作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

ヘーゲル『哲学入門』序論についての説明 二十〔絶対的自由について〕

2020年01月28日 | 哲学一般

 

§20


Beide sind wohl zu unterscheiden. Der Eigensinnige bleibt bei seinem Willen bloß, weil dies sein Wille ist, ohne einen vernünftigen Grund dafür zu haben, d. h. ohne dass sein Wille etwas Allgemeingültiges ist. — So notwendig (※3)es ist, *Stärke* des Willens zu haben, der bei einem vernünftigen Zweck beharrt, so widrig ist der Eigensinn, weil er das ganz Einzelne und Ausschließende gegen Andere ist. Der wahrhaft freie Wille hat keinen zufälligen Inhalt. Nicht zufällig ist nur er selbst.(※4)

二十[絶対的自由について]

これら両者は確かに区別されなければならない。わがまま者が自分の意志にこだわるのは、ただそれが彼の意志であるという理由だけであって、それについて何ら理性的な根拠があるわけでもない。言い換えれば、わがまま者の意志には普遍妥当的なものがない。⎯ 理性的な目的を固く持して意志の*強さ*をもつことはとても大切であるが、わがままは実に疎ましいものである。というのも、わがままは全く個別的なもので、他者に対して排他的なものだからである。真に自由な意志は偶然的な内容を何らもたない。ただ真に自由な意志自体のみが偶然的ではないのである。


(※1)
意志の相対的と絶対的の区別について、前者が意志の対象が問題になるのに対して、後者においては意志の内容そのものが問題にされる。

(※2)
恣意やわがまま(Eigensinn)と自由との共通性が認識されるとともに、その上で、恣意と自由が区別されなければならないこと、とくに「わがまま」と「自由」とが明確に区別されることの重要さを明らかにしている。この区別の重要性は国民的にも深く自覚されていく必要があると思われる。

(※3)
ここでは notwendig を「大切な」と訳したけれども、いうまでもなく、notwendig は「必然的な」とも訳されるもので、恣意やわがまま(Eigensinn)が、その反対概念である偶然的であるのに対して、真に自由な意志は必然的 notwendigである。

(※ 4)
「必然性」の反対概念は「偶然性」であるけれども、この意志の概念において、自由から必然性が導き出される。

(※5 )
「自由」の問題については、かって東大名誉教授の奥平康弘氏がまだ存命中でおられたときに、たまたま氏の著書『萬世一系の研究』の中で氏が次のように述べられているのを知った。

「要するに、現行皇室典範によれば、天皇には退位の自由がなく、皇族のうち比較的に高順位にある人も同じように身分離脱の自由が認めらないことになっている。そして、このように自由剥奪的な構造になっていることは、憲法規範のうえでいかがなものかといった疑問を呈する憲法論は、管見に属する限りでは、ほとんどない。天皇に退位の自由はなく、ある種の皇族に身分離脱の自由が無いのは、制度上当然のことであって、憲法上何の問題もない、と一般に考えられている。けれども私は、現実上ありえないとして葬り去られる運命にあるが、憲法理論としては、天皇・皇族には究極の「人権」として「(自由剥奪的な身分からの)脱出の権利」が、保障されねばならない、と考えている。彼らに与えられる「脱出の権利」は、彼らが「ふつうの人間」に立ち戻るための、あるいは「ふつうの人間が享有する、ふつうの人権」を自らも享有するための「切り札としての“人権”」に他ならないと言う立場をとる。本書はもっぱら明治期の皇室典範を扱うのであるが、現在の皇室典範についての、私のそんな問題意識が背景にある。」(ibid.,s.324)

奥平康弘氏のこの見解に対しては、奥平氏は「Freedom」と「Liberty」の概念の区別を認識しておらず、また、天皇を自然人としてしか見ることができない、として奥平康弘氏の「自由」と「人権」概念の限界を批判したことがある。
あらためて、ここでヘーゲルが「意志の自由」について述べているのにさいし、国家と国民にとって根本的に重要である「自由の概念」について、とくに皇室と国民の関係における自由の意義について国民的な認識の深まることを期待したい。

 

ヘーゲル『哲学入門』序論についての説明 二十〔絶対的自由について〕                                        - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/8m3mek

 

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』序論についての説明 十九〔相対的自由について〕

2020年01月27日 | 哲学一般

§19

Die *Willkür* ist Freiheit, aber sie ist *formelle* Freiheit oder Frei­heit, insofern sich mein Wille auf etwas *Beschränktes* bezieht. Man muss dabei zwei Seiten unterscheiden: 1) insofern der Wille dabei nicht in der Gleichheit mit sich selbst bleibt und 2) inwiefern er in der Gleichheit mit sich selbst bleibt .

