作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十五節[宗教の意義について]

2023年01月31日 | 哲学一般

 

ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十五節[宗教の意義について]

§75

Die Religion(※1) selbst besteht in der Beschäftigung des Gefühls und Gedankens mit dem absoluten Wesen und in der Vergegen­wärtigung seiner Vorstellung, womit die Selbstvergessenheit (※2) seiner Besonderheit in dieser Erhebung(※3) und das Handeln in die­sem Sinn(※4), in Rücksicht auf das absolute Wesen notwendig ver­bunden ist.

第七十五節[宗教の意義について]

宗教それ自体は、絶対的な存在の表象を視覚化することにおいて、絶対的な存在にかかわる感情と思想をとらえることであり、この克服において自らの特殊な自己を忘却し、かつ、この目的における行為は、絶対的な存在について省みることと必然的に結びついている。

 

 

(※1)
Die Religion
先の第七十四節においても述べたように、「哲学は概念的な認識であり、宗教は表象的な認識である」これはヘーゲルの一貫した宗教観である。

(※2)
 die Selbstvergessenheit
「自己忘却」とは何か。後の※3のdie  Erhebung によって、自己の個別性、特殊性を克服すること、この自己の忘却において、普遍へと、絶対者との合一の高みへと上ることである。

(※3)
 自己の個別性、特殊性を   Erhebung(克服、高揚、追求)することによって、特殊性から普遍性へと高揚すること、ここに有限から無限が出てくる。

(※4)
  das Handeln in die­sem Sinn
 「この目的をもった行為」は、絶対者の存在についての意識と不可分に結びついている。その意識なくしてそうした目的をもった行為、自己忘却は出てこない。

「宗教」についてのさらに具体的な詳細な認識は、もちろん彼の「宗教哲学」を見なければならない。

 

ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十五節[宗教の意義について] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/KZkPHz

 

 

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【ぼくらの国会・第457回】ニュースの尻尾「自公連立の正体」

2023年01月29日 | ニュース・現実評論

 

【ぼくらの国会・第457回】ニュースの尻尾「自公連立の正体」

 

日本共産党や公明党などの全体主義的な政党は、日本国の自由と独立と繁栄の障害物になってしまっているのではないでしょうか。それ以上にだらしないのが自民党です。日本の政党政治からカルト政党を排除して、英国や米国のように保守自由党と民主国民党の二大政党で運用されるように国民は政治家を育て、行動すべきです。

 

日本国の「国家理念」の定式化とその意義について - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/LitYZk

 

 

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2023(令和5)年1月25日(水)雪

2023年01月25日 | 日記・紀行

2023(令和5)年1月25日(水)雪

昨日の24日ごろから大陸から強い寒波が南下してきて、日本列島がすっぽり寒気に覆われ全国的に大雪と低温に見舞われた。予報にたがわず京都地方も今年の冬に入って初めての積雪らしい積雪があった。

たまに見る雪景色はきれいだけれど、降雪は生活者にとっては迷惑そのものだ。今日も各地で水道管が破裂したり(知人宅も)、JR西日本では雪のためにポイントの切り替えができずに、多くの乗客が車内に閉じ込められ、体調不良で病院に搬送されたことなどが報じられていた。新名神高速道路では降雪のために搬送トラックなど多くの運転手が一日近くも閉じ込められることもあった。

新潟や山形など降雪地帯と異なり、めったに大雪を経験することのない地方では、10センチや20センチの降雪と凍結でも日常の業務に大きな支障が出る。生活上欠かせない配達業務などに従事する人たちの苦労も並大抵のものではない。雪のために私も路線変更を余儀なくされたこともあって、帰途、昨年の降雪日のように、久しぶりに中継地の出町柳で、柳月堂の名曲喫茶に立ち寄って時間を過ごした。もうあれから一年、過ぎた時間は帰らず、反復もままならない。

出町柳、柳月堂 - 作雨作晴 https://is.gd/JHpDmB

 

 

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十四節[理性と悟性]

2023年01月24日 | 哲学一般

 

ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十四節[理性と悟性]

§74

Dies Wissen(※1) muss sich näher bestimmen und nicht inneres Ge­fühl, Glauben an das unbestimmte Wesen überhaupt bleiben, (※2)sondern ein Erkennen desselben werden. Die Erkenntnis Gottes ist nicht über die Vernunft(※3), denn diese ist nur Widerschein Gottes und ist wesentlich das Wissen vom Absoluten, sondern jene Erkenntnis ist nur über den Verstand, das Wissen vom  Endlichen und Relativen.

