作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

8月26日(日)のTW:#防衛省、#ミサイル、#戦闘機、#国産エンジン

2018年08月27日 | ツイツター
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天橋立海水浴紀行

2018年08月18日 | 日記・紀行

 

天橋立海水浴紀行
2018年8月18日(晴)


1台風

今年も夏も終わりを迎えようとしていた。しかし、平日の時間は使えないために、たとい小旅行を試みるとしても土日の週末を利用するしかない。今年の夏も海に行く予定としては、当然にお盆前を考えていたけれど、あれこれ忙しさに紛れているうちにお盆も過ぎてしまった。

今年は大文字の送り火も、テレビの中継で眺めながら過ごした。蒸し暑い夏の一夜を、送り火を人混みに紛れて眺めながら過ごすリアル感はないけれども、涼しい室内に居ながらにして、大文字や舟形、法のなどの送り火を視界も遮られることなく、また、送り火の点火に松明をもって山腹を走り回っている地元のボランティアの方々の様子も中継放送では具体的に見ることができる。

ちょうどお盆が終わりかけた頃に、台風二十号が日本列島の太平洋岸に接近しつつあることが天気予報で報じられていた。それでもまだ南海洋上遠くの位置だったので、ここ数年夏には泳ぎに行っている日本海側にはほとんど影響がないだろうと思っていた。

それで、海を見にゆく日をこの週末と決めたが、当日になってあらためて念のために現地の海水浴場の状況を確認してみようと、観光協会のホームページを調べてみると、海水浴場は高波で遊泳禁止になっていた。

今年は海水浴は断念するしかないと思ったけれど、念のためにと思い天橋立の観光協会に電話を入れると、そこでは遊泳ができるとのことだった。由良や神崎は波が高いらしい。天橋立まで出れば海水浴もできるかもしれない。しばらく迷っていたが思い切って出発した。現地についた時にたとい遊泳禁止になっていたとしてもそれも仕方がない。それで考え直して、行き先を天橋立に変更し、あらためてリュックの中の荷物を整理し直して自宅を出た。


2京都駅

京都駅は週末の人出で雑踏がひどかった。ここ数年の観光ブームのせいか、いたるところ外国人の姿が目についた。それも一見して外国人だとわかる欧米人だけだから、外見からだけではほとんど日本人を区別もつかない中国人や朝鮮人の観光客を勘定に入れると相当の数になるだろう。

地下鉄に京都駅まで乗り込んでいたときも、私の隣席に座ったのは、中国人の祖父母孫など三世代の家族連れの一行だった。よく見ればどことなく民族的なあるいは文化的な差異らしいものを感じて中国人風には見えるのだけれど、一見しただけではわからない。しかし日本語を堪能に話していても、どう見ても中国人にしか見えないということもある。というよりも、中国人も朝鮮人も、また東南アジア人も人種的には日本人とほとんど区別がないということなのだろう。

3 観光列車

福知山で乗り換える時に、ホームには京都丹後鉄道の観光用列車が停車していた。その外装とインテリアがユニークで面白かった。日本では有名な列車設計者の設計になるそうである。それに乗り換えて終着駅の天橋立に向かう。



3少女

ちょうど向かい合わせの座席が残されていただけだった。それで仕方なくそこに座ったけれど、二つ目ぐらいの停車駅から二組の母娘連れの客が乗り込んできて、向かいの席に座った。列車が動き出して間も無く、女の子はカバンの中から弁当を取り出して食べ始めた。プラスチックのスプーンでオムライスを食べている。食欲は旺盛のようだった。

4天橋立

目的地である天橋立駅に近づいた頃の車外の風景がどんなものだったのか、その記憶は残っていない。天橋立の駅に着いた時は昼下がり、空には青空が見えていた。まだ暑い夏の日差しがそそいでいて泳ぐには差し支えもなさそうだった。天橋立は小さな駅で、構内は行楽客で少し混雑していた。とにかく海水浴場を目指して歩き始めた。ただその方角が正しいのかどうか少し不安だった。すぐに神社か寺のお堂か区別がつかないような境内に入った。枝枝にぎっしりとお神籤の結いつけられた背丈ほどの小さな木々に出くわした。明治維新を遂行した狂信家たちが現れるまでは、日本では長い間、神社と仏教は平和に共存していたのに。


5海水浴場

途中で出会った貸出サイクリングの回収に当たっていたおばさんに海水浴場の方向を尋ねると、この境内を抜けて青い橋を渡った向こうにあるとのことだった。

しばらく歩いてゆくと水着姿の子供たちも行き来していて、海水浴場の近いことを思わせた。やがて欄干が青い色に塗られた橋が見え、その向こうに水着姿の海水浴客のいる海水浴場が見えた。

以前に訪れた丹後神崎や由良の海水浴場のように浜辺には海の家らしきものはなかった。水着に着替えるところがないか探していると無料の更衣所の表示が見えたのでそこへ行って水着に着替えた。荷物の預かり所もすぐに見つからなかったので、また、そんなに大層な荷物もなかったので、着替えると荷物をそのまま持って出て、波の打ち寄せる心配のない砂浜においてから、波打ち際に出た。