十九〔相対的自由について〕

恣意は自由であるが、しかし、それは形式的な自由である。あるいは、私の意志が何か限定されたものにかかわるかぎりにおける自由である。人はそこで次の二つの場面を区別しなければならない。:1)意志がそこで自分自身と一致していない場合、そして、2)意志が自分自身と一致している場合。

1) Insofern der Wille *etwas* will, so hat er einen bestimmten, beschränkten Inhalt. Er ist also insofern ungleich mit sich selbst, weil er hier wirklich bestimmt, an und für sich aber unbestimmt ist. Das Beschränkte, das er in sich aufgenommen hat, ist also etwas Anderes, als er selbst; z. B. wenn ich gehen oder sehen will, so bin ich ein Gehender oder Sehender. Ich verhalte mich also ungleich mit mir selbst, weil das Gehen oder Sehen etwas Beschränktes ist und nicht gleich ist dem Ich. 

1)意志が何かを欲するかぎり、そこで意志は一つの規定された、限定された内容をもつ。意志はそれゆえにこの点において自分自身と不等である。なぜなら、意志はここでは実際に規定されているが、しかし、意志は本来的には無規定なものだからである。意志が自己のうちに取り入れた限定されたものは、したがって意志自らとは何か別のものである。たとえば、私が行ったり見たりすることを欲するなら、そのとき私は「行く人」であり、「見る人」である。それゆえ私は自分を自分自身と等しくないようにふるまうことになる。というのも、「行くこと」や「見ること」は制限されてあること(束縛されること)であり、(もともと無規定である本来の)「私」とは同じではないからである。

2) Aber ich verhalte mich der Form nach darin auch in Gleichheit mit mir selbst oder frei, weil ich, indem ich so be­stimmt bin, mich zugleich als etwas Fremdes ansehe oder dies Bestimmtsein von mir, dem Ich, unterscheide, weil, so zu gehen, zu sehen, nicht von Natur in mir ist, sondern weil ich es selbst in meinen Willen gesetzt habe. Insofern ist es offenbar zugleich auch kein Fremdes, weil ich es zu dem Meinigen gemacht und darin meinen Willen für mich habe.

2)しかし、そこでは私は形式の上では自らをまた自分自身と一致しているように、あるいは自由にふるまう。なぜなら、私がそのように規定されつつ、同時に何かよそよそしいもののように自己を見つめるからであり、あるいは、これらの規定されたものを、自身から、「私」から区別するからである。なぜなら、そのように行くこと、見ることは、生まれついて私の中にあるものではないからであり、そうではなくてむしろ、私は行ったり見たりすることを自分自身で私の意志のうちに取り入れたからである。 そのかぎりでは、行ったり見たりすることは、明らかに同様に私にとって他人事ではない。なぜなら私がそれを私のものとしたのであり、そして、そこでは私はそれが私の意志であることを自覚しているからである。

Diese Freiheit ist nun eine formelle Freiheit, weil bei der *Gleich­heit* mit mir selbst *zugleich* auch *Ungleichheit* mit mir vorhan­den oder ein Beschränktes in mir ist. Wenn wir im gemeinen Leben von Freiheit sprechen, so verstehen wir gewöhnlich dar­unter die Willkür oder relative Freiheit, dass ich irgend etwas tun oder auch unterlassen kann. — Bei beschränktem Willen können wir formelle Freiheit haben, inwiefern wir dies Be­stimmte von uns unterscheiden oder darauf reflektieren, d. h. dass wir auch darüber hinaus sind. — Wenn wir in Leidenschaft sind oder durch die Natur getrieben handeln, so haben wir keine for­melle Freiheit. Weil unser Ich ganz in diese Empfindung auf­geht, scheint sie uns nicht etwas Beschränktes zu sein. Unser Ich ist nicht auch zugleich heraus, unterscheidet sich nicht von ihr.

