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「人間」の「静かな大地」

2010-10-12 | 読書
池澤夏樹の「靜かな大地」を読んだ。明治維新で侍の身分を失った淡路島の人たちが、明治政府太政官の命で、蝦夷地に入植する。そこでアイヌの人たちに出会う。主人公の宗形三郎・志郎の兄弟はアイヌの少年と仲良くなるが、多くの和人はアイヌを軽蔑し、差別し、遠ざける。宗形三郎は、アメリカの牧畜を学び、静内にアイヌの友人と共にアイヌのための牧場を開き、成功する。しかし、アイヌびいきと言われ、和人からいとまれ、妬まれ、圧力を受ける。アイヌが日本政府による「土人同化政策」によって徐々に死に絶え、抹殺されていくのと軌を一にして、宗形牧場も衰え、希望を失った彼は妻の死に際して自らも自死する、という物語だが、この小説にはモデルとなる人物がいる。そして和人の入植によって民族の消滅への道を歩まされていくアイヌの人々の様子を、うかがい知ることができる。アイヌを差別しいじめ抜いた和人の中にも、江戸時代の松浦武四郎のように、そしてこの宗形三郎のように、アイヌを差別することを嫌い、アイヌと共に生きた人がいたということ、そこに一つの小さな灯りを見ることができた。

 私が15年間住んだ北海道だが、アイヌ民族の存在はアイヌ人とはっきりさせて観光業に従事している人を除けば、日常でアイヌの存在を知覚することはなかった。しかし、戦前の地図をみると、アイヌという言葉がちゃんと印刷され、図示されている。この人たちは多くは日本人に同化することを強いられ、自らのアイデンティティを失っていったのだろう。北海道はまさに侵略された土地なのだ。もっとも日本という国も、大陸から渡来してきた今の日本人の祖先によって侵略された土地なのだけど。

 しばしばアイヌの人たちの生きる知恵を書物などで教えられてきた。食べ物は神から送られた贈り物であり、食べた後は感謝して神の国に送り返す。生き物を捕らえ食べるときには、かならず取り尽くすことはしない。熊や狐やフクロウたちにも食べ物を分ける。そのような自然を敬うアイヌの生き方と、何ものも取り尽くそうとする和人の生き方の違いが、この本にはよく分かるように書かれている。宗形三郎の夢に現れたアイヌの神カムイはこう言った。「今、和人は驕っているが、それが世の末まで続くわけではない。大地を刻んで利を漁る所業がこのまま栄え続けるわけではない。与えられる以上を貪ってはいけないのだ。いつか、ずっと遠い先にだが、和人がアイヌの知恵を求めるときが来るだろう。神と人と大地の調和の意味を覚るときが来るだろう」。それは今ではないだろうか。

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