それほど大きな浜ではなかったけれど、打ちつづく松林を浜の背中にした美しい海水浴場だった。海水で顔を洗い身体を水に馴らしてから海の中に入いった。由良や神崎ほどには遠浅ではなく、少し沖に出るとすぐに海底に足が届かなくなった。空も青くよく晴れていて気持ちがいい。少し沖合に出ていつものように仰向きになり、照りつける日光に顔をさらしながら、しばらく波に揺られるままになった。

浜辺に沿って沖を平泳ぎやクロールで何度か往復したのち、少し沖合に繋留してある黄色の飛び込み台にあがって、そこで仰向けになって日を浴びた。髪をポニーテールにした色の浅黒い男とその連れらしい外国人が飛び込み台の向こう端に座っていた。波に揺れる飛び込み台のうえで、打ち付ける波の音を聴きながら今年の行く夏を楽しんだ。二時間ほど経て海から上がった。温水シャワーで潮水を洗い流して浜辺を後にした。


 

6夕日

天橋立は観光地としても名を知られている。日本三景の一つにも数えられている。しかし、この地を訪れたことは記憶にない。いまだ「股のぞき」は体験したことはないし別段に体験したいとも思わないけれども、そのためにはケーブルカーで高台の公園まで登らなければならない。海水浴を楽しんだ後は松林の延々とつづく砂洲をカメラを下げて歩いて行くだけで、日帰りの旅行では、行き着く先にある一宮籠神社まで足を延ばす時間はない。松林にすでに夕日が西から差し込んできていて美しい。秋になってまた再訪してもいいと思った。その時は紅葉や秋の七草も見られるかもしれない。



帰途の特急の時刻が気になって、「岩見重太郎試し切りの岩」や「橋立明神」「磯清水」などを見届けただけで、松林を途中に折り返して帰った。「磯清水」を見た時に手水場に柄杓が並べられてあったので湧き水を飲んでしまった。確かに塩気のない真水だったが、飲用ではないという表示に気づくのが遅かった。遥か昔の子供の頃に仇討の講談か漫画か何かで聞き知った覚えのある岩見重太郎という名前を見てどこか懐かしい気がした。

 

 

天橋立海水浴紀行

 

 

 

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8月15日(水)のTW:#国家、#主権、#君主

2018年08月16日 | ツイツター
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§281[国家の団結を守る君主]

2018年08月15日 | 国家論


§281[国家の団結を守る君主]

Beide Momente in ihrer ungetrennten Einheit, das letzte grundlose Selbst des Willens und die damit ebenso grundlose Existenz, als der Natur anheimgestellte Bestimmung, - diese Idee des von der Willkür Unbewegten macht die Majestät des Monarchen aus. In dieser Einheit liegt die wirklicheEinheit des Staats, welche nur durch diese ihre innere und äußereUnmittelbarkeit der Möglichkeit, in die Sphäre der Besonderheit, deren Willkür, Zwecke und Ansichten herabgezogen zu werden, dem Kampf der Faktionen gegen Faktionen um den Thron und der Schwächung und Zertrümmerung der Staatsgewalt entnommen ist.


不可分の統一のなかにある二つの要素、つまり意志の究極の何らの制約もないそれ自体と、そして、それでもって当然に、自由な規定にある自然として何らの制約もない現実の存在、⎯⎯(すなわち)恣意によっては動かされないこれらの理念(考え方)が君主の威厳を構成している。
この統一において、国家の現実の団結は存在するのであり、これらの国家の内部および外部の可能性の直接性を通してのみ、この団結こそが、恣意性や、目的や、見解などがさまざまに導き出される特殊性の領域において、王座をめぐる派閥と派閥との闘いや、国家権力の弱体化や崩壊から免れさせるのである。




君主制の意義についてのヘーゲルの評価は上述にみるように的確であると思う。それに対して共産主義者のマルクスなどは、君主制の否定的側面のみをみて、肝心のその意義を正しく理解できなかった。またマルクス主義の影響を強く受けた日本の多くの戦前戦後の知識人も、憲法学者樋口陽一氏や故奥平康弘氏などの憲法学に見られるように、戦前の国体主義者たちによって歪められた「天皇制」という現象に囚われて、「君主制」の意義を正しく理解できず、「たらいの水と一緒に赤子も流してしまう」ことになった。在野であれアカデミズムであれ、日本の憲法学者たちも今一度ヘーゲルの「法の哲学」を再検証されて、折しも今上陛下の御譲位をお迎えしようとしている時に当たって、君主制の意義を、日本の「皇室」についての正しい理解を深められることを期待したいものです。


ヘーゲル「立憲君主制について」(「夕暮れのフクロウ」記事一覧20180808〜20181026)                         - 夕暮れのフクロウ  https://is.gd/jTKrbq

 

 

 

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8月7日(火)のTW:#朝日新聞#日本社会の劣化

2018年08月08日 | ツイツター
 
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