作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

ゲーテ『親和力』第四章

2022年06月06日 | 芸術・文化

 

ゲーテ『親和力』第四章

この第四章の登場人物も、引き続きロッテリアとその夫である男爵エドアルト、そして彼の友人である大尉である。友人の大尉がロッテリア・エドアルト夫妻の館に来ることによって、エドアルトの所有地の測量やその地所の記録を進めていく。この間に友人の大尉が取り組む仕事ぶりによって、大尉が有能な実務家であることがわかる。大尉は「仕事への真摯さと生活の自由とを切り離すことの大切さ」を友人のエドアルトに説明するが、エドアルトはそれを自分に対する非難のように聞くが同時に、大尉によって、自分の欠点が是正されたようにも感じる。エドアルトが雇っている老いた書記も、大尉のおかげでテキパキと一層仕事を能率的にこなすようになった。

このようにして友人同士の二人は昼間を過ごしたが、晩にはシャルロッテを交えてひと時を過ごした。そこでの会話や読書は、市民社会の福祉と利益と慰安を増進するような対象に向けられた。大尉の滞在以来シャルロッテにとってもさまざまな家庭内の施設が大尉の活動によって実現されていった。エドアルトの地所に多い池沼での事故に備える対策も進められた。この時の彼らの対話の中から、かって二人の友人の間に起きたらしい悲しい追憶の存在が暗示される。そうした施設とともに応急のために必要な医者についても呼び寄せることが決められる。こうしてシャルロッテは大尉の存在にますます満足を感じるようになる。

また、生活の中から有害なものを、鉛の釉薬や銅器の緑青などに頭を悩ませていたシャルロッテは、夫や大尉たちの対話や読書の中に、その解決のための質問のきっかけを得ることになる。それは夫のエドアルトが、彼らの談話な中で、響きのいい低音の声で化学的な内容の書物を朗読したからだった。その時シャルロッテは夫の朗読している本を覗き込んで見たために、夫から注意される。それは夫のエドアルトが化学の書物の中から「親和力」という言葉を読むのを聞いてシャルロッテは従姉妹や親戚の者たちとの人間関係とその連想から、その「親和力 Die Wahlverwandtschaften」という術語や外来語の言葉のより正確な意味をシャルロッテが知ろうとしたためだった。

土壌と鉱物の化学の話の中に、人間関係を連想してしまうシャルロッテに対して、大尉が応じて、水や油、水銀などを実例にして「親和力」の意味を説明し始める。ここではじめて、このゲーテのこの作品の表題である「親和力」が出てくる。この用語が実は化学関連の術語であり外来語であることもわかる。

「親和力 Die Wahlverwandtschaften」という化学における術語には、「Wahl 選ぶ」という意味と「verwandtschaft 親族」という意味が含意されているところから、シャルロッテはこの言葉の真意を知ろうとしたらしい。ゲーテがこの作品の表題として「親和力 Die Wahlverwandtschaften」を選択した意図もここに予想される。

夫のエドアルトが水や油、水銀などを実例に説明するのに対して、シャルロッテはそこに人間や社会のさまざまな集団の対立や親近性の姿を連想する。さらに大尉は、石灰石に希硫酸を加えたときの作用を、分離と合成で説明し始めるが、シャルロッテはそこにも相変わらず人間関係を連想するのに対して、夫のエドアルトは、「自分は石灰石で、友人の大尉である硫酸によって、シャルロッテとの親密な関係が解かされてしまう」という意味を含ませているようにエドアルトは感じる。

大尉がさらに自然物の相互の牽引と反発について説明し始めると、エドアルトは現在のシャルロッテ、エドアルト、大尉の三人の生活の中に、シャルロッテの姪のオッティーリエを呼び寄せることを提案する。その時シャルロッテの方もまた、家政婦が暇をとることもあって、オッティーリエを呼び寄せることを考えていたことを打ち明けながら、一通の手紙を夫のエドアルトに渡した。

 