この自由はだから形式的な自由である。なぜなら、自分自身との同等性のもとにあって、同時にまた自分との不等性もまた存在するからであり、あるいは、自己のうちにある限定されたものだからである。私たちが日常生活の中で自由について語るとき、私たちは、ふつうそこでは、私はとにかく何かを行うことも、あるいはまた行わないでいることもできるといった気まぐれや、あるいは相対的な自由のことを理解している。⎯ 
私たちがこれらの規定されたものを私たちから区別しているかぎり、あるいはそのことを反省しているかぎり、言い換えれば、私たちがまた、規定されたものを超越しているかぎり、限定された意志のもと私たちは形式的な自由をもつ。⎯ もし私たちが情熱に囚われ、自然に駆り立てられて行動するなら、そこでは私たちは何ら形式的な自由をももたない。なぜなら、私たちの自我がこれらの感情に完全に埋もれているのであるから、これらの感情には私たちにとっては何ら制約されたものがあるようには見えないからである。また同時に私たちの自我はその制約を克服をしているのでもなく、それから自分を区別しているのでもない。

 

 

(※1)
この第19節は、先の序論§11〔意志と恣意〕で述べたことをさらに詳細に説明したもの。
ヘーゲル『哲学入門』序論 十一[意志と恣意] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/UVpXHq

(※2)
恣意、気まぐれ(Die Willkür)は自由は自由でもそれは「形式的な自由」でしかない。「形式的」であるとは、本来的に規定されない自由な存在である私は、限定されたあることを選んで自己と不等になることも、また、その選択を放棄して無規定な自己と同等であることも可能であるから。だから、それは選ぶことも選ばないこともできる相対的な自由であり、したがって恣意的、気ままである。
さしあたって私たちが何事かを意志するかぎり、たとえば、行ったり見たりすることを意志する場合、それは自己を規定することであり、自己を制約すること、有限なことにかかわることである。
意志の普遍性とは「私」の、自我の無規定性にあり、それゆえに自由なものであるが、しかし、「私」が、限定されたものに、有限なものに関係する場合の意志は制約されて、自由な自己と一致する場合と一致しない場合がある。

 

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ヘーゲル『哲学入門』序論についての説明 十八〔意志の普遍性について〕

2020年01月20日 | 哲学一般

§18

Wenn der Wille nicht ein allgemeiner wäre, so würden keine eigentlichen *Gesetze* statt finden, nichts, was *Alle* wahrhaft ver­pflichten könnte. Jeder könnte nach seinem Belieben handeln und würde die Willkür eines Andern nicht respektieren. Dass der Wille ein allgemeiner ist, fließt aus dem Begriff seiner Freiheit. 

十八〔意志の普遍性について〕

もし、意志が一つの普遍的なものでなければ、そこでは言葉の正しい意味において法律は成り立たないし、全ての者に真実に義務づけることのできるものは存在しえないことになる。各人は勝手気ままに行為できるし、他人の意志は尊重されないだろう。意志が普遍的なものであるということ、このことは自由の概念から出てくる。

Die Menschen, nach ihrer *Erscheinung* betrachtet, zeigen sich als sehr verschieden  Rücksicht des Willens überhaupt, nach Charakter, Sitte, Neigung, besondern Anlagen. Sie sind inso­fern *besondere* Individuen und unterscheiden sich durch die Na­tur von einander. Jedes hat Anlagen und Bestimmungen  sich, die dem andern fehlen. Diese Unterschiede der Individuen ge­hen den Willen an und für sich sich nichts an und für sich, weil er frei ist. Die Freiheit besteht eben  der Unbestimmtheit des Willens oder dass er keine Naturbestimmtheit  sich hat. Der Wille an und für sich sich ist also ein allgemeiner Wille. Die Besonderheit oder Einzelheit des Menschen steht der Allgemeinheit des Willens nicht im Wege, sondern ist ihr untergeordnet. 