第七十四節[理性と悟性]

この知はさらに詳しく自らを規定しなければならないし、そうして内的な感情や信仰などの不確かな本質一般のままに留まっていてはならず、むしろ、それらについての一つの認識に至らなければならない。神を認識することは理性を超えることではない。というのも、理性はただ神の反照に過ぎず、それは本質的には絶対者についての知にほかならないからである。ただ、その認識は悟性を、つまり有限なものや相対的なものについての知を超えるのみである。

 

※1
先の第七十二節、第七十三節を受けての「絶対的なものについての知」のこと。

※2
たしかに宗教もまた絶対的なものについての知ではあるが、この知は、きちんと規定もされずに、あいまいな本質のままに留まっていてはならず、一つの認識に至らなければならない。
「哲学は概念的な認識であり、宗教は表象的な認識である」といわれるが、ここに宗教から哲学へ移行する必然性がある。

※3
ヘーゲル哲学にとって重要な概念であるVernunft(理性)とVerstand(悟性)の根本的な差異が的確に説明されている。
Vernunft(理性)は神の反照(Widerschein Gottes)、絶対者についての知であり、Verstand(悟性)は有限のものや相対的なものについての知識である。

 

ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十四節[理性と悟性] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/7qiEJR

 

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十三節[感性と有限の克服]

2023年01月21日 | 哲学一般

 

ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十三節[感性と有限の克服]

§73

Die Erhebung über das Sinnliche und Endliche macht zwar negativ, (※1)von unserer Seite, die Vermittlung dieses Wissens aus,(※2) aber nur insofern, als von Sinnlichem und Endlichem zwar aus­gegangen, es aber zugleich verlassen und in seiner Nichtigkeit erkannt wird. Allein dies Wissen von dem Absoluten  ist selbst ein absolutes  und unmittelbares Wissen und kann nicht etwas Endliches zu seinem positiven Grunde haben oder durch etwas, das es nicht selbst ist, als einen Beweis vermittelt sein.

§73[感性と有限の克服]

感性的なものと有限的なものとを克服することは、たしかに、我々の側からすれば、これらの知識を介して否定的に説明することであるが、しかし、ただ、感覚的なものと有限的なものから出発するものである限りにおいて、しかし、同時に、それは打ち捨てられ、かつ価値のないものとして認識される。しかしながら、この絶対的なものについての知識は、それ自体が 絶対的で 、かつ直接的な知識であるし、また、それ自身が絶対的ではないところの何か有限的なものを、一つの証明されたものとして自らの積極的な根拠としてもつことはできないのである。

 

 

※1
negativ
「〜である」と肯定的に、積極的にではなく、「〜でない」と消極的に、否定的に説明すること。
有限な存在である我々からすれば、否定的な説明から出発せざるをえない。

(※さしあたっては、以上に理解し註解しましたが、「否定的に説明すること」を今ここで具体的事例をもって明確に示すことができません。理解がさらにより明確になれば、追って改稿していきます。)

※2
die Vermittlung dieses Wissens これらの知識を介して

「これらの知識」とは前七十二節に「Dies absolute Wesen ist gegenwärtig in unserem reinen Bewusstsein und offenbart sich uns darin.」とあるように、私たちの純粋意識のうちに存在し、そこに私たちに明らかにされている、これらの絶対的な本質、つまり神についての知のこと。

 

ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十三節[感性と有限の克服] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/jaIWum

 

 

 

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西行と頼朝 ⎯ 銀の猫

2023年01月10日 | 歴史

 

西行と頼朝 ⎯ 銀の猫

 

昨年はNHKの大河ドラマで鎌倉時代が取り上げられたようです(「鎌倉殿の十三人」)。

鎌倉といえば幕府を開いたのは源頼朝ですが、頼朝は若き頃京の都にあって、蔵人として上西門院統子に仕えていました。上西門院統子の父は鳥羽天皇、母は待賢門院藤原璋子でした。

 待賢門院   


歌人の西行は出家する前には、この待賢門院藤原璋子の兄である徳大寺実能の家人であり、北面武士として鳥羽天皇に仕えていました。そうした縁もあって若き日の歌人の西行は鳥羽天皇の后、藤原璋子への思慕を秘めた和歌も残しているようです。待賢門院が再興し、またそこで自ら落飾、出家した法金剛院は、娘の上西門院統子も相続し、そこに西行も訪れたこともあったようです。西行とも和歌を交わした待賢門院堀河の歌碑もあります。