(⎯⎯ はじめは単にゲーテの作品だということぐらいで、気分転換くらいの気持ちで、気楽にと読み始めたけれども、この作品の概要などをたまたま目にすることがあって、その内容がかなりおそろしい「不倫小説」であるらしいことがわかった。少し動揺も覚えたけれど、今さら読書と感想を記録していくことを中止する気にもなれないので、どれだけ時間はかかるかもしれませんが読み続けていくつもりです。)

 

Die Wahlverwandtschaften, by Johann Wolfgang von Goethe    https://is.gd/I2nNl5

 『親和力』 完全版 eBook : ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ, 上妻 純一郎, 實吉 捷郎: 本  https://is.gd/VHl5UP

 

 

 

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ハルとナツ 届かなかった手紙 [第一話] 森光子 志田未来 野際陽子 米倉涼子 仲間由紀恵, 今井翼「姉妹」

2021年11月28日 | 芸術・文化

 

ハルとナツ 届かなかった手紙 [第一話] 森光子 志田未来 野際陽子 米倉涼子 仲間由紀恵, 今井翼「姉妹」

 

Youtube の動画のなかに、たまたま昔に放映された「ハルとナツ 届かなかった手紙」というドラマがあったので見る。ブログにその時の感想を載せていたのを思い出した。ブラジル移民の苦難の歴史の一端をあらためて想像できる。このドラマに登場した女優の幾人かはすでに鬼籍に入る。早いものでその時からすでに十六年の時間が過ぎている。

 

きれいな秋空、宵の明星 - 作雨作晴 https://go.ly/d0YUp

 

 

 

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Fudoshin Ryu Aikijujutsu Japanmarkt (Leiden 2016) 2e demonstratie

2018年10月16日 | 芸術・文化

Fudoshin Ryu Aikijujutsu Japanmarkt (Leiden 2016) 2e demonstratie

Fudoshin Ryu Aikijujutsu demonstratie op 15 mei 2016 tijdens de Japanmarkt in leiden.

柔道はすでに言うまでもなく、剣道も空手も合気道も忍術も居合道も、日本の戦国時代の昔から有名無名の多くの武士によって研究され開発されてきた武道、武術は海外に出た日本の武道家たちによって、いずれも極めて正統にオーソドクスに欧州を中心に受け継がれています。こうした貴重な遺産が肝心の母国日本においては失われつつあるのは惜しい。いつの日か再び武術、武道の隆盛を迎える時の来ることを期待して。青少年時代にこれら武道、武術の一つを選んで修練することによって得られるものは大きいと思います。

 

 
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Takamatsu Sensei

2018年10月16日 | 芸術・文化

Takamatsu Sensei

Documentary. The story about the last Japanese ninja and the Mongolian Tiger. Takamatsu Sensei.

 

 
 
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Masaaki Hatsumi: The 34th Grand Master of the Togakure-ryu Ninjutsu

2018年10月16日 | 芸術・文化
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3月18日(火)のTW:時代劇の原点、溝口健二監督作品『宮本武蔵』

2014年03月19日 | 芸術・文化

昔なつかしい映画。嵐寛寿郎【映画】鞍馬天狗 角兵衛獅子 -1951: youtu.be/Rpo4E-pRRWM @YouTubeさんから


時代劇の原点とも言うべき作品。Miyamoto Musashi (1944) Kenji Mizoguchi [Eng Sub] 宮本武蔵 - 河原崎長十郎・中村翫右衛門: youtu.be/y6H2g_W5OsM @YouTubeさんから


「奥平康弘氏の著書『「萬世一系」の研究』について」ただ細部についてはとにかく、奥平康弘氏の「共和制国家観」についての核心的な批判については、このツイートの投稿で十分であるようにも思います。いずれ... goo.gl/ewDG8W


「奥平康弘氏の著書『「萬世一系」の研究』について」ただ細部についてはとにかく、奥平康弘氏の「共和制国家観」についての核心的な批判については、このツイートの投稿で十分であるようにも思います。いずれにしても、もと国立大の法学部の教授... fb.me/2GYSTmj55