人間はその/外見/から観察すれば、性格、習慣、癖、特殊な才能などにしたがって、意志一般の面としても実にさまざまな違いを示している。この点において、人間は/特殊な/個人であり、互いに本質的に異なっている。それぞれには、他にはない能力と性格がある。個人のこれらのちがいは、意志そのものには本来的に関係がない。というのも意志は自由だからである。自由とはまさに、意志の不確定性のうちに、あるいは、意志それ自体は何らの自然規定も持たないことにある。意志は本来的にそのものとしてはそれゆえに普遍的な意志である。人間の特殊性や個別性は意志の普遍性を妨げるものではなく、むしろ、それに従属するものである。


Eine Handlung, die rechtlich oder moralisch oder sonst vortrefflich ist, wird zwar von einem Ein­zelnen getan, alle aber stimmen ihr bei. Sie erkennen also sich selbst oder ihren eigenen Willen darinnen. — Es ist hier der­selbe Fall, wie bei *Kunstwerken.* Auch diejenigen, die kein sol­ches Werk hätten zu Stande bringen können, finden ihr eigenes Wesen darin ausgedrückt. Ein solches Werk zeigt sich also als wahrhaft allgemeines. Es erhält um so größeren Beifall, je mehr das Besondere des Urhebers daraus verschwunden ist.

一つの行為、たとえば法律的な行為とか、あるいは道徳的な行為とか、あるいはそのほかの気高い行為は、確かに一人の個人によって行われるが、しかし、全ての人がそれに賛同するのである。そうして、彼らはその行いのうちに自分自身を、あるいはそこに彼自身の意志を認識するのである。⎯ このことは/芸術作品/のような場合においても同じである。優れた芸術作品を何一つ制作することのできなかった人たちも、彼ら自身の本質がその作品のうちに表現されているのを見出す。かかる芸術作品はしたがって真に普遍的なものとしての自身を示し現している。作品から創作家の特殊性が消えていればいるほど、それだけ大きな称賛を受け取ることになる。

Es kann der Fall sein, dass man sich seines allgemeinen Willens nicht bewusst ist. (※1)Der Mensch kann glauben, es gehe etwas voll­kommen gegen seinen Willen, ob es gleich doch sein Wille ist. Der Verbrecher, der bestraft wird, kann allerdings wünschen, dass die Strafe von ihm abgewendet werde: aber der allgemeine Wille bringt es mit sich, dass das Verbrechen bestraft wird. Es muss also angenommen werden, dass es im absoluten Willen des Verbrechers selbst liegt, dass er bestraft werde. 

人が己れの普遍的な意志を自ら自覚していないということはありうる。人間は、何かあるものが彼の意志であるにもかかわらず、それがまったく彼自身の意志に反して成りゆくかのように思い込むことができる。処罰された犯罪者は、もちろん刑罰の彼に課せられないことを願うかもしれない。:しかし、普遍的な意志は自ずからにして犯罪者は罰せられるものであることを示すものである。したがって、犯罪者が罰せられることは犯罪者自身の絶対的な意志のうちにあることが認められなければならない。

Insofern er be­straft wird, ist die Forderung vorhanden, dass er auch einsehe, er werde gerecht bestraft, und wenn er es einsieht, kann er zwar wünschen, dass er von der Strafe als einem äußerlichen Leiden befreit sei, aber insofern er zugibt, dass er gerecht bestraft werde, stimmt sein allgemeiner Wille der Strafe bei.

犯罪者が罰せられる限り、また 彼は正当に罰せれられるのだということ、そのことを彼がまた納得することが求められる。そして、もし彼がそのことを納得するのなら、確かに彼は外的な苦痛としての刑罰から解き放たれることを願うことはできるが、しかし、彼が正当に処罰されることを受け入れるかぎり、彼の普遍的な意志はその刑罰に同意するのである。

 

※1
唯名論者と実在論者などの間で行われた「普遍論争」などでも問題にされたように、「普遍は客観的に実在するのか」、また、価値相対論者たちの「価値判断の客観性に対する懐疑」に対して、ここでもヘーゲルは一つの立場、回答を示している。
意志における普遍が存在せず、価値判断に客観性がないとすれば、人間は虚無主義者となってアナーキーの世界に陥らざるをえない。
しかし、世界に法は客観的に実在して、普遍的な意志として日々執行されている。
法の概念が国家へと進展するその論理の詳細は、彼の「法の哲学 ⎯自然法と国家学」を見なければならない。

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』序論についての説明 十七〔古代と現代における責任概念の違いについて(行動と行為)〕

2020年01月14日 | 哲学一般

§17

In dem Unterschied von Tat und Handlung liegt der Unter­schied der Begriffe von Schuld, wie sie vorkommen  den tra­gischen Darstellungen der Alten und   unsern Begriffen.(※1)  den ersteren wird Tat nach ihrem ganzen Umfang dem Men­schen zugeschrieben. Er hat für das Ganze zu büßen und es wird nicht der Unterschied gemacht, dass er nur eine Seite der Tat gewusst habe, die anderen aber nicht.

