作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

ヘーゲル『哲学入門』中級 第一段 意識一般 第十九節[力と法則]

2023年10月23日 | 哲学一般

ヘーゲル『哲学入門』中級 第一段 意識一般 第十九節[力と法則]

§19


2) Die Kraft bleibt mit diesem Unterschiede in aller sinnlichen Verschiedenheit der Erscheinung dieselbe. Das Gesetz der Er­scheinung ist ihr ruhiges, allgemeines Abbild. Es ist ein Verhältnis von allgemeinen bleibenden Bestimmungen, deren Un­terschied am Gesetze zunächst ein äußerlicher ist.(※1) Die Allge­meinheit und Beständigkeit dieses Verhältnisses führt zwar auf die Notwendigkeit desselben, aber ohne dass der Unterschied ein an sich selbst bestimmter oder innerer wäre, in welchem die eine der Bestimmungen unmittelbar im Begriffe der andern liegt.

第十九節[力と法則]

2) 力は、現象のすべての感覚的な区別の中にあって、同じものに留まっている。
現象の 法則 とは、力の静的で普遍的な写像である。力とは普遍的で恒久的な諸規定についての関係であり、法則と力との区別はさしあたっては一つの外的なものである。この関係の普遍性と恒常性は確かに必然性そのものへと進んでいくが、しかし、その(力と法則との)区別は(対象が)自己自身を規定したものか、あるいは(意識の)内的なものであるかの区別はないのであるから、規定の一方は直接に他方の概念のうちにあることになる。

※1
ここでの記述そのものは分かりにくいが、「力と法則」の例として、リンゴの樹からリンゴの果実が落下する場合を考えて見ればいい。

リンゴの樹からは、その果実は、いつでもどこでも(普遍性と恒常性をもって)、上から下へと落ちるから、リンゴの果実というものは、上から下へと落下する必然性のあることを認めるにいたる。(万有引力の法則)

しかし、この段階では、力と法則とのあいだには、それらが対象自体にあるのか、あるいは私たちの意識のうちにあるのか、区別はされていないから、力のうちに法則があり、法則のうちに力があることになる。

 

ヘーゲル『哲学入門』中級 第一段 意識一般 第十九節[力と法則] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/hqnJAW

 

 

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【泉房穂にきく】この国に足りないのは「お金」ではなく「やる気」

2023年10月16日 | ニュース・現実評論

【泉房穂にきく】この国に足りないのは「お金」ではなく「やる気」

 

福島瑞穂氏を少子化担当相にした、かっての民主党内閣は言うまでもなく、歴代の自民党内閣にも少子化問題の解決に、その意志も能力もまったくありませんでした。現在の岸田文雄自民党内閣は、それに輪をかけて少子化問題に解決の意志も能力もない。

岸田内閣はその無能力の埋め合わせを、移民によって取りつくろおうとしています。しかし、埼玉県議会の「クルド人移民騒動」に見るように、「移民」は私たちの孫や子たちの将来の世代に、とんでもない災厄を背負わせることになります。今、国民には岸田自民党内閣の移民政策を(中国からの留学生問題も含めて)暴走を止めさせ、何としてでも少子化問題の解決に意志と能力のある内閣に取り替える責任があります。

 

──────

上にあげた泉房穂氏の動画は、日本国民の出生率を上げるための問題提起としてあえて取り上げましたが、この動画の中で、泉房穂氏は氏の信奉する思想家としてルソーを取り上げておられます。老婆心ながら、こういった思想問題にナイーブで、無批判的にうけとられる方もおられると思いますので一言つけくわえておきます。

要するに、ルソーのとなえる「国家契約説」やマルクスの「階級闘争史観」は、その思想傾向の論理的帰結として、革命国家などにみられる、おぞましい社会的、国家的現実がもたらされるということです。

この泉房穂氏の例に見るように日本の教育界は、ルソーやマルクスの思想の教育にあまりにも無警戒、無頓着です。日本の若者たちにテロにひかれる者がなくならないのもその結果です。

 

ご参考までに

「── 哲学的考察はひとえに一切のものの内面的なもの、このような思考された概念を取り扱う。この概念の探求に関してルソーは、単にその形式上のみ思想である原理や(いわば社会的衝動、神的な権威のごとき)ではなく、内容上も思想である、しかも思考そのものである原理、すなわち意志を国家の原理として立てるという功績をなした。

しかしルソーは意志を単に個別的意志の特定の形式によってのみ解し(その後フィヒテもなしたように)普遍的意志を、意志の本来的に理性的なものとしてではなく、単にこの個別的意識から意識されたものとして生じる共通的なものとして解したに過ぎなかったから、国家における個人の結合は契約となり、したがってこの契約は個人の恣意、臆見および表明された任意な同意にもとづき、その結果は、絶対的に存する神的なものとその絶対的な権威と尊厳とを破壊するところの、さらに広汎な単に悟性的な諸種の結果をもたらすのである。

それ故これらの抽象が暴威をふるうにいたるや、まことに、一面ではわれわれ人類について知って以来、はじめての恐るべき光景、一切の現存諸制度や伝承を転覆して、偉大なる現実国家の憲法を今やまったく新たに、そして思想によって創始し、かつそれに与うるに単に空想された理性的なものをもって基礎たらしめようと欲する光景を現出せしめ、他面では、それは単に理念を欠いた抽象に過ぎないから、その試みを最も戦慄すべく、もっとも恐るべき事件たらしめたのである。」

(ヘーゲル『法の哲学』第258節補注、高峯一愚訳)

 

 

 

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