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万葉考(1)

2012年06月08日 | 芸術・文化

 

万葉考(1)

        天皇遊猟蒲生野時額田王作歌

二〇  あかねさす  紫野逝き  標野行き
              野守は見ずや  君が袖振る

                額田王

あかね草の植わった、紫野を過ぎて、私たちは御門の猟場にまで来ましたが
 野を見張る番人は見とがめないでしょうか、あなたが私に向かって袖を振るのを。

        皇太子答御歌  明日香宮御宇天皇諡曰天武天皇

二一  紫の  にほえる妹を  にくくあらば
              人妻ゆゑに  われ恋ひめやも

                天武天皇

紫の色の匂うような、高貴な美しさを秘めたあなたを、もし憎らしく思うのであれば
            人の妻であるあなたを、私が恋しく思うでしょうか。

日々の生活に追われていると、万葉集をひもとくなどということは、なかなか思いもつかない。それでも、何かの折りに、昔に学校などで習った万葉集のいくつかの歌がふと頭をよぎって思い出されることがある。

私たちが生活のなかで繰り広げるさまざまな行動や、そこで出会うさまざまな体験、またそれらを通じて湧き起こってくる感情や思念が、かって過去において経験したことと重なることも多々ある。それを記憶が教えるとき、そうした現象は「デジャブ」とか「既視感」とも言われる。

過去の経験といっても、それは必ずしも私たちの現実に体験したことばかりとは限らない。単なる個人的な経験を越えるものであることも少なくない。詩歌、演劇その他の芸術を通じて疑似体験したこと、そうした無数の「経験」をも記憶に留めてもいるからである。それは学校教育などに典型的に見られるような、言語などと象徴的に結びついた文化環境でもある。

日々の暮らしのなかで引き起こされる情感は、すべて個別的で特殊な情感であるとしても、同時にそれらはまた、古代人の体験したものと同じ体験、同じ表象、そこから湧き出る同じ感情であることも多い。その思念や情感は現代人にも共通する普遍的なものでありうる。だからこそ万葉集などに記録された感情や思念は、今に生きる私たちの記憶や表象において蘇る。さもなければ、一五〇〇年も前の詩歌に共感を覚えるはずはない。

男と女が存在していて、互いに面識があり、それどころか袖を振りあって自らの存在を相手に知らしめようとするほどに、お互いに親近感を持っている。それは単なる親近感以上の恋愛感情にまで深まっている。

二〇番の「あかねさす」の歌には「天皇の蒲生野におん狩りせられし時に、額田王の詠める歌」という前書きが付せられている。このことからも、この和歌の背景には帝の狩りの行幸のあったことがわかる。しかし、この和歌が果たして実際の狩りの途中に詠まれたものか、あるいは、その後の宴の中かどこかで、狩りの記憶を留めながら詠まれたのかどうかを実証することはむずかしいと思う。しかし、いずれにしても、狩りの御幸のさなかに交わされた男と女の感情の交流がこの歌の主題であり、その折りの繊細な情感が和歌として象徴化されているという真実には変わりがない。

額田王が天智天皇と大海人皇子の二人の男性から実際に愛されたかどうかは、この歌の本質には係わらない。ここでは身分の差を超えて、世の中の男と女の常として、二人の異性から同時に思いを寄せられることのあったことさえわかればいい。それはいつでもどこでも、誰にでも普遍的に共有される感情でもある。しかし、それが身分や近親関係その他の社会的な禁忌に触れる場合、その感情の抑制はいっそう深刻なものとなる。

個人の自然的で自由な欲望も、社会という共同性の中に生きるという宿命のなかで、それが往々にして悲劇的な結末に至るということも少なくない。この歌に続く天武天皇の「紫の・・・」の応答歌の中に「人妻ゆゑに」という一句があることによって、紛れもなく疑う余地のないものとなっている。

