返りして、自民党、民主党、公明党、日本維新の会などは、ひとまとめの第一極でしかない。違いは目くそ鼻くその違いだ。

 結局、これら第一極は原発推進路線だ。30年代にゼロなどという公約は、おそらく守られることは無いだろう。経済を命に優先させる以上、いつまでも原発を持ち続けたい輩ばかりである。原発は原爆といっしょで、いつかかならず事故を起こす。地震や津波が無くても、原発事故は起こる。チェルノブイリやスリーマイルの原発事故は地震も津波もなくても起こった。人間が操作している以上、間違いが無いわけが無い。自動機械に操作させれば、もっと怖い。

 総選挙は、原発推進=維持路線の第一極か、脱原発の『未来の党』かが選択肢になる。社民党も共産党も、これまでの行きがかりを捨てて、未来の党と統一名簿を作って戦おう。東京都では、都知事選挙に「宇都宮けんじ」さんを立てて、東京から脱原発を!と、共産党も社民党もいっしょに戦っている。これが衆議院選挙でできないことはない。政党を存続させるのが大事か、原発を止めさせるのが大事か。既成政党は今こそよ~~~く考えて欲しい。

 東京都知事は「宇都宮けんじ」で、衆議院は「未来の党」で、原発の無い未来を。

雪虫と土栗と紅葉

2012-11-26 | 花と自然
京都にも雪虫が飛んだ週末だった。暦の上では小雪。朝夕に冷え込みは強くなってきた。それでも日曜日は全国的に秋晴れになり、京都は紅葉を愛でる人たちであふれかえった。この時期にバスに乗ることは覚悟を決めなければならない。いつ到着するか分からないからだ。この秋晴れに家でじっとしているのも辛いので、家から歩ける近くの山を散歩した。落ち葉がはらはらと落ちてくる山道を歩いていると、星が落ちていた。いや、これはツチグリというきのこなのだ。



 それほど珍しいきのこではないのだが、意外に人は知らない。きのこだと思わないのかも知れない。冬など山道を歩いていると、この星形のまま枯れて硬くなってしまったツチグリをみることがある。忍者の放った手裏剣が落ちているようにも見える。

 常緑樹が多くなってしまった京都の東山だが、秋になると意外に広葉樹もいっぱいあることが分かる。赤い色だけが紅葉ではない。緑から深紅までのグラデーションも、嘆声がでるほど美しい。黄色の黄葉も秋の日差しを浴びて黄金色に輝いている。小春日和の一日を、美しい葉っぱを見ながら歩くことができた。今年の秋は雨が多い。雨の紅葉もそれなりに風情があるが、やはり日の光をいっぱい浴びた紅葉や黄葉にまさるものではない。今年はこの日で紅葉狩りは終わりかも知れない。

落ち葉はゴミではない

2012-11-22 | 花と自然
京都の紅葉もかなり進んできた。有名どころはほぼどこも見頃を迎えている。観光客も増え続けている。晴れた祝日や休日があれば、これは恐怖の大渋滞が起こりそうだ。散歩道の琵琶湖疎水に沿った道も、桜並木の紅葉はほぼ終わり、落ち葉が次々と落ちてくるようになった。この疎水沿いの道で、毎日落ち葉を掃き、せっせとゴミ袋に詰め込んでいる人がいる。道路に落ち葉が積もるのは嫌なのだろうか。私は、道路に落ち葉が積もるのは大好きだ。とくに秋の落ち葉は美しい。はらはらと散るのもすてきだが、赤や黄色の落ち葉が散り敷いて見事な美しさを見せるのは、もっと好ましい。まして、この歩道は、アスファルトで舗装しているが、そこに落ち葉が降り積もると、歩く足にもふわふわと易しい。それなのに、なぜ人々はこの落ち葉を掃いて集めてゴミ袋に詰めて、ゴミ収集車に持っていかせるのだろうか。落ち葉のないアスファルトの道は、歩くと足に負担をかける。落ち葉がふわふわの道を歩きたい。

 車が走る道なら、落ち葉が積もると車の運転に支障があるのかもしれない。しかし、歩く人以外には通らない疎水沿いの歩道で、なぜ落ち葉をせっせと掃いて、コンクリートむき出しの道にしなければいけないのだろうか。落ち葉はけっしてゴミではない。並木を作る桜やさまざまな木々にとっては、苦労して生産した有機物なのだ。冬になって落としたとしてもそれは地上で分解して、やがて木々が自分の栄養として吸収できるものなのだ。それをゴミにして燃やして処分するのは、単に二酸化炭素を増やすことになるだけではないか。

