作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

「作雨作晴」記事一覧20180604〜20180725

2018年07月31日 | Weblog

 

 「作雨作晴」記事一覧20180604〜20180725

 

 
 
 
 
 
 
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§280 Zusatz.[君主と完成された国家組織体]

2018年07月25日 | 国家論

 

§280  Zusatz.[君主と完成された国家組織体]


§280

Zusatz.
Wenn man oft gegen den Monarchen behauptet, daß es durch ihn von der Zufälligkeit abhänge, wie es im Staate zugehe, da der Monarch übel gebildet sein könne, da er vielleicht nicht wert sei, an der Spitze desselben zu stehen, und daß es widersinnig sei, daß ein solcher Zustand als ein vernünftiger existieren solle, so ist eben die Voraussetzung hier nichtig, daß es auf die Besonderheit des Charakters ankomme.

第二百八十節 補註[君主と完成された国家組織体]

人はしばしば君主に反対して次のようなことを主張する。国家がどのように成り行くかは君主によって偶然に依存するようになってしまうとか、国家において悪い君主が作り上げられるかもしれないし、君主が国家の頂点に立つだけの十分な価値にふさわしくないかもしれない。また、そのような(国家の)状態を合理的なものとして現存させようとするのは愚かしいとかいった反対論である。そうだとしても、君主の性格の特殊性に帰着するような(そうした反対論の)前提はここではまさに無意味である。

Es ist bei einer vollendeten Organisation nur um die Spitze formellen Entscheidens zu tun, und man braucht zu einem Monarchen nur einen Menschen, der "Ja" sagt und den Punkt auf das I setzt; denn die Spitze soll so sein, daß die Besonderheit des Charakters nicht das Bedeutende ist. (96)

一つの完成された国家組織体のもとにあっては、ただ、形式的な決断をなす頂点のみが重要であり、そして、君主に対しては、「然り」と言うただ一人の人間を、そして一者がその上に座する場所を、人々は必要としているのである。そもそも頂点とは、性格の特殊性が重要なものではなくなるようにあるべきものだからである。

Was der Monarch noch über diese letzte Entscheidung hat, ist etwas, das der Partikularität anheimfällt, auf die es nicht ankommen darf. Es kann wohl Zustände geben, in denen diese Partikularität allein auftritt, aber als dann ist der Staat noch kein völlig ausgebildeter oder kein wohl konstruierter. In einer wohlgeordneten Monarchie kommt dem Gesetz allein die objektive Seite zu, welchem der Monarch nur das subjektive "Ich will" hinzuzusetzen hat.

君主がなおこの最終決定についてもっているものは、その特殊性が個性的なものであるような何かだが、それは認められないものである。たしかに、この君主の特殊性のみが立ち現れくる状態がありうるかもしれないが、しかし、その場合は国家がいまだなお完成されていないか、あるいは、十分によく構築されていないかである。よく秩序だてられた君主制においては、客観的側面である法律のみが意味をもっていて、君主はただそこに主体的な「私が決する」を追加しなければならないだけである。

(96)
in der 2. Aufl. lautet diese Stelle: "Es ist bei einer vollendeten Organisation des Staates nur um die Spitze formalen Entscheidens zu tun und um eine natürliche Festigkeit gegen die Leidenschaft. Man fordert daher mit Unrecht objektive Eigenschaften an dem Monarchen: er hat nur Ja zu sagen und den Punkt auf das I zu setzen. Denn die Spitze soll so sein, daß die Besonderheit des Charakters nicht das Bedeutende ist. Diese Bestimmung des Monarchen ist vernünftig, denn sie ist dem Begriffe gemäß; weil sie aber schwer zu fassen ist, geschieht es oft, daß man die Vernünftigkeit der Monarchie nicht einsieht. Die Monarchie muß fest in sich selbst sein, und was der Monarch ... "

 (96)注
第二版では、この個所は次のように書かれてある。「一個の完成された国家の組織にあっては、ただ形式的に決断する頂点のみが重要であり、そして激情に対する自然の防波堤のみが重要である。人々はしたがって君主に客観的な資質を不当に要求する。君主はただ言うべき「然り」と一者が座る「場所」をもつのみである。というのも、頂点とは、性格の特殊性が重要なものではなくなる、ということでなければならないからである。君主のこの規定は理性的である。なぜなら、それが概念に適っているからである。しかし、君主は理解するのが困難であるから、人々が君主制の合理性を理解できないことがしばしば起こる。君主制はそれ自体において堅固でなければならず、君主は何を...」