額田王のこの詠唱は、そのような状況におかれた女性の不安と歓び、動揺と怖れなど入り混ざった複雑で微妙で繊細な、矛盾しあう感情の美しい表出となっている。額田王のこの不安は、やがてこの歌を詠じた大海人皇子(後の天武天皇)が、兄である天智天皇の崩御ののち、その皇子であり甥でもあった大友皇子と皇位をめぐって争い、敗れた大友の皇子は自害することになる。額田王の詠唱に見られる不安なおののきも、672年に起きた古代の内乱、「壬申の乱」と無関係とは言えないかもしれない。

万葉集に収められた和歌は古代の日本人の思考や感情の記録を留めるもので、それらのより純粋な始源としての価値は揺るがない。仏教や儒教など人為的な道徳感情や形而上学にもいまだ冒されてはおらず、日本人の意識にそれらが深く浸透する以前の、素朴な古代人の純情が保存されている。貴族たちの技巧と洗練で作歌された新古今和歌集などの詠唱と比べれば、それは歴然としている。万葉集は天真爛漫で素朴な感情が滾々と湧き出ずる清流の源泉ともいえる。

現代人の思考や感情は複雑で紆余曲折があって、それが二重化された自意識の大人の産物であるとすれば、万葉人のそれは、まだ少年のように一面的で、それだけに単純で素朴である。また言語としての日本語の純粋さや原点を思い起こすときにも、万葉集は常に立ち還るべき原風景であり故郷でもある。また、日本の古代史探究の上でも興味は尽きない。

 

 

  

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HIROSIMA MON AMOUR――広島、私の愛しい人

2010年01月31日 | 芸術・文化

 

HIROSIMA  MON AMOUR――広島、私の恋人


もうすっかり古い映画になってしまっていたが、その名前だけは聴き知っている映画というものも、決して数少なくない。先日YOUTUBEを見ていた時に、たまたまそうした映画の一つで、「HIROSIMA  MON AMOUR」が投稿されているのを発見した。アラン・ルネ監督、マルグリット・デュラス脚本作品である。時間の合間に見た。これまでもこの映画の存在自体は知っていたが、DVD版でも購入して見るほどでもないだろうと思っていた。また、フランス語など、ラテン系の言語についてはまったく盲目の私にとっては、フランス語の映画にも縁が遠かった。YOUTUBEの投稿映画には英語の字幕がついていたので、何とか映画の内容も追いかけることが出来そうなので見た。

Hiroshima Mon Amour 1/9
http://www.youtube.com/watch?v=Hgh5zH0yZXo&feature=related

この作品は、ほとんど抽象化された名前も持たない二人の男女が主人公である。この映画の邦題が「二十四時間の情事」」となっているように、フランスから来た女優と日本の建築家の男性との間の、24時間のrendez-vousをめぐって物語は展開して行く。映画の冒頭は、クローズアップされた二人の肉体の絡み合いに象徴されるエロスのなかで交わされる対話から始まる。

広島で出会った男は、フランスから来た女に向かって、「あなたは広島に来て何も見なかった」と言う。それに対して、女は「原爆博物館を四回も見学し、広島の原爆について多くの説明も聞き、まだ、原爆被害者の多くの入院している病院を訪れ、悲惨なその被害も実際に見、多くのニュースフィルムも見て、広島の原爆と戦争の現実を十分に知っている」と言う。
 
この映画の冒頭に、広島の原爆被害の記録フィルムをドキュメントとして映画の中に挟み込むことによって、この映画はドキュメントとしての性格を、先の第二次世界大戦の歴史的な記録性をも留めている。そうした歴史的な事実の上に、一人の女と男が、しかもフランスと日本という互いに遠く離れた国籍を持つ男女を関わらせることによって、この映画に、さまざまな象徴的な意味をもたせようとしている。