 街路樹の剪定もひどい。まるで樹木が丸太ん棒のようになっている。これは木を生き物と見ていないせいではないだろうか。生きている木をあんなに切り刻むのは、止めて欲しい。木もきっと泣いている。都会の緑をもっと大事にしたい。生き物として扱ってやりたい。

大原の山を歩く

2012-11-21 | 花と自然
最近体調がすぐれない。血圧もかなり高くなってしまった。血圧が高い日は、頭痛がする。これではいけないと思うが、薬を飲もうとは思わない。やはり体を動かす運動が一番だと思い、日頃の運動不足を解消するために、休日はとにかく山歩きをしようと決心した。といってもなんやかやと仕事や雑用や義理があって街中にいなければいけないことが多いので、あまり遠くまで行けそうもない。先日の休みは、4年前の今頃、京都へやってきた直後に歩いた大原の山「金比羅山」に登ることにした。

出町柳のバス停から大原行きのバスに乗ったが、これが超満員。乗り込むのにもステップに立っている乗客を体で押し込むようにしなければ乗り込めない。紅葉の季節の京都は、とにかく人が多い。大原のような観光地はさらに乗り物は混む。ザックを背負っているととても乗り切れないので、ザックは手に提げて乗るが、乗客の中には山へ行く人たちもいて、平気でザックを背負ったままの人もいる。肩から荷物を提げている人もいる。彼らは自分の行為がこの混雑を招いているとは、思ったこともないのであろう。まるで他人事だ。

 前日の大雨の後だから、道は濡れて滑りやすい。戸寺のバス停から歩き始めて、江文峠を目指す。この道は先月歩いたばかりなので、どんどん飛ばす。江文峠は国道が通っていて、車がブンブン通るので、とても峠とは思えない。その脇の金比羅神社の鳥居をくぐって、金比羅山への登山道をたどる。4年前に金比羅山に登ったときは、たしか大原から登り、南へ下りたように思う。そのときは、金比羅山の頂上付近の登りがかなり厳しかったような思い出がある。しかし、今日はそれほどの疲れもなく、1時間半後には573mの頂上に立っていた。やはり低い山だ。頂上を後にして北の稜線を下り始める頃、ぽつりぽつりと雨が降り始めた。風も出てきた。北の風に代わって、体を冷やす。もう少し気温が下がればこれは雪になりそうだ。鞍部までの下りはかなり急だ。両足だけでは歩けない。ところどころ木の幹や根につかまり、岩にしがみついて下りていく。

 鞍部に下りてまた登り返す。この坂も急だ。しかし、距離はそれほどでもない。560m峰まで登り返して、さらにまた急な坂を下りる。もう一度登り切ったところが、翠黛山577mの頂上。4年前に登ったときは、雪があったような記憶があるから、12月に入っていたのだろう。紅葉を期待したが、このあたりの低山はどこも杉檜の人工林ばかりで、あまり紅葉は見られない。翠黛山の麓に建礼門院が人生の後半を過ごした寂光院がある。頂上の立て札には、建礼門院がここまで登って花を摘んだと書いてあるが、本当だろうか。結構険しい道がある。当時は今のようなしっかりした登山道は無かっただろうから、着物を着た高貴な女性が登ってくる様なことは無かったのではないか。

 翠黛山から北の尾根通しを歩き、百井峠へ抜ける十字路から大原へ下る道をとった。寂光院まで下りてくると、大勢の観光客でごった返している。さすがに大原の里に下りてくると、紅葉がきれいだ。里には杉や檜の人工林がないからだ。この日は4時間の行程を3時間で歩いた。おかげでその夜の血圧はかなり降下した。やれやれ。

さあ、もう一度日本を作り直そう

2012-11-16 | 政治
とうとう野田の自爆解散選挙が始まった。民主党からは、沈む船から鼠が逃げ出すように、次々と離党者が出ている。これまでの自民党・公明党がやってきて、民主党が引き継いだ政治が審判を受ける。第三極が脚光を浴びているが、ちょっと待って欲しい。第三極といっても、まったく違う政党がいる。今日、橋下と石原が合流へ向けて協議することに合意したというニュースが流れている。石原新党を煽っているのは、マスコミの中でフジテレビ系とサンケイだ。フジテレビなどは、オバマ大統領の当選が決まった日にも、トップニュースは石原新党関連のどうでもいい話しだった。産経グループは、石原慎太郎+安倍晋三の極右改憲路線に恥も外聞もなく肩入れしている。

