作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

ドイツ文化と日本文化

2007年04月25日 | 宗教・文化

 

ここしばらく、個別・特殊・普遍の論理を事物の発展の中に検証しているが、特に人類の精神の発展について考察しているときにやはり興味がもたれるのは、人種や民族のそれぞれの精神の特殊性についてである。民族の精神をもっとも個性的に発展させているのはヨーロッパの諸民族であるように思われる。ドイツ、イギリス、フランス、スペインなどは、それぞれに民族的な特徴を際立たせている。

それと比較して、東アジアの諸民族の文化、特に中国、朝鮮、日本のそれぞれの文化は、それぞれの個性よりもむしろ共通的な性質の方が濃厚であるように思われる。これらの後方東アジア人、モンゴル人種の文化的な共通点は、儒教文化圏として、その特殊性を包括的に捉えることができるのではないだろうか。いまだなお、これらの諸民族においては、戦前の日本の天皇制軍国主義や毛沢東の文化大革命、北朝鮮の個人崇拝などに見られるような、家父長制的な精神構造がなお支配的であると思われる。

それにしても、これらの民族精神を根本的に規定する要素は何かという問題については、繰り返し問う価値のある興味あるテーマであると思う。民族精神の形成においては、その地理的な条件や気象条件などの自然的な条件がやはり決定的であると考えられるけれども、宗教などの人文的な条件も大きな影響をもっていると見なさざるを得ない。

いわゆる市民社会を、マルクスの用語で言えば資本主義社会をもっとも早く発展させたのはヨーロッパであり、とくにその経済的な背景としてイギリスの産業革命は世界史的にも特筆されるが、この市民社会の発展と膨張は、必然的に人類の諸民族のすべてを同一の世界史の土壌にのせることになった。現代においては、グローバリズムとして、世界史の新たな質的発展の段階に入ったと思われる。

ユーラシア大陸の極東に位置する日本も、ぺリー提督の黒船来航以来、精神文化においても科学技術においても、欧米文化の圧倒的な影響下に置かれてきた事実は、現代日本人の生活に見るとおりである。

それでも百年や二百年ぐらいの歳月は、民族精神の変化や変質に要する時間としては十分ではない。ただ、議院内閣制や民主主義を導入しても、一方において象徴天皇制を保持しているように、日本人の精神的な民族的な特徴に本質的な変化はないと思われる。

それに対して、インドや香港、フィリッピンなどの植民地化された国民や民族の場合は、精神的にもより本質的に欧米の影響を受けやすかったといえる。香港人やフィリッピン人が、キリスト教の洗礼名を公的に使用していることなどがその端的な例である。

ただ、日本人の場合は、キリスト教の受容においても、過去の仏教や儒教の受容の場合と同じく、島国という特性もあって、他の大陸諸民族や熱帯、亜熱帯民族に比べても、その文化的な受容は、伝統的にも地理的にもきわめて主体的に行われたといえる。

ただ、今日の現代日本の、とくに太平洋戦争の敗北という未曾有の歴史的な混乱の後に生きる現代日本人の民族的な精神的な混乱状況は、もっとはっきりいえば、その腐敗と退廃の文化状況は、戦後の日本人が、その政治的な、文化的な歩みを、十分に主体的に進めることができなかったことに根本的な原因があるように思われる。

その意味で、現在の半植民地的な文化的状況から、真に日本に文化的な主体性を回復するためにも、現在の安倍内閣が目指しているような、憲法改正を契機とする戦後の連合国占領統治体制からの脱却は、その目的とするところは評価はできる。ただしかし、問題は、安倍晋三氏の目指すいわゆる「美しい国」のその具体的な内容である。その回復しようとする政治と文化状況の内容である。

確かに、安倍晋三氏は「自由と民主主義」を否定はしていないし、むしろ、欧米諸国とその点で、価値観を共有してゆくことを明言さえしている。それは肯定できるとしても、問題はその方法論である。

安倍晋三氏は、その保守的な思想の動機としては、岸信介や安倍晋太郎という保守的な政治家を、たまたま祖父、父に持ったこと以外に見当たらないのである。氏の「自由と民主主義」に何となく浅薄さを感じる理由である。