男と女がベッドの上で交わす会話のなかで、それぞれの過去が明らかになってくる。二人はいずれも、先の第二次世界大戦という戦争の西と東で戦われた惨劇の傷を深く心に刻んだ個人であることがわかる。女は今は女優となり、その仕事から撮影する反戦映画に出演するために広島を訪れる。広島は人類史上戦争ではじめて原子爆弾が投下された土地として、人々の意識に深く刻み込まれている。だからこそ、この女優でもある女は、いまや反戦平和の象徴ともなっている広島を訪れ男と出会う。そして、それぞれ戦争の傷を深く抱え込んだ被害者同士の出会いが、合わせ鏡のように、それぞれの心の戦争の傷を互いにさらけ出すようになる。

女は今は女優として、反戦映画にかかわっている。しかし、先の世界大戦では敵国ドイツの兵士を愛したことで、故郷ヌベールの人々から屈辱を受け、両親の家からも追い出されるようにパリに出ることによって、彼女には戦争の記憶が深いトラウマになって残っている。だから彼女にとって故郷ヌベールの記憶は、ドイツ兵との初恋の記憶とも重なる。彼女がつらい記憶から忘れ去ろうとしていたドイツ兵は初恋の人でもあり、また、村を流れるローレ川の岸辺の美しい土地の記憶は、同時に一方で、故郷の人人から屈辱を受け、また地下室で狂乱の日々を暮らした精神的な深い傷を残した場所でもある。

だから彼女にとって、その記憶を失うことは、苦しみから救われることでもあるが、また、ドイツ兵との初恋の思い出を記憶として喪失してしまう恐怖にもなる。いずれにしても、彼女は故郷ヌベールの刻印とそれへの憎しみの呪縛とから解放されない。たとえ、その記憶の古傷の痛みのために、表面的にはその記憶は狂気によって無理矢理に喪失させられているとしても、いつでも、どこでも、きっかけさえあれば、その記憶の古傷は蘇ってきて、現在の彼女を苦しめる。

それゆえに、彼女は自分の古傷を思い出させる男、広島に対して怒りの叫びで抗議をする。戦争は深い傷跡を残す。第二次世界大戦で、人々に、人類に残したその精神的なトラウマのもっとも深刻で象徴的な事件の起きた場所が、広島でありアウシュビッツである。また、女がフランスの故郷ヌベールで体験したような悲劇は、小アウシュビッツ、小広島のような事件として、戦争の行われたところならいずこにも無数に存在した。

この作品が撮られたのは、1958年から1959年に架けてである。だから、まだ戦後14、5年しか経っていない。この映画にも、広島も原爆の惨劇から復興し始めている町並みが撮され記録されているとは言え、まだ多くの原爆被害者たちも病院の至るところで見られる。また左翼による反戦活動や、原水爆禁止運動などが激しく戦われていた時代の背景も記録されている。映画の中に、反戦映画の撮影現場自体を画面に登場させることによって、たとえ皮肉なかたちによるとしても、この映画もまた兵器としての原子爆弾の現実を告発している。この映画の作られた翌年の1960年にはフランスにおいても、アメリカ、ソ連、イギリスに次いで世界で第4番目に核爆発実験を成功させている。

映画の冒頭で女が原爆博物館に訪れる画面で映し出される、広島が深く刻み込んでいる戦争の記憶は、女に昔のトラウマをふたたび呼び起こす。戦争が深い精神的な傷を刻み込んでいるということでは、男にとっての広島も、女にとってのヌベールも変わりがない。

彼女がふたたび不可能な愛を見出してしまった広島の男もまた、家族を失って戦争の深い傷を抱えた男であり、男は広島の象徴として存在し、この男との出会いは、彼女につらい記憶の傷の痛みから忘れ去ろうとしていた初恋のドイツ兵のことを思い出させる。

故郷ヌベールの記憶は、ローレの美しい川に象徴される甘くなつかしい記憶とともに、敵国ドイツ兵との恋愛ゆえに、彼女が故郷の人々から受けた屈辱や、地下室で過ごした狂気のつらい記憶も留めている。彼女はその心に受けた傷によって、過去の記憶をすべて忘却の淵に流し去っていたのだ。しかし日本の広島で彼女は男を愛することによって、そして広島のつらい戦争の記憶を自分のものとすることによって、フランスで忘れ去ろうとしていた故郷ヌベールのつらい自分の記憶とともに、異国の土地日本の広島の男との不可能な恋の記憶とともに生きようとしている自分に気づく。