 

ヘーゲルのここでの問題意識は「一個の完成された国家の組織体とはどういうものか」である。
狂信的に、悟性的に理解された「民主主義」は、しばしば大衆の津波のような本能的自然の激情の奔出という事態を招く。その限界は、秩序の崩壊した戦場などにおいて、兵士たちの婦女子に対する暴虐といった現象にもたちあらわれる。

よく完成された有機的な国家組織というのは、群衆のもつこうした粗暴な自然的な激情に対する有効な防波堤を築いて、国民一般の自由を、とくに婦女子の安全を確保しなければならない。女性が夜中に街中を安全に歩ける社会はある意味では自由な社会である。

畏れながら「病弱」であったり、「不徳」であるという「特殊な性格」をもった君主が現実に現れるという偶然性は完全にはなくならない。しかし、それは、不徳漢の政治家や、腐敗した官僚や、堕落した裁判官が、現実において権力を掌握する可能性が完全に無くならないのと同じである。

しかし、よく構築された優れた有機的な国家組織は、権力の分立と「真理としての法の支配」を確立することによって、君主や政党や政治的指導者たちの個人的な特殊な性格によって恣意的な統治を許すことなく、国民の自由と安全を最大限に実現して行く。完成された「立憲君主国家体制」のめざすところもここにある。ヘーゲルが「立憲君主国家」の完成が近代の理念であるというのもそういう意味である。 

 

 
 
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作務衣

2018年07月22日 | 日記・紀行

作務衣

連日の全国的な猛暑。京都もその記録的な暑さでニュース番組にも常連になっている。トップも気象関連と熱中症の報道ばかり。私たちが若い頃は、日射病とか言っていた。西日本豪雨に被災された現場はどれだけ過酷か、想像するばかり。


また、こんな酷暑の予想される再来年の八月に東京オリンピックの開催など、正気の沙汰とも思えない。誰がどのような権限で開催日時を決定したのか?

今からでも開催日時の変更は⎯⎯せめて二ヶ月ほどの延期だからできないはずはないと思うけれど。

前回の東京オリンピックは清々しい秋空の下で開催された。その記憶は今も鮮明に残っている。なぜ「天高く馬肥ゆる」爽やかな秋空のもとでスポーツの祭典を開かないのか、と素人考えでも疑問に思う。

先週あたりまでは、憲法論議の参考になればと思って、ヘーゲルの「法の哲学」の国家論の個所で気になったあたりを拙劣ながらも訳しながら、時には自分なりの注解なども書いてブログに公開していたが、ここしばらくは休んでいる。§279 Zusatz.[国家の人格としての君主] - 夕暮れのフクロウ https://blog.goo.ne.jp/aowls/e/74c5674f9d046890a8b75ae8a8cf252a

仕事で汗をかいても外から帰宅すると浴室で水を浴び、室内を締め切ってクーラーを自動かドライに設定して小一時間もすると、すっかり快適な環境が出来上がる。

それでも半ズボンにTシャツもいまひとつ暑苦しく、浴衣も取り出して部屋の中で着たがこれも今一つで、ホテル仕様のガーゼ地の寝巻などを取り出して着て過ごすのが少しだらしのない気もするが案外リラックスできる。

ただ袖口に締まりがなく、ちょっとした作業をするにもやりにくい。かといってたすき掛けをするほどでもない。部屋でネットなど見て気楽に時間を過ごすには、この寝巻姿で十分だけれど、ふと、作務衣というのがあることを思い出して、ネットで気に入りそうなのがあったので、少し値ははったけれど思い切って注文して見た。【日本製】伝統の作務衣久留米紬織 さわやかな着心地の綿織物(濃紺・明紺・黒)(S寸~3L寸) 岩田呉服店 (京都 九条) https://www.kyoto-wel.com/item/IS81297N00034.html

そしてここ二、三日、部屋にいるときは作務衣を着て過ごしている。寝巻もくつろげるし悪くはないけれど、私の手に入れた作務衣は、動作をする際に寝巻のような不自由さもなく快適だ。これならもっと早く手に入れておけばよかった、というのが感想。これからも夏には重宝する一品になると思う。

 
 
 
 
 
 