十月はじめのころ、法金剛院のもみぢ見はべりしに、上西門院おはしますよしききて、待賢門院の御時思ひいでられて、兵衛殿の局にさしおかせ侍りし

325 もみぢ見て君が袂や時雨るらん昔の秋の色をしたひて

           (西行 山家心中集)

西行像(MOA美術館蔵)

紅葉紀行(2)待賢門院璋子——歴史 : 夕暮れのフクロウ https://cutt.ly/mweoCIzs

 

待賢門院藤原璋子の皇子でのちの崇徳天皇が起こした「保元の乱」、それに続いて起きた政権の内紛「平治の乱」を経て平清盛が天下を牛耳りますが、平氏の天下も長くは続かず、清盛が病死したのち伊豆に流されていた源頼朝が武家政権を確立して鎌倉に幕府を開くことになります。平家一族の栄華と没落を描いた『平家物語』の主題は「諸行無常」でした。

  保元の乱

 平治の乱

そんな時代の境目に生きた西行は、NHKで10年ほど前に放映された大河ドラマ『平清盛』においても、今は国宝でもある「平家納経」を奉納するため、主人公の清盛と共に厳島神社にゆく場面などに登場しています。昨年の大河ドラマ『鎌倉殿の十三人』に源頼朝の関連で西行が登場したかどうかは、ドラマもよく見ていないないのでわかりませんが、西行と源頼朝との出会いは歴史的な事実のようです。

平清盛の焼き討ちにあった東大寺再建のために、重源上人から寄進を募るよう請われた西行は、藤原秀郷以来の一族である藤原秀衡を奥州に訪ねて旅に出ますが、その途次に鎌倉、鶴岡八幡宮に立ち寄り参詣します。その折り征夷大将軍となった頼朝に出会ったことが、鎌倉幕府の歴史書である『吾妻鏡』に記録されています。西行とも遠い縁戚の関係にあった奥州の藤原秀衡一族は、中尊寺の金堂に見られるように、領地に所有する金鉱を背景にして、頼朝からも妬まれるほどに裕福であったようです。

この時に西行が頼朝から拝領した「銀の猫」のことが一つのエピソードとして、「西行法師子供に銀猫を与ふるの図」など、後世において絵草紙や川柳などにもさまざまに取り上げられ描かれています。今年の令和五年、年賀状の画材として私が利用したのもその一つです。

          

  

西行が頼朝からもらった「銀の猫」は昨年の晩秋に初めて栂尾の高山寺に訪れたときに見た、明恵上人の愛玩していたという「狗児」という子犬の彫り物に似たものだったかもしれません。(高山寺、栂尾 - 作雨作晴 https://is.gd/bjWiw9)西行に与えたという「銀の猫」を頼朝はどのようにして手に入れたのでしょうか。


伝湛慶作。明恵が座右に置いて愛玩した遺愛の犬と伝えらる。                             ※出典  世界遺産 栂尾山 高山寺 公式ホームページ https://is.gd/INckAL

 

晩年の西行はまだ若年の明恵上人とも和歌を介して顔を合わせています。頼朝は鎌倉に寺社仏閣を造営するために京都から多くの仏師、宮大工たちを招いていますから、彼らのうちの一人の手になる作品だったのかもしれません。しかし、私たちには想像のうちにしか「銀の猫」を見ることができません。

「吾妻鏡」では西行と源頼朝の出逢いの事情を次のように記しています。

「十五日己丑。二品御参詣鶴岡宮。而老僧一人徘徊鳥居辺。怪之。以景季令問名字給之処。佐藤兵衛尉憲清法師也。今号西行云云。仍奉幣以後。心静遂謁見。可談和歌事之由被仰遣。西行令申承之由。廻宮寺奉法施。二品為召彼人。早速還御。則招引営中。及御芳談。此間。就歌道并弓馬事。条条有被尋仰事。西行申云。弓馬事者。在俗之当初。憖雖伝家風。保延三年八月遁世之時。秀郷朝臣以来九代嫡家相承兵法焼失。依為罪業因。其事曾以不残留心底。皆忘却了。詠歌者。対花月動感之折節。僅作卅一字許也。全不知奥旨。然者。是彼無所欲報申云云。然而恩問不等閑之間。於弓馬事者。具以申之。即令俊兼記置其詞給。縡被専終夜云云。」