十七〔古代と現代における責任概念の違いについて(行動と行為)〕

責任についての概念の区別は、悲劇における古代の描写と、私たちの時代の責任の概念の違いに現れているように、行動(Tat)と行為(Handlung)との区別との中にある。前者にとって行動(の責任)は人間に全面的に帰せられる。人間は完全に償わなければならず、彼が行動の一部のみを意識していたのみで、その他面については知らなかったといった区別は行われない。

Er wird hier darge­stellt als ein absolutes Wissen überhaupt, nicht bloß als ein relatives und zufälliges oder das, was er tut, wird überhaupt als seine Tat betrachtet. Es wird nicht ein Teil von ihm ab und auf ein anderes Wesen gewälzt; z. B. Ajax~(※a)(※2); als er die Rinder und Schafe der Griechen im Wahnsinn des Zorns, dass er die Waffen Achills nicht erhalten hatte, tötete, schob nicht die Schuld auf seinen Wahnsinn, als ob er darin ein anderes Wesen gewesen wäre, sondern er nahm die ganze Handlung auf sich als den Täter und entleibte sich aus Scham.

ここでは人間は絶対的な知識一般として描き出され、単に相対的な、かつ偶然的な知識としては表現されず、あるいは、彼が行動したことは彼自らの行動として一般的にみなされる。彼の行動の一部分が切り取られて、それが他の人間に押し付けられるということはない。例えばアイヤスがアキレスの武器を勝ち取れなかったことから怒り狂って、ギリシャ人の牛と羊を殺したときに、彼がそこであたかも別の人間であるかのように怒り狂った彼の狂気に責任を帰することなく、むしろ、彼は加害者として全ての行為を彼自身が引き受けて、恥じて自決したのだった。

(※a)Bei Homer der tapferste Grieche des Trojanischen Krieges nach Achilleus. Die er­wähnte Geschichte findet sich erst  der Kleinen Ilias des Lesches (7. Jh.), ferner bei Aischylos, Sophokles und Ovid, Met. 13.

 Ajax(アイアス)について:ホメロスによれば、アキレス後のトロイ戦争のもっとも勇敢なギリシャ人。言及された物語は、レスキス(B.C.7世紀の古代ギリシャの詩人)の「小イリアッド」の中でのみ見出される。詳しくは、アイスキュロス、ソフォクレス と オビディウス(古代ローマの詩人B.C.43〜A.D.17)のMetamorphoses  Book 13  を参照のこと。

 

※1
人間に責任の帰せられる根拠は、人間の意志の自由にあるが、この17節において、人間に責任を帰するとしても、全責任を担うのか、責任の一部を担うのか、を問題にする。古代ギリシャ悲劇に見られるように、古代人の責任の取りかたと現代人の責任の取り方の違いが、行動(Tat)と行為(Handlung)のちがいにあり、古代ギリシャ人においては、行動を彼の人格から分離させることなく、意識的であれ、無自覚的であれ、彼の行動の責任はすべて彼の全人格が担った。それに対して現代人においては、「未必の故意」などに見られるように、行動における主観的な意志の有無が責任の有無の前提とされる。

行動には狂気や酩酊など無自覚、無意識的な行いも含まれるが、行為はとくに意志や目的をもった社会的な行いをいう。

またここでは特にヘーゲルは取り上げてはいないが、近代以前では、個人の罪責が広く親族や郎等などにも及ばされる縁坐、連坐制がとられた。

 ※2
(ギリシャ神話から)