 しかし、第三極としてもっとも注目されるべきは、「国民の生活が第一」である。小沢一郎が提唱している「オリーブの木」構想こそ、第三極の中心になる筈なのだ。しかし、多くの新聞は小沢さんが控訴審でも無罪になり、明らかなえん罪であったことがはっきりしても、小沢一郎の「生活」に関して、黙りを決め込んでいる。ほとんど無視。これは明らかなイジメ、ネグレクトだ。「生活」の議員数は、公明党などよりもよっぽど多い。それでも、ネグレクトを続ける。

 第三極といわれる政党の中で、右翼改憲政党を除けば、第三極がはっきりしてくる。つまり、「国民の生活が第一」「新党きづな」「新党大地・真民主」「みどりの風」「緑の党」「社民党」「新社会党」。これらがオリーブの木のごとく、互いを尊重し合い、「反原発」「消費増税反対」「TPPなど新自由主義反対」で結集すれば、新しい日本を開く第三極ができる。亀井静香や山田、安部などの新党も、これに合流できる。そうすれば、共産党や民主党の一部と組んで、政権を担うことも可能だ。自民党の安倍晋三などは、もう総理大臣になった気分のようだが、あんな無責任な奴に日本を任せられない。自民党が政権を取ったとたん、原発はどんどん動き始め、お隣の国と戦争が始まり、日本は再び地獄へと落ちるだろう。日本を平和な国にし、アメリカの言いなりにならない国にできるのは、本当の第三極でしかない。

 12月16日には、同時に東京都知事選挙がある。宇都宮健児さんが、人に優しい東京を目指して、奮闘している。うつのみやさんが当選すれば、日本も世界に向けて首都の首長を自慢できる。日本人の名誉を回復できる。火事場泥棒のように日中間に火を付けて、逃げ出した石原の息の掛かった役人も副知事も追い出そう。再び東京を生き生きとした都市に作り直そう。すべて人々の意志に掛かっている。さあ、頑張ろう。

田中真紀子大臣は堂々と不認可を主張せよ

2012-11-09 | 政治
田中真紀子文部科学相が、新設3大学の申請を不認可とするという決定を出してから、与野党からの非難囂々と成って、当初言っていた「新しい審査基準を作り、認定をやり直す」という前言をひるがえし、3大学を認可し、さらには、「心からのお詫び」までしてしまった。たしかに、田中文科相のやり方は唐突であったが、彼女が言っていたこと、つまりこれまでの大学認可の審査のあり方に問題があり、大学乱造と質の低下が進んでいるという危機感については、政治家を含め多くの識者が賛成していた。ただ、やり方が唐突だということだった。一方、自民党は、これまでの文部行政を仕切っていたのが自民党だったこともあり、それを見直すのはけしからんと言って、田中文科相の問責決議案まで出すという。まあ、自民党がこれまでのやり方を作って来たのであって、自分たちのやり方を反省していない以上、田中大臣を非難するのは当然かも知れない。

 しかし、私はいったん不認可を言った以上、最後までそれを貫いて欲しかった。大学が認可されないと困るというのは、大学の勝手な事情である。これまでも認可されなかった新設大学計画は山ほどある。ただ、これらは審査に掛かる前に文科省の役人から、おまえのところは認可されないよと言い渡されるわけである。大学としては来年こそは認可されるはずだと、いろいろ文科省の役人のご機嫌を伺い、あるいは接待をし、役人の言うことに従って、欠陥を直す、もしくはごまかす手法を考える。役人がそれを教える。大学設置審議会は、役人と大学側のやりとりが終わって、認可しても良いということになった申請を設置審議会にかける。つまり、設置審議会は、役人が出してきた認可予定大学を承認するだけの組織だ。だから、文科相もこれまでは審議会の結論すなわち役人の結論にはんこを押すだけだった。田中文科相の行動は、そこを根本から見直そうというのだった。

 本当は、自民党から民主党へ政権交代が起こったときに、審議会そのもののあり方も根本的に見直し、このような大学の安易な新設は認めないという方向を出すべきだったのだ。民主党の政権交代が、ここまで国民の期待を裏切ったのは、そのような根本的な改革をやろうとしなかったことから来る必然的な結果だった。小沢一郎がやろうとした諸々の改革を官僚と一緒になって反対してきた野田や前原、岡田、仙石など、結局自民党と何の変わりも無い。田中大臣はどうして引き下がってしまったのだろうか。自民党の問責決議を怖がったのだろうか。何も怖れることはない。徹底的に自民党が作った官僚任せの政治を変えなければいけない。