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7月14日(土)のつぶやき

2018年07月15日 | ツイツター
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§ 280c[悟性的思考と国家理念の破壊]

2018年07月13日 | 哲学一般

 

§ 280c[悟性的思考と国家理念の破壊]

Aber indem die Vorstellung des Monarchen als dem gewöhnlichen Bewußtsein ganz anheimfallend angesehen wird, so bleibt hier um so mehr der Verstand bei seiner Trennung und den daraus fließenden Ergebnissen seiner räsonierenden Gescheitheit stehen und leugnet dann, daß das Moment der letzten Entscheidung im Staate an und  für sich (d. i. im Vernunftbegriff) mit der unmittelbaren Natürlichkeit verbunden sei; 

しかし、君主の観念は、平凡な意識にとっては、まったく当たり前のものと見られているので、そうしてここではさらに悟性は(概念と存在との)かの分離のもとに留まっているいるために、そして、そのあれこれ理屈をこね回す賢しらから導き出した結論のうえに立って、国家において本来的に(すなわち理性概念において)最終決定の要素が直接的な自然性(君主)と結びついていることを否定するのである。

woraus zunächst die Zufälligkeit dieser Verbindung und, indem die absolute Verschiedenheit jener Momente als das Vernünftige behauptet wird, weiter die Unvernünftigkeit solcher Verbindung gefolgert wird, so daß hieran sich die anderen, die Idee des Staats zerrüttenden Konsequenzen knüpfen.
 
そこから、さしあたってはこの(最終決定の要素と君主という自然性との)結びつきの「偶然性」が主張され、そして、理性的なものとしてのそれぞれの要素(普遍、特殊、個別)の絶対的な区分が主張されることによって、さらには、このような結びつきの不合理が結論づけられて、その結果として他面において必然的に、国家の理念を破壊するといった結末がもたらされるのである。※1
 
 
 
 
 ※1
国家の最終的な意思決定(概念)とその具体的な自然的存在である君主との結びつきを合理的なものとして認められない平凡な意識と悟性は、むしろ、その不合理を結論づけて国家の理念を破壊してしまう。

ヘーゲルの上記のこの説明は、彼が目撃したフランス革命のその歴史的な結末の論理的な検証でもある。そしてまた、今なおその具体的な事例となっているのが、憲法学者にして今はなき元東大名誉教授の奥平康弘氏などの「天皇制」理解と言えるかもしれません。

奥平氏は自らの著書『萬世一系の研究』の中で「「女帝」論議をひきおこす根幹である天皇制には、いかなる合理的な根拠があるのか。」という問いを発せられる一方、そのあとがきの中では「天皇制と民主主義とは両立しない」と断言される。

しかし、奥平康弘氏のこの結論は、「公共理性」の検証ともいえるヘーゲルの『法の哲学』の必ずしもじゅうぶんに批判的な検討の上に得られたものではないようです。むしろ、それはヘーゲルのいう「悟性的思考」によってもたらされたものにほかならない。

東大法学部で永年にわたって憲法学の講座を担当されてこられた奥平康弘氏のこの結論は、今日もなお、樋口陽一氏などの他の多くの日本の憲法学者たちとも共通する見解として、日本の憲法学界の多数意見として広範な影響力を有しているものと考えられます。

願わくは、現在東大法学部に在学中の司法の若き卵たちにも、このヘーゲルの『法の哲学』と奥平康弘氏の『萬世一系の研究』や樋口陽一氏らの「憲法学」との比較研究を実行して戦後日本の憲法学界の通説の是非を検証していただきたいものです。
 
 
 ※ご参考までに
 
 
 
 
 
 
 
 
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§ 280b[概念から存在への移行]

2018年07月12日 | 哲学一般

 

§ 280b[概念から存在への移行]

Dieser Übergang vom Begriff der reinen Selbstbestimmung in die Unmittelbarkeit des Seins und damit in die Natürlichkeit ist rein spekulativer Natur ※1, seine Erkenntnis gehört daher der logischen Philosophie an.

純粋な自己規定の概念から存在の直接性へのこの移行は、そして、そこでの自然性への移行は、純粋に思弁的(spekulativer)な本性(自然)であり、その認識はしたがって論理的な哲学に属する。

Es ist übrigens im ganzen derselbe Übergang, welcher als die Natur des Willens überhaupt bekannt und der Prozeß ist, einen Inhalt aus der Subjektivität (als vorgestellten Zweck) in das Dasein zu übersetzen (§ 8).

