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日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

事実報道と価値報道

2014年06月11日 | ニュース・現実評論

 

事実報道と価値報道

 
昨日ネットでいくつかのブログ記事を読んでいるとき、たまたま門田隆将というドキュメント作家らしい方の記事に行き当たった。そこで『お粗末な朝日新聞「吉田調書」のキャンペーン記事  2014.05.31』という論考が掲載されていたので読んだ。

門田隆将オフィシャルサイト | kadotaryusho.com http://www.kadotaryusho.com/blog/2014/05/post_758.html

「お粗末な朝日新聞「吉田調書」のキャンペーン記事」2014.05.31
http://www.kadotaryusho.com/blog/2014/05/post_758.html

 「朝日新聞の「抗議」を受けて」2014.06.10                              http://www.kadotaryusho.com/blog/2014/06/post_759.html


福島第一原発(1F)の事故で陣頭指揮を執って亡くなられた吉田昌郎所長が、生前に政府事故調査委員会の聴取に応じて作成された調書、いわゆる『吉田調書』が、吉田所長自身の上申によって「公表」はされないことになったこと、またそれに関連して、その時の福島第一原発の危機に際して「七〇〇名の所員たちの九割が吉田所長の命令に違反して、現場から福島第二(2F)に逃げた」こと、それらが何かスクープのようにテレビで報道されていたのを聞いて知っていたからである。

私は朝日新聞を購読していないので、実際に朝日新聞がどのような記事を書いていたのか確かめていない。しかし、テレビを主な情報源として(NHKだったのか他の民放局だったのか記憶にない)それらのニュースに接したとき、

かねて情報は原則として公開されるべきだと私は考えていたので、「どうしてなのかな、政府が意図的に隠蔽しようとしているのかもしれない。しかし政府をそこまで勘ぐっても仕方がないし、亡くなった吉田昌郎所長自身が上申されているのであれば、そこに何らかの事情が、プライバシーの問題などがあったのかもしれない」ぐらいに思って済ませていた。

マスコミなどはこのいわゆる「吉田調書」の非公開を批判していたが、しかし、聴取に応じた吉田所長自身が本当に非公開を希望していたのであれば、吉田氏の意向も尊重されるべきであることは言うまでもない。

このいわゆる「吉田調書」非公開の報道と並行して、福島第一原発の危機に際して「東電七〇〇名の所員たちの九割が吉田所長の命令に違反して、現場から福島第二(2F)に逃げた」ことも何かスクープのように報道されていた。

だからそれを聞いたとき「東電の職員は無責任だな、誰でも自分の命が惜しくなれば逃げ出すのかな。それにしても日本人の職業倫理も地に堕ちたものだな」ぐらいに思っていた。

しかし、たまたまネットで門田隆将というドキュメンタリー作家らしい人のブログを読んでいて、福島第一原発の危機に際してとった東電の職員たちの行動が、必ずしもテレビなどで報道された通りでもないらしいことがわかった。九割の東電職員らが福島第二原発へと避難した折りのくわしい実情が少しわかった気がした。そういう事情があったのかもしれないと。


この門田隆将というドキュメンタリー作家は実際に故吉田昌郎所長などに長時間インタヴューしたらしいから、それなりに事情に通じていると思われる。さらに門田氏のブログ記事を読んでみると「「所長命令に違反」して九割の人間が「撤退した」というのは正しくない、「それは誤報であり、すなわち故吉田所長の部下たちを貶める内容の記事となるのである。」と門田氏は述べられていた。

たしかに、朝日新聞の報道のように、もし「吉田昌郎所長の命令に反して東電職員の人たちが、福島第二原発に避難した」とするのであれば、このニュースを聞いたときに感じる印象は、東電職員の方々に対する不信感や怪訝として刻まれるのは避けられないと思う。

しかし、もし吉田所長の本心が所員たちの避難をその時にすでに想定していたのであれば、東電職員が福島第二原発(2F)に移動したことは、決して「所長命令に違反して」ということにはならない。もしそれが真実なら以前の報道を受けて生まれた、避難した東電職員たちに対する不信感なども訂正しなければならないと思った。

要するに、福島第一原発の事故に際して取られた故吉田昌郎所長や東電職員の対応において、「所長命令に違反」して九割の人間が「撤退した」という報道が、果たして事実を正確に伝達しているかどうかということである。

既に吉田昌郎所長は亡くなられているし、ご本人に確認しようもない。吉田昌郎所長が調書の公表に危惧していたのも、ご自身の発言がそうした文脈を離れて一部だけが切り取られたり、曲解されたりすることを恐れてのことだったのかもしれない。

調書における故吉田昌郎所長自身の発言についても、上申書のなかに「自分の記憶に基づいて率直に事実関係を申し上げましたが、時間の経過に伴う記憶の薄れ、様々な事象に立て続けに対処せざるを得なかったことによる記憶の混同等によって、事実を誤認してお話している部分もあるのではないかと思います」と謙虚に述べている。

たしかに人間は主観的にしかものを見れないし、それにもかかわらず、人間の自我は往々にして、自己を絶対化し、自己の「思いこみ」や考えに固執する。そして、それを他者にも伝達する。

今回の報道に限らず、原子力発電の再稼働や「秘密保護法」そして今、論争になっている「集団的自衛権」の問題に関する記事や報道においても同様のことが言えると思う。

だから、私たちが生活上ニュースや報道を受取らなければならないとしても、それは新聞記者やマスコミ人、様々な学者、専門家たちのそれぞれの立場から発せられる発言であり認識であるに過ぎないこと、そのことをよく自覚しておくことだと思う。そのことを改めて考えさせられる報道だった。

もし朝日新聞の報道のように「吉田昌郎所長の命令に反して東電職員の人たちが、福島第二原発に避難したのであれば、」このニュースを聞いたときに感じたように、東電職員の方々に対する不信感や怪訝が生まれるのは避けられないと思う。

以前にもツイッターで呟いたこともあるけれど、新聞記者が記事を書くとき、そこに主観的な価値判断や先入見のイデオロギー(価値報道)を持ち込むことなく、「事実」の客観的報道(事実報道)に徹することを記者たちに求めることの難しさを改めて感じた。もちろんその背景にマスコミ人各人の資質や彼等の受けた教育、国民文化、記者としての職業訓練の質といった問題もあるのだけれども。事実認識とそれに対する価値判断との関係をどう捉えるか、という問題にもつながる。

やはり私たちに出来ることは、新聞やテレビから報道を受取るとき、その報道を「一応の仮定の事実」として「信じつつ疑う」、あるいは「疑いつつ信じる」という態度で接することだと思う。そうして誤解や偏見から生まれる余計な軋轢から少しでも身を守ってゆく以外にこれといった特効薬もないのかもしれない。

ある事柄に関する真実というものは、その事柄に関してあらゆる角度から全面的に客観的に、多くの知識や情報が提供されることによって明らかになってくる。そしてそれを前提として、その際に真実を洞察する最良の武器は論理的に推理する能力である。

現象についての情報や知識が多面的に客観的に知らされてゆくことの中から、そしてそこに論理必然性を追求することのなかから、真実や真理が浮かび上がってくる。この弁証法の認識論を確認すると共に、改めて情報公開の決定的な重要性をまた確認することになった。

 

 

 


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