アイアスは、アキレウスの戦死後、遺骸がイーリオス勢に奪われないよう、オデュッセウスなどとともに奮戦した。戦いが一段落した後、アキレウスの母テティスが、アキレウスの霊を慰めるための競技会を開催した。その際、アイアスはアキレウスの鎧を賭けた争いにオデュッセウスとともに参加した。争いの判定はネストール、アガメムノーン、イードメネウスに託された。どちらに軍配を上げても、後々どちらかの怒りを買うことになるため、彼らはイリオスの捕虜に判定を託すことにした。どのような判定が下るにしても、怨みがイリオスに向かうので都合が良いと考えたのである。アイアスとオデュッセウスは接戦を繰り広げ、イーリオスの捕虜は、オデュッセウスに軍配を上げた。

アイアスは逆上し、怒りのあまりオデュッセウスなどの味方の諸将を殺そうとした。しかし、アテナはオデュッセウスを救うためにアイアスを狂わせ、羊を諸将と思わせるようにした。アイアースは羊を殺戮したが、ふと自分が殺したのが羊であったことに気がついた。神にあざむかれたアイアスは神に嫌われ、ギリシアの諸将も自分を評価しないことを嘆き、彼らのために戦うことの虚しさから自害して果てた。この顛末はスミュルナのクイントゥスの『トロイア戦記』やソフォクレスの悲劇『アイアス』に描かれている。なお、ソフォクレスはアテナがアイアスを狂わせた原因を、戦場でアテナの庇護をアイアスが拒んだ高慢への罰であるとしている。 


アイアスの自害

出典

アイアス - Wikipedia

https://is.gd/p3liN0

 

 

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初詣

2020年01月03日 | 日記・紀行

2020年令和二年一月三日(金)翳


2020年令和二年、今年の初詣。大田神社へ行ったのちに、上賀茂神社へも行きました。混雑を避けて時間をずらして訪れました。大晦日や元旦の人々の雑踏や混雑を想像しながら境内を回りました。

大田神社には2017年の葵祭の日に訪れて以来。薫風に揺れる新緑とカキツバタの記憶が今も鮮明に残っているだけに、この神社の境内の冬枯れた佇まいを見て、その春の一日の記憶と眼前の現実の冬の境内とのギャップは言葉になりませんでした。同じ場所が季節によってこれほどまでに相貌を変えるとは。

日記用として立ち上げたこのブログも、もう今年で15年近くになります。ブログのありがたさで、昔に書いた記事へも瞬時にたち帰ることができ、その時の記憶もその強弱に応じて蘇ってきます。

せっかくにブログタイトルを「作雨作晴」としたのに、現実はあまりにも怠惰な日記ブログになってしまっています。今年は少しでも改善してゆきたいという気持ちだけはあるのですが。

いずれにしても、この堅苦しいこの上なきマイナーのブログ、あまりプライベートのことは書けませんが、世間の片隅に生きる「ほどなき身」の詮なき自己満足のつぶやきにすぎなくとも、日々感じたこと考えたことを今年はさらにつとめて記録してゆきたいものです。コメントもほとんどない本当に寂しいブログではありますが、それでも現在、日々のUUは200程度、PVは500ぐらいが平均のようですから、訪問者数の割にはページは読まれているようです。

十五年もブログを継続していると、その間に長く馴染みになったブログやサイトも様々な事情で消えてゆくようです。この拙なブログもいずれ同じ行く末を辿ることも理の必然ですが、行けるところまではゆきたいという気持ちもあります。

何はともあれ、明けましておめでとうございます。


 

今年の年賀状の画像には柿本人麻呂に登場していただきました。

昨年の秋に、京都国立博物館で行われた「佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美」 展に訪れたとき、そこで柿本人麻呂が歌聖と崇められていることを知りました。

歌仙にして歌聖の柿本人麻呂に少しでもあやかって、今年こそ何とか和歌でも作れるようになればと、少しの願いを込めて使わせていただきました。

年頭にあたって、もう少し述べさせていただくなら、ブログでの論考をこれまで継続していて、その途上に現在の憲法学の通説というか、もと東大名誉教授の故奥平康弘氏や樋口陽一氏らの国家観などの「偏り」に気づいて、それなりに批判もしていますが(「夕暮れのフクロウ」https://blog.goo.ne.jp/aowls)、現在の東大法学部の学生たちやその弟子筋の人、教え子たちからなんの反応もないのは、残念なことではあります。

しかし、所詮他人は他人です。私にできることは私なりにこれからも引き続き「真なるもの」を追求してゆくことだけだと思います。

 

 

 

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