それは要するに、意志の本性として一般に認識されており、そしてその(意志の)過程であるところのものと全く同じ移行のうちにある。一個の内容は、主観性から(考えられた目的として)そこにあるもの(定在)へと移し替えられるのである。(§8)

Aber die eigentümliche Form der Idee und des Überganges, der hier betrachtet wird, ist das unmittelbare  Umschlagen der reinen Selbstbestimmung des Willens (des einfachen Begriffes selbst) in ein Dieses und natürliches Dasein, ohne die Vermittlung durch einen besonderen Inhalt - (einen Zweck im Handeln).

しかし、理念の本来の形態と、ここに考察されている移行は、意志の純粋な自己規定(単一な概念自体の)の、特殊な内容(行為における一つの目的)を通した媒介なくして、一つの此の物と自然のそこにあるもの(定在)への直接的な転換である。

⎯  Im sogenannten ontologischen  Beweise vom Dasein  Gottes ist es dasselbe Umschlagen des absoluten Begriffes in das Sein,
was die Tiefe der Idee in der neueren Zeit ausgemacht hat, was aber in der neuesten Zeit für das
Unbegreifliche ausgegeben worden ist, - wodurch man denn, weil nur die Einheit des Begriffs und des Daseins (§ 23) die Wahrheit ist, auf das Erkennen der Wahrheit Verzicht geleistet hat.


神の存在のいわゆる存在論的証明において、絶対的な概念が存在に転換することと、それは同じものである。それは近代において理念の深みを構成してきたものであるが、しかし、最近では理解しがたいものにされてしまっている。⎯そうして、概念と定在の統一(§23)のみが真理であるから、そのことによって人は 真理を認識することを放棄してしまうことになった。

Indem das Bewußtsein des Verstandes diese Einheit nicht in sich hat und bei der Trennung der beiden Momente der Wahrheit stehenbleibt, gibt es etwa bei diesem Gegenstande noch einen Glauben an jene Einheit zu.

同時に悟性の意識はこの(概念と定在の)統一を自らのうちにもたず、そして真理の二つの要素を分離することにとどまりつつも、この対象(神の存在)においては、いまだなおいくらかはその統一についての「信仰」をもっている。

 ※1
「die  rein   spekulativer   Natur 純粋に思弁的な自然(本性)」とは何か。これは先に述べられている「純粋な自己規定の概念 Begriff   der   reinen Selbstbestimmung」の言い換えとみていいと思う。概念の客観的な存在を自明とするヘーゲルの立場からすれば、その概念が自己を規定して自然的な存在(定在)に至るのは、概念の純粋に思弁的な本性(自然)にほかならない。これは、また、意志の本性 die Natur des Willens  として一般に認識されている事柄と同じでものであるという。

一軒の「家」を建てようとする人間の意志は、その頭脳に青写真として描いた家の「概念」を、木材、セメント、鉄骨といった素材を合成し建築という労働を介して、客観的にそこにある実際の家として存在を実現する。

一方で生命の概念は、たとえば一頭の蝶は純粋に自己を規定する客観的に存在する概念として、みずからを卵、幼虫、蛹、成虫と自己を規定して成長させてゆくとともに体の形や構造を変えていく。その論理的な本性 die  rein   spekulativer   Natur  は、人間の意志が建築によって家の概念を客観的な現実的存在として実現する場合と異ならない。

この事態を認めることができない経験論者にして唯物論者のマルクスなどは、ヘーゲルのこの定式化について「神秘化している」とか「形而上学的な公理に歪曲している」として批判するが、これは筋違いの批判というべきだろう。むしろ、その悟性的な意識は、概念(普遍)とその実現としての定在(個別)との統一についての意識をもたず、それら概念の要素を分離したものとしてしか認識しない。そのことによって活ける生命を殺してしまうのである。

 

§ 280b[概念から存在への移行]

 
 
 
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7月10日(火)のTW:#文科省の解体 #憲法9条#死刑制度#国家の人格としての君主

2018年07月11日 | ツイツター




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7月6日(金)のTW:#児童虐待

2018年07月07日 | ツイツター
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7月2日(月)のTW:#法の哲学#国民主権

2018年07月03日 | ツイツター
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7月1日(日)のTW:#意識#自由 #国防#乱れる

2018年07月02日 | ツイツター
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