戦争をどのように理解するか。その象徴としてのヒロシマやアウシュビッツをどこまで理解しうるか。この映画が問題提起するそのレベルも人によってさまざまだろう。また、人間にとって記憶がどのような意味をもつのか、またその記憶が、心に刻み込まれる精神の傷として残されたとき、人はその傷とどのように関わりながら未来の日々を生きてゆくべきか?この映画はたしかに、愛がそのための勇気を与え、癒し、救う可能性を秘めたものとして描いてはいる。

映画を構成する一つの要素である音楽の効果も優れている。すだく虫の音が、多くの画面でBGMのように使われている。カメラワークが映し出す復興しはじめた当時の広島の街と人々の暮らしの様子。この映画には戦後まだ十四年しか経っていない広島の街や夜の歓楽街と人々の暮らしが、美しく記録されている。女を演じているまだ若いエマニュエル・リヴァも、彼女がフランス人の女優であったからこそ、まだ復興し始めたばかりの広島の古くさい街並や駅の構舎の光景にも、それほど違和感も感じさせずに溶け込んでいるのかもしれない。アメリカ人女優やアメリカ映画に、果たしてこの映画のような共感と情感はかもしだせただろうか。

 

 

 

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映画「亡国のイージス」を見る

2009年06月14日 | 芸術・文化

映画「亡国のイージス」を見る

6月14日のテレビで「亡国のイージス」という映画を見た。もちろん、娯楽作品ではあるけれども、曲がりなりにも、わが国の国防についての問題提起をおこなっている作品であるとは言える。言うまでもなく、イージス艦はレーダーや最新の情報処理システム、対空ミサイル・システムなどを装備した現代科学の粋を集めて建造された艦艇である。

しかし、イージス艦のように、たとえどれだけ軍事科学の粋を集めて建造された軍艦といえども、それは守るべき価値ある国家、国民が存在してこそのイージス艦であって、この前提のない国家国民が所有する軍艦など、軍事産業屋の金儲けのネタか軍人の高級玩具になり終わるにすぎない。

根本的に重要なことは、価値ある国家の形成、守るに値する文化、伝統、自由を尊重する人間の存在である。戦後民主主義の日本人には、せいぜい守るべきものがあるとしても、それは営々と蓄積してきた富のほかにはないのではないか。たしかに、多くの人間にとっては、富のみが守るに値する。

映画「亡国のイージス」が公開された2005年は、戦後60年という巡り合わせもあって、「男たちの大和」「ローレライ」などの軍隊物映画が公開され、その後も「出口のない海」などの戦前の日本軍を回顧するような作品も発表されている。このような傾向を、日本の「右翼化」として「憂慮」する人たちもいるようである。

しかし、戦後60年が経過して、文化の植民地化が徹底的に浸透した現代の日本においては、戦前の日本を描こうにも、それを演じきれる人間、俳優がいない。香港やフィリッピンその他かつての被植民地などに多く見られる、無国籍アジア人の体質をもった俳優には、戦前の日本人やまして旧大日本帝国軍人などはもう演じられなくなっている。そこまで文化的な断絶が深くなっているということである。



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春の息吹

2009年03月18日 | 芸術・文化

 

冬の寒さが厳しければ厳しいほど、春の訪れが歓ばしいものになる。今年の冬は生暖かくて何か物足りない気がする。ともあれ、春の足音が聞こえる。

春霞む市街地

 最近は西洋タンポポがはびこり、在来種はすっかりかげを潜めてしまったようだ。

                                          

 蕾も可愛い。

 

                                

どこか、フリードリッヒの絵を思い出す。

 梅の花が美しい。

 

 せっかく植えたイチジクの木も、野鹿には新芽がおいしい餌になったようだ。イチジクには過酷な運命だ。

        

                                          

   

 

           

    

神は黙して語らず。

 

 

 

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