 維新の会とか、石原新党とか、みんなの党など、官僚政治を打破しようというスローガンを掲げているところは多い。しかし、本当に彼らに官僚政治が変えられるだろうか。とてもそうは思えない。なぜなら、彼らの向かう先には、官僚的独裁者の道しか見えないからだ。自民党も、これら右翼政党も、民主党も同じ穴の狢でしかない。社民党と共産党を除くと「国民の生活が第一」だけが、救いのように思える。野田内閣はもう死に体だ。選挙は近い。

今年の紅葉は?まだ?

2012-11-06 | 花と自然
そろそろ紅葉も見頃ではないかと、比叡山に登った。山歩きもしばらくしなかったから、歩き慣れた比叡山の雲母坂さえも、足が重たい。歩き始めの10分で、もはや休憩を取りたいほどだった。30分まで我慢して歩いて、休憩をとった。これまでの山歩きで、歩き始めにこんなに休みが欲しいと思ったことはなかった。どうも体が重くなったせいかもしれない。体重を減らす努力が必要なのだが、少し食事制限したらお腹が減って、ついつい間食をしてしまう。

 足が重たい、足が痛いと思いながらも、ほぼ予定の2時間ちょうどで延暦寺根本中堂に到着した。まだ紅葉は早いようだ。ほんの一部の楓が赤く染まっているが、秋深しという風情は見られない。それでも天気の良い秋の日曜日と言うこともあって、比叡山延暦寺の境内は人で埋まっている。法然堂の堂守さんに会いたいと思って、急な坂道を下って法然堂を訪ねたが、堂守さんはお二人とも留守だった。



 観光客に混じって、茶店で田舎ぜんざいを食べ、八瀬へ下りる道をたどった。ススキの穂が揺れ、あまり使われていない林道からは、秋の色が見える。夕方になると気温も下がり、秋深しと成ってきた。夕方は暗くなるのが早くなった。考えてみれば秋分の日が過ぎてはやくも1ヶ月以上が過ぎている。冬至までの半分に来ているのだ。時がたつのも早い。 今年も、あと2ヶ月を切ってしまった。まだ紅葉が始まったばかりなのに、冬がもうそこに来ている。


iPS細胞で世界はどうなるのか

2012-11-02 | 日記風
京都大学の現職教授である山中伸也さんが、iPS細胞の開発で、ノーベル賞を受賞した。京都大学では、ノーベル賞受賞はそれほど珍しくないのだが、それでも京都の町では山中教授の話でもちきりだ。まずは、おめでたい。が、本当におめでたいのだろうか。新聞やテレビでの取り上げ方を見ていると、ちょっと心配になる。

 山中教授が開発したiPS細胞を使って、あらゆる種類の体細胞が作れるようになると、病気で機能を失った細胞の代わりに新しいiPS細胞から作られた細胞で入れ替えて、病気を治すことができる可能性が開かれた。マスコミの騒いでいるのは、この可能性についてだ。森口某という東大の特任研究員が、マスコミの期待を背負って、みごとな詐欺師ぶりを働いたようだ。そういえば、東大からはまだ一人もノーベル賞受賞者がでていない。政府・文科省の顔ばかりを見てきた大学が、良い研究を育てられないのは、十分な理由がある。

 しかし、一方で気になるのは、iPS細胞で万能の病気治療ができるようになることが、そんなに良いことなのだろうか。その結果はどうなるのか。人々が病気で死ななくなった時に、どういうことが起こるだろうか。高齢化は極端に進み、若者は生まれてこなくなる。ロボットのような人間ばかりになり、やがて人類は消滅するだろう。iPS細胞で病気治療をしようとしている医学者は、そこまで考えているのだろうか。目の前の患者が助かるようにしたいという思いはよく分かるが、その結果を医学者は十分考えていない。医学界は、そこまで結果に責任を持って欲しい。戦争に勝利し、戦争を止めるために、原爆を開発した科学者たち。その結果を彼らは考えただろうか。山中教授のノーベル賞受賞の理由が、iPS細胞が病気の治療に道を開いたということであるなら、それは危険な方向かも知れない。まあ、ダイナマイトを作ったノーベルの賞なのだから、現在の悲惨な戦争の罪滅ぼしにもならない。山中教授の本当の業績は、病気治療ではなく、細胞の分化を制御する遺伝子の解明にあったのだが。