自由も民主主義も、思想的な出自、宗教的な出自としては、事実としてキリスト教を背景にもっている。にもかかわらずキリスト教の自由と人権意識なくして、「自由と民主主義」が論じられているように思う。そのせいか、非キリスト教徒の「自由と民主主義」論に直観的に胡散臭さを感じる。丸山真男氏や樋口陽一氏の「民主主義論」についても同じである。

おそらく、宗教改革という文化革命を日本国民が通過しないかぎり、そして、実質的にプロテスタント・キリスト教が日本国の支配的な宗教とならない限り、日本国民は主体的に「自由と民主主義」を国民自身のものにできず、したがって真に「美しい国」も現実的な可能性を持ち得ないのではないのかと思う。

だから、いくらスローガンとして「美しい国へ」を、掲げようと、日本国が真の自由と民主主義国家に生まれ変わることができず、民主主義の奇形とも言える現代全体主義への変質の可能性は、消えてなくならないのである。

とくに現代日本の政治家、教育者、マスコミ関係者たちの、「自由と民主主義」についての、その宗教的、思想的な未成熟と教養の不足は、日本国民にとって根本的な欠陥となって、悪循環を再生産しているように思われる。ドイツやイギリスやデンマークやオランダは、いずれもプロテスタント諸国である。そうした諸国の精神的、文化的な特質を、日本国民が民族の精神として主体的に自らのものにするに至るまでは、それらを手にすることはできないのではないかと思う。個別・特殊・普遍の論理を検討する中で、それぞれの民族の精神、それぞれの国民のもつ精神について思い至るとき、このような印象をどうしても拭い去ることができない。

参考    toxandoriaドイツの旅行記 

      日本の内なる北朝鮮 

 


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2 コメント

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議論となる要点 (pfaelzerwein)
2007-04-26 15:12:52
TB有難うございました。些か難しいテーマですが拝読しました。議論となる要点だけを書き抜いてみます。


ヨーロッパの集合体は、その個の特徴を際立たせながらキリスト教的「文化的共通性」でEUとして存在していないか?

東アジアは、儒教的な世界観の文化的共通性を強調して大東亜共栄圏の集合体とすることが出来るか?

近代化の手順として、立憲体制の確立は、また国体をその基礎においたのは、主体的な導入への苦肉の策ではなかったのか?

インドや香港、フィリッピンなどの植民地は、近代的国家で日本より民主化している(いた)のか?

敗戦によって否定されたのは、「自由と民主主義」への動きでなく、時代遅れの植民地主義やそのもの国体ではないのか?

戦後の民主主義は、戦前の民権運動などとどのように違うのか?少なくとも天皇制を自ら護持した一方、そこに文化的な主体性は本当になかったのか?

欧米諸国の価値観とは「自由と民主主義」を指すのだろうが、その刻々と変化し変遷する価値観を、どのようにして確認して現実化していくのか?

キリスト教の意識なくして、「自由と民主主義」が無意味か?そもそも宗教改革の意味と近代の「自由と民主主義」は同義か?むしろ出自はフランス革命や市民革命ではないのか?

大ドイツ統一の市民革命が頓挫して、プロテスタンティズムの自由主義や工業化へと向けられたドイツが進むのも結局は遅れた植民地主義ではなかったのか?

プロテスタンティズムの実現として最も代表的なのは英米の社会や経済ではないのか?

消費社会としての日本や、躍進する中国の精神的な基盤や世界観は、プロテスタンティズムの影響を受けていないのだろうか?また、そうした批判が出ない理由は何処にあるのか?


こうして多くの疑問が生まれますが、ご指摘のように、これらが教科書の知識での言葉遊びに終わっていて、一般市民どころかジャーナリズムの日常の議論とならないのは、英米にも似た地理的な気質があるかもしれません。こうした高度に情報化した社会において大変不思議なことですが、やはり現実の国境に接しての生活感は異なるかもしれません。
「議論となる要点」について ()
2019-03-12 23:25:16
pfaelzerweinさん、拙文にも関わらず私の論考に対して的確な論点の指摘ありがとうございます。それに対する私のさしあたっての考えは、あらためて別の記事として投稿しておきました。また、ご批判ご批評のほどよろしくお願いいたします。

「議論となる要点」について、 pfaelzerweinさんへ。 - 作雨作晴 https://is.gd/8eLLSR

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