文治二(1186)年八月十五日。源頼朝公が鶴岡八幡宮を参詣された。その折り、老僧が一人鳥居のあたりを徘徊していた。これを怪しんで、梶原景季に命じて名前を問わせなさったところ、佐藤兵衛尉憲清という法師だった。今は西行と号しているとか。それで頼朝は宮に幣を奉ってから、心静かに西行に謁見して、和歌のことなど語り合いたいとの由を仰せ遣わした。西行は承ったことを申し伝えて八幡宮寺を巡ってお参りした。頼朝公は西行を招いたので、早速にお還りになった。そうして、屋敷の中に招き入れて、色々と語り合われた。この間に頼朝公は歌道や弓馬のことなどをあれこれ尋ねられた。西行が申して言うには、弓馬の道については、出家するまでの初めの間は仕方なく家風を伝えていましたものの、保延三(1137)年八月に出家してから後には俵藤太藤原秀郷朝臣以来九代にわたって嫡家として相承してきた兵法も焼いて捨てました。罪業の原因となるからです。それらのことは心の底にも残し留まることのないように、あえて皆忘れ去ってしまいました。歌を詠むことについては、花や月に対して心揺るがせらる折り節には、ただ三十一文字を作るだけのことです。深い趣については全く存じません。だから、あれこれお伝え申し上げたいようなことはありません、云々という。しかし頼朝公は感謝を込めて等閑にすることなく、あれこれお尋ねになったので、弓馬の道については詳しく申し述べられた。そこで直ちに源頼朝の右筆、筑後権守藤原俊兼に命じて西行の言葉を書き取らせになった。話はもっぱら終夜に及んだとか。


「十六日庚寅。午剋。西行上人退出。頻雖抑留。敢不拘之。二品以銀作猫。被充贈物。上人乍拝領之。於門外与放遊嬰児云云。是請重源上人約諾。東大寺料為勧進沙、奥守秀衡入道者。上人一族也。」

文治二(1186)年八月十六日庚寅。お昼頃に西行上人は頼朝の御所を退出する。しきりにお引き留められたけれどもあえて退出された。頼朝公は銀で作られた猫をもって贈り物に充てられた。西行上人はこれを拝領しながら門の外に出ると、そこに遊んでいた子供たちにその銀の猫をやってしまった。西行は東大寺の再建のための寄付金を募るよう重源上人に請われ、誓って承諾して奥州へ陸奥守藤原秀衡を訪れようとしていた。秀衡入道は西行上人の一族でもある。

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十二節[信仰について]

2023年01月09日 | 哲学一般

 

ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十二節[信仰について]

§72

Dies absolute Wesen (※1)ist gegenwärtig in unserem reinen Bewusstsein (※2)und offenbart sich uns darin. Das Wissen von ihm ist, als durch es in uns vermittelt, für uns unmittelbar und kann insofern Glauben (※3)genannt werden.

第七十二節[信仰について]

この絶対的な本質は我々の純粋な意識の中に現われ、かつ、そこで我々に自らを明らかにする。絶対者についての知識は、純粋な意識によって我々に媒介されたものとして我々の中に直接にあり、その限りにおいてそれは 信仰 と呼ぶことができる。

 


※1
Dies absolute Wesen この絶体的な本質(存在)
とは宗教的な概念としてはキリスト教の「神」。

岩波文庫版の武市健人訳においては、「純粋意識の中で我々に啓示される。」と受動態に訳しているために、「(絶体的な本質、「神」が)自らを我々の純粋な意識の中に啓示する」という、絶体的な本質の主体性が十分に明らかにされていない。

Wesen 本質、存在。

ここでは「本質」と訳したが、「存在そのもの」の意味も共有している。日本語には的確な訳語がない。
存在と本質との関係については、「大論理学」の中の「本質」の項に、「存在の真理としての本質」、「本質とは過去の、しかし時間を超越した過去としての存在」として説明されている。

「an und für sich」をどう訳すべきか - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/tPnAPg

※2
in unserem reinen Bewusstsein 我々の純粋な意識の内に。
この「reinen」は「アプリオリ a priori 先天的」と同義で、「感覚器官や経験とはかかわらないもの」だから「純粋」である。カントの「純粋な理性 die reinen Vernunft 」を受け継いでいる。私たちの「意識そのもの」あるいは、「カテゴリーの場としての意識」

※3
簡潔だが、信仰の本質を的確に捉えている。

信仰と知 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/ULrTn3

 

ヘーゲル『哲学入門』第三章 宗教論 第七十二節[信仰について] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/EW7ZMR

 

 

 

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あけましておめでとうございます

2023年01月04日 | 日記・紀行

2023(令和5)年1月04日(月)晴